教材研究と教材批判

明治図書出版刊「教育科学・国語教育」32(1961.8)掲載---
(<特集「教材研究とその批評」>に、【研究】として坂井勝司「どこでもわかることば」、荒川有史「『馬上の友』をめぐって」、および、それに対する【批評】として熊谷孝「教材研究と教材批判」、滑川道夫「自主的な教材研究」が掲載された。)


   はじめに

 今月からしばらくの間、この欄を担当することになりました。研究報告をよせてくださる先生方や、読者の方々のご協力をおねたいいたします。
 あらかじめ、ご諒承をねがっておきますが、すこし我ままなやり方で仕事を進めさせていただこう、と思います。報告者の方が力こぶを入れて、そこに提出しているような問題――その問題点をはずした別のところで、こちらが発言するようなことも或いはあろうか、と予想されます。僕なりの考えがあってのことです、お目こぼしを願います。
 また、批評が大づかみすぎるといった不満も、時としてそこにあろうか、とおもわれます。それもやはり、僕なりの判断と考えがあっての《大づかみな批評》にほかなりません。
 それは、ひとくちに言って、こういうことなのであります。たえず原則的なことに目を向けかえ、たえず原則的なことをふまえて、自分たちめいめいの学習指導の道筋を確かなものにしていくことが今は必要とされる時期だ、ということなのであります。
指導の道筋を確かなものにする?……指導の方向にズレがないかどうかを見きわめる、という意味であります。それは、自分の方向感覚を確かめる、確かなものにする、ということでもあります。指導の手順を考えることは、むろん必要ですが、それも指導の方向そのものを確かめながら、ということでないと意味を失ないます。つまり、そういうことがこちらの胸にあっての、指導の方向(方向感覚)を問題にした大づかみな批評、ということなのであります。
 もっとも、そのディテールに分け入っての綿密で的確な批評――それが総体として、はっきりとある方向を示唆したようなものになる、ということがいちばん望ましい形に違いありません。が、そういうことがやれるようになるのには、年季がいります。さしずめ、僕は僕なりのやり方でペンを走らせるほかなさそうです。ご協力をおねがいいたします。

   坂井氏の報告を中心に

 まず、坂井氏の報告についてですが、たいへん綿密な研究であることに敬意を表します。順を追って見てまいりますと、《はじめに》の項で、「教材研究が学級の児童にそくして……学習者の経験、興味、能力の面から」考えられねばならぬことが主張されていますが、まことにその通りだと思います。何を指導すべきかという指導事項にしてからが、すべて「そこから考えられなければならない」わけでしょう。
 さらに、「今とりあげる教材」が、一年から六年までの同系列の教材の中でどういう位置を占めるか? いいかえれば、この種の教材について子どもたちが、これまでに「どんな経験をへてきているか」また、「あとでどんな指導内容につながるかを研究しておくことが必要である」と語っておられる点(《とりあげた教材》の項)、だいじな指摘だと思うのです。
 そこに指摘されていることの一つは、発達段階ということも、目の前の子どもたちの実態にそくしてつかまなければならない、ということでありましょう。いいかえれば、自分が指導している学級集団のなかの子どもたちが、生きた生活とのかかわりのなかで、いま、どういう自己発達の可能性を示してきているか、という点のハアクであります。
 そこでは発達ということも、子どもたちの生物学的発達の暦として考えることは許されません。むしろ、ジャン・シャトーのいわゆる「自分をこえて生きている唯一の人間」という視点で、子どもというものがつかまれなくてはならないでありましょう。坂井氏の指摘は、その点にふれるものがあるのであります。
 第二の指摘は、国語教育の仕事は、子どもたちの明日へ向けてのコトバの訓練にほかならない、という点に関してであります。
 今は今なりの仕方で事物をつかませコトバをつかませる、ということも大事ですが、むしろ必要なことは、子どもたちが将来、より高い次元において事物をつかみなおせるような足場を、コトバ体験としてそこに準備することなのであります。「あとでどんな指導内容につながるかを研究しておくこと」が、そのために必要になってくるのであるます。
 だから、「今の段階で、この児童たちにどんな指導事項を考えたらよいか」という、氏による《研究の方向》の設定も、それは、おそらく、明日の段階への子どもたちの成長・発展のスプリング・ボードとして「今の段階」をおさえた上での、「どんな指導事項を」――ということにほかならないでありましょう。そこに、一〜六年の関連教材を表示されたのも、やはりまた、そういう意味からの配慮なのでありましょう。
 そんなふうに、大へんゆきとどいた報告なのですが、惜しまれるのは、(1)子どもたちの将来を見とおした、そういう関連教材の指摘が、教科書のワク内にとどまっている点であります。また、(2)そこに指摘されている教科書の教材が、「自分をこえて生きて」いく、目の前の子どもたちの現在と将来にとってどういう意味をもつか、という評価を欠いているような点であります。
 (1)の面について申しますと、どうも現在の教科書の教材だけに頼っていたのでは、国語教育が充分にやれない、ということが現実の事実としてあるからであります。また、(2)の面について申しますと、今の教科書の教材には、教材としてみて不適切なものが少なくない、ということが指摘されるからなのです。
 これは、ほんの一例ですが、プーシキンの『金の魚』は、おじいさんとおばあさんが、「ちょうど三十と三年の間、古ぼけた土小屋に住んでいた。」というコトバではじまるわけですが、教材化されたこの作品(三省堂・三上)では、このセンテンスがあっさりカットされている。今の教科書には、どうもこういう無神経なところがあって困るのです。
 福田隆義氏(東京都墨田区業平小学校)は、語っておられます。「このセンテンスの有無が、子どもたちの作品理解を大きく左右する。それを三年生のクラスで扱ったところが、“三十と三年”をカットした教科書を読んだ子どもたちは、概して、おばあさんを悪玉、おじいさんを善玉として受けとっていた。“ピシリと、しっぽで波を打って、深い海の底へ隠れてしまった”金の魚の怒りは、おばあさんに向けられたもので、こんないいおじいさんを怒るわけがない、とうのです。」
 ところが、「“三十と三年の間”というセンテンスを投入することで、子どもたちは、おじいさん、おばあさんの別の側面に気づいてきました。“三十と三年”――働ける期間という意味では、まさに人間の一生です。三十三年もの間の古ぼけた土小屋の生活。おばあさんが、オケや新しい家を欲しがったのも無理はない、ということや、いつも人のいいなりになってボヤボヤしている、おじいさんの困った善良さ、というような点に、子どもたちは気づいてきました。そして、金の魚のピシリは、やはりおじいさんに対する怒りでもあることが、つかめたのです。」
 「子供たちが、いつか、この“三十と三年の間”というコトバを、帝政ロシアという背景のなかで考えることができるように成長してきたとき、働きづくめに働いても、なぜ、おじいさんが新しい家が建てられなかったか? という子どもたちの現在の疑問も、自分たち自身の生活とのつながりの中で、しぜんと解けるようになるでありましょう。」
 教材研究が教材批判にまでつき抜けなければならない理由――もはや説明を要しないかと思います。とくに、この只今の時期において、そのことが必要とされるのであります。それは、イデオロギーの問題ではなくて、子どもたちに対する教師の責任の問題にほかなりません。
 しかし、一ぺんに何もかも、こういう短い報告の文章のなかで語り尽くすわけにはまいりません。坂井氏の報告が上記のような点にまで説きおよんでいない、ということ自体はなんら問題ではありません。そのこと自体に問題はないのですが、あえて僕がその点にこだわったのは、氏の教材研究の構えというか基本的なその姿勢のなかに、次のような一種の傾斜を感ずるからなのです。
 それは、たとえば、(1)国語科の指導計画なり教科書なりを、いわば与えられたもの、きめられたもの、動かしがたいもの――したがって教師にとって批判の自由のないもの、として考えられているようなきらいがなくはないこと、その結果、氏の教材研究は、(2)教科書の教材を「国語科の指導計画の指導事項との適切な関連」のなかだけで固定化してつかみ、それを「どうこなすか」という、ただのこなし方手順の「研究」にすべりかねない傾斜を示している、というような点であります。ご一考いただければ、と思います。

   荒川氏の報告を中心に

 次は、荒川有史氏の『馬上の友』につての報告ですが、「教科書では、作品の前後がかなり大はばにカットされている」ために、テーマそのものがゆがめられ、本来の読者の体験をくぐった表現理解を不可能にしてしまっている、というような点が、表現の内側と外側とから綿密に、克明にさぐられています。それを、ひとくちにいって、作品の教材化によるテーマのすり替えと非文学化の指摘、ということになるのでありましょうか。
 「生徒は教科書に掲載された作品のほかに、さらに自由な読書を重ねている……その読書体験をふまえて、『馬上の友』の学習がはじまる」わけなのだが、めざすところは、「生理的にも心理的にも動揺しやす」い「中学三年という時期」の子どもたちに、「民族の原体験にふれることで……自分の生活を見なおし、自己の特殊な体験をこえる視点を発見」させることにある。ところが、この「大はばにカットされている」教科書の文章を教材としたのでは、それが不可能に近い、という荒川氏の論旨のようです。
 で、そこに、カットされた部分を「プリントでおぎない、生徒に正しいイメージを与える」ようにしたい、という建設的な意見が添えられていますが、氏がどんなに教材というものを大切に考えているかが知られます。
 それは、教材を大切に考えているのであって、既成の教科書――教科書教材に拝跪することではない。《自分をこえて生きている唯一の人間》に対する、かぎりない信頼と尊敬と期待が、教師その人の教材選択の態度を慎重なものにしているのです。
 ことばを重ねますが、教師が責任をとらなければならないのは、民族の次の世代―― 子どもの《人間》に対してであって、けっしてそれ以外ではない(であってはならない)のです。いきおい、僕たちは、教科書や指導書や何やかや、いっさいのものに対して無批判ではありえないわけなのであります。
 荒川氏の教材研究は、また、そこに段落指導を予想したものではないようです。「部分を手がたくおさえ」ることは必要だが、「段落指導というと、つい事件や行動面の区切りだけで整理しがち」であり、それを「機械的に実行すると、主人公たちのダイナミックな心理の展開を見失いやすい」と、氏はそこに語っておられます。
 学習指導のプロセスは当然、部分から全体へ、そして全体から部分へとおりてきて、もう一度全体へ帰り着く、というコースをたどるわけですが、段落を単位として部分と部分の区切りとするというのでは、どうかと思うのです。荒川氏のいいたいのも、その辺のところだろうと思います。
 問題は、ダイナミックな一まとまりの構成(全体)を、段落という名の《小さな全体》に分解してしまっている点にあるわけなのでありましょう。ズタズタに切りこまざかれた部分は、もはや全体に対する部分としての意味を失なってしまっています。懸念されるのは、部分(小さな全体)を継ぎ足せばそれが《全体》になる、というような、段落指導――読解指導のあの観念、あのやりくちで育てられた子どもたちの思考方法のひずみと、その将来に関してであります。

 おわりに、荒川氏の作品研究について感じたままを、ひとこと――。
 そのことが結論そのものに響くか響かないかは別として、独歩の生活史や作品の展開をもう少し綿密に跡づけてみると、作品の理解にいっそうのふくらみを加えたのではないか、と思うのです。「簡潔な口語文」の使用、「生き生きと駆使されている」欧文脈、というような文体の理解の仕方一つにしても、それは『浮雲』の方向につながる表現には違いないが、それも「青年文学」時代の彼が硯友社文学との対決のなかに身につけたものであることや、彼自身のワーズワースやカーライル、プロテスタンティズムへの傾倒といったことなどを、そこに媒介させて考えると、ニュアンスとして違った理解がみちびかれてくるのではないか、と思われます。
 幼い日に父に死に別れて、養父のもとで育った彼。人生の出発点におけるこうした不幸が、人生を運命として考える運命論者独歩の素地をつくっているらしく思われますが、その《運命論者》がこの作品に顔を出していないか、どうか?
 独歩の養父、専八 は、ところで竜野藩の中級武士の出身でしたが、この作品の国之助の父専造 は、「以前は藩の馬術の指南役」であります。専造と国之助、専八と独歩という二対のもつれた父子関係が、そこにあるわけなのであります。国之助に対する「ぼく」の、あの遠近法を無視したみたいな親近感が、いわば対象化された自己に対する自分自身のおもい、というに近い何かを素地としてもっているのか、どうか?
 紙数が尽きたので端折ったいい方をするよりほかないのですが、そんなふうに次々と糸をたぐっていくと、この作品から「しみじみと迫ってくる甘い悲哀の情緒」を感じたという江馬氏あたりが、存外、作品本来の読者のティピカルな姿を示している、ということになるのかもしれないのです。いちがいには言えないにしても、《しみじみとしたもの悲しさ》ということが、どうやらこの時期における独歩作品のムードである、というような気がしないでもないのです。『源叔父』(一八九七)、『忘れ得ぬ人々』(九八)、『春の鳥』(一九〇〇〜一)、『酒中日記』(一九〇二)というふうに『馬上の友』への足どりをたどってみての、これは僕の実感です。
 つまり、そこには対象をつき放して見つめる、というところがないのです。つき放すまえに、対象の《あわれ》にとけこんでしまっている、という感じです。『岡本の手帳』(一九〇六)の岡本誠夫は書いています。宇宙や人生は不可思議だ。自分はその不思議を知ろうとは思わない。それを感じようとするだけだ――という意味のことをです。人生を不思議と感ずるところから生まれる「甘い悲哀の情緒」が、やはりこの作品(『馬上の友』)の底を流れているようにも思われるのです。そういう悲哀・情緒の世界から彼がぬけだすのは、『窮死』(一九〇七)をへて『竹の木戸』(一九〇八)あたりに至ってであろうかと考えられますが、どうでしょう?
(東京都北多摩郡 国立音楽大学教授)
熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より