現在の指導体系の変革を求める――第二信号系としてのコトバ体験の成立

明治図書出版刊「教育科学・国語教育」28(1961.5)掲載---
(<特集「国語教育の新しい理論――第二信号系の理論を中心に」>「第二信号系の理論と国語教育 2」として掲載された。他には、佐瀬仁「第二信号系の理論について」、西田喬「指導要領の欠陥を克服するもの」、大島孜「忘れられた方法と新しい意義」 等が載っている。)


   一 発想の出発点

 先刻、たまたま手にした朝刊(「朝日」2月23日)に、『条件反射とは何か』という、柘植秀臣氏の文章が掲載されていました。そのなかで、第二信号系ということが手短かに、そして的確にわかりやすく説明されているのです。すなわち、――

「人間は他の動物と違って言葉をもっている。言葉を使っていろいろな条件反射が作られることをパブロフたちは発見し、これを第二信号系と名づけた。たとえば、ゴム球を子どもたちにもたせておいて“握りなさい”という合図でゴム球を握るようにしておく。そのとき赤い光をつけることを何回かやると、光だけでゴム球を握るようになる。ところが、光をつけるかわりに、“赤い光”という言葉だけでも、子どもはゴム球を握るのである。つまり“赤い光”という言葉が、実際の赤い光にとってかわったのである。このように、言葉が条件刺激になることが多くの実験で照明された」うんぬん。

というふうにであります。
 第二信号系理論をめぐっての国語教育の発想というのも、「実際の赤い光にとってかわった」この信号の信号 としてのコトバのはたらき(反映・抽象の機能)をつかんだ国語教育を実現させよう、ということにほかなりません。いいかえれば、その点をおさえて国語の学習をおこなうと同時に、おいおいに子どもたち自身に、そういうコトバのはたらきを自覚させていくような指導を実現する、ということなのであります。
 さし当って、この稿では、コトバのはたらきを自覚にもたらす指導――その点にしぼって話を進めてみようと思いますが、しかし、いつかは次のような点にふれて標記のテーマを扱ってみたい、と考えているわけなのです。それは、理性と感情――感性ではありません、感情 です――との関係を、第一信号系と第二信号系との関係・関連のなかではっきりおさえて国語教育の構想を語る、というようなことなのですが。
 ということは、つまり――
(1) 理性が客観的世界(外界)の第二信号系への反映(コトバ体験)として成り立つことはいうまでもないとして、しかもそれがそこに成り立つ基盤は、むしろ、やはり、第一信号系への反映(感性的反映)に求められる、という点
(2) ふつうに、理性と対比的に(時として対立的にさえ)考えられている感情は、しかしたんに感性的 なものなのではなくて、主観的世界(内界)の、やはりそれも第二信号系への反映にほかならない、という点
(3) いいかえれば、コトバ体験をくぐってそれが成り立つという点では、感情もまた理性と同様であること
(4) また、感性的うんぬんということをいうならば、やはり理性も感情同様、十分感性的である、ということ
というような点をおさえて考えてみる、ということなのであります。理性――そのかぎり理性的でまともな外界の反映も、それが感情の面にまでしみとおり、内側からもう一ぺんコトバに結びついてくるような形にならないと、それは現実の行動面・実践面で「理性的」に機能する、ということはないわけです。内側と外側とからの双方の反映の統一、すぐれた意味における感情と理性との統一が、そこに求められるわけなのであります。
 で、理性と感情とのそうした関係をふまえて構想を立てることで、
(a) 理性的体験にかかわるという以上に、感情的体験にかかわるとされている文学の創作・享受(鑑賞)の体験も、それはあくまで感情的 なのであって、たんに感性的 な体験ではない、ということ
(b) したがって、文学の学習指導ないし文学教育のいとなみは、もはや単なる情緒・情操の陶冶の作業としては考えられなくなってくる、ということ
(c) 感情がやはりコトバ体験を媒介として形成されるものであるという点で、文学教育は、コトバの教育――国語教育の基本的な体系的一環である、と考えられねばならぬこと
(d) また、右の(1)〜(4)の関係において理性と感情との関連をつかんだ場合、たとえば、主として理性的体験にかかわる文法――文法の学習と、主として感情的体験にかかわる文学の学習などとは、じつは相互のささえ合いにおいてのみそれぞれの学習が成り立っている、ということ
(e) そこで、また、各学習相互間のささえ合いが教室で実現するような形に、国語教育の指導体系が組まれなければならない、ということ
 などが明らかにされてくるのです。要するに、理性と感情との統一をそこにもたらし、それをたえず持続的・発展的なものとしていけるような、動的なコトバ体験をつくりだす国語教育の作業は、上記のような反映論的な意義においてコトバの機能をつかんだ、学習の体系化・組織化によらなくてはよらなくてはならない、ということなのであります。
 じつは、ここでも、右に書きつけたようなことを深め、具体化した形で課題を扱かってみたい、と思うのです。が、勉強が足りないし整理が不十分です。たとえば、条件反射と無条件反射(だといわれているもの)、とくに思考と情緒などの関係・関連について、条件反射学のほうでその点の説明につかめないことがいくつかあるのです。さらに、もう一つ大きな疑問は、いわゆる言語過程と象徴過程との関連について(多分、こちらの読みが浅いせいだろうとは思うのですが)説明に納得のいかない点があるのです。
 ですから、その辺の整理が一おうついたところで、改めて標記のテーマ・課題について考えてみることにしたい、と思うのです。ともあれ、今は今なりの仕方でこの理論をくぐりながら、国語教育の現状と問題点に側面的にさぐりを入れてみよう、と思うわけです。

   二 一つの事例―鑑賞指導の場合

 話をもとへもどして、コトバのはたらきを自覚させていく指導ということですが、それは、実際にコトバが使えるようになる、使えるようにする、というだけでなしに、コトバというものの持つさまざまの性質や構造や機能をわからせていく指導のことです。それは、指導の手順としては、おそらく子どもたち自身のコトバにそくして、まず作業が始められることになるのだろう、と思います。が、やがてそれを一ぺんつき放し、そこを離れて指導がいとなまれることになるのです。そして、さいごにはもう一度子どもたち自身のところまで帰っていく――帰り着くところまで指導の手をゆるめない、という作業行程なのであります。“つき放してかえる”のです。
 それを一般的にいって、第二信号系的条件反射をそこに成り立たせるだけでなしに、その条件反射を子どもたち自身に自覚的なものにする、ということなのです。それを自覚的なものにすることで、コトバ体験が第二信号的条件反射を持続的なものとしてそこに成り立たせるようにもなるのです。
 そこで、たとえば文学作品の鑑賞指導というようなことで申しますと、コトバというメディア(媒体)を通して、子どもたちがめいめいにそこにつかみとったもの――(それを今、大ざっぱに感動というコトバであらわすとすると)その感動を一度つき放して反省させることをやるわけです。毎回きまってそれをやる、というわけのものでは、むろんありませんが、時宜をつかんでそれを行なうわけです。
 何を反省し、反省させるのか? 自己の感動の質をであります。それがどこへ向けての感動であるのか、ということをであります。
 そうした反省を、(誤解を、おそれずにいえば)コトバをメディアとした文学固有の仕方における反映・抽象・認識のはたらきを自覚的につかませるいとなみの中で行なうわけなのです。「子どもに対して、それはムリな要求だ。」――いや、そうではないのです。要するに、年齢相応のつかみ方でつかませればいいのです。なにも、ニンシキだ、チュウショウだという舌を噛みそうなコトバを教えろというのではありません。
 自己の感動の質を反省する――つまり、鑑賞に批評を媒介させる、ということです。そういう操作を、鑑賞指導の場では意識的に行なうのです。批評に媒介されることで、感動は、第一次のそれから第二次のそれへと方向と質を異にした、別個のオーダー(次元)のものに転化させられていくことになります。ふつうに、それを鑑賞が「深め」られたとか、感動が「ほんもの」になったとか、いっているわけなのでありましょう。
 鑑賞指導のいとなみは、だから、まず教師と生徒がいっしょになって、お互いの間に成り立ったところの条件反射(反映)をつき合わせ、たしかめ合う仕事です。教師はこのようにして子どもたちの鑑賞体験をくぐりながら、そこに批評をみちびく媒介者としてふるまうわけです。自分が直接、批評家になるわけではありません。媒介者である教師に見守られながら、めいめいにとって無意識のその条件反射を意識化し自覚しあう過程で、さらにより高い次元、よりまっとうな方向での条件反射・反映をつくりだせるような足場を用意する――これが鑑賞指導のだいじな側面です。
 

   三 思考と行動の足場

 話をもう一度もとへもどしましょう。国語学習の目標は、さし当って、コトバ(国語)を実際に使えるようにすることです。だから、むろん、コトバが実際に使えるようになりさえすれば、一おう、それでいいわけです。文学の学習にしても、作品が実際に読め て、わかれ ばそれでいいのです。
 反対に、文法や何やコトバについての知識がいくら豊富になっても、日常の実生活のなかで自由にコトバが使えないというのでは、なんにもならない。――たしかに、そういっていいのです。が、普通にいう意味での「実際に使える」ということだけでは発展がない。発展の代わりにコトバのステロタイプ化がそこにあるだけだ、ということになりそうです。
 発展のかわりに停滞、そしてコトバそのもののステロタイプ化が――というのは、さし当って次のようなことをさしているわけです。いわゆる意味の「コトバが実際に使える」というのは、同じ一つの次元で(つまりその次元では)コトバが「自由に」使える、ということでしかない。ここでいう「実際に」とか「自由に」ということのワクは、ひどく限られているのです。ところで、同じ次元での単なるコトバの反復習熟がもたらすものは多弁か能弁――たかが能弁にすぎません。
 国語教育の仕事は、しかし発達がとまったという意味での「完成」した大人――そういう「小さな大人」としての能弁家や文章家・読書家を製造することではないでありましょう。この点は本誌前号の小稿でもふれたかと思うのですが、教育の目は子どもたちの未来に向けられている。むろん、現在が問題なのですが、それも明日へのスプリング・ボードとして現在が問題である、ということにほかなりません。国語教育も、子どもたちが、やがてより高い次元において事物をつかみなおし、また事物のありようそのものを変革していけるような思考と行動の足場を、動的なコトバ体験としてそこに用意する作業にほかならないでありましょう。
 そこで、つまり、コトバのはたらきそのものを、いつかは子どもたちに自覚させる必要があるのです。そうした自覚をそこに促がすような指導が必要になってくるのです。そこを自覚し意識して言葉を使うのと、そうでないのとでは、長い間にきっと差が出てくるだろう、と思うのです。ではないでしょうか。
 誤解のないようにことばを重ねますが、それは能弁ということとは別のことがらです。能弁ではなくて、さきに伸び が期待されるような、たしかな 話し方・聴き方のことです。あるいは、たしかな書き方・読み方ということをさして、僕はいっているつもりなのです。くり返しになりますが、そこで自己のコトバ体験において成り立った条件反射を自覚にもたらすような指導が必要だ、ということになるのです。
 だからして、たとえば、またそこに文法の学習が必要になってくるのです。文学の学習がやはり必要だ、ということにもなるのです。文法がわかるようになったからといって、文章が「うまく」書けるわけのものでもない。それはそうかもしれないが、しかし文法をわからせるようにしなくてはならないのです。同じリクツでして、文学がわかるようになったところで、目先きですぐにどうということはない。けれど、それがわかるようにならなくては、コトバ体験が動的・発展的なものになってこないのです。
 ともあれ、目先きのことだけで判断してはいけない。教育のいとなみは、子どもたちの明日を輝やかしいものとするための、全面発達へ向けての作業である――と、しんそこからそう思うのです。

   四 思考と言語

 ところで、それが現在たてまえ だとされているような方式の指導――指導体系のくみ方からは、文学も文法も本当には子どもたちにわからせることはできません。もともと一貫したある一つのしくみ と、一つのまとまり をもった方法体系である文法教育や文学教育を、例の話す・聞く・読む・書くのそれぞれの領域にバラバラに分散・分解してしまったのでは、文学教育が文学教育にならない、文法教育が文法教育として機能しなくなるのは当然のことです。
 つまり、話す とか読む という言語活動の現象領域を、いきなり国語学習の方法的な対象領域と置き換えて考えたところに、学習指導要領のムリがあるように思うのです。すこし順序を立てて申しましょう。こういうことになるのです。
 話すのでも書くのでも原則的には同じことですが、たとえば「話す」ということは、心に思っていること(相手に伝えたいと思うこと)を音声言語に乗せて相手のまえに外化・表現する、ということにほかなりません。
 ということは、つまり、また、相手を意識し、その意識した相手を自分の内側に温めてコミュニケイトすると同時に、それを相手に向けて外化する、ということなのであります。これが「話す」ということであります。(内語のはたらきにささえられた、この内部コミュニケイション――それが本来の意味での「思考する」「考える」ということでありましょう。)そこで、「話す」ということは「考えて話す」ということであるわけです。
 内側に思考がはたらき認識が進行していなければ、それは第一、コトバにはならない。コトバが空転して、コトバがコトバにならないのです。が、それでも何とかひとこと口に出してしまうと、それが刺激となって内側の思考・認識が進行する――したがって話せるようにもなる、という経験もまた僕たちのものであります。口にしてみないと、あるいは書いてみないことには、自分の考えていることというのが自分自身にはっきりとしない、ということもあるわけです。これがコトバと思考、そして認識との関係です。
 つまり、話すことも書くことも、そして実は聞くことも読むということも思考し認識することだ、ということなのです。そういう一点でおさえて考えてみた場合、考えて話す、考えて聞く・書く・読むという習慣を身についたものにさせようという国語の学習が、読むことと話すこと、書くことなどでは(方法的・対象的な意味で)学習領域が違う、といっていたのでは筋が通らない、ということになりはしないか、と思うのです。いわゆる読解――読解指導も、話す作業・聞く作業・そして書く作業がそこに同時にはたらいて、はじめてそれが成り立っている、という事実を見のがしてはなりません。
 それは、書くことと読むこととの間に、いや時としてしばしば読むことと話すこと・聞くこと、そして書くことなどとの間に相互のつながりというか、ささえ合いの関係が成り立ち、またそうした関係が成り立つことで、読むなら読む、話すなら話すという言語活動がそこに実現する、ということにほかなりません。
 このようにして、音声言語(話す・聞く)と文字言語(書く・読む)を媒介とした表現活動と表現理解の活動は、むしろ表現することもそれを理解するいとなみも思考し認識することにほかならない、という、コトバの認識機能においてつかみなおされて、その学習指導体系、その学習領域が設定しなおされなくてはならないように思うのです。いいかえれば、第二信号系としてのコトバの認識機能を反映論的な意義においてつかんだ、国語教育のほう法体系が今こそ確立されなくてはならない、ということにほかなりません。
(国立音楽大学教授)
熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より