芸術教育と人間形成――鑑賞指導の役割(言語芸術 その二)        熊谷 孝

波多野完治編『芸術心理学講座 第5巻 〈芸術教育〉』1957年11月 中山書店刊 所収-

・この論文は上掲書第2部「芸術教育と人間形成」の第1章に当たる。
・今日の人権感覚からは不適当と思われる表現の用いられている箇所があるが、この論文の歴史性を考慮して、手を加えずそのままにした。


   一 芸術教育の二つの側面

 芸術教育において、鑑賞教育の片側に予想されているのものは表現指導である。鑑賞力を高めることが同時に表現力を増しくわえ、表現力を伸ばすことがまた鑑賞力を高いものにする、というふうにもいわれている。音楽教育においても、そう。美術教育や演劇教育にあっても、やはりまた、そうであるらしい。波多野完治編『芸術心理学講座 5 芸術教育』
 およそ芸術教育の名において呼ばれている教育のいとなみは、鑑賞指導と表現指導とのこの二つのコースを指導の基本的な側面として考えている。たとえば、波多野完治氏は、音楽教育の指導というのは“聞いてわからせるというだけじゃないので、自分で上手になる”ということでないと意味がない、といういうふうに語っておられる。(1) 聞いてわからせるようにすると同時に、自分で上手に演奏することができるような能力を身につけさせることが必要だ、というのである。
 そのことを鑑賞指導の面にしぼっていえば、それは表現ないし表現指導を予想し前提しておこなわれなくてはならない、ということにもなるであろうか。ともかく、表現指導としての意味を伴なわない鑑賞指導は、体系的な芸術教育のそれとしてはカタワである、ということらしく思われる。
 佐瀬仁氏もまた、波多野氏との対談のなかで、(2) “音楽教育というものは単に音楽がわかった、つまり鑑賞力を高めめるのというだけがねらいではなくて、それと同時に表現能力をも高めなければならない”といい、“わかったことは表現できる能力をつけなければ”ならない、と語っておられる。つまり、芸術教育は表現力の向上を予想したものでなければならない、という以上に、究極において表現力の向上を目的とした指導が芸術教育だ、というわけである。
 わかったことはそのまま表現できるような能力を身につける、身につけさせる――これが音楽教育なり美術教育なり、一般に芸術教育というものを考えていくうえにとくにたいせつな点である、というわけだ。
 さきになんらか表現を予想しない鑑賞指導は無意味である、というこの考え方にはわたしも同感である。が、かりに表現を理解(鑑賞)するのは、自分自身表現する(自分で表現できるようになる)ためにである、というふうな切り方をするのだと疑問がある。
 当人が上手にかいたり上手に演奏したりできるように、聞いてわかるようにするのであり、見てわかるよう指導するのだ、というのでは、これはきわめて限られた人たちを相手の芸術教育の場合にしかあてはまらない。芸大や音楽大学のような、いわば表現の専門家を養成する教育機関か、“お稽古ごと”に絵を習わせ、ピアノを習わせているというような家庭の場合にはある程度適用されようが、たとえば小中学校や高等学校など普通一般の公教育の場合について考えてみると、どういうことになるだろう? すべての生徒がピアノを弾き、ヴァイオリンをかなでるというわけではないのである。それでもピアノ曲を聞かせ、ヴァイオリンによる演奏を聞かせることは大いに必要なのである。
 やはり聞くこと自体、見ること自体に意義があり、聞くこと、見ることの指導自体に芸術教育としての意義があり意味があると考えないとツジツマが合わなくなるのではあるまいか。たとえば、絵が好きだし音楽も好きだが、自分で楽器や絵筆を手にするというのではない、というふうな人が存外たくさんいる。そういう人たちが展覧会や演奏会へ出かけるのは無意味だ、というようなことになっても、これはひどくぐあいがわるいのである。音楽や絵画の表現をささえるものが究極において聴衆や観衆の鑑賞であるとすれば、鑑賞指導自体に実践的な意義があると考えないわけにはいかない。
 波多野氏や佐瀬氏もまた“特に音楽の場合には鑑賞と表現とは切り離されているものじゃない”といいながらも、“もちろん、ピアノの練習をする人と、練習していない人とは話が違う”ことはみとめておられる。そのことはみとめたうえで、“歌を歌うようなこと”だと、そこに“鑑賞と表現とのあいだに交互作用の関係”があるということを指摘しておられるだけの話なのである。つまり、芸術教育全般の問題として、鑑賞指導が表現指導の一環であるといっておられるわけではないのである。
 さらにいうと、ここでいわれている表現ないし表現指導というのが、必ずしも典型の表現としての創作(創造)ないし創作指導をさしているのではないことに気づかされるのである。ヴァイオリンを弾くということ、演奏するということ、それがつねに創造的な意味をもつとは限らないのである。モーツァルトの楽曲を弾くということが、実は、かえって、モーツァルトのその作品を享受し鑑賞することにほかならない、という場合がむしろ多いのである。
 たとえば、わたしたちは、めいめいに愛唱歌とでもいうべきものを持っている。うれしくて、じっとしておれない気分のときに、しらずしらずその歌を口笛で吹いたり口ずさんだりする。また、その反対に、悲しみやら圧迫感やら孤独のおもいに堪えきれないときに、その歌を口ずさむことで心の平衡をとりもどす、というようなこともあるわけだ。つまり、おとなの子守唄である。
 家庭の保守的な、あまりにも保守的な空気に堪えきれなくなって、そって戸外にのがれ出て『若者よ』の歌を口ずさむ。それを口ずさみ、あるいは夜空に向かって声を張りあげることで、げんに自分があゆみ、あゆみつづけようとしている人生コースがやはりまともなコースなんだということを若者は再確認し、そこに安定感をかちえるのである。おとなたちはまたおとなたちで、宴会の席で手拍子をとって『お富さん』を合唱することで、同席しているすべての人間が同一の感情のもとにあることを確認しあい、異分子のいないことを互に保証しあうことで、よろこびを分かち合おうとする。
 保守主義というのは、どんな新しい刺激を与えても同じ反応しか示さない態度のことである、とある生物学者が皮肉な調子で語っているが、『若者よ』も『お富さん』もここでは 新しい刺激を避け、あるいは新しい刺激を新しい刺激として受けとめることをしない保守主義的な性格を露呈している。
 そうした演奏(?)、こうした性質の表現が、表現ということばの本来の意味における表現行為であるよりは、むしろ表現の阻止・抵抗としての性質を示すものであることは明らかだろう。それは、子守唄をくり返し口ずさむことに心のささえを求めるという点で、一種の享受・鑑賞であるとはいえようが、しかし表現ではない。表現のモティーフとなるものは、環境と自分との不安定な関係や、自我内面のあつれき・矛盾を、自分の生き方なり現実への対応の仕方そのものを変えていくことで解決するほかない、という切迫感である。そこまで追いこまれた自分を意識することなしには、新しい表現はありえない。
 表現は、そしてつねに新しいものなのである。新しさ(あるいは新しみ)を欠いた表現は、単なるコミュニケーション(伝達)としての意味しかもちえないのである。右に見てきたような、自分の既成の感情や感覚や信念の単なる再確認のために『若者よ』が歌われ『お富さん』が子守唄として歌われていることは表現としての意味を失っている。歌うということ、演奏するということが、実は、かえって、その作品を鑑賞するということである場合が多いのである。
 波多野氏たちが“特に音楽の場合には鑑賞と表現とは切り離されているものじゃない”といわれることの根拠は存外その辺のところに求められるのかもしれない。
 文学教育のほうで表現指導というふうなことをいうとすれば、それはほとんどきまって創作指導のことであって、直接つづり方指導のことをさしていってはいない。が、つづり方指導というこの表現指導との結びつきを、文学教育ではひじょうにだいじにする。詩なり小説なりに対する、めいめいの享受内容やら鑑賞の過程をそこにつぶさに書きつづらせることで、また、そうして書きあらわされためいめいのつづり方をつきあわせて考えあい話しあうことで、めいめい鑑賞力を高めていくという指導がとられているのである。と同時に、ごく実用的な、文章による伝達能力を児童や生徒の身につけさせることが、そこに意図されてもいる。さらにまた、右に見るような集団的思考による一種の集団制作のかたちにおいて、ある程度に典型の表現への道をきり開いてもいる。が、つづり方指導はあくまで《つづり方》の指導なのであって、それ自体は創作指導ではない。
 それと含みはだいぶ違うが、音楽教育や美術教育その他における表現指導というのも、やはり音楽や絵画の《つづり方》指導のことではないのかと思われる。わかったことはそのまま表現できる能力を身につけさせなくてはならない、と佐瀬氏たちがいわれるのも、その《表現》というのを《つづり方的表現》というふうに理解することで十分納得がつく。
 ところで、文学教育の面では、逆に、創作指導が芸術教育の最終の、そして最高の段階だとする考え方が一部におこなわれている。鑑賞指導は、だから創作指導にいたるその前段階にすぎない、ということに(論理的にいえば)なってしまうのである。音楽教育について波多野氏たちがいわれるのとは軸を異にして、鑑賞指導は表現(創造・創作)のためのものであるという考え方をしているわけである。この考え方に疑問がある。
 文学教育にしろ音楽教育にしろ、およそ芸術教育という名で呼ばれている人間形成・人格形成のいとなみは、個々人の生活の特殊を典型に変え、具体的形象においてものを見、かつ考えるという準体験的認識をはぐくむことにほかならない。体験から準体験へ、日常的直観から典型の認識へ、である。芸術教育のめざすところは、必ずしもその直接の学習者を芸術家に仕立てることにあるのではない。第一、周囲であれこれお膳立てして《芸術家に仕立てる》というようなことがはたしてできることか、できないことか。必要なことは、むしろ、芸術創造の基盤となるすぐれた享受者をつくりだすことである。
 すぐれた享受者の存在を前提とすることなしに、偉大な芸術の創造は考えられない。エレンブルグは、いっている、(3) “わたくしは、そっちょくに申します。……ソヴェトソヴェトではすでに、偉大な文学が生まれてくるだろう基盤となる読者をつくりだしました。と申しますのは、全国民によびかける芸術としては、この根柢の基盤なくして、こんにち国民の要求にこたえる偉大な文学が存在しうることは考えられないからです”と。かれは、また、こうも語っている。“わたくしは、むしろ、これらの読者たちの方を、自分の作品や同僚たち、ソヴェトの他の作家たちの作品よりも、自慢に思います。”“ここで申しあげておきたいと思いますが、ソヴェトの読者の水準は、過去と比較すればずっと高くなっています。二〇年ほどのあいだは目に見えなかったことですが、現在では仕事の成果が感じられます。ソヴェト国民に現在よりよい暮しをさせている物質的な富ばかりでなくて、各人の内面的なゆたかさが、積み重ねられているのが感じられます。”
 現在のソヴェト文学はまだ水準に達していないかもしれない、けれどそれは明日への成長を約束された文学である、とエレンブルグは語っている。なぜなら、偉大な文学をうみだす基盤が、いままさに成熟しようとしているからだ、と。すぐれた享受者の創造ということこそが、こんにちの日本の芸術教育にとってもまた直接目ざすところとなるのである。


   二 認識・表現・理解と芸術教育

 が、右のエレンブルグのことばからして、現状はたんにその基盤の成熟が見られるだけのことであるというふうな、額面どおりの受けとり方をするのは現実に反している。基盤の成熟は、当然そこに具体的な成果をもたらしているのである。成人文学の面でゆたかさを欠いているソヴェト文学は、けれど児童文学の面ではすでに世界的水準を抜いている。わたしたちは、『ヴィーチャと学校ともだち』や『森は生きている』その他のすぐれた作品をすぐにもここに思いだすことができる。
 これらの作品は、成人文学の創造という側面からみれば、まだ一つの雛型であるかもしれない。が、それらを主題の示している方向に深めていくことで、幅と厚みのある真にリアルな、本格的な文学作品の形成を期待しうるという、そういう性質の作品になっている。
 基盤の成熟――すぐれた享受者すぐれた享受者 の存在がすぐれた芸術を創造するのである。
 すぐれた読み手、すぐれた聞き手は、けれど五年、一〇年、いや二世代、三世代ではつくられない。“ローマは一日にして成らず”である。伝統なしに偉大な芸術の創造はありえないというのも、実は享受者群の問題なのである。たんに享受者だけの問題ではないが、しかも享受者群の問題なのである。芸術的体験の民族的規模における蓄積なしに、偉大な芸術は生まれない。この《蓄積》を、たんに成りゆきにまかせるのでなく、合目的々・体系的・段階的・計画的におし進めていくのが、そして芸術教育のいとなみなのである。
 たとえ児童文学という特殊部面においてではあっても、水準以上の作品を今日のソヴェトがうみだしているというのは、やはりこの蓄積(=伝統)がものをいっているということなのである。それは、まだ、雛型以上のものではないかもしれない。けれど、この雛型、この模型が要求しているとおりのものを、やがてそこに作りだすだけの資材の用意と技術の蓄積が準備されているという点にこそソヴェトの強みがあるのである。芸術的天分、芸術的才能などといわれるものも、こうした資材や技術の社会的蓄積を抜きにしては考えられないであろう。
 が、右に見てきたような《蓄積》は、技術主義にかたよった小手先の修練、頭脳を忘れた小手先の表現指導などからは生まれてこない。ピアティゴルスキーが語ったように、“指には頭脳がない”のであり、《指》そのものはそれほど重大なものではないのである。むしろ、《頭脳》を発見することである。佐瀬氏は“音楽を芸術的に認識すること、ある芸術作品の芸術を認識する能力、これを鑑賞力といいかえてもいい”といっておられるが、(4) こうした意味での鑑賞力を高める積極的な努力が、むしろ今日の芸術教育に求められるのである。
 ピアティゴルスキーの“指には頭脳がない”“指なしでも弾けるのだ”というこの意見をめぐって滝崎安之助氏の示しておられる見解は、(5) 右の点に関してきわめて示唆に富んでいる。
 ――“かなり多数の〔音楽〕学生たちにとって、すべてを決定するものは《指》であり、声である。少なくとも学生という修業時代にある者は、一挙に芸術性だの音楽性だのに心を奪われてはならず、それはその人々の個性から自然にわきあがるのをまつべきであって、修業時代には、ひたすら《指》もしくは《声》の修練にはげむべきである。これが、かれらの信条であり、かれらの原則である。この信条、この原則は、その言葉のかぎりにおいてはまったく結構である。ただ、こうして育てられた人たちが、いつのまにか‘自分の思想と感情’を持つことを忘れ、‘思想と感情’の高貴な美しさに感動することを忘れ、卑俗な思想や低俗な感情と戦うことを忘れ、つまり、《芸術》を犠牲にして《形骸》を模倣するようにならなければ幸いである。”
 ――“私はこの人たちの信条は、せいぜい、ある時期の、ある種の人々の、便宜的な《勉学心得》としては許されても、原則的な原理として主張されるべきものではないと考える。そしてこの点の混同が、いかに多くの悲惨なサル真似や、歌謡曲並みの甘さしかないテクニシャンを生み、しかもそれがにせもの芸術であることに気づかせない理由となっているのではないかと思う。なによりも困ったことは、このまちがった原則を教えこまれた人々は、とかくその自然の成りゆきとして、技術万能の独善に走り、そこに表現されたものの低俗化をみずから批判するだけの高貴な《思想と感情》の地盤を失ってしまうことである。”
 思想と感情の基盤を失った結果は、どうなるか? “この種の人たちは、たとえばイタリア・オペラを聞いても、美しい声質、豊かな声量、自然な発声法などには感激するけれども、その全体が、どれだけ高貴な人間性を集約しているかという点にはあまり心を動かされないらしい。美声には恵まれていなくとも、それを償ってあまりあるだけの感動を盛りあげている歌い手たち、たとえば、トスカのベルトルク、スザンナのアルダ・ノニなどは不当に軽視され、フィガロのタッディやケルビーノのシミオナートなどにはたわいもなく絶賛が送られる。”(滝崎氏)
 指先の修練に明け暮れる、技術主義にかたよった演奏指導(表現指導)が、ホンモノの芸術と芸術のニセモノの見分けさえつかないような、ミゼラブルな鑑賞力をしかもたらさなかったという、これは一つの実例である。右のイタリア・オペラの場合に見られるような、すばらしい《人間性の集約》は、そして《伝統》《蓄積》の問題をぬきにしては考えられない。ペルトルリやアルダ・ノニたちのように、たとえ美声には恵まれていなくとも、それを補ってあまりあるような感動を盛りあげている、というようなことは、民族および民俗芸術のあり方の問題なのである。
 ふつうにヨーロッパ近代文学ないしロシア文学の《影響》というようなことで片づけられている日本近代文学の成立事情も、実はこの《伝統》《蓄積》の問題をはなれては実質的な内容が薄れてしまう。日本近代文学の始発点にたつ『浮雲』(二葉亭四迷、一八八七〜八九年)は、単にロシア近代文学の影響などによって生まれたのではない。むしろ、西ヨーロッパ文学の伝統につながる(その文学遺産を受けつぐ)というかたちで『浮雲』が成立するのである。(6) 西欧近代文学のそれに結びつきうる条件は、そして西鶴・近松このかたの日本近世文学の系譜(蓄積)のなかにあったと見られなくてはならない。
 いわば日本近世の系列とヨーロッパ近代の系列との、その双方の系列の蓄積をふまえて日本近代(『浮雲』)が文学史のうえに誕生しているのである。それは、二葉亭四迷という一人の芸術家による創造というよりは、ヨーロッパの伝統につながる以外に近代を発見する道がないと考えるにいたった民衆(=享受者群)による集団制作と考えられなくてはならない。いや、『浮雲』の作者二葉亭四迷その人が、享受者群による集団制作品(?)なのである。
 文学の作家は、読者の心と心を相互に媒介し結びつける。Aという読者のおもいをBという読者につたえ、BのおもいをAに訴える。そして、このことが作家に与えられた、また許された唯一の任務だということになるのである。作家の語ることば(――文学の表現)は、究極において読者その人のことばにほかならない。『浮雲』の作者の場合が、まさにそれであった。読者の心を心とすることにより、自他の体験のふれあう面において、作家はこの媒介者の任務をはたすのである。
 自他の体験において?……そう書くということは、読者の生活、読者の実感のモヤモヤに、はっきりとしたかたちをあたえ、そこに整理をおこなうことであるが、それもあくまで読者の体験の日常性、実感に即して、である。日常性に即して、しかも日常性をこえたところに文学の表現は成りたつ、といわなくてはならない。
 それを読者の側からいえば、作品に描かれている人間の生活は、まがいもなく自分の生活につながるものを持っている。という以上に、自分のいいたかったこと、訴えたかったことが、そこに語られている。それとハッキリことばにあらわしては訴ええなかった自分のおもいが、ある一つのまとまりをもち、あるきまった秩序にしたがって述べられている。『浮雲』の内海文三は、このようにして近代的自我の解放を求める民衆(=享受者群)の代弁者、行動の代行者として登場させられている。文三は読者を伴なって、日本の職場、日本の家庭、つまりは日本の社会のなかに“自由”を模索する。これっぽっちの自由の可能性をも見のがすまいとして神経を張りつめる。見かけ倒しの《新しい女》お勢のなかからさえカケラだけでも《自由》を見つけだそうとして、もう必死である。
 が、作品の世界に示された思考の秩序と行動の軌跡は、自分自身の生活の日常におけるそれとは、かなりかけ離れた性質のものである。かけ離れた性質のものであるが、作品の表現が示しているような秩序によらなければ、自分のおもいは、けっきょく、ことばとなって相手に訴えるちからになれない、ということも、これはあまりにも明らかなことである。
 文学のしごとは、その意味ではカオス(無秩序)に秩序を与えるということ、そのことなのである。作家があえて進んでカオスに身をゆだねるのは、カオスを内側から(――というのは日常性に即して)克服し、それに秩序を与えようとするからである。すくなくとも、論理的思考をふみはずした無秩序のなかに身を置くこと、そのこと自体を《文学的である》なぞと考えてのことではない。(ではない、であってはならないのだ。)
 そこで、読者は、めいめいの日常的な生活の実感のなかで作品を享受することをとおして、実は体験のワクをこえ、一種、非日常的な半抽象の体験を《準体験》するのである。
 文学の享受体験は、その性質からいって《準体験》と呼ぶのがふさわしいように思われる。準体験――追体験ではなくて準体験である。それは、ことばを通路とした体験、ことばによる行動の代行である。
 創作体験もまた、ところで準体験以外のものではない。
 創作体験にせよ享受体験にせよ、文学の体験というのは、自分を見つめること――自己凝視の体験だ、といわれている。けれど、その自分というのは、作家にとって、読者である民衆の生活と思想につながる自分であるはずだ。そういう自分というものは、もはや、ただの日常的な自分ではない。作家もまた、創作において、自分の体験をこえて、別の体験(人生)をそこに準体験するのである。
 準体験する―― 準体験的認識に立つということが、つまり創作する、表現するということなのである。認識即表現。文学にあっては認識と表現とは別のものではない。それは、一つのものの二つの側面である。表現のしかたが変わる、表現のしかたを変える、ということは、文学の場合、だから認識方法が変わったことを意味している。また、同時に、認識の変化がそこに表現の変化をもたらすのである。
 形象的現実の世界は、だから作家が自己の体験の日常性、自己の生活の実感に即しつつ、しかもそれをこえたところに生まれる、ということになるのだ。
 したがって、時代がちがい、環境(生活圏)がちがえば、その作品が文学としてのはたらきをしなくなるのは当然のことである。また、たとえば子どもの実感に訴えて書かれた文学作品は、そのままでは文学としてのはたらきをおとなに対して持つことはできないし、おとな相手の文学の表現は、また子どもにとっては、ことばの羅列(あるいは行列)いがいの何ものでもない。“ひじょうにえらい詩人だって、ことばの通じない国ではなにもできはしない。”と、ロダンもいっている。

 が、“ことばの通じない国”で無能なのは詩人であって、かならずしも芸術家一般――音楽家や画家・彫刻家ではない、ということが一応いわれてよさそうである。社会的なとりきめの上だけ成りたつことばと違って、音や形や色彩などの表現手段は、いわば人間の共感覚性(Synaesthesia)において相手に訴える、というふうにいっていえないことはないのである。文学の与えるものが意味であるのに対して、音楽という音のアラベスクのもたらすものは気分であり感じにほかならない、などともいわれている。
 また、三歳のモーツァルトがハ・ホ・トの三和音を見つけて鳴らしたとか、五歳のかれはすでに作曲家であったというようなことは、文学の世界では、ほとんどまったく考えられないことである。やはり、また“兵隊の位に直せば”の山下清のような人物が、文学の英雄としてたちあらわれた、というような例も皆無である。文学の作家は、その意味では思想家でなければならないし、精薄児は精薄児であるというその一点において、すでに文学者としての資格を欠いている。
 たしかに、それぞれの芸術ジャンルにそれぞれの特殊性があるのであり、したがって、たとえば音楽教育や美術教育と文学教育とを一括して考えることにはすでに無理があるのだ、ともいえそうである。
 それで、たとえば、芸術ジャンルの両極である音楽と文学とでは感性的な共軛面では重なり合うけれど、論理的・抽象的な性質の面で文学はそこからハミだすなどともいわれている。同じ文学のなかでも、詩は他の芸術ジャンルと重なり合うが散文はハミでる部分が大きい。で、その重なり合う部分が芸術なのであって、その他の部分(つまり文学の大部分だ)は芸術論の対象にはならない、というようなギロンもある。また、舞台を見つめさせることで人びとを立ちどまらせ、考えさせる演劇はいわば散文芸術であり、スクリーンのほうからはたらきかけてくる映画はいわば詩である、というようないい方もおこなわれている。
 が、いずれにしても、それぞれの芸術ジャンルがそれぞれに特殊性をもち、したがって音楽教育・美術教育・文学教育等々の芸術教育の各分野が、そのそれぞれの特殊性に即した指導方法をもたねばならぬということは確かにいわれていいのである。けれど、そのことは、芸術教育を一貫した一つの方法原理を求めえないということではないはずである。
 芸術教育に一貫した一つの方法原理を、ということは、けれど音楽に適用して考えられることは文学にも適用されるが、文学に適用されることはかならずしも音楽には適用して考えられない、というような一点にしぼって、各芸術ジャンルの重なり合う面で共通の指導方法を考えてみる、というようなことではない。そうではなくて、もっとも感覚的・感性的な芸術である音楽の指導も、もっとも抽象的なことばの芸術(ことばを通路とした芸術)である文学の指導も、その指導方法はたんに 感性的であったり、またたんに 抽象的であったりしては意味をなさぬ、というその一点にしぼって方法原理をみちびくことなのである。
 芸術の表現は、その感性的・具象的表現を一度非日常的なものにまで抽象・概括することなしには、その作品を芸術としてつかんだことにはならない。と同時に、それをただ抽象し放しにしたのでは、やはりまた芸術として理解したことにはならない。抽象し放しでなく、それをもう一度日常化し生活の場にかえしてくるという操作が、その作品の表現を芸術にするのである。芸術教育は、そうした芸術独自の機能をつかんだ教育でなければならない。そうでなければ、それは芸術教育にはならない。
 さきに見てきた芸術ジャンルの特殊性ということも、五歳のモーツァルトや山下画伯などの例から音楽や絵画の創造には思想はいらない(すくなくとも高度の思想は不要である)というふうな結論をみちびくことは危険である。
 たとえば、山下画伯の作品について具体的に見てみると、太平洋戦下の制作には内面的に充実した緊迫感が満ちあふれているが、戦後の制作ではその緊迫感がすっかり薄れてしまって、ただのきれいごとに終っているようなものが少なくない。ということは、作家の主体をささえる思想性がないにひとしい彼の場合、表現が外界のただの反映に終っている、ということをいいあらわす以外のものではなさそうである。
 表現が、そこでは創造としての意味をもたず、素朴実在論的な反映の外化にすぎない。作家の精神が問題をさぐりあてているのではなくて、いわば生物学的な外界の刺激が一定の反応をよび起こしている、というかっこうなのである。それを社会的にいえば、マス・コミュニケーションのありようが究極においてかれの表現のありようを決定しているということなのである。創造のはたらきは、外界と主体との(あるいは主体内部の)矛盾への抵抗に根ざす、全人格的な、きわめてポジティヴな活動なのであって、けっしてこのような受身で他動的で消極的なものではない。創造的でない芸術活動というようなものは、どこにもないのである。芸術家にとって思想は二の次であるなどとは、口が曲がってもいえないのである。
 が、かれの表現が示すそのこまやかさ、ディテールにわたってのきめこまかなあの描きは、どうだ? これが美でないというのか?
 たしかに、それは美しい。痴呆美も美であるということも考えあわせて、それはたしかに美しい。けれど、かれのディテール、ディテールの美の追求は、芸術にとって手段であるところのものを目的として追求している、ということにほかならない。手段と目的との転倒である。むろん、芸術の認識・表現(鑑賞する場合も同じことだ)にとって、たんに手段であるというようなものはない。手段を充足することが同時に目的を満たすことなのである。が、それは手段と目的との混同ないし転倒ということとは別である。ディテールの描き自体が目的となって、なんとなく全体が構成されていくというのでは、これは、少なくとも《創造》とはいえない。
 精薄児(?)のかいた絵、ということが一般に山下画伯の作品に対する評価の素地(地づら)になっているわけだが、五歳のモーツァルトの作品への讃仰も、“五歳の幼児が”というところが地づらになってのそれであることは見のがせない。モーツァルトの表現が真の意味での表現(創造)になりえていたかどうか、その辺のところから芸術の論理をもう一度たどりなおしてみる必要がありそうである。音楽の与えるものが(標題楽にあってすら)要するに感じであり気分であるとしても、創造としての作曲は、インスピレーションによっておこなわれるのではなく、その制作過程はほとんど一から一〇まで知的なメカニックなものによって支配される、と多くのすぐれた作曲家たちは語っているのである。


   三 指導上の問題

 わたしは、もうせん、近所の子どもたちとプーシキンの『漁師と金のさかな』について話し合ってみたことがある。土小屋に住んでいる貧乏な漁師のじいさんの網に金のさかながかかって、それを逃がしてやるという、あの話である。
 “おじいさん、わたしを海へ放してやってください。お礼はたくさんさしあげます。”
 むろん、じいさんは礼など取らない。“金のさかなや。さあ、おゆき! お礼なんかいらないよ。青い海へ帰っていって、あのひろびろとしたところで、お遊び。”
 お人よしで気の弱いこのじいさんは、けれどそれで欲の深いばあさんに怒鳴りつけられることになる。“おまえさんは、バカでまぬけだね! どうしてお礼をもらわなかったんだね!”
 ばあさんに叱られて、じいさんは、すごすごと金のさかなのいる青い海へ出かけていく。金のさかなは、しかし、すぐにじいさんの頼みをきいてくれた。
 “心配しないでお帰りなさい、新しい桶ができていますよ。”
 桶のつぎには木小屋を、そのつぎにはりっぱな家を、おしまいには“わたしを女王様にしてくれ”と、ばあさんはいいだす。が、その願いはつぎつぎに満たされていく。じいさんは、ばあさんの足もとにひれ伏して、こういった。
 “こんにちは、女王様! これであなたもご満足でございましょう。”
 が、一週間たつと、ばあさんは、じいさんに向かって、こういった。“行っておいで。さかなにお辞儀をして、頼んでおいで。好きなことのできる女王も、もういやだ。わたしは海のぬしになりたい。あの広い海にすみ、金のさかなを従えて、なんでもわたしの用事をさせたい。”
 こんどは、金のさかなも返事をしないで、海の底へもぐっていってしまった。じいさんが帰ってみたら、ご殿のかわりにもとの土小屋があって、その入口にばあさんがしょんぼり坐っていた。そして、ばあさんの前には、もとの壊れた桶がころがっていた。
 ……という話をよんで、どこがおもしろかったか、とわたしは聞いてみた。
 ――“さかなを取ろうと思って網を投げたのに、泥がかかったところがおかしかった。”
 これは、四年生の男の子。“おもしろい”のではなくて、“おかしい”のだ。
 ――“なんべん網を投げても、泥だの藻しかかからない。おかしいような気もするし、かわいそうな気もする。”
といったのは、やはり四年生だが女の子。
 ――“どうしてお礼をもらってこなかったんだ、といって、おばあさんがどなるところが、とてもおもしろかった。”
 これは、六年生の男の子である。
“どうして?”
と聞いてみたら
“こういうガッチリした、ばあさんが、ほんとにウチの近所にいるもん。”
つまり、自分の生活にひきくらべてみてのおもしろさなのである。作品の世界のできごとや作中の人物の性格・行動といったものを、自分の生活にひきくらべて読む、という受けとり方・受けとめ方である。この例だけでそれをいうのは危険だが、作品の表現を自分の生活の場で受けとめて理解しようという、このましい態度がみられるわけである。が、そこには、作品の世界のことは作品の世界のこととして突っ放して見るという態度が欠けている。作品の表現の意味するところを、それとして抽象して考えることができずにいるのである。
 まえにふれたように、作品の表現を一度抽象したうえで、それをさらに生活の場にかえしてくるところに芸術の表現理解が成り立つのであるとすれば、この子どもにとっては、この『漁師と金のさかな』という作品は文学以前・芸術以前として作用しているというほかないのである。つまり、生活の現実も形象的現実の世界も、この子にとっては区別はないのである。
 ――“いちばん終りのところがおもしろかった。こわれた桶の前で、ばあさんがしょんぼりしているところが、とてもすてきだ。胸がすうっとした。”
 これも、さっきの六年生のいいぶんだったが、この意見にはだれもが賛成らしかった。“もっとひどいめにあったっていいんだ”といった男の子もいる。

 それで、この話に物足りないところはなかったか、と聞いてみると、“おじいさんが、ぜんぜん損ばかりしている”と、みんなは口をそろえていった。
 “では、このお話には、どういうことが書いてあるのかしら?”
 ――“あまり欲ばると、かえって損をするということが書いてあります。”
 ――“あんまり高い望みを持ってはいけない、ということを、いってるんじゃないかしら。”
 完全な読みそこないである。完全な、といっただけでは足りないのであって、作品のしめす主題とま反対の受けとり方がなされているわけだ。自己中心性が抜けきれないための読みそこないだ、などとコジツケてはいけない。相手の立場で(というのは作中の人物の立場で)ものを見、ものを考えるということをしないためのミスである、という点で多分に自己中心的であるとはいえようが、その自己中心性はしかし生物的・発達的なものではない。問題は、むしろ、子どもたちの後の理解の仕方に見られるような“おのれの分を知れ”的な、また勧善懲悪・因果応報的なものの考え方・感じ方が常識として通用しているような社会のなかで子どもたちが生活している、という点にありそうだ。
 こんにちのマス・コミュニケーションがまた、この《常識》を習慣化するようにあおり立てている。教育マス・コミの面にかぎっていっても、たとえばある教科書会社から出ている、ある国語教科書にはこの『漁師と金のさかな』が掲載されていて、そこには“おのれの分を知れ”というのがこの作品のテーマだといった解説を添えているのである。

 わたしは、そこで子どもたちと、もうすこしさきまで話し合ってみることにした。もっと別の読み方・受けとり方ができないものだろうか、という点についてである。
 わたしは、まず、この『漁師と金のさかな』の物語が、百何十年もまえのロシアの民話であることや、こういう話を語り伝えた農民たちというのが、そのころツァーや地主貴族たちの悪政に苦しめられて、奴隷同然のみじめなくらしをしていた人たちであることなどを、この作品の主題の展開にふれながら(しかしまた、それが主題の解説めいたことにならぬように注意しながら)話してきかせた。貴族の子どもだったプーシキン。貴族の子として生まれたがために、乳母の手ひとつに育てられ、ついに母親の味を知らなかった、不幸なプーシキン。民衆の子たちの苦しんだ貧乏の味はなめなかったかわりに、民衆の子たちの味わうよろこびを、ついに味わいえなかったプーシキン。が、やはり民衆の子であった乳母に育てられることで、民衆の魂にふれることのできたかれ。
 乳母が寝ものがたりに話してくれる民話が、おさない日のプーシキンの夢をいかに民衆的なものにはぐくんでいったか――。夢とは、そして子どもにとって現実のことにほかならない。二〇代になったプーシキンは、乳母が寝ものがたりに聞かせてくれた、かずかずの民話を思い起こしながら、いくつもいくつの美しい詩を書いた。『漁師と金のさかな』も、そうした作品の中の一つにほかならない etc.
 “だから、きっと、このお話のなかには、当時のそういう農民たちの生活のありのままが語られているような気がするのだが……プーシキンがそのことを抜きにした詩を書くというようなことは考えられないのだけれど……”とも、わたしはいった。
 すると、話のとちゅうで、六年生の女の子が、
 ――“それじゃあ、おじいさんというのは農民のことなんだわ。”
といいだした。
 ――“おばあさんというのは、皇帝や貴族たちのことよ、きっと”
と、こんなふうなことばも、そこへつけたした。
 だって、おばあさんは、とにかくいっぺんは女王さまにもなれたんだし、これは皇帝や貴族のことにきまっている。おじいさんは、ただもう、おばあさんのいうとおりに、いっしょうけんめい働きどおしに働くが、それでも番兵にひどい目にあわされたりする。だからこれは貴族たちにいじめられている農民のことだ、そうにちがいない、と、この女の子はいうのである。
 翻訳(――社会規範の翻訳)の手つづきも経ないで、無媒介に、ヤミクモにプーシキンを読むのではなくて、プーシキンの作品の歴史的背景を一応つかみとることで、この女の子は、“おじいさんというのは農民のこと”“おばあさんというのは皇帝や貴族たちのこと”という理解にまで漕ぎつけたわけだ。が、ここでは作品の表現をただそうした《ことば》に抽象しただけで体験による裏うちを欠いているため、理解が一面的なものに終っている。
 ――“すると、あれですね、あんまり欲ばると、いまにひどいめにあうぞ、と農民が貴族たちにいっていることになるんだね。”
 これは例の元気のいい六年生の男の子。
 ――“そうか。わかった。人間はあまり高い望みを持ってはいけない、といっているんじゃないのだね。欲ばりの地主たちに、皮肉をいっているのですね。”
 だいぶハッキリしてきたらしいのだ。みんなの目が、いきいきと輝いてきた。
 そこで、また、二十分ばかり話しつづけているうちに、おばあさんというのは皇帝や貴族たちのことだ、というふうにきめてしまうのは、これはやはりまちがいで、話のはじめと終りに出てくる、ばあさん(――こわれたオケを手にして、土小屋のまえに立っている、ばあさん)は、どうしたって貧乏な農民のすがたをあらわしている、という意見も出た。
 また、新しいオケをほしがったり、一度でもいいから《いい家》に住んでみたいと考えるおばあさんは、これはふつうの貧乏な農民のすがたをあらわしている、という意見も出た。
 欲ばりで、つっけんどんで、底意地のわるい、このおばあさんのひねくれたコンジョウというものは、それは貴族たちの態度や性質のことをいっているには違いないが、でも農民たちのなかにも、そういうコンジョウの人間はいるだろう。あまりいじめられてばかりいると、人間はひねくれるものだ。いじめられどおしに、いじめられていた農民が、ひねくれた人間になるのはあたりまえだ。とすると、欲ばりばあさんのすがたは農民のすがたをあらわしたものだ、ということになりはしないか、――というような、ずいぶんませた(?)意見も出た。
 また、なかには、――お人よしも程度問題で、このおじいさんみたいに、おばあさんのいいなりになっているようでは困る、という批評もあったし、“お礼はいらないよ”と一度金のさかなにいっておきながら、いくらおばあさんにガミガミいわれたからといって、またノコノコお礼をもらいにいくなんて、という話も出たように記憶する。
 さきに一度抽象した作品の表現を、さらに自分たちの体験、自分たちの生活の網の目をくぐらせることで抽象しなおし、それをさらにもう一度また自分たち自身の生活の場にかえしてくる、という操作が、そこにおこなわれているわけである。
 それで、この金のさかなの物語は、けっきょく何をいっているのだろう、ということが、最後にみんなの話しあいになった。
 そのときの、子どもたちの結論は、だいたい、こんなふうなことだった。
 (1)――ここのおばあさんみたいな、自分のことだけしか考えないような人たちの、いいなりになってはいけない。
 (2)――そういう人たちのいいなりになっていると、自分もふしあわせになるし、よい友だち(金のさかな)にウソをついたり、《めいわく》や《やっかい》をかけたりすることにもなる。
 (3)――そればかりか、こういうことでは、“おばあさんのような人”が反省する時がないし、反省しないまま“ふしあわせ”になってしまう。
 (4)――金のさかなのような、やり方もいけない。おじいさんのためを思ってやったことはわかるが、それは、けっきょく、おじいさんをひどい目にあわせることになったではないか。やはり、考えがたりない。
 意見はまだまだたくさん出た。たとえば、
 (5)――“農民の願いや望みというのは、オケがこわれて使えなくなったから新しいオケがほしい、というような、ごくあたりまえのことなのですが、女王(皇帝や貴族)の考えることというのは、自分の国いがいの《青い海》まで支配して、恩人のさかな(?)までもこきつかおうという悪い望みです。女王になったおばあさんが、おしまいのところでいう《青い海》というのは、外国のことだと思います。さかなというのは、外国の人たちのことだと思います。”
 (6)――“青い海が外国のことだとはきめられないよ。外国のことをいっているところもあるが、そうでないところだってある。とにかく、自分が女王になれたのは、金のさかなとおじいさんのおかげだよ。それなのに、自分をしあわせにしてくれている国民を苦しめるなんて、これじゃ金のさかなみたいに、いまに国民もいうことをきかなくなってしまうさ。”

 あらたまって開いた子ども会・読書会ではなかったし、まとまりはつかなかったが、それでも子どもたちは、童話のおもしろさということを、あらためて考えなおしたようである。子どもたちとの後の話し合いを通して、わたしが実感したことは、すぐれた作品もそれをただ与えっ放しにしたのでは、効果はほとんどまったく期待できないということ、つぎつぎに、いくらたくさん《すぐれた作品》を子どもに提供してみたところで、体験のくりかえしだけでは芸術教育としての効果は期待できないということである。
 さらにいえば、俗悪な歌や漫画や読みものへの子どもたちの接近も、かれらの心ひかれているのが、はたしてその通俗性に対してであるかどうかは、なお検討を要するように思われる。『この道は』の歌を口にする子どもの芸術的情操がゆたかで、『トンコ、トンコ』とトンコ節を口笛で吹く子どもが《通俗》だとは、いちがいに言えないのである。子どもは、むしろ、健康な子どもであるからこそ、トンコ節の軽快なメロディをたのしんでいるというような場合だってないわけではない。そのとき、子どもの胸にはあの歌詞がしめす卑ワイさとは別の《感じ》や《気分》がみなぎっているかも知れないのである。


参考文献

(1) 波多野完治編 視聴覚的方法の心理学(日本放送教育協会刊)
(2) 同上
(3) イリヤ・エレンブルグ 文学について 中央公論 1954年10月号
(4) 前出 視聴覚的方法の心理学
(5) 滝崎安之助 芸術を求める心 朝日新聞学芸欄 1956年10月
(6) 作者自身のことばによれば、“作の上の思想に露文学の影響を受け……日本文明の裏面を描き出してやろうと云う様な意気込み”(『予が半生の懺悔』)で書かれたというこの『浮雲』は、“社会現象を文学上から観察し、解剖し、予見”(同上)するという、ロシア近代文学の創作方法を日本的現実のうえに適用させようとしたものであったらしい。だが、『浮雲』に結晶された“日本文明の裏面”の描写は、ロシア的というよりは、むしろ、西ヨーロッパ的な近代文学の文法に拠るものだったといわなくてはなるまい。《近代》を越える者(明日をになう者)の立場に結びつくことで《前近代》を批判し、そこに《近代》を実現させるという、ロシア的な近代リアリズムは、そこには見られない。あくまで《近代》そのものの立場において《前近代》に対峙するという、西ヨーロッパ的な方法が、この作品を方向づけ、文三の運命をああしたものにして行っているのである。
(文中、今日の人権感覚に照らして適切でない表現があるが、文章の歴史性を考慮し、そのままとした。) 
熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より