文学教育と生活綴方

国土社刊「教育」73(1957.6)掲載---
(この論文は、1957年4月28日、東京港区・桜田小学校で開催された文学教育の会創立総会/第1回研究集会での講演に基づいている。)

    文学教育的方法の導入 「教育」1957.6表紙

 生活綴方は三十年、いや四十年近い歴史をもっております。むろん、前史ともいうべき一時期をふくめての話でありますが――。戦争によって、いちじ中絶したような形にはなりましたが『山びこ学校』あたりを第二の始発点として、戦後数年にして、ふたたび新しい盛りあがりを示すようになりました。戦後の生活綴方運動は、そしてもはや、戦前におけるそれのたんなるくりかえしや延長ではありません。波多野完治先生が、先年『講座日本語』(大月書店刊)の国語教育の巻において指摘しておられましたように、長いこれまでの実践をもとにした方法的自覚が《生活綴方的教育方法》と一般にそういわれているようになすぐれた教育の原理・方法をそこにもたらしているのであります。
 「この生活綴方的方法による国語教育は、今後の国語教育の基本的な流れとなるのではないかと思う」と波多野先生はおっしゃっておられますが、わたしもまったく同感であります。ただ、現在おこなわれているような方法、現在の生活綴方のありようを続けることで、それが《今後の国語教育の基本的な流れとなる》のか、なれるのか、ということには、いささか疑問があります。
 各人各様の個別的な感性的体験をもとにして、その実感の集積のうえに理解の一般化と問題解決の道筋をつかみとる、という方法こそ、生活綴方的方法の特徴であり長所であり強味であるわけなんですが、久野収氏たちも指摘しておられたように、これでは「自己の体験への具体的翻訳の可能なのに応じてしか一般法則をうけいれられない」ということになってしまい、極端にいえば、「自分の体験の構造が、一般社会の構造のよきモデルとなる位置にある人」の場合にしか適用されない方法だ、ということにもなりかねません。
 久野氏は、都市ブルジョアの子どもたちにとっては、自分の体験を正視することによっては「庭のかんなが淋しく咲いた」というような文章をつくる地点以上には出られなかった、といっておられますが、わたしもまたそれとあい似た指導体験をもっております。ブルジョアの子どもの教育のことなど後回し、というふうな割り切った考え方をする人の場合は別として、ブルジョアやプティ・ブルの子どもたちの生活意識や感情を、彼らの階級的な限界をこえて民族的なもの、民衆的なものにつくり変えなくてはならないと考える立場からは、右の生活綴方的方法について、いっそうの方法的反省が必要になってくるわけであります。
 彼らの特殊な環境、閉ざされた環境からくるところの、ズレた体験の仕方や、現実をみる眼のゆがみを自覚させるためには、単なる実感のつみかさねだけではとうにもならないのであって、そこに理論的認識への意識的・積極的な導入が、考えられなくてはなりません。そして、このことは、たんにブルジョアやプティ・ブルの子どもたちの指導にとって必要であるというだけではありませんで、やはり全般の子どもの指導、子どもたち全般の指導において考えられなくてはならぬことのように思われます。
 つまり、実感ないし実感像のつみかさねによる人間形成というこの方法に加えて、科学的世界像による(実感から思想への転換という)人間形成の方法が、そこに同時に考えられなくてはならない、ということなのであります。実感のつみかさねだけでは到達できない真実、理論的認識活動を媒介とすることなしには到達できない真実というものがあるからであります。
 が、理論が先行した指導というものは、えてして教師の考え(教師のつかんだ理論)のおしつけや、無理じいを結果しがちであります。そこに考えられますのが、文学教育的方法の、生活綴方的方法への導入ということなのであります。
 文学教育的方法といいますのは、自己流のいい方を許していただければ、《文学的思考》ないし《準体験的認識方法》による指導ということなのであります。もっとも熊谷のいう《準体験》という概念は、概念として不明確である、それはむしろ二重体験ないし複合体験と呼ばれるべきものではないのか、というご批判を先刻波多野先生からいただいたばかりでありますが、先生へのお答えは後日に保留させていただくことにしまして、ともかくその指導をたんに直接体験の面にのみ限ることなく、この準体験的認識ないし文学的思考をそこに伴なわせることで、体験にそくすると同時に体験をこえるという方法が提示されれば、それがほんらい意図しているような意味での《生活》綴方になり得るのじゃないか、というふうにわたしは考えてみております。

    受けつぎ方の一つの場合

 文学教育のほうを軸にして申しますと、生活綴方の偉大な成果を、原理的にまた方法的に、どの面でどう受けつぐかということが、こんにちの文学教育の一つの課題であります。
 さきほど、国分一太郎氏が紹介しておられた、西尾実先生の《問題意識喚起の文学教育》でありますが、先生がさいきん特に主張しておられることの一つは、児童や生徒が文学作品を読んで感じたこと、そこから、自分自身のうちに呼びさました問題意識というものは、たとえ作品の主題からハズれているとしても、教師としてはやはり大事にしていかなくてはならぬものではないのか、ということなのであります。先生はこれを鑑賞の問題として、文学教育の体系のなかに大きく位置づけておられるのですが、生徒が感じとったものをたいせつに扱うことをしないで、文学教育はなり立ちようがないという意味のことを、おっしゃっておられます。これなんかも、やはり、生活綴方的方法を文学教育の面で受けとめている一つの例ではないか、と思われます。
 もっとも西尾理論ともいうべき、西尾先生ご自身の理論の系譜をたどってみますと、それはかならずしも生活綴方の方法的成果を直接受けつぐものといえるかどうはは疑問でありますが、しかし教育の原理・方法として、生活綴方的方法への一般の関心の高まりとつながる何かが、そこにありそうに思われるのであります。
 じつは、こうした問題について話をさせていただく予定であったのですが、時間も残りすくないので、以上のような問題がさきにあることを予想しながら、今日結成された文学教育の会に対するわたしの願いを、ひとつだけいわせていただくことにします。

    技能の技術化を

 それは、私たちの文学教育の会を、(妙ないい方ですが)新興宗教の団体にしない、してはいけない、ということであります。つまり、お教祖さまを作らない、ということなのであります。
 過去の生活綴方運動のなかから、そして文学教育運動のなかからも、どうやらぼつぼつ教祖が出かかっているように思われます。これは教祖扱いをされている当の本人には、なんの関係もないことなわけなんですが、周囲がそういうふうにしてしまう。その結果、当人たちの発言が、まるでお教祖さまのお筆先みたいに絶対視される傾向がある。
 教祖というのは、他人にマネのできないような特殊技能の持ちぬし、ということであります。もっとハッキリいえば、とうていマネのできそうにもないと思われる半面、ひょっとしたら自分も或る程度マネられるかもしれないと思われるような半面をもっている相手が、つまり、教祖なのであります。
 そこで、文学教育をやり生活綴方の指導をおこなう場合、自分もやはりあのような特殊技能を身につけなければならないと考える。そこで、その技能を体得しようと懸命になるわけであります。各種の研究集会などに出席して実践報告を聴いておりますと、新しい教祖の誕生を時としてそこに発見するわけであります。教祖と信徒との関係第二号、第三号の誕生であります。
 報告を聴いていますと、たしかに、その人でなければできないような、スバラシイことをやっているわけなんですが、しかし、それが技能の段階にとどまっているというところに問題がありはしないか、と思うのです。
 技能であるかぎり、それは個人的なものであって社会的なものになりません。それを受けついで自分の実践に生かす、ということができません。たとえば、『山びこ学校』の無着先生がおやりになっていること、或いはかつておやりになったような融通むげ な指導ぶりといったものは、わたしたちがそれを耳にいたしまして、ひじょうな感動をおぼえます。教室の窓ガラスを割った生徒たちが、これはお説教ものだと思って、おずおずと伏目がちに先生のまえへ出ると、「きみたち、弁償するというけれど、このガラス、いくらするか知っているか」「町では一枚いくらいくらだそうだが、この村へくるといくらいくらになる、これはどういうことなのか」というようなことで、そこから社会科の授業になる。また、算数の授業になり理科の授業になる、ということなんだそうです。
 ほんとうに、すばらしいと思います。教育というものは、こうでなくては、と思います。が、それが他人のマネのできない特殊技能の域にとどまるかぎり、この指導法はあくまで無着先生個人のものであって、複数の教師、大ぜいの教師の共有財産、公共の財産となることはできません。
 ところで、いま、課題としてわたしたちが考えつづけていることは《誰にでもできる文学教育》ということなのであります。文学教育が誰にでもできるようなものになるためには、技能を個人のワクから解放して、それを技術化しなくてはなりません。個人プレイやお家芸ではない、その気になれば誰でも使える技術として文学教育の指導方法を実現させることであります。自分が第二の教祖、第三の教祖にならなくとも、順序をふんで学習をつづけさえすれば、指導方法を具体的に身につけ得るようなものを、教育技術としてそこにうちたてることなのであります。
 もっとも、人それぞれに固有の持ち味というものがあります。その持ち味は生かされなくてはなりませんし、教師の個性が指導の実際面ににじみ出てくるのはむしろ当然のことですが、それは、いっぺん技能を技術として一般化し社会化したうえのことであります。
 一昨年でありましたか、菅忠道氏が日本文学協会の年度大会で次のような発言をなさいました。「今日の実践報告を聴いていて、ひじょうに大きな感銘を受けた。が、同時に、ごく特殊な優秀な先生でなければできないような文学教育であるかぎり、それはあまり意味がないということを感じた。」
 菅氏のこの発言は、よく問題の焦点をいい当てているように思います。それは、文学教育が誰にでもできるようなものになるためには、単なる技能の礼讃や、技能をたんに技能として受けつごうというふうな努力の終ってはいけない、ということでありましょう。コトバをかえていえば、教祖の跡目を相続しようなどと考えてはいけない、ということのもなりましょうか。くりかえしになりますが、今は文学教育を教育技術として確立しなくてはならない時期にきている、ということなのであります。
 ところで、自己バクロになりますが、かつてわたしは、教育技術というコトバに非常な嫌悪を感じておりました。正直のところ、教育技術がなんだ、技術なんて二の次、三の次だ、問題は教師自身のものの考え方がまともであるかどうかということではないか、といったことを、心ひそかに考えておりました。二十代のことであります。暗い谷間のどん底においてでありました。現に、ふたことめには、教育技術というようなことを口うるさくいうような人にかぎって、(すくなくともわたしの周囲では)自分自身、教育の自由をふみにじるようなことを日常平然とやっているような人たちでした。
 二十代のわたしが反発した、その教育技術というのは、けれど今にして思えば、技術ではなくて技術主義的なカッコつきの技術――一種の技能礼讃の態度にほかならなかったようです。

    文学研究との結びつきを

 そこで、技能の技術化による誰でもできる文学教育の実現ということなのですが、それを具体化するためには、まず教師自身による積極的な文学の学習ということが前提条件となります。わたしたちは教師が実際に文学の研究活動に参加することで、たえずその研究成果に学び、それを各人の現実の教育活動のなかに生かす、ということなのであります。
 これは、いわれているような文学研究教育ということとは一応別の事がらです。そして、このことは、大学や高校の文学教育にあって必要であるばかりでなく、むしろ、小中学校の場合においてこそ必要とされることだ、というふうにわたしは考えてみております。
 文学教育のいとなみをどのように進めていくかというようなことは、これは経験をつめば自然身についてくる事がらなのであって、とくに勉強なんかしなくとも……というふうな考えかたこそ、じつは先刻指摘したような技術主義のそれにほかなりません。わたしたちは、いっぺん、どうしてもこの技術主義・技能主義からきれいさっぱりと足を洗う必要があるように思います。そして、誰にでもできる文学教育、誰にでもできる文学教育の指導方法を、文学研究との結びつきにおいて、技術として確立しなくてはならないと考えます。
 文学教育や生活綴方の指導を、誰にでもできるようなものにするためには、現実にどうすればよいのかというこの問いは、ところで、また、それらをどの教科においてどう受けとめ、どのように指導するかという、教科論の問題につながっていくわけですが、この点の吟味は後の機会に譲らなくてはなりません。
(国立音楽大学教授)

熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より