美文にまけるな 学生々活と読書     熊谷 孝

「法政大学新聞」第311号 1956年3月15日号掲載---
 紅葉の美文を、せせら笑ったりしてはいけない。その美文調の表現に、うっとりと胸をときめかせた束髪(そくはつ)の明治の女性群のことをせせら笑ったりしたら、なおさらいけない。「熱海の海岸散歩する……」いいじゃあないか。もっともこれは紅葉自身の文章ではないけれども――。
 せせら笑われなくちゃならないのは、じつは、かえって、僕たちのほうなんだ。げんに、きみや僕は、美文に足をすくわれている。違うだろうか。


   正数と負数

 ――「坂口や太宰の、藤村・志賀への対決は、いわば正数に負数を対置したようなものだ。たしかに、太宰は志賀の文学の一応の安定と調和にとって、根本的な疑問を投げかけたものだ。……だが、こういう無頼派の戦いは、結局一種の特攻戦法たるをまぬがれない。……倒れた彼らから、戦闘力を引継ぐものが、旧来の私小説作家でもなければ、風俗作家でもありえないことは、いうまでもない。それは、たとえば、志賀直哉に、負数的な自分を対置させるのではなく、正しい意味で、志賀を越える作家だけが可能であろう。」
 どうだ、きみは、存外、こんな文章に唸ったり唸らされたりしてはいないか。サワリだくさんな、こうした美文調の評論の文章に――。そして、また存外、評論をよむことで作品をよむことに代用したりしてはいないか。
 ところで、この文章のどこが大向うを唸らせるのかというと、「正数を負数に」といったふうな、“気の利いた”言い廻しだ。ことばの言い廻しが相手を唸らせるのであって、論理や思考の確かさがこの文章のキメ手になっているわけじゃない。発想そのものは、むしろ陳腐で常識的だ。常識的のなんのといういうより、常識にもたれかかり常識を利用し、そして適当に常識に媚びている。
 藤村や直哉などの巨大な存在を正数と断じることは、まことに世間一般の常識にかなっている。
 「生きよ、墜ちよ」とわめきたて、「時代はすこしも変らない、一種のあほらしい感じだ」などと絶えずソッポを向いたもののいいかたしかしない太宰や坂口たちを負数ときめつけるのも、やはり常識にかなっている。
 文学のメーン・ストリートは、正数から正数へ――これも、まことに健康な常識だ。
 太宰たち無頼派からひき継ぐものは、そしてその戦闘力だけ?……ああ、そうなのか。太宰たちは、戦力なき軍隊の裏返しみたいなものなのか。
 が、志賀や藤村たちと太宰たちとで、いったい、どちらが正数でどちらが負数であるのか?
 外出しなければ、すくなくとも交通事故だけは経験しなくてすむ、無傷(むきず)ですむ。これがノー・ミステーク、ノー・エラーの志賀文学の有難い調和の世界だ。『灰色の月』が問題作でありえたのは、志賀直哉のサイン入りの作品だからだ。直哉が、あの志賀直哉がともかく一歩下界へ足を踏み入れたという“驚天動地”の現象が『灰色の月』の市場価値を高めたというだけのことだ。
 これが、ところで正数か。文学の正数か。
 「処世的なマジメさによって、真実の文学的懊悩、人間的懊悩を文章的に処理しようとした」藤村のえげつなさに、坂口安吾は食ってかかったが、藤村のそこに食ってかかった安吾が負数で、藤村や直哉があくまで正数だというのは戴けない。評論の美文に酔い痴れて、常識に足をとられたのでは、おしまいだ。


   文学に用のない文学青年

 僕の学生時代、クラスにえらく博識な男がいた。新聞という新聞、雑誌という雑誌の書評を日々、月々、片っぱしから読みまくり、問題書という問題書を買いあさって書架を埋めた。二間つづきの彼の下宿には、古今東西の哲学書・文学書・社会科学の文献がぎっしり積まれてあった。ただし、いわゆる“問題の書”だけが――。
 二千冊を越える書物の山のなかに、どっかりアグラをかいて、この“地方豪族の倅”(と僕たちはそのころ彼のことをそう呼んでいた)は、ドストイエフスキーを語り、キェルケゴールを論じ、時としてはまたマルキシズムに説き及んで、怠け者の僕をケムに巻いたが、その談話の内容は、新聞雑誌の書評のそれと寸分ちがわなかったし、彼の豊富な蔵書のエッジは全然切られていなかった。
 これなのだ。つまり、これなんだ。彼は哲学科の学生だったが、哲学をまったく必要としない人物だった。必要としたのは、高踏サロン漫談の話のネタだけだった。
 哲学を必要としない哲学青年や、文学に用のない文学青年たちが、今でも目を皿のようにして新聞書評や雑誌の見開きページの評論記事に読み入っている。これなんだ、薄手の美文調の評論が跡をたたないわけは――。読者がそこに読みとるのは、批評の方法ではなくて“気の利いた”批評用語であり、批評家のスタイル、いやポーズである。
 こうして原文・原作は読まずして「ぎりぎりの抵抗を試みた近松」を語り、「泡立つ多喜二の革命への情熱」に共感する(共感の身ぶりを示す)ということにもなるのだ。それは、じつは「ぎりぎりの」とか「泡立つ」という言葉――修飾語への感動なのだ。読者が原文を読まず、また読もうとしない限り、いついつまでも評論家たちは常識のうえにアグラをかき、言葉だけあって内容のカラッポな美文の製造にうき身をやつすことだろう。
 文学をよむのに(じつは文学にかぎらないが)ここが感動のしどころ・泣き所だなんて教えてもらわなくたっていい。感動の仕方や感動の身ぶりまで、なにも他人さまと同じである必要はない。学生生活と読者――そのことについて、もうこれ以上くどくいう必要はないだろう。評論家を甘やかすな。いい気な評論家どもにナメられるな。(くまがい・たかし氏は評論家、昭和十年国文卒)


熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より