最近の俳書から     (無署名)

「朝日新聞」1955年2月14日号掲載---

(「朝日新聞」の「読書」欄に無署名で掲載された。この記事と並んで、同じ筆者の「肉づけが足りぬ 国分一太郎著『鉄の町の少年』」が掲載されている。)

 第二芸術論が出ようが、結社解散論があらわれようが、俳句はますます盛んである。まことにこの伝統詩の根は深い。書店の新刊書ダナにも、最近、俳句に関する本が目立っている。虚子のもの、草田男のもの、山本健吉のもの、などこれらはまたそのまま、現俳壇の姿をも見せている。「朝日新聞」1955.2.14
 高浜虚子著『俳句への道』(岩波新書、一〇〇円)は、数年来「玉藻」誌上にのせた俳話を集めたもの。“新書”とあるが、相変らず俳句は“花鳥諷詠詩”であり、十七文字と季語を「俳句の国の憲法」だとし、手法としての写生を説いている。ただ最近の「ホトトギス」批判に対して多少言及しているが、虚子の句を“痴ほうの美”という批評に「痴ほう的、それで結構」とこたえるあたり、なんといっても伝統派の大御所らしい自信と不死身さを示している。俳壇の新人たちには歯がゆいことだろうが。
 秋元不死男著『俳句入門』(角川新書、一〇〇円)は、二年間にわたって「俳句研究」に連載されたもの。実作者としての体験に腰をすえて、じっくり綿密に説いている。かつて新興俳句運動に参加した人だけあって、進歩的な傾向にも目をとどかせており、まず行きとどいた啓発書といえるだろう。「要するに根源(生命)を把握すること」「季は生き方であり決意である」というようなところに“根源派”的精神主義の立場が見られる。
 中村草田男著『新しい俳句の作り方』(同和春秋社、二二〇円)は青少年向きにやさしく書かれている。“難解派”の草田男がこういうものを書いたのは面白い。草田男の創作の秘密は案外こういうところでつかまれるだろう。この本では、著者のいう「俳句の二重世界」を理解させるにとどめて、もっぱら作り方を説いているが、それでも「俳句の歴史」の項で、これからの俳句は、この“二重世界”を生活的・思想的なもので裏づけねばならぬといっている。これは重要なことだ。ここ一、二年来、俳壇では“俳句性”と“社会性”の論議がさかんだが、これは当然で、俳句がその“特殊地帯”に自らを封じこめることなく現代文学の中に位置を占めようとすれば、どうしてもこの問題を解決しなければならないだろう。そこに、草田男や楸邨の苦しいもだえがあり、同時にそれは現代俳句の苦しみでもある。
 渡辺順三・栗林農夫共著『短歌と俳句』(青木新書、一〇〇円)はその歴史からリアリズムの伝統をみちびきだし、これを現代に発展させることによって、この課題にこたえようとするものだろうが、それには日本の文学的風土と、大衆にひろくとけこむことが必要であり、問題はなかなか艦隊ではない。
 伝統のもとを深くきわめるという点で、山本健吉著『芭蕉』(新潮社・一時間文庫、一三〇円)は意義ある労作だ。芭蕉の人間や生活ではなく、純粋に作品(発句)に即して、そこに展開される芭蕉の心の世界をさぐろうとしたものだが、十分なテキストを用意し、これまでの研究や鑑賞を参考とした上で、著者独自の意見を出している。この点で芭蕉研究に新しい基礎をあたえたものといえよう。とくに芭蕉における過去の伝統の摂取、発句と連句との関係に重きをおいているところは、著者の“現代俳句はモノローグ(ひとりごと)化している”という批判の根拠を示すものだろう。雑誌「俳句」に連載されたもので、この本はまだ芭蕉作品の前半期だけだ。続編がまたれる。
 山本健吉ら編『現代俳句事典』(河出書房、三八〇円)は、このような現代俳壇のいろいろな傾向、その歴史、作家などを知るに便利だ。


熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より