文学教育に何を求めるか――ふたたび文学と文学教育について

国土社刊「教育」43(1955.2)掲載---
(この論文は、この後改稿を経て、『日本児童文学大系(6) 文学教育の理論と実践』(1955.6)に収録され、さらに『文学教育』(1956.11)第二章の一部として組み込まれることになる。)

   一つの問題点 

 ――「私も今だから白状するんですが、正しい考えを身につけていくためには、科学関係の本さえ読んでいればよいと思っていました。しかし、伊藤永之介の“鴉”などを読みますと、百姓のつらさや苦しさがよくわかるんです。私も百姓をしていて、やっぱりつらいと思うし苦しいと思うんですが、それをどう解決していったらいいか、頭うちしていたんです。“農業問題入門”などを読んで、いくらかは解決の方向をさぐりあてても、実際にやろうと思うとオックウになってしまう。それが“鴉”などのすばらしい作品を読んでいるうちに、しっかりやらなくちゃいけないな、といった気持が出てきました。そうした感激といきどおりのごっちゃになった気持で“農業問題入門”などを読み返してみますと、前にはわからなかったことが少しずつわかってくるような気がするのです。」改稿のための筆者による書入れ(「教育」43)
 これは『広場』という、東北農村(宮城県遠田郡南郷村)から出ている地方文化サークル誌の最近号に掲げられていた座談会記事の一節ですが、こんにちの文学教育の問題点の一つが、裏面からではありますが、しかしハッキリとうち出されているように思われます。
 つまり、この語り手は、ついさきごろまでは、文学的思考においてものを見、考えるというようなことは、実生活的にはむしろ不必要なこととさえ感じていたらしいのですし、「正しい考えを身につけていくためには、科学関係の本さえ読んでいればよいと思っていた」人であるわけです。
 それが、何かのおりに『鴉』というふうな農民小説を手にしたことが一つのキッカケとなって、文学的思考の必要と効用を実感しはじめたのです。また、多少とも文学的思考が身についたものになることで、これまでは自分にとって、やはり外側の――所詮は単なる観念的思考にすぎなかった科学的思考が、いまや主体内部のそれとして意識にのぼりはじめ、生活の実感のなかにこの科学的思考が生かされるようになった、という、いきさつらしいのです。
 文学的思考が科学的思考のささえであると同時に、科学的思考がまた文学的思考のささえであるという関係が、この語り手の場合には見られるわけです。他の側面がささえとなって、この側面がそれのほんらいの機能を発揮するようになる。この側面のファンクショナルな活動が、また逆に他の側面の活動を刺戟すると同時に、その活動のささえとなる、という関係です。一方が他の一方を、そしてまた逆に……という関係において、実感の歪みを正すというわけです。
 もっとも、右の発言の範囲だけでからは、科学的思考が文学的思考のささえになっているという後のほうの面は、あまりハッキリは出てこないのですが、しかしおそらくはこちらの推定どおりに違いありません。この語り手にとって、そのことが自覚的に意識されているかどうかは、一応論外です。そこまでのことは別として、ともかくわたくしのこの推定があたっているとすれば、すくなくとも方向としては、もっとも望ましい状態に、いま、この語り手は到達したということになりましょう。が、この状態にたどりつくまでに、ずいぶんとまわり道をしているという点にこそ、問題があるように思われるのです。
 ここのところで、ちょっと楽屋ばなしをすると、じつはこの語り手をわたくしはよく知っているのですが、部落の寄りあいなどではいつもイニシャをとる、明るくきびきびした感じの人がらです。年輩は、三十を一つ二つ越したというところでしょうか。文学書などにもかなりよく親しんでいるはずのA君――この語り手の名前ですが――が、しかし究極のぎりぎりのところでは、文学的読書を、余暇を楽しむ、やはり一種の生活のアクセサリーとしてしか考えていなかったわけです。彼は、農学校時代には文芸部や図書部の委員であったそうですし、学校をおえてからも、地域の文化サークルのメムバーとして、時には詩や評論の筆をもとるというふうな人であるのに、やはりそうなのです。そうであったのです。
 「私も今だから白状するんですが……」というふうな、彼の話の切りだし方も、ここまで話せば納得いくことと思いますが、であるとすれば、A君に文学への道を開いた周囲の文学教育の仕方そのものに問題があった、ということになりはしないでしょうか。 “仕方”というのは、ところで、“原理”のことですし“方法”のことです。文学を、実生活にはあまり役だたない、有閑的・装飾的なお躾ごとの“教養”と思いこませた、文学教育の原理・方法に問題があるのです。そして、非実用的で装飾的なところがそれの値うちだ、という考え方そのものに――なのであります。
 書物や音楽などに親しませることを単なるお躾けごとと考え、子どもを“日かげの花”に仕あげるような行き方を、わたくしたちは一般に文化主義(お教養ごっこ)と呼ぶことにしていますが、この文化主義の教育が今ここで批判されてよいのだと思います。
 
   文化主義のヴァリエーション

 いまさら文化主義批判でもあるまい、それはもうとうに批判ずみのはずではないか、とおっしゃる方もあるかも知れませんが、どうもわたくしには、そうとばかりは思えないふしがあるのです。生まれも育ちもきっすいの文化主義者が、いま、現に、文化の世界でのさばり返っています。また、基地問題を語るときは、然るべくそのように語り、文化・文学の問題に対するときは文化主義者に早がわりするというような人たちが、わたくしたちの周囲になんと多いことでしょう。こんにちの進歩的な問題意識をもった文学教育にしても、案外に“批判ずみ”であるはずのこの文化主義から足を洗っていないのです。そうとしか思われないふしが、いくつか見あたるのです。
 が、その点は本誌・前々号(拙稿『文学と文学教育』)で述べたばかりですから、くどくは申しませんが、たとえば文学教育の究極の役割を、科学的思考へと相手をみちびく橋渡しの手段と考えているようなのが、その典型的な実物見本です。それは、科学的なものの考え方を否定することが結論も同然の、きっすいの文化主義のそれとくらべては、一見害はすくないみたいですが、しかしそれが現実に果たしている効用(マイナスの効用)からいったら、どちらがどうと単純に甲乙はつけられないように思われます。つまり、ひところのA君のような、「正しい考え方を身につけていくためには、科学関係の本さえ読んでいればよい」というふうな、文学の実効(?)を否定すると同時に科学的思考もほんとうは身につかない、宙ぶらりんの人間をつくりあげているという点では、かつての文化主義の文学教育も今の進歩主義のそれも、まったく同じことなのです。
 さらに言うと、かつての文化主義のそれは、ともかくも文学を文学として楽しむことを教えてくれました。それの歪みは歪みとして、しかし文学を楽しんで読むことを教えてくれたのです。ですから、A君のばあいがそうであったように、生活の余暇を詩や小説を楽しむことにふり向けるような人間もつくりあげることが出来ました。それで、結果としてではありますが、A君は、一面、まともな文学のよみ方を身につけ得る素地と余地をあたえられたのでありました。
 そこで、わたくしは思うのです。詩や小説の享受をもこめて、人間を変革し形成するという読書の目的は、けれど読書というものが生活の楽しい一部となりきったところで、結果として(――そうです、あくまで結果としてなのです)実現されるものだと思うのです。読むからには、読んだからにはもとをとろう、というような読書態度からは、文学的思考や思考力は生まれてまいりません。(問題意識をもった読書ということと、これはまったく別の事がらです。)繰り返しになりますが、その点、文化主義の文学教育は、文学を楽しむことを教えてくれました。ところが、進歩主義(?)のそれには、文学を楽しむという態度が欠けています。
 文学を楽しむことを教えない“文学教育”というようなものが、はたして文学教育といえるでありましょうか。

   文学教育プロパア

 “楽しむ”ということばが気になるなら、“感動する”ということばにおき換えたっていっこう差しつかえありませんが、ともかく、楽しみのなかに問題をさぐる(あるいは問題をさぐることに楽しみを覚える)という、文学享受のよろこびを、文学教育は教えるものでなくてはなりません。その意味では、文学教育は、やはり究極において“文学への教育”をめざすものでなくてはならない、ということになるでありましょうか。
 文学的思考へとみちびかれなような、また、文学的思考によってみちびかれないような、いかなる指導も、それを文学教育と呼ぶわけにはいかない、と前に書きましたが(前掲拙稿)、わたくしはこのことばをもう一度ここにくりかえそうと思います。文学教育のめざすところは、文学的思考において生活できるような人間をつくりあげることであるはずです。別のことばでいえば、文学的思考において生活のなかに問題をさぐる能力を身につけさせる、ということです。そのことで、相手の生活の幅をひろげ、深めていくのです。そういうハッキリとした目的意識をもった、体系的・段階的な指導だけが、だから“文学教育”とそう呼ばれてよいものなのではないでしょうか。
 ですから、また、文学教育は、現実には“文学による教育”のかたちをとる場合もむろんあるわけですが、それもしかし、文学的思考によってみちびかれた指導でなければならぬのは当然のことでしょう。ところが、現によく見受けるのは、単に科学的な思考によってみちびかれた、またたんに科学的思考への橋渡しをめざした“文学による教育”なのです。
 それは、たとえば、前に掲げた伊藤永之介の『鴉』なり、あるいはまた長塚節の『土』なりを、農村問題を考える資料として読む、読ませるという指導です。さらにまた、たとえば、迷信やフレーム・アップやデマの問題を考えてみようというので、『雨ごいの村』(国分一太郎)を読み『空気がなくなる日』(岩倉政治)を読む、という方式の指導です。ハッキリいうが、これは文学教育ではありません。文学教育としての“文学による教育”ではないのです。そのとき、指導者の胸には、あらかじめテーマと結論が用意されているのです。文学的思考によってもたらされたテーマや結論ではない、単に科学的思考によってみちびかれたテーマと結論が――。それは予定されたテーマを説明し、あるいは予定した結論の正しさの裏づけとして作品のストオリーを使う、というだけの操作でしかありません。
 またまた前々号に書きつけたことのむし返しになって恐縮でしたが、文学的思考において問題をさぐるという以外の指導操作は、プロパアな意味での文学教育のそれではない、ということを、わたくしとしてはハッキリさせておきたかったのです。そのことをハッキリさせた上でなら、科学的思考によるこの“文学教育”もあながちに否定されるべきではない、というふうにいってもよいと思うのです。ばかりか、プロパアな意味における文学教育の場においてすら、一見右のそれと同様の指導がおこなわれる場合(部面)のあることは、これまた前の稿において述べたとおりであります。

   生活の知恵

 むろん、そうした誤解はあるまいと思いますが、それが文学的思考によって導びかれなくてはならない、というのは、文学教育が科学的思考によってささえられる必要がない、ということではありません。また、文学的思考へと導びくというのも、それが科学的な思考や判断と矛盾するような、どこか別のところに相手をつれだすということではないはずです。文学教育のささえは、むしろ、科学的精神であり科学的なものの考え方です。こんにちの文学教育がいだく問題意識や目的意識というのも、それはわたくしたち日本の国民がおかれている現在の歴史的・政治的シチュエーションに対する、科学的・合理的な判断のもたらすところです。科学的な認識活動を伴わない文学教育というようなものは考えられません。
 そのことは、文学教育の具体面の個々の指導についてもいえることなのです。この点について、わたくしは、前に、次のように語ったことがありました。
 ――「たとえば芥川竜之介の“河童”ですが、あの作品が河童の世界そのものをえがいたものでないことは、いうまでもありません。河童は人間です。それも治安維持法下の暗い谷間の人間です。そうい人間の姿を、芥川は“暗い谷間”を生きる良心的な知識人の立場からえがいているのですから、それは一九三〇年代のインテリ自画像である、といってもいいかも知れません。が、河童は河童であって、人間とはすこしちがうところもあるようです。河童のほうがましなのです。谷間の人間よりは、なのです。国民の自由を最後のひとカケラまでも奪い取ろうとする悪法(治安維持法)のもとでは、人間は“陸(おか)へ上った河童”“神通力を失なった河童”以外のものではない、と芥川は語っているのではないか、etc ……と考えていくこと、それがつまり、感覚的な表現の抽象的な整理ということなのです。……この抽象的な整理を組織的・系統的にやるのが科学の仕事なのです。ですから、文学を正しく理解するためには、わたくしたちは、科学的(学問的)なものの考え方を身につけていなくてはなりません。文学と科学とのつながり、したがってまた、文学的な読書と科学的な読書とのつながりは、まずこうした点にあるわけです。」(拙編著『十代の読書』一五七〜八ページ)

 ところで、文学的思考において生活できる人間をつくるのが文学教育の目的だ、とさっきいいましたが、そのことを“科学的思考”という側面を軸にしていいなおせば、科学的思考力を身についたものにするためにも文学的思考力を育くむ必要がある、ということになるでありましょう。科学的思考によってささえられない文学享受が、文学感覚そのもとしてすでに現代ばなれしたものであるように、文学的思考を伴わない科学的思考は、所詮生活の知恵とはなりえない、非実践的な単なる観念的思考にすぎません。
 単なる特殊を典型に変え、深い感動とともに具体的形象において現実を見、かつ考えるという文学固有の準体験的認識。そうした文学的な認識方法、思考方法に媒介されて、科学の認識は観念から思想への、実践の原動力としての思想への深まりをいち早く示すことになるのです。それは、A君のことばをかりれば、たんに観念として問題のありかを意識し、それの「解決の方向をさぐりあてる」というにとどまらず、「感激といきどおりのごっちゃになった気持で、しっかりやらなくちゃいけないな」と、心の奥深いところで実感することなのです。文学教育のめざすところも、けっきょくはそうした生活の実感(ひいては思想)に生きる実践的な人間に、相手を変革し形成することにあるのではないでしょうか。

   民族愛の教育

 が、わたくしは、文学教育に対して特別むずかしい註文をだしているつもりはないのです。かりに註文ということばを使うなら、わたくしの註文しているようなことは、すでに諸方の現場で日常実践されていることにちがいありません。たとえば、これも『広場』の十一月号に掲載されていた、宮城県岩出山小学校の千葉一雄氏指導の五年生の作文をよんでいて、そこにわたくしは、わたくしの要求を上まわった文学教育の成果(実績)を見つけることができました。
 ――「二月五日に“原ばくの子”という映画を見せられた。二十年八月、原子ばくだんが広島におとされた。たった一つのばくだんで、ざっと二十五万人死んだということです。……今は水素ばくだんという、もっとおそろしいばくだんがつくられたそうだ。もし水素ばくだんが仙台におちたとしたら、岩出山はかるくやけてしまうということだ。……映画では、もと先生の家で働いていた岩吉じいさんが、原子ばくだんでひどいやけどをし、目も見えないほどで、ほいと(乞食)をしていた。しまいには、酒をのんで火事をおこし、やけどにやけどをかさねて死んでしまった。まごの太郎は、先生といっしょに船にのって、先生の家へ行った。その上を外国の飛行機がとんでいていやだった。この映画は、おそろしかった。ほんとうの戦争は、もっともっとおっかないと思う。だから、これからは、ぜったいに戦争をしてはいけないと思う。もし戦争をして、水素ばくだんがおとされたら、人の生きるところはなくなってしまうだろう。」 
 たとえば、こんな調子の作文が何篇か掲げられているのです。掲載誌の編集者から感想を求められるまま、わたくしは次のようなことを書きつけました。
 ――「十一月号の小中学生諸君の作文をよみました。打たれました。すばらしい企画だったと思います。……広島の惨禍の原因と犯人を原爆そのものに求めて、それを使用した相手を告訴することはしない、という傾向が一般にありましたね。そういう傾向が“あった”のではなくて“ある”のです。……原爆への怒りが、単に原爆そのものや“科学の進歩”への怒りにスリ替わってしまっている。こわいことです。ビキニの灰で、どうやらハッキリしかけてきてはいるものの、まだそれが広島長崎の場合とは結びつかないし、……という折りから、あの作文はよかった。原爆への抗議が原爆使用者への抗議に、戦争への怒りが戦争屋への怒りにハッキリと結びついています。“原爆の子”を見た伊藤君〈上掲文の筆者〉が、そのラスト・シーンの印象を“太郎が先生といっしょに船にのって、先生に家へ行った。その上を外国の飛行機がとんでいていやだった。この映画は、おそろしかった。”と書いていますがそうした感覚の仕方と、感覚のそうした仕方による表現に、僕はすっかりうたれました。千葉君の教室は、正しい民族愛と人間愛の教育――文学教育のおこなわれている教育の場であることを知って、頭のさがる思いです」
(前掲誌・十二月号より転載)

<あとがき>急に秋田へ講演旅行に出かけなくてはならなくなったため、まとまりのつかぬままぺんをおかなくてはなりません。読者ならびに編集者の方々に深くお詫び申しあげます。―― 一九五五・一・七早朝、乗車を前にして――
(法政大学教授)

熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より