文学と教育 ミニ事典
  
典 型
 ○ 人間、吃らなくちゃ、だめだ――である。長谷川四郎ふうに言うと(…)、「言葉をさがしさがし、のろのろ書く」ことである。そうやって、のろのろ書く時に、「描かれるべきものが、別のことを命令している」ことに気づくのである。ということは、自分の内側に住みついていて、いつもでっかい顔をしてのさばり出すスラスラ、ベラベラ人種が引っ込んで、別の吃りの〈内なる鑑賞者〉がポツリポツリ「描かれるべきもの」について語りはじめるようになる、ということである。こうして、最初に「考えたのとは違った画面」が自己の実際の作品の「画面」になっていくのである。
 典型(Vorbild)とそうわたしたちが呼んでいる、形象(Bild)にまで顕在化された現実のイメージは、まさにそのような〈内なる鑑賞者〉の掘り起こしによるところの、またそのような鑑賞者のリアリティーを踏まえた現実の実像としてのイメージのことにほかならないだろう。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.120-121〕


 ○典型――それこそ、最も鮮明で具体的なイメージ、形象である。S.K.ランガーが“ダイナミック・イメージ”と呼んだもの(…)の実質的な内容も、ここに言うこの典型のことであろう。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.131-132〕


 ○ 実践の対象としての事物の現在像が、ドン・キホーテの風車ではなく、現実的な意味を持った実像としてありうるためには、その現在像が未来像をまっとうに、ショッキングに反映していなければならない。
 部分(個・特殊)を微視的に見つめることが、同時に巨視的に全体(普遍)をとらえる操作につながる、という、虚構による典型(典型像)造型の営みも、主体的な認識としてのそのような未来(未来像)のさき取りということを前提としている。あえて算数的次元での比喩を用いて説明すれば、地上にあっては視界にはいってこない同一平面上のさまざまな風景も、“未来”という名の高層ビルの屋上からは巨視的に視野の中に含まれると同時に、自分の立っている(立っていた)地点との関係も明らかになる、という関係とそれは似ている。もっとも、比喩のとりかたは別のほうがいいかもしれない。自分が立っていた地上のその地点の位置はかえずにヘリコプターで垂直に上昇して地上を見渡す、という風なことにしたほうがいいかもしれない。ともかく、典型が普遍に通じる個のイメージであるというのは、比喩的に言えばそういうことなのである。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.139〕


 ○ 文学、とりわけ小説は、単なる特殊に対象を見つけるのではなくて、実人生にかかわる、(…)普遍的な問題を対象化してとらえようとするのですね。言語形象による普遍的な問題のイメジャリな対象化・客観化だ、と言ったらいいでしょうか。
 私、くどいくらいに言っておきたいと思うことは、小説>は、日常茶飯事のごくありふれたことに課題を見つけるんだ、ということですね。その、ありふれたことというのが普遍的なことなのですからね。「事実は小説より奇なり。」というバイロンの言葉は、あるいは旧い一時期のロマンについては当て嵌まるかもしれないけれど、、私たちが現在必要としているような小説は、決して を追うものではないわけです。少しく図式的な言いかたをしますと、文学・小説は、最も普遍的な性質を具えた個を、その普遍の中に探り求めて、描写という表現手段によって形象的造型を行なおうとする営みだ、ということにもなりましょうか。
文学的発想 というのは、第一義的には、この最も普遍的な性質を具えた個が何でありどれなのかを、形象の眼で見きわめる、という発想のことです。こうした最も普遍的な性質を内包している個のことを
典型 と、そう呼ぶわけなのですが、(…)井伏が見つけた典型しぐれ谷の朽助であって、他のもろもろの“朽助”ではなかったわけです。
 つまり、この 朽助や、朽助のいる谷間に……そういう場面と、そういう人間像に
典型を見つけたという点に、井伏文学固有の発想があるわけなのです。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.64-65〕



〔関連項目〕
文学的発想

ダイナミック・イメージ

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