文学と教育 ミニ事典
  
芸術家(作家)の任務
 ○ 作家・芸術家の任務は、体験に与えられた知覚的現実を“ありのまま”に描くことなどではない。書くことで可変性と可能性における現実の姿を探る営為である。何のためにと言えば、その人間主体にとって可能にして必要な、実践の方向を具象的なイメージにおいて見きわめるために――である。今、そのことを別の言葉で言えば、芸術家という種類の人間は、不可能を可能にする夢をもった人間だ、ということになろう。あるいは、そういう夢をもたない人間は、芸術職人ではあっても芸術家ではない、ということだろう。
 怠惰な精神にとっては、しきたり に従い、きまり に従って生きることだけが、せいぜい可能なことのすべてである。その他のことは、いっさい不可能に属している。体験的事実が可能であったことのすべてであり、可能であることの規準である。可能・不可能をはかる物差しである。
 そのような精神的怠惰は、芸術家には許されない。ほかの何に対してブショウであってもいい。だが、この精神生活面でのブショウだけは許されない。芸術家は自分のいっさいを、そのアビリティーとプロバビリティーに賭けるのである。
 別の言葉で言えば、それは、既成の秩序の前にひざまづくことは芸術のエスプリに反する、ということである。そういう古い秩序の前に膝を屈して何が芸術家だ、ということである。さらに言えば、古い秩序の前にひたすら叩頭
(こうとう)・屈服するところからは、わたしたちの時代は始まらない、ということなのである。芸術だけの問題ではない。と同時に、これはすぐれて現代の芸術の問題である。
 わたしは、“現代の芸術”と“現代芸術”とを区別して考える。“現代の芸術”というのは、今日の時代が生産している芸術全般のことをさしていう概念である。そういう“現代の芸術”の中に、いったいどれだけ、またどの程度に真実現代芸術の名に価するような、新しくアクチュアルな芸術と芸術精神が息づいているか、ということなのである。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.102-103〕


 ○ 芸術の課題は、したがってまた
芸術家の課題と任務は、現代に対する現実的で具象的なイメージを用意することである。いわば、現代の実像としてのイメージを、そのそれぞれのメディア(媒材)の加工によって顕在化することである。あるいは、メディアの加工によって実像としてのイメージを造型することである。文学について言えば、言葉メディアの加工によってである。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.109-110〕


 ○
作家の任務と役割は、鑑賞者として自分が選び取った対象のアクリュアリティーとリアリティーに立って行動することである。作家のその行動が具体的には、作家が自分自身の内側に鑑賞者――内なる鑑賞者――を掘り起こし、その〈内なる鑑賞者〉相互の対話を媒介しつつ、その話題の展開、そこでの主題的発想の高まり、発展等々に具体的なイメージを与えていく作業になるのである。(…)
 典型(Vorbild)とそうわたしたちが呼んでいる、形象(Bild)にまで顕在化された現実のイメージは、まさにそのような〈内なる鑑賞者〉の掘り起こしによるところの、またそのような鑑賞者のリアリティーを踏まえた現実の実像としてのイメージのことにほかならないだろう。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.118-121〕


 ○ 芸術の課題と
芸術家の任務をわたしは、(…)実践――実践的行為を促し支えるようなイメージづくり、すなわち形象へ向けてのイメージの造型ということに限定して考えるのである。さらに言えば、典型(Vorbild――虚構において未知が探られ、その未来がさき取りされた“現実”のビルト=形象)の名に価するようなイメージづくりということにその課題、その任務を限定して考える、ということなのである。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.131〕


 ○ “ダイナミック・イメージ”――美しい言葉の響きである。芸術現象、芸術体験を説明する概念(=思考形式)を託す言葉として、ほかにこれ以上適切な言葉をわたしは知らない。概念内包を組み替えてこの言葉の使用を――と考える理由である。
(…)
 で、(そういう概念のつかみ直しの上に立ってのこの言葉の使用ということになるが)
ダイナミック・イメージの造型ということ以外のことを芸術家が考えるのは、まったくよけいなことだと思う。典型へのリサーチとアプローチにおけるイメージ(ダイナミック・イメージ)の造型。――そのことが芸術家としての唯一の実践、芸術的実践だからである。
 芸術家もむろん、市民・労働者のひとりとして、他の多くの市民・労働者同様、そのように社会的・政治的に行動するのは当然である。そのことは、いわば、言うまでもない前提――大前提である。そのような市民・労働者としての共通の行動に積極的に参加することが、その芸術家のイマジネーション(想像的意識作用・想像的意識機能)とイメージのありようをアクチュアルなものにすることは確かである。むしろ、そのような働く国民大衆としての日常活動・生活実践に欠けるところがあっては、やがてそのイマジネーーションは枯渇し、体験的現実から可能的現実へと大きく飛躍する飛翔
(ひしょう)力を失い、そのイメージは、いじいじとみずぼらしく固定化してしまうだろう。現代が要求する、不可能を可能にする典型の創造など期待すべくもないだろう。
 というようなことは、重ねて言うが“言うまでもない前提”である。わたしが言うのは、そのことではなくて、いわば
芸術家としての、その職能、その分担任務は典型としてのイメージの創造・造型ということに限定される、ということなのだ。その一点をつかみそこなった思考へ滑ったとき、その芸術家の作品は素材主義的な、ただのプロパガンダの傾向的なものに堕してしまうのである。(…)
 そうした素材主義への傾斜・逸脱と同時に、傾向的でかつあまり才能豊かとは言えないような作家たちが、ひところ、政治活動・労働運動の活動家たちに対していだいたようなコンプレックスひ陥っていくのは見えている。「運動にとって所詮第二義的な意味しか持たない芸術の仕事に携わっていることのあるうしろめたさとインフェリオリティー・コンプレックス」である。(…)
 ひところ、そういうことがあったと言ったが、実は今でもそういう考えかたが行なわれている。「所詮は文学だ、芸術だ」云々。うまくないな、と思う。常識のしょぼくれた目からは不可能としか見えないようなことを可能にする、という、そういう実践にとって必要なものは、具体的な青写真にまで自他の印象を追跡した現実のイメージである。また、そういう実践にとって必要なのことは、現実の未来像の青写真としてのイメージの造型、イメージづくりということである。芸術家自身、なぜ、そういうイメージづくりの作業の積極的な意義を自己否定したり過小評価したりするのであろうか。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.134-137〕
   

〔関連項目〕
現代芸術
芸術の課題
典型
形象
現実
実践

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