文学と教育 ミニ事典
  
実 践
 実践とは、何らかの事態・状況の変革をめざす意識的、計画的な、またその意味で合目的的な行為のことを言うのであろうが、人びとを実際にそういう行為にかりたてる動機づけは、単に、「われ、かくかくの行為をなすべきであるゆえに」といった観念にだけよるものではないだろう。べきだ、べきでない、あるいは、ねばならない、といった観念だけでは人は動かないし動けないのだ。それは、あるいは、動きようがないから動かない――行動に踏みきれない、と言ったらいいだろうか。特に、持続性を必要とし、持続的であることを要求されるな実践的行為において、そのことが言われるのである。
 そこで実践を触発する現実のモティーフは何かということだが、べきである、ねばならない、という観念は確かに必要である。が、その観念は、実践の過程と結果に関するある程度明確なイメージを、その裏打ちとして用意しえたものでなければならない。いわば、イメージぐるみのそうした観念がそこに必要とされるのである。言い換えれば、それは、自己の実践のありようとその対象となるものとのダイナミックスを照らし出してくれるような、顕在化されたイメージにほかならない。少なくとも、そのような顕在化されたイメージ、形象(Bild)にまで造型された客観化されたイメージによる自我の実感構造への揺さぶり――あるいは、その結果としての実感構造の変革――ということが、持続性の一貫性が要求される実践的行為にとっては行為の前提にならざるをえないだろう。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.130-131〕


 ○ 早い話が、今、あなたの目の前を、生後九カ月か十か月の乳幼児が“這
(は)い這い”しているとしよう。その赤ん坊の三メーター先、四メーター先にはストーブが赤々と燃えている。あなたは、どうするか? むろん、子どもの行動にストップをかけるだろう。とっさに、その子を抱きかかえるか、また、もしあなたの気持と時間に余裕があれば、子どもの注意と関心を他にそらすかして、である。
 あなたがそこに選んだその行為は“実践”である。状況を変革して不幸な事態を未然に防止した、という点ですぐれて人間的な実践である。
 そのような実践がいかにして可能になったか? ヤケドして泣き喚
(わめ)いている、五秒先、七秒先のその子の未来像がイメージとしてあなたの心をつかんだからである。しかも、それは、ショッキングなイメージとして具体的にあなたの心をつかんだからである。実践の対象としての事物の現在像が、ドン・キホーテの風車ではなく、現実的な意味を持った実像としてありうるためには、その現在像が未来像をまっとうに、ショッキングに反映していなければならない。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.138-139〕



〔関連項目〕準備中



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