文教研・文学教育研究基本用語解説 Y 熊谷 孝 1971年8月発行「文学と教育」第70号に掲載 |
(原文のゴシック体の部分を太字に、傍点の部分を斜体に、それぞれ変えた。) |
1 文体 | 2 語り口=文体的発想 | 3 言表 |
4 表示 | 5 表現 | 6 記述 |
7 観念・概念 | 8 観念とイメージ | 9 発想 |
10 認識過程 | 11 認識活動の二側面 | 12 想像 |
13 感情 | 14 イメージ | 15 形象 |
16 典型 | 17 虚構 | 18 虚構と主題 |
19 言葉の継時性 | 20 言表における部分と全体 | 21 言表の場面規定 |
※ 読みの三層構造 (熊谷孝著『文体づくりの国語教育』より。「20 言表における部分と全体」の補足。) |
語り口=文体的発想 文学作品の面白さは文体にある。 ということは、語り口として文体に定着した一定の発想=文体的発想の面白さがその作品の面白さだ、ということだろう。読者各人の、作家・作品に対する好悪も、主としてその語り口に関係している。 言表 言葉メディアによる意識の外化、また外化・顕在化された意識内容。具体的には、@表示、A表現、B記述、という形で外化が行なわれる。 表示 (マニフェステーション) 意識の外化作用に関して、J.デューウィが与えた概念の一つ。「表示の内容は感情だ」とデューウィは言っているが、それは、個人感情の無媒介でストレートな外化である。たとえば、それは、自己の喜びや悲しみ、怒りの感情を衝動的・瞬間的に発散させるというような形で行なわれる外化作用のことである。 表現 (エクスプレッション) 「表現においては感情はもはや内容ではない。」 「表示とは異なり、表現においては事物や現象との持続的な対決がある。」とデューウィは指摘しているが、表示が自己目的々な行為であるのに対して、表現は、いわば問題解決のための持続的な手段行為である。 記述 (ディスクリプション) 何らか事物の概念的一般化をめざして行なわれる、コミュニケーション・メディアの概念的操作によるところの、意識の外化作用・外化行為。(表現がメディアの形象的操作による外化行為であるのと対蹠的である。注記すれば、イメージによる現実の形象的把握を究極の目的としたメディア操作が、形象的操作ということである。)表現において外化されるものが、直覚的な性質の事物の像(イメージ)であるのに対して、記述が示すものは、事物についての思考であり、事物の説明である。 観念・概念 ごくゆるい規定を与えれば観念(アイディア)というのは、「一定の事物に対する、思考によるところの直覚的な意識内容」であると言えよう。また概念(コンセプト、ベグリフ)というのは、「一定の事物認知・把握の目的に適合するようにつかみ直され、組織された観念」のことだ、ということになろう。観念や概念は記述の形で言表され、認識主体の思考の形式となる。(観念と概念とはそれを記述する言葉としては同一である場合が少なくないが、概念も観念の一種だという点で当然のことだろう。例/「文学の観念」「文学の概念」) 観念とイメージ 第二信号系の理論の切り口で整理すれば、一定の観念が観念として成り立つのは、その観念を支えるイメージ(像)が、言葉系(第二信号系の反射)と行動の系(第一信号系の反射)とを媒介し結合し得た時だ、ということになる。つまり、明確なイメージを欠いては観念は、事物を離れて言葉が独り歩きする格好のひからびた観念として実践的機能を喪失したものになってしまう、ということだ。また、明確な観念の裏打ちを欠いたイメージは、虚像としてのイメージへの、あるいはイメージの虚像化への危険に常にさらされることになるのである。 発想 「認識過程における現実把握の発想」の略称・約言。アイディアの訳語であるが観念一般を意味せず、「行動の系に直結するところの、鮮明なイメージに支えられた観念」、またそのような意味での「生産的・実践的な観念」のことをさす。 認識過程 過程的構造(運動の過程)としてつかまれた、人間の認識のはたらき。感情体験や意志過程などと共に、ひとまとまりの動的な意識過程(心的過程)を形づくる。すなわち、人間の事物反映過程の一つのアスペクトである。感覚をベースに、知覚・記憶・想像・思考などの認知・認識作用が、相補的・相関的に協働する、意識過程の一つのアスペクト。 認識活動の二側面 @思考活動を主軸とした概念的認識(――概念による概念への認識)の極にお科学的認識が位置づき、A想像(イマジネーション)のはたらきを主軸とした形象的認識(――自己のイメージに関して絶えざる印象の追跡による、形象造型へ向けての認識活動)の極に芸術的認識が位置づく。(「想像」の項参照) 想像 (イマジネーション) 人間の認識過程の重要なアスペクト。@知覚や記憶のはたらきに支えられながら、A思考のはたらきと相補・共働しつつ、B未知に属するという意味で不在なものを具象的なイメージとして喚起する認識作用。 感情 認識に対する関係という切り口からすれば、感情とは認知・認識の態度の体験、すなわち認知の構えのことにほかならない。言い換えれば、自己の事物認知と行動に対する自分自身の関係の体験である。それは、直接間接に自分に働きかけてくる外界の事物や現象を、生活し実践する自己の立場で認知するところから生じる喜びや悲しみ、あるいは憎しみや憤り、また怖れといった自分自身の構えや態度、関係の体験のことである。 イメージ (像) 一般の用例では、@記憶による過去の体験の像としての再生という形のものや、A記憶に加えて想像のはたらきによって、知覚的にはつかめない、事物の見えない他の側面や、それに関連する現象をそこに同時に像として見る、という形のものや、また、B既往現在の体験には与えられていない、未知・未来に属する事物・現象を、想像のはたらきによって具象的な像として予知・予測する、という形のものなど、さまざまな性質のものを含む。が、@やAのイメージの喚起も、Bの未知・未来のさきどりということに関係してくるような場合においてだけ、生産的・実践的な意味を持ってくる。 形象 (ビルト) 表現により顕在化され認識の対象として造型されたイメージ、イメジャリな世界。 典型 (フォアビルト) ビルト(形象)の最も高次の存在形態がフォアビルト(典型)である。虚構においてその未知が探られ、その未来がさきどりされた、実践の対象としての現実のビルト。 虚構 (フィクション) 形象の造型、とりわけ典型造型のはたらき。その方法的基本過程。 虚構と主題 文学の場合、虚構は書くこと、読むことにおいて実現するわけだが、書くということで言えば、それは言葉を通すことで主題を自分にハッキリさせていく行為だ、ということもできるだろう。「初めから主題がつかめているのなら、何もわざわざ詩を書く必要はない」(渡辺武信)のである。文学にとって主題とは、生活し実践するその 主体にとって、自己の行動選択に関して主題であるもの、ということ以外ではないからである。 言葉の継時性 「同時に二つのことは口にできないし、同時に最初のページと終わりのページの目を通すことはできない」ということが、言表と読みの基本的な特徴である。言葉の非同時性・継時性ということである。 言表における部分と全体 (承前)ものを書く場合に、書こうとすることについて先の予測が立たないと(つまり何らか全体像がイメージにならないと)ペンが進まなくなる、というようなことは誰しもの経験にあることだろう。それは、ほかでもない、言表に関して部分というのは、その部分においてイメージされ、観念に反映される言表の全体像のことだからである。 言表の場面規定 言表のありようを規定する、言表場面の諸条件の意。したがってそれは、言表理解にとっての必須の条件となる。 |
※読みの三層構造 (上掲「言表における部分と全体」の補足) |
〈出典〉 熊谷 孝著『文体づくりの国語教育』(1970年 三省堂刊) 第二部 解釈学的国語教育批判のために T 生の解釈学と母国語の教育(一) 3 読みの三層構造ということ――戦前の国語教育思潮と解釈学(二) 国語教育に固有のその特異さ――むしろ、異常さ――は、読みの三層構造ということをとり違えて、例の通読・精読・味読の三次読み・三層読みと称するものを、読みのこの構造的性質と見合う唯一絶対の読解の方法として定式化することで、解釈学的国語教育ないし形象理論という名の史上最低の生の解釈学 をそこにつくりあげた、という点に求められるだろう。
読みの三層構造というのは、実は、読みの過程的構造の三層性ということ以外ではないはずだ。それは、その 文章の全文を終わりまでまず通して読み、読み終えたところでまた文章の初めにかえって、次はかくかくの仕方で、さらにそのまた後では、かくかくしかじかの読みかたで、というふうにポイントを切り替えて三層に読み分ける、というようなこととは全然ディメンジョンを異にする別種の話だ。ここはその場所ではないから、詳述は避ける。が、本来的な意味での三層構造――読みの過程的構造の三層性――というのは、あらまし次のようなことだろう。 およそ文章の理解というものは、(戸坂潤の用語、つまりその発想、考え方を援用して言えば)受け手自身による自己の印象の追跡 という形で成立し展開していくものなわけだろう。(第一部・V・ロマン派的発想 (二)参照)つまり、読みは主体的なものである、ということだ。また、その 文章、その ことばは伝え(=伝え合い)の媒材・媒体以外のものではないのであって、文章をそれとして読むということ自体に、その 文章を読むことの目的があるわけではない、ということなのだ。そうではないのか? 目的は、世間並みの言いかたをすれば、内容をつかむことである。そこに示された事物や現象やそのつかみかた、感じかたなどと、自己のそれとを対比させ対決させる形での伝え合い(対話)の進行の中に読みが続けられていくのである。それは、次に述べるような、@前、A中、B先、という三層の読みの過程を何回となく――何回となく である――重層的にかつ上層循環的にくり返しながら、その文章が媒介する刺激とそれに対する自分のパースナルな反応・反射・反映のしかたが、印象の追跡という形で変化を遂げていく、ということにほかならない。それが、読みの三層構造ということなのである。 上記、@前、A中、B先、というのは、こういうことである。@読みによるその文章の内容の理解 ――この、文章の内容の理解ということが、いわゆる意味での文章の理解 ということの実際の中身だ――は、その文章表現(あるいは記述)が媒介しているある事物、ある現象に関して、それと同一の事象に対する、受け手自身の反応様式の想起、という形でまず端緒的に成り立つのである*。自己流の言いかたをすれば、先行体験の端緒的形成という形で成り立つ、ということである。(「先行体験」云々については、拙著『言語観・文学観と国語教育』一四〇〜七ページ参照)
言い換えれば、受け手のこれまでの体験――と一応そう言っておこう――が、受け手自身の新しい体験(=準体験)を成り立たせる媒体として機能してくる形になって、初めてその 文章の理解が成り立つというか、文章理解への端緒が用意される、ということなのである。そういう限りにおいて、読みが読みとして成り立つ――つまり、文章が媒介するある内容が受け内容 として成り立つ――第一次の層は、自己の反応様式の想起 という、その文章に接する以前 の受け手の体験との関係・関連の中に求められるわけなのである。第一次の層を前と記した理由である。
で、そのようにして、そこに想起された自己の反応様式をささえとしながら――あるいは、それにささえられながら――、受け手は、Aその文章に示されている他者の別個の反応様式との対比・対決の体験を、そこのところで準体験するのである。むろん、自分にとっての未知の事象や、その事象に対する他者の体験や反応のしかたなどを、その文章の記述や表現に媒介されながらその片側で準体験しつつ、ということにほかならない。 つまり、そこのところで、立ちどまって考え込んだり、迷ったり、ある驚きや感動を覚えたりしながら、Bその文章の先の部分に書かれてあることへの予測を立てながら期待をいだいて読む、読み続ける、というのが読みというものの過程的構造なのである。 ところで、そこに立てられた予測なり期待が、いつも過不足なく満たされるとは限らない。(これは予測がはずれるほうの例だが、西鶴の町人物などでいうと、最初にすごくエクセントリックで喜劇的な人物が登場する。いつしか読者のほうでは、この人物を主人公に仕立てて、そのつもりになって読み進めていく。すると、あとからもっとスケールの大きい大物が姿を現わすのである。最初の彼は、つまり脇役にすぎない、というわけだ。) で、むしろ、この予測なり期待がそれをはるかに上回った形で――次元を異にした形で――満たされたり、反対に裏切られ失望させられる結果に終わる、というのが普通だろう。そういうことで、また、上記Aの準体験の内容が上昇循環的に、重層的にジグザグの変化を遂げていくのである。 然り而うして、その 文章を終わりまで読み終えたところで、読みが完結するのではない。文字をたどり行を追って読む、という意味での読みは一応そこで終わるが、読みの目的であるその内容の理解、事物との対決、異なる反応様式――異なる現実把握の発想法――との対決の営み等々は、本格的には、むしろ、その文章を「読み終えた」ところでから始まるのが普通である。もとへ戻って読みなおす、要所要所を読み返す、新たな自己の問題意識に従って拾い読みする、というようなことは、むしろ普通のことだろう。あらい整理だが、ともかく、これが読みの過程的構造の三層読みということなのだ。 |
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