文教研・文学教育研究基本用語解説 X         1969年2月25日発行「文学と教育」第56号に掲載
(原文の傍点部分は斜体に変えた。)
        

形象(その一)


 形象(figure〈英〉、image〈仏〉、Bild〈独〉)――想像的意識における客観世界の反映像。つまり、感情ぐるみの事物認知によって形成される客観世界の主観的な反映像のことである。
 形象は日常過程において成立し、芸術過程においては、世界をよりするどく、より豊かに反映する。その意味では、芸術形象は日常過程における形象を基盤としながらそれをさらに発展させたものであり、上昇循環のかたちにおいて、ふたたび日常過程にかえっていく。この両者の連続と非連続の関係については、紙幅の関係上、「形象」(その二)でふれたい。ここでは、さしあたり、芸術形象の一種としての文学形象にしぼって考察する。
 第一に、(文学)形象は、(科学)の概念と同じように、客観世界のするどく豊かな“反映像”にほかならない。全国教研国語分科会で、沖縄を教えるのに、虚構は必要でない、真実さえ教えればいいのだ、という発言があった。「虚構」概念への誤解を解く仕事は他日を期そう。ただ、この発言の趣旨に即して言えば、形象の真実性は客観世界をするどく豊かに反映しているかどうかで保障される。反映である以上、それは主観的なものである。が、その主観が客観性をもつかどうかは、主観のにない手である主体(歴史的主体)が、どういう立場にたって世界を反映するかによって規定される。こんにち、形象の真実性を保障する立場は、民主的民族的な連帯を強め実現する立場をおいてないだろう。この立場への自覚が、形象の主観性(=反映像としての性質)への原理的反省と結びつくことは、文学教育の実践を押しすすめる上にきわめて必要なことである。
 第二に、(文学)形象は、「想像的意識における客観世界の反映像である、ということだ。(この場合、“想像的意識”とは、想像作用の軸からとらえた統一的な意識全体をさす。意識を、想像的部分、知覚的部分、概念的部分の合計として考えているのではない。)
 ところで、想像的意識における反映活動とは何か? 一口で言うなら、融通性における言葉操作――共軛する体験において感情ぐるみの事物認知を成りたたせる言葉操作(熊谷孝『言語観・文学観と国語教育』P105参照)をささえとしておこなわれる反映活動のことである。つまり、文学形象は芸術形象の一種であると同時に、言語形象としての独自性をもっている。文教研が、「国語教育としての文学教育」を提唱する原理的根拠がここにある。
 第三に、言語形象としての文学形象は、概念的反映像とはちがった性質をもっている。概念は、感情を捨象し、世界を一般化していくところに生まれる反映像である。が、形象は、事物をまるごとに、感情ぐるみにとらえようとする。太宰治に『畜犬談』という作品がある。――「太宰の描いた犬は犬そのものです。」「けれど、犬の性質やら生態やらのいろんな特徴がいくつかありますね。この作品は、しかし、そういう特徴を全部書いているわけではない。その特徴の中からいくつかを選んで、さらにその中のある特徴をうんと強調して書いているわけでしょう。読者は、いきおい、そういう特徴の側面においてイヌというものに眼を向けさせられるわけです。描かれていない特徴の他の側面、あるいは描かれてはいるんだが、別にそこを強調して書いているのではない、そういう側面――そうした、もろもろの側面は捨象 されているわけではないのでして、いわば背景に回って作品表現の全体感([原]後注――つまり、現実の、犬というものの全体感)をつくり出しながら、ベトーネンしている犬のある特徴を感情ぐるみに、まるごと に訴える、という効果になっているわけですね。」(前掲『言語観・文学観と国語教育』P167)
 つまり、文学形象は、ただある側面を捨象し、別の側面を抽象するという操作からは生まれてこない。強調されるべき部分は、他の諸側面を地づらとすることで、はじめて図がらとして浮かびあがる。図がらと地づらとの相互関連において、事物はまるごと に把握されるのである。したがって、そこでは、形象はたんなる外被として形成されるのではない。文学形象を、形式と内容の二分野に分離することは、文学独自の表現構造を無視した話である。
 以上のように、「形象」概念を規定すると、教材選択の基準などに使われる形象性がきわめてアイマイであることに気づく。
 全国教研国語分科会でも、よく思想性・形象性・教育性の統一された作品を教材にえらぼう、などという意見を聞く。が、思想性と形象性の統一といった場合、その「形象」には、客観世界の反映という観点が抜けているのではないか。反映活動の真実性は、思想性におあずけして、形象性は、真実の思想をどれだけ上手に言いあらわしているか、という表現技巧 に矮小化してはいないだろうか。形象を客観世界の反映像としておさえるなら、はじめから、思想性と形象性の統一といった、機械的な発想は生まれてこない。
 また、教育性という発想もナンセンス。すぐれた形象性は、人々の心にゆさぶりをかけ、新しい感情で自己をみつめなおすきっかけをつくりだす。芸術の機能の変革性を、教育性という言葉で薄めることは意味がない。
 「形象」概念のアイマイさは、指導過程論にはよりいっそう混乱した形であらわれる。文学形象は言語形象にほかならないこと、言語形象による伝えあいは言葉を媒介としてのみ行われること、といった論理的前提がないから、作品形象の読みは、100%固定しているはずの内容を、一つ一つ生徒主体の内部に引越する作業に転落する。白紙(痴)的実在論への転落!(A) 

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