文教研・文学教育研究基本用語解説 Ⅲ          
 「文体 その1」 1968年5月20日発行「文学と教育」第51号に掲載
 「文体 その2」 1968年8月 1日発行「文学と教育」第53号に掲載
 
(原文の傍点部分は斜体に変えた。)
文体 その1 文体 その2



文体 その1

 ここでは文体の概念規定と、文体教育についての必要性について書くことにする。
 「文体」という言葉は、語義的には「文章の風体」「文章のすがた」という意味だろう。イギリスの文体論で、Literary Style といっているのも、それだろう。リタラリー・スタイル、つまり「文章のスタイル」「文章のすがた」である。
 もっとも、ドイツ語やフランス語にはこのリタラリー・スタイルに該当する言葉は見あたらないようである。たんに Stil  といい、またたんに Style とだけいって、スタイル一般と特に区別していないようである。
 が、実は、ドイツ語なりフランス語のこうしたいい方のほうが語源に近い用法だ、ということになりそうである。語源は、ラテン語のスティルス(Stilus)であるが、それは、ろう 板に字を書くときに用いた鉄筆のことだ。スタイルとは、もともとペンのことだし、ペンによるところの文字、言葉のすがたのことであった。それが、やがて、しだいに他の文化事象や生活事象の様式を示す言葉に転用されるようになって、今日の「スタイル」という言葉が生まれたわけだが、その概念内包が拡大されることで逆に、文体概念そのものがある充実をみるようになった、というふうにいえるのかもしれない。というのはこういうことだ。文章のスタイルとしての文体のことをも含めて、一般にスタイルとは何かがそこに問われるようになることで、文体についての多角的な展望も可能になってきた、ということである。
 そういう意味で何人かの「スタイル」論を記してみることにする。
 ショーペンハウエルは「精神の顔つき」と定義した。「人間の精神的創造的活動を、その感覚的対象的形態において把握するところに成り立つ」という意味でなのだ。顔つき――表情ともいえる。表情はじつに可変的なものである。ビュフォン(Buffon)の「人間そのものだ」という定義も、可変的であるという面で人間をとらえたからであろう。シュライエルマッハーは、「対象的に顕現した個性的法則性」と、個性に眼を向ける。フォルケルトは、この個性を持続性の面で強調する。すなわち「個性的形成の多様性の中に存する統一的特徴・持続的な形式構造」と、スタイルは可変的であるが、毎回それが変ってしまったら、個性とはいえない。可変的ではあるが、その人らしさを感じさせるのは、ある持続性を必要とする。ルッカは、「独創的想像力の一定の材料への投影」といい、材料との関係に目を向けている。
 この材料を言語と考えたとき、文体論となるといえよう。波多野完治氏は、次のように文体を定義している。「ものをいいたい人、またはものを書きたい人が、一定の既存の言語体系(たとえば現代日本語)のなかから、ある選択をします。その選択(表現手段の)言主や書主の性質および意図によって規定されたものだという前提のもとに文章をながめると、それがスタイルということになります……」(『新文章入門』P.24)
 この定義はいわば算数的な定義であるといえる。が今日、まず算数的定義を明確にする事が必要である。この定義にしたがって文体を考えることが確認された上で、次の問題に進むことにする。
 『文学と教育』№46をお持ちの方は、「文体喪失時代の文学教育」という熊谷論文をご一読願いたい。その中で氏はこんなことをいっている。
 現代は文体喪失の時代である。画一化されステレオタイプ化したマス・コミ的文体の氾濫である。思考の発想そのものが、マス・コミに飼いならされている。つまり、借り物の発想でしかものを考えることをせず、ものを書くことをしないようなところに、文体があるはずはない。文体の画一化は、まさに独占資本による疎外をいいあらわす以外のものではない人間の画一化、規格品化、そしてそのことによる人間の主体性の剥奪・喪失と見合う現象のようである。
 が、相手にどうしても納得してもらいたい、相手を何とか説得したいと思ったとき、つまり、本気になって考えるときその人はふだんの借りものの思考をやめて、「自分の言葉」で思索する。相手の気持ちを考え、相手の感情をくぐり、その場にもっともふさわしいことばで相手に語りかけようとする。そこでの思考の発想は、彼自身の本来の言葉操作の文脈にしたがって、生産的で、いきいきとしている。実際的で実践的で具体的なのである。場面規定に支えられて、ことば操作がいきいきとされている。つまり、第二信号系としての生産機能が発揮されているとき、そこには文体 があるといってもよい。その人らしさを感じさせる語り口、文章になっているのだ。
 人間は自分の文体というものをもっていてこそ、主体的に個性的に、ものごとを考えることができるのだ。ところが、改訂指導要領の方向は、従来に輪をかけて文体をもたない(もてない)人間に子どもたちを仕上げようとする。読解スキル、読書スキル、作文スキルという、スキル一点ばりの言語技術という教育を通して。(くわしくは機関誌参照)
 国語教師の二十坪のなかでの闘いは、文体のある文章を、文体を感じさせる方法で、子どもたちに与えていくことである。教師その人がハッキリした文体意識と文体教育意識をもって、子どもたちの主体の内側にすぐれた文体の素地 をつちかうことである。
 今とりくんでいる「文体教育の方法としての総合よみ」や「教材体系」の仕事をすすめる中で、文体 はさまざまな切り口からつかみなおされると思う。その意味でこの稿をその1 とした。(T.N

頁トップへ

文体 その2

 「文体 その1」において、スタイルとは「精神の顔つき」であるというショーペンハウエルの定義を紹介した。この「精神の顔つき」は悲しみやあせり、喜びなどの内なるものと一定の函数関係にあるといえよう。内なるものがすぐ顔にあらわれる人か、「顔で笑って心で泣いて」式の人かなどの判断を経た上でのことだが、私たちは外にあらわれたものを手がかりにして、内なるものを知ることができる。
 作家の精神の顔つき=文体と函数関係にある内なるものは、「リズム感覚」である。私たちは文体を通路として、その人のリズム感覚を知ることができ、それを学ぶことができる。
 リズム感覚については、熊谷孝『芸術とことば』、波多野完治『創作心理学序説』にくわしい。

 「自分をふくめての自己と函数関係にある複数の人間の体験、……ナカマ体験を、自分自身にどうまるごと に媒介させるかという、その点のつかみ方が、天才の場合すぐれて個性的である。そういうことを実現するためには、作家の内部がすでに『管絃楽的』にしかも『つぎつぎに多種多様な音階を自分のものになし得る』ような、動的で個性的でなければならない。そこにみられる個性的なものは、リズム(リズム感覚)である。」(『芸術とことば』P.119)

 不可知論の横行している時代、天才の本質はリズムだといいきったハーディングの功績を認めてのことだが、彼女の「天才のリズム感覚は不変である」という説を越える必要がある。横光利一や西鶴の場合を考えても明らかであるし、もしリズム感覚が不変なものであるなら、私たちはそれを学べないことになる。
 今日の私たちが必要とするのは、個性的なリズム感覚なのだ。が、リズム感覚はスタイルという形でしかあらわれない。スタイルという外的なものを通して知ることができる。スタイルはまねることができる。スタイルをまねることで、自己のスタイルを変える。そうすること、つまり外側から刺激を与えることで、内なるものを触発することになるわけだ。自己の文体をもつということは、自己が変革されないかぎり不可能といえる。
 文体づくりの教育は、外側からの刺激で内なるものを変革して行くということで大きな意味をもつ。フンワカしたつかみ方で対象に接している人が、かわいた文体にふれたとき、ハッとする。現実の把握の別の発想があることに気づき、それまでのフンワカムードにひとつの反省が加えられる。かわいた文体で現実をつかもうとするには、発想そのものを変える必要がある。文体を文学の次元で言いかえると、「現実把握の発想のしかた、展開というきり口でつかまれた文章のあり方」(熊谷孝)ということになろう。(T.N

頁トップへ


HOME基本用語解説 目次文学と教育 ミニ事典文教研関係図書