文教研・文学教育研究基本用語解説 U          1968年3月20日発行「文学と教育」第50号に掲載
(原文の傍点部分は斜体に変えた。)
  

客観主義・主観主義

 ここでいう客観主義、主観主義という概念は、マルクス主義とか実存主義といった哲学上の一流派をさす場合とは、全然ちがった意味をもつ。認識活動のゆがみやあやまりを、批判的に言いあらわそうとしたことば である。したがって、客観主義、主観主義という概念を明らかにするためには、〈客観〉とは何か、〈主観〉とは何か、がまず問われなくてはならない。
 近代以降の科学の成果に即して言えば、〈客観〉とは、人間の意識とはかかわりなく存在する“もの”である。客観は、人間の精神(意識)がこの地球上に誕生する以前から存在したし、たとえ人間が死滅することがああっても無限に存在しつづける“もの”である。客観は、客観世界、あるいは〈客体〉とおきかえても、概念内容にちがいはない。
 ところで、〈主体〉と〈主観〉は概念内包はちがう。
 〈主観〉は、社会的歴史的存在としての人間主体による反映活動の所産である。〈主観〉概念を軸にしていえば、精神、意識、理性、あるいは知性や感情といった概念は、この主観の構造や機能に即して名付けられたものである。が、いずれにせよ、主観は主体による客観の反映像にほかならない。その反映像がどれだけ原物(客観的世界・客体)に一致していようがいまいが関係なく、それは反映像 であるという一点において(しかもきわめて重要な一点において)主観とよばれるのである。
 その上で、主観の〈客観性〉が問題になる、といえよう。なぜなら、主観が客観世界の反映像であるという唯物論的原則に立つかぎり、その主観の客観性は、客体をどれだけ正確に映しだしているかどうかできまってくるからである。
 どころで、現実の反映像は千差万別である。客観世界はひとつであるはずなのに、反映像は千差万別なのである。
 そのちがいは、いったいどこから生まれてくるのだろうか。それは、反映活動をおこなう主体の意識自体、デコボコの屈折をもつ動く鏡であることだ。しかも、反映の対象である客観世界がたえざる運動の過程にある。当然ゆがみやずれも生じよう。落差にとどまることはできず、誤差も生じようというものだ。ただし、そのゆがみやずれが決定的な場合、客観世界の性質や運動方向をつかみそこなったことを意味する。したがって、対象をつくりかえていく実践に有効な指針になりえないのは、いうまでもあるまい。
 それでは、〈客観主義〉〉とは何か?
 それは、ひと口に言って、主体の能動性を無視し、反映活動の主体の階級性を見おとした考えだ。主体は白紙の立場で外界を反映するのではない。すでに階級的な屈折屈曲をもつ動く鏡で対象をうつしだす、という点を客観主義は見ようとしない。その点で、〈客観主義〉が客観的であろうとして、窮極においては非客観的反客観的な結論と結びつく。客観主義は、素朴実在論、機械的唯物論の別名であり、哲学史の示すところによれば、不可知論を媒介として観念論つまり主観主義と一致する。
 なお、客観主義を、主体の能動性を無視する意見だという点では一致しながら、その内容については完全にくいちがう意見のあったことをつけ加えておこう。たとえば加藤正の戸坂潤批判がそうである。
 加藤によれば、客観主義は自然や社会を静止的にのみとらえ、生きた実践を対象化しなかったところにある、という。こうした加藤の批判に対して、戸坂は、実践を対象化したかしなかったかが問題ではなく、実践をもふくめていっさいの客観世界を、どういう姿勢で、どういう立場で反映したかが問題であるとこたえた。世界をただ解釈するための理論であるのか、それとも世界を変革するための理論であるのかという点で、主観の真偽関係は規定されると戸坂は考えたのである。
 その主観の真偽関係は客観世界を反映するときの座標軸のとり方でちがってくるのだ。自己の主観がどういう性質の主観であり、客観世界をつくりかえていくのに適切な反映像になりえているかどうかが、そこでは問題になってくる。自己の主観の主観性を自覚しないところに、〈主観主義〉は発生する。
 加藤こそ、変革の立場にたつ反映論を、対象化の領域の問題に解消し、主体の能動的性格を見失ってしまったのである。この加藤の立場は、戦後『危険な思想家』の著者山田宗睦などに受けつがれ、さらに国語教育、文学教育の理論家にもひきつがれて、芸術の永遠性を主張するひとつの根拠を提供している。反映活動の歴史的階級的性格を見失った結果である。(この点については、芸術の永遠性の項目で詳述されるであろう。)
 こうした〈客観主義〉は、国語教育の読みの分野ではどういう形であらわれているか。
 まず、〈客観主義〉から見ていこう。
 そこでは、対象が方法を規定するというそれ自体正しい命題を絶対化するところから、問題がはじまる。対象化された作品を順序正しく読みとっていけば、正しい理解をえられるという楽天的な素朴実在論である。読み手主体の歴史性がなんら問題にされない。読み手の歴史的構造は、順序正しい手順によって簡単にこえられるという発想である。また、作品観が固定的である。はじめ、なか、おわりと自己完結的にとらえている。作家の内部をとおしての読者相互の対話が、完結することなく、未来に対して問題をなげつづけていることを理解していない。
 これに対して〈主観主義〉は、教師や目の前の生徒の感動を絶対化する。自己の心情にとって真実であると思えることを、客観的真実と見あやまる。本来の読者の体験をくぐって、自己の印象を追跡しようとするところがない。(Y.A

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