抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他 |
「文学教育」は死んだ (見出しは当サイトで付けました。) |
〔参考〕 ・「教育課程の基準の改善の基本方向について (中間まとめ〈全文〉)」より抜粋 ・新「学習指導要領」より抜粋 |
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大平浩哉 『読みの指導の改革をめざして―文学教材を中心として―』より =「日本語学」1998.1臨時増刊号= |
ここで再び「文学教育からの脱皮を図る」という本題にもどって考えるとき、まずその前提として「国語」という教科の構造そのものの変革、それに伴う教科内容と指導方法の改革が必要であり、そのなかにあって従来みられてきた過剰なまでの文学教材への偏重の是正がなければならない、というのが私の基本的な考え方である。 そしてこの際明らかにしておきたいのは、これまで「文学教育への偏重」という言葉が使われているが、これは適切な言い方ではなく、実際教室で行われているのは、「文学教材による国語の授業」であって、「文学教育」そのものが実施されているのではない、ということである。 「文学教育」という呼称は、現在はごく一部の国語教育理論家たちの言うことであって、小中高の「国語」の教育に携わる圧倒的多数の先生たちには「文学」を教えるという意識はみられず、文学教材を使って「国語」の指導をしているとの認識に立っている、とみるのが適切であると考える。さらに、文学教材を使っての読解・鑑賞の指導に専念しているとみるのも正しくはない。教科書をのぞいてみるまでもなく、説明、記録、評論、論説等のいわゆる「説明的文章」の読解指導と併せて読みの学習指導を実施しているわけで、いまどき「文学教育」の名のもとに国語の授業をやっている教師はまずいない、と言ってよいのである。 かつて西尾実が「大正期にもりあがった文学教育は、戦前戦後の言語教育の興隆のかげに気息奄々(えんえん)たるありさまであった。近年になって、ようやく文学教育の位置と意義が再発見され、大正期のそれよりも、もっと根強い、確固たる見通しをもって復興を見せようとしている」(日本文学教育連盟編『戦後文学教育研究史』上巻・一九六二年八月・未来社)と声高に宣言してみせたのも、遠い過去のものになったと言うべきで、現在、文学教育によって国語教育が疎外されているかのように認識している人たちがいるとしたなら、それは時代遅れの認識というべきで、もっと教室の現実を直視していただきたいものである。 もう一つ、この際明らかにしておきたいことは、「文学教育」は排除すべきだが文学教材を使った読みの学習指導は排除すべきでなく、必要であるということである。すなわち、文学教材、文学作品を材料にして国語の力を養い育てることは必要かつ大切なことであって、論理的な文章、説明的な文章を教材として使用することと同等に必要不可欠のものである、と言うべきであろう。 |
◇ひとこと◇ 「文学教育からの脱皮」「文学教育の排除」を唱えながら、ここで筆者が直接批判の対象としているのは国語の授業における「文学教材の精読主義的な読み」であって、「文学教育」そのものではない。文学教育などというものはもはや実際の教室には存在しないのだから、というわけだ。国語教師もずいぶん見くびられたものである。一方で筆者は、文学教材を利用して「国語の力」を養成することの必要を否定しない。しかし、長年にわたり様々の形で進められてきた文学教育の歴史を貶めそこに蓄積されてきたものの一切を黙殺するこのような発想からは、文学本来の機能を活かしたまっとうな国語教育など実現できようはずがないのである。なによりも問題は、かつての中高国語教師・文部官僚・大学教育学部教員大平浩哉氏の主張するようなこの種の論が、さしたる抵抗も受けずにまかり通り、それを色濃く反映した新学習指導要領が今まさに実施されようとしている、ということだ。(2002.3.10 T) |
〔参考〕 |
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