抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他 |
戦後民主主義・戦後教育の「終焉」をねらって(見出しは当サイトで付けました。) |
児美川孝一郎 『新自由主義と新国家主義の教育改革論―教育基本法「改正」問題を中心に―』より =「民教連ニュース」145 2001.8-9= |
3、教育基本法「改正」で何がねらわれているのか (2)解釈「改正」と明文「改正」 ところで、教育基本法「改正」問題に関しては、もうひとつ、押さえておくべき重要な視点がある。端的に言えば、これまで支配層の側は、確かに教育基本法の「改正」を宿願としてはきたが、実際上の政治的手法としては、明文「改正」という方法は留保して、ひたすらに解釈「改正」をすすめてきたという点である。戦後五五年あまりの間、支配層の側は、教育基本法にはいっさい手をつけられず、代わりに、下位法である学校教育法ほかの法律を縦横に「改正」することで(公選制の教育委員会法の廃止などは、きわめて象徴的な事例である)、事実上、教育基本法を骨抜きにし、その理念を空洞化してきたのである。 とするならば、今なぜ、あらためて明文「改正」の道が模索されているのかという点が、鋭く問われなくてはならない。結論的に言えば、それは、すでに見てきたような意味での支配層の側の二つの事情が重なった結果として理解できるのではないか。 ひとつは、「教育改革」の実現に向けて、この間、支配層の側がある種の自信を深めてきているということ。従来であれば、多大な抵抗の存在と、それでも強行した場合の少なからぬ犠牲を勘案しなければならなかった教育基本法の「改正」が、現在の政治・社会状況においては、それほどの抵抗も犠牲もなく実現しうるのではないか、と支配層の側が考えはじめているということであり、逆に言えば、こうした絶好の機会を逃がしたくないという思惑が存在するということである。 もうひとつは、にもかかわらず、そうした「好機」が拠って立つ基盤は、実はきわめて脆弱であり、支配層の側の足もとをすくいかねない社会の「解体」状況と教育の危機的状況が、日に日に昂進していること。この点についての支配層の側の危機感は、きわめて深刻なものであるということ。これ以上の矛盾が昂進する前に、早急に教育全般の改造を試み、“有無を言わさぬ”体制を作り上げてしまう必要があり、そのためには、戦後の民主主義と戦後教育の「終焉」を明示的な形で宣揚しなくてはならない。これこそが、教育基本法「改正」に込められた象徴的な意味にほかならない。 (3)教育基本法「改正」論のねらい 以上のような意味で、今日の教育基本法「改正」論のねらいは、すぐれて全面的であり、きわめて破壊的でもある。 それは、 @「権利としての教育」の観点を後退させて、「選択と自己責任」を軸とする新自由主義の方向に日本の教育全体を再編しようと企てるものであり、A集権的かつ強権的な学校内の体制を作りあげることで、管理と異端の排除をすすめるものであり、B愛国心や国の伝統、宗教的情操をたよりとして、階層分化の激しい時代における新たな国民統合のイデオロギーの構築をめざすもの、となるだろう。 |
◇ひとこと◇ 昨年夏の文教研全国集会でとりあげた作品に大江健三郎の初期の作品『奇妙な仕事』があります。この作品の場面規定を押さえる上で見落とすことのできない点として、1950年代の〈逆コース〉のありようの問題がありました。〈逆コース〉といっても、それはたんに戦前的なものへの復古ではなく、支配層の側がとった手法は、戦後まがりなりにも築き上げてきた民主的なものについて、その外形にはあまり手を着けない(着けられない)まま内実を大きく変えていく、というものでした。平和憲法の条文そのものは変更せずに事実上の軍隊を作りあげていく、いわゆる〈解釈改憲〉のことなどが、集会では話題になりました。また、つい最近の合宿研究会で私たちは石川達三の『人間の壁』の全編についての検討を行いました。作品の舞台は1950年代後半、そこには新教育委員会法案(公選制→任命制)に対する教師たちの闘いの姿が描かれています。衆参両院での強行採決の結果この法案は成立を見ますが、作品では次のように書かれています。 |