抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他
  
 〈ことばの梯子〉と〈人生〉の感触 (見出しは当サイトで付けました。)
  

栗坪良樹

『小説は「国語」を救う』より

=「文学界」2002.5.1 特集:漱石・鴎外の消えた「国語」教科書=

 ここに一冊の冊子がある。『高等学校学習指導要領解説 国語編』(平成11年12月 文部省)がそれである。(…)
 《特に、文学的な文章の詳細な読解に偏りがちであった指導の在り方を改め、自分の考えをもち、論理的に意見を述べる能力、目的や場面に応じて適切に表現する能力、目的に応じて的確に読み取る能力や読書に親しむ態度を育てることを重視する。》
 相変わらず息が長く網羅的に意見を述べている。この改善要件のポイントには、これより以前の「国語」教育が、〈文学的な文章の詳細な読解〉に偏っていたという抜き難い前提が認められる。私流に直して言えば、小説などをくだくだしき調子で読ませていたから、生徒の論理能力、表現能力、読解能力が増進せず〈読書に親しむ態度〉を疎外してきたというのが本当のところだろう。この種の論議は昔からあった。現に小説を書いている人にもそれを言う人があったくらいだった。
 論理能力、表現能力、読解能力といったふうにまるで三本立の映画を並べたような言い方になっているが、要するにそれは〈読むこと〉と〈書くこと〉の結果を指しているわけで、究極一本化して言えば〈読むこと〉に尽きている。読むことの訓練が行きとどいているかどうかの前提をどのように捉えているかそれが問題だ。育ち盛りの子どもは、何ごとによらず身を入れて懸命になるのが習性であるとすれば、身を入れて読むことをしてきたかどうかの問題でしかない。
 あえて私流に言えば、誕生以前から子どもは〈ことば〉の嵐の内に投げ出されている。胎内で母親の言葉を聞き、赤ん坊となって外界の雑音を含む無秩序な言葉の世界に次第に深入りしていく。他の動物と違わない本能的な感知能力つまり感性、感受性というセンサーのようなもので雑音、騒音、言葉を腑分けしながら秩序のない〈ことば〉を持ち始め、階段つまり〈ことばの梯子(きざはし)〉を上り始めていく。その上り方には著しく個人差があってひととおりではない。文字がわずかしかない絵本に馴染んで、母親がくり返し読んでやる〈ことば〉の響きによって感性、感受性に引っかかった〈ことば〉を知り始めていく。そのくり返しが〈ことば〉と形を連動させて、まさにその子に応じた〈ことばの梯子〉を上っていく。絵ばかりで文字の少ない絵本から、次第に文字の増加した絵本、そしてさし絵程度の物語の世界へと、〈読むこと〉の〈梯子〉は続いていく。一気に駆け抜けて上段に躍り上ることは出来ない。
 自分と他人を弁別し、自分が外界に属する一人であり、まさに社会の一構成員であることを知っていくために〈ことばの梯子〉が天井へ向けて掛けられていると考えたとしよう。〈読むこと〉を原理として〈書くこと〉〈話すこと〉〈聞くこと〉が総合的に行われていく。さらにこれに〈見ること〉を加えることが重い意味をもつ。〈見ること〉は〈想像すること〉〈創造すること〉とも連動していく。一貫して〈ことばの梯子〉を丁寧に上っていかなくてはならない。何故、〈ことばの梯子〉を上っていかなくてはならないのか。〈人生〉という語は死語ではないが、連発すれば気恥かしさが伴う。亡くなった阿部昭は〈人生〉という表現を好んで使う小説家の一人だった。〈人生〉とは何のことでもない。人が生まれて死んでいく、その一生のことを言っている。詩人であるなら木の葉が芽吹き秋に枯葉となって枝を離れ地上へ落葉するその短い旅のことだと言うだろう。〈ことばの梯子〉を上る時、〈人生〉の感触にふれているかどうか、そこが問われることになる。
 文部科学省が、まだ文部省と称していた時、例の〈神戸連続児童殺傷事件〉が起こり、子どもの育て方、しつけ方、まさに人生の目的に至るまで役所として様々な見解を説き学校に向けて通達を発した。知る人ぞ知るであろうが、〈生きる力〉〈ゆとり〉〈心〉という言葉がキイワードとして強調され、〈殺傷事件〉の衝撃と連動しているから学校人は右往左往したものだった。〈生きる力〉をつけて〈ゆとり〉をもって豊かな〈心〉を育てて生きていく。その究極に〈自分さがし〉ということが掲げられていた。
 〈自分さがし〉とは、今、一刹那を求めることではなくて、まさに息の長い〈人生〉の究極を求めることであるということも強調された。介護体験などを子どものうちに知らしめて〈いのち〉の尊さを身をもって学ばせるべしということもそこから派生してきたはずだ。
 時代や社会は誤魔化しようもなく、効率や現実利益を大目的とする環境に急展開して、有名大学出身の官僚や企業人、政治家が連日逮捕されたり、芝居の勢揃いの場のように会社の幹部が並んで頭を下げる謝罪の光景が演じられてきた。そういう環境に叩きこまれたいる子どもたちに、それはそれこれはこれと言わんばかりに〈自分さがし〉を課したとして難儀するのは、正直、真面目、不器用な子どもたちに他ならなかった。
 私なども正直に告白すれば、何度もしきり直しのつもりで根源に戻って世の中を慨嘆するだけではなくて、何をどうすればいいものか徒手空拳今日に至っているようなものだ。「国語」教員に戻って変わらぬ決心で言えば、読み継がれてきた練り上げられた文体をもっている小説を媒介にして〈ことばの梯子〉を上っていくこと、〈自分さがし〉を敢行することそれ以外に教場の熱狂は演出出来ない、それが一番の問題だ。
 オートマチックに叩き出された文章ではなくて、練り上げられて洗練された文体をもっている表現ということが重要だ。木下順二の名作「夕鶴」で言えば一本一本羽を抜いて織り出していったような表現ということになろうか。黙読しても音読しても、その文章から描かれた世界、対象フォルムが現前化する表現と言ったらいいであろうか。先に述べた漱石、鴎外、芥川、中島四傑の作品は紛れもなくフォルムが現前化し身につまされた生徒には〈自分さがし〉の一助となったであろう。

◇ひとこと◇ 人間が人間として成長していくことと〈ことば〉との関わりについて、栗坪良樹氏(青山学院女子短期大学教授、近代日本文学)はその根本のところから論じ起こしています。そして、国語教育において子どもたちに媒介する文章は「オートマチックに叩き出された文章」ではなく、「練り上げられて洗練された文体」の文章でなければならないとしています。時宜にかなったこのような論に接し、大きな励ましを感じます。
 同じ「文学界」5月号には、《現行の「国語」教科書をどう思うか?》というアンケートに対する50人ちかくの作家・評論家・文学研究者等の回答が載っています。実施者が文芸雑誌の編集部だということもあるのかもしれませんが、回答の多くは実感ベッタリの持論の開陳にとどまっているようです。しかし、そのような中で、わずかに共感をもって読むことができたもののうちに次のような回答がありました。(4項目ある質問のうち、B〈小学校から高校までの国語教科書に入れたらいいと思う作家や作品をあげて下さい。〉に対する回答です。)
中等教育における「国語」は、教科書の選択で決まるものではないと思う。どんな「名作」であっても、提示が下手だと生徒は乗らないし、逆に、ものが何であれ、イニシエーションしだいで触発することは可能であろう。教師の人格とは言わないまでも資質に依存する部分が大きい。肝心なのは、教える側のそうした能力と技術の養成であり、そのうえで、既成教科書の押し付けを廃し、個々の裁量による選択の余地を残すべきである。(中地義和、東大文学部教授・仏文学)
 栗坪氏のいうすぐれた文体の作品も、媒介者の取扱い方しだいではそれを台無しにしてしまいかねない。媒介者としての国語教師(文学教師)の資質を厳しく問うこのような声に対して、今こそ私たちその任にある者は謙虚に耳を傾けなければならないのだと思います。 そして、文体のある文章を選び抜き、子どもたちの発達に即し発達を促すべくそれを自主編成していく力量を身につけていくことが、今まで以上に必要とされているのにちがいありません。(2002.4.7 T)

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