抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他
  
 “井伏流弁証法”――公的世界と私的空間の往復運動 (見出しは当サイトで付けました。)
  

加藤周一

「夕陽妄語/夏休み・二つの詩集」より

=朝日新聞 夕刊 2004.8.25

 去年の夏はヨーロッパが異常に暑くて、日本が涼しかった。今年七月のヨーロッパでは夏の来るのが遅いと嘆いていたが、日本では記録破りの暑さが続いた。どうも近頃の暑さ寒さは、どこでもいつでも異常なようである。「異常が普通、普通が異常」か。

 私は気温と空中のCO2濃度との関係については知らない。そこで夏休みに読んだ詩集の話を書くことにする。現にたとえば、十四世紀のイタリアの詩人ペトラルカには「真夏に震え、冬に燃える」(e tremo a mezza state, ardendo il verno)という一行もあった。もっともこれは、天候よりも恋人ラウラに対する詩人の心の揺らぎを語ったものではあるが。
 とにかく私は最近ペンギン古典双書で出た『ペトラルカ詩集』(Petrarca Cnazoniere, 2002)を読んだ。……解説の中に、ペトラルカが「真夏に震え、冬に燃える」ばかりでなく、甘美さと苦痛、歓(よろこ)びと苦悶(くもん)、生と死など、正反対な概念または事象を結びつける修辞法(撞着(どうちゃく)語法 oxymoron)を多用したことが指摘されている。それはペトラルカの時代には新鮮であったにちがいないが、後世(殊に十六世紀)の詩人たちがそれを余りしばしば(殊に十四行詩において)模倣したために、今では色あせてみえるという。
 英文学に詳しくない私はなるほどそういうものかと感心し、辛うじて沙翁(さおう)の名文句を思いだした。「別れとはこんなに甘美な悲しみ」――というのは典型的な撞着語法である。同じ反対概念の取り合わせといっても、沙翁はさすがに当事者の心情を言いあてて妙、しかも終わりの三語がS音を連打するのは早く過ぎ去る時間をかぞえるかのようだ、などとつまらぬことを考えた。さらに私の考えは飛躍して、舵(かじ)を失った小舟が沖に出たように――船と海の比喩(ひゆ)もペトラルカが多用したものだ――弁証法にまで漂流していった。甘美さのテーゼは、苦痛のアンチテーゼを喚起する。両者の結びつきが示唆するジンテーゼは、今も昔も変わらぬ恋人たちの心理だろう。(中略)

 比較文化論的に見れば撞着語法とそこに反映している弁証法的思考の形式(の少なくとも萌芽(ほうが))は、イタリア語や英語の詩人において著しいが、中国や日本の詩人においても目立つものかどうか。確かに禅僧の偈(げ)は逆説を好む。たとえば良寛は大愚と号した。これは謙遜(けんそん)にあらず、居なおりにあらず、英語にいわゆる《wise fool》に近い表現だろう。しかし禅の修辞法は例外である。『万葉集』にも、『古今集』にも、『新古今集』にさえも、ペトラルカもどきの対立概念の並置は多くない。むしろ近代、直接に撞着語法ではないが、行間に対立概念の緊張を滲ませる例がある。たとえば最近岩波文庫版で出た『井伏鱒二全詩集』。
 詩人井伏鱒二は遠い世界の出来事、一般市民の頭上高く吹き荒れるもの、政治権力や「朕(ちん)の陸海軍」や原爆の「黒い雨」を、つかみ取り、手もとに引きよせ、彼自身の日常の身辺に置いて観察した。その腕は長く、その手の握力は強く、一度要点を捉えたら離さない。たとえば彼が絨毯(じゅうたん)爆撃で住んでいた街から焼け出された経験は、妻子と共に一夜ごろ寝をした鳥取駅のプラットフォームの蚤(のみ)の経験になる(「再疎開途上」)。健康な老若男女がそのまま焼け死んだ惨劇は、雨の晴れ間の水たまりにこぼれ落ちたつくだ煮の小魚の姿に移し替えられる(「つくだ煮の小魚」)。彼はまた中国の詩人の五言絶句を俗謡風の四行詩に移した。その「訳詩」と原詩をくらべれば、公的・客観的・抽象的な絶句が、井伏の操作を通して、私的・個別的・具体的・身辺的・仲間内的な歌になることはあきらかである。(中略)

 しかし井伏が公的な世界を私的空間にひきつける運動は、ほとんど常に、私的空間を公的世界へ向かって開くことを排除しない、――というよりも、相反する二項の間には往復運動があり、その往復運動こそは、井伏流弁証法のジンテーゼをめざすものである。
 戦争を知らない政治家と国民と人はいう。井伏鱒二は戦争の時代を生き、魚釣りを好んだ。そして、「魚拓」という詩を書いた。その最初の三行は次のようである。
明日は五郎作宅では息子の法事
長男戦死 次男戦死 三男戦死
これをまとめて供養する
 五郎作が誰であるかはわからない。戦争が何であるかはこれによってわかる。

◇ひとこと◇
  『井伏鱒二全詩集』には解説として穂村弘氏の「この世の友人への眼差し」が収められている。加藤周一氏の取り上げている「つくだ煮の小魚」「魚拓」やその他の井伏の詩の表現から、穂村氏は「生と死のラインの絶対性」ということを読みとる。「どんなに嘆いても死んだものは生き返らない。生きているものは生きるしかない。」「両者は決して混ざることがない」というのである。そしてまた、すべての生き物が生死の運命を共にしながら、同時に「ただ一度きりの命とその運命が、他人とは交換不可能だ」という「絶対的な生の法則」が表現されているというのだ。
 しかし、そのような方向で読む限り、井伏鱒二が二十世紀の日本の厳しい現実と向きあう中で独自に切り開いてきた新しい文学の世界とは無縁のところに迷い込んでいくしかない、そんな気がする。では、井伏の詩における斬新さを一言をもって言うなら、どうなるか。これはそう簡単なことではない。
 加藤周一氏は、このいまだ解明されていない課題に迫る一つの道を鮮やかに示してくれた。「詩人井伏鱒二は遠い世界の出来事、一般市民の頭上高く吹き荒れるもの、……を、つかみ取り、手もとに引きよせ、彼自身の日常の身辺に置いて観察した。その腕は長く、その手の握力は強く、一度要点を捉えたら離さない。」「井伏が公的な世界を私的空間にひきつける運動は、ほとんど常に、私的空間を公的世界へ向かって開くことを排除しない、――というよりも、相反する二項の間には往復運動があり、その往復運動こそは、井伏流弁証法のジンテーゼをめざすものである。」云々。
 井伏の詩のもつ魅力と、その文学としての生産的な機能とを探ろうとするなら、ここに提起された加藤氏のいわゆる「井伏流弁証法」についての検討を避けて通るわけにはいかないだろう、と思う。(2004.9.15 T)


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