抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他 |
チェホフの「軽み」について (見出しは当サイトで付けました。) |
別役 実 「チェホフあれこれ」より =日本近代文学館 第201号 2004.9.15= |
(略) 我国でチェホフが、何故これほど好まれているかについては、さまざまな人々がさまざまに説明しているものの、私はひとつには、その「軽み」にあるのではないかと考えている。トルストイはチェホフを評して、「なかなかいい作家だが、深みがない」と言ったそうであるが、この「深み」がないこと、つまり「軽み」を、逆に文学的価値とみる風が、我国にはあるような気がするのである。 私は劇作家というものをその文体によって、内容の如何にかかわらず喜劇作家と悲劇作家に分けて考えることにしているのだが、その意味でチェホフは、自らもそう称しているように、喜劇作家である。(略) 私は、『三人姉妹』を底本にして本を書いたのだが、その過程でもそのことを強く感じた。言葉そのものは、人生に対して正攻法で立ち向うものを使用していながら、その立居振舞は軽やかで、しなやかで、どちらかと言えば喜劇的に組み立てられているのである。 どうやらチェホフは、この「どうしようもない自分自身のの喜劇作家的資質」と、それとうらはらな「人生に対する誠実さ」を、どう同調させるかに悪戦苦闘していたように、思えてならない。いや、逆に言えば、これを同調させるべく創り上げたのが我々に「軽み」と見えるあの文体だったのだ、と言えるだろう。 かねてより演劇においては、悲劇作家が主流であり、喜劇作家は亜流であるとされてきた。役者の立場になり、悲劇役者と喜劇役者となると、その格差はもっとはっきりする。チェホフが気付いていたと思われる「どうしようもない自分自身の喜劇作家的資質」も、このドラマの中で見なければならない。つまりトルストイの言った「深み」のなさは、このいきさつの中での評価なのだ。そして私に言わせれば、チェホフこそはその「軽み」の文体によって、喜劇作家でありながら主流に伍した、最初の劇作家であったように考える。 |
◇ひとこと◇ |