抜書き帖 言葉・文学・文学教育・その他 |
原書への敬意と日本語への愛着と (見出しは当サイトで付けました。) |
長谷川 宏 『翻訳を読み解く10冊』より =「論座」1999.8= |
訳文がずっと自由につづれるようになったいま、往事をふりかえると、大きく欠けていたのは日本語を練りあげるという意識だったと思う。原文に引きずられて訳文の日本語が狂わされ乱されるのが思想書の翻訳の悪弊だとわかっていながら、わたし自身、日本語が日本語として堂々とそこにある、原文の世界とは別個の世界がそこになりたっているのだ、というふうには訳文を作れなかった。作ろうとする意識が十分でなかった。 思うに、翻訳とは外国語と日本語のあいだに引き裂かれつつ、右に左にたえざる往復運動を重ねる。そこに翻訳の苦しさも楽しさもある。往復運動のなかで、原書の読みが深まり、日本語の可能性が開かれていくように思えるとき、そのときが翻訳における佳境だといえると思う。そこに身を置くのはいまでも容易でないが、佳境にあるときもないときも、原書への敬意と日本語への愛着をもちつづけられないかぎり、リズミカルで格調のある訳文は作れない。思想書の翻訳の至らなさは、原書への敬意は十分いだきつつも、日本語への愛着を欠くところに大きな原因があると思う。 |
◇ひとこと◇ 私たちは、基本的に「翻訳文学も日本文学である」という考えに立ちます。日本語に置き換えられた文章の、その文体としてのありようが究極のところで問われなければならないからです。ここ数年、例会や合宿でケストナーの詩や小説を読み合う中でしばしば話題になったことの一つは、その「翻訳」の問題でした。長谷川宏氏は、いまヘーゲルを中心とした哲学書の翻訳を精力的に続けている方ですが、氏によって、思想書のこなれた日本語訳が次々と生み出されてくる秘密を、この文章を読んであらためて知ったように思います。(2002.3.8 T) |
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