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熊谷 孝 略年譜       荒川有史 編
(1992年12月発行『文学と教育』160〈熊谷孝 人と学問〉による)
   1911(明治44)年11月28日 誕生
   秋田県北秋田郡阿仁合町字直木沢(真木沢ヵ)鉱山八十四番地
    父 熊谷源吉 1866(慶応 2)年 1月20日生
           1943(昭和18)年12月28日没
    母   ナヲ 1871(明治 4)年 8月14日生
           1935(昭和10)年 5月10日没
    長兄  直樹 1890(明治23)年 4月20日生

           1974(昭和49)年 9月27日没
    長姉  モト 1894(明治27)年 1月27日生
           1965(昭和40)年 8月24日没
    次兄   豊 1899(明治32)年12月18日生
           1993 (平成 5)年 4月17日没
    三兄 徳
(のぼる)1904(明治37)年11月25日生
            1972(昭和47)年 4月 6日没

1919(大正 8)年 4月 (仙台市)東六番丁尋常小学校入学
1920(大正 9)年 5月 市立沼津尋常小学校二年転入
1925(大正14)年 3月 市立沼津尋常高等小学校卒業
1925(大正14)年 4月 静岡県立沼津中学校入学
1930(昭和 5)年 3月 静岡県立沼津中学校卒業
1930(昭和 5)年 4月 法政大学文学部予科入学
1932(昭和 7)年 4月 法政大学文学部文学科国文学専攻
1935(昭和10)年 3月 法政大学文学部文学科卒業
1935(昭和10)年 4月 法政大学大学院文学部文学科国文学専攻
1935(昭和10)年 4月〜1941(昭和16)年10月 法政大学文学部助手
1937(昭和12)年 3月 法政大学大学院文学部文学科修了
1938(昭和13)年 8月 7日

  大西敬子(1917〈大正 6〉年 9月 2日生)と結婚
   父 大西源之助 1884(明治17)年 6月10日生
           1973(昭和48)年 3月15日没
   母    とも 1881(明治14)年12月29日生
           1961(昭和36)年 9月 9日没
1939(昭和14)年 4月13日 長女映子誕生
1941(昭和16)年10月 日本出版文化協会書記・主事補
1943(昭和18)年 1月 3日 長男透誕生
1945(昭和20)年 6月 宮城県立小牛田農林学校教諭
1947(昭和22)年 4月 宮城県立岩出山高等学校教諭
1950(昭和25)年 5月 法政大学講師 
1951(昭和26)年 4月 法政大学助教授
1954(昭和29)年 4月 森村学園日本文学専攻科講師
1957(昭和32)年 4月 国立音楽大学教授
1977(昭和52)年 4月 国立音楽大学名誉教授 長女映子没
1992(平成 4)年 5月10日没(急性多臓器不全・多発性腹膜炎敗血症・大腸癌穿孔)


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 【資料】  思想と文学 ( 熊谷孝 『文学入門』 1949.6 学友社刊 より )
   思想は生きものだ

 わたしの父親は、わたしたち兄弟のことでずいぶん苦しんだ。わたしや、わたしの兄たちが、手におえないほうとう息子であったからではない。むしろその反対に、自分の正しいと思った思想に、純粋に、誠実に生きようとする、わたしたちであったからだ。
 父は、明治と年号の改まるまえのとし、慶応三年に秋田で生まれた。そして、冶金や電気について、当時としてはかなり進んだ知識を身につけた技術家だった。それで、役所につとめても会社にいっても、ひじょうにちょうほうがられたし、だいじにされもした。会社では、課長とか所長というようなポストにつくこともできたし、いきおい暮しむきもゆたかであったらしい。だからゆたかな大地主の家に生まれたとはいえ、自分の「はたらき」だけで生活をささえていかなければならない境遇にあった、次男ぼうのわたしの父は、自分の身につけた技術だけをちからに暮らしをたてていったわけだし、またそうしてえた収入で、つぎつぎ兄たちを高等学校から大学へと進めた。父の考えはこうだった。学問さえ身につけておけば、出世も立身も思いのままだ。なまじっかな資産など残しておくより、学校に入れることのほうが、どれほど子どものしあわせかしれない。つまり、こんなふうな考えであったらしい。それで、つぎつぎと兄たちに「学問」をさせた。父のねらいは、いちばんうえの兄にたいしてははずれなかった。大正の初年に工科大学(いまの東大の工学部)を出たこの兄は、ある大きな財閥の会社にはいって、やがて技術部長になり工場長になり、油脂工業の面では有数のエクスパートになった。そして、いまげんにその会社のなんとか取締役という肩書きのある重役になっておさまっている。むろん、頭もよかったらしい。中学時代から大学を出るまで、ずっとトップをきっていたそうだ。だから、大きい兄さんをみならえ、とわたしたちは母からよくそういわれたものだ。小さい兄たちも、学生時代やはり「秀才」の部類であったらしいが、それでも、あにきにはかなわない、とよくそう言い言いした。だが、やはり時代が「よかった」のだ。父も、大きい兄も、日本の資本主義が発展してゆく時期に生まれあわせたのだ。おくれて進んだ日本の資本主義が、欧米のそれに追いつこうとして、新しい知識と進んだ技術を必要としていた、ちょうどその時期に技術家として世に立ったひとたちであった。
 父の時代と大きい兄の生きた時代とは、つまり日本の資本主義工業の草分けの時期と、それがより大きくのびていく時期とをそれぞれあらわしている。だから、このふたりのあいだにも、かなり考えかたのちがいはあった。初代と二代目のちがい、いわばそうしたちがいがあるにはあった。だが、まじめにこつこつ仕事にはげんでさえおれば、しぜんに立身出世もできるし、らくな暮らしができるようにもなると考える点では、親子の意見はすっかり一致していた。このようにして、いわば三代目である、つぎのふたりの兄たちの時代と思想を理解することのできないひとになっていった。
 大正の末年と昭和になってから学校を出た、つぎのふたりの兄も、やはり工業技術家であるという点では、父や大きい兄とおなじことだ。技術者になることは、家憲ではなかったにせよ、すくなくともわが家の惰性であった。ひとりの兄は、工業技術にたいするよりはむしろ文学に興味をもち、自分では大学の文科に進むことを望んでいたらしかったが、その願いはついにいれられなかった。いちばん小さい兄も、同じ技術家ではあっても、映画のキャメラマンかなにかになる希望をもっていたらしいが、けっきょくは大学にはいって化学工業を専攻することになった。末っ子のわたしだけが、自分のこころざすとおり文科の学生になることのできたのも、気にそまない職業に自分をしばりつけなければならなかった、このふたりの兄のあたたかい理解によるものだ。ともかくそういうわけで、つぎのふたりの兄も、大学を出ると会社員になり工場ではたらくことになった。だが、もうこの時期は、資本主義がきょくどに発展したあげく、過剰生産におちいり、買い手のつかない品物が市場にごろごろしているという時代であったから、工場でもむしろ人べらしをやっているくらいのもので、就職難ということがいわれはじめ、また政府でも失業対策などにのりだしてきはじめた時分だった。技術家をだいじにした昔とはもう時代がちがうのだ。まじめにしごとにはげむことで立身出世が約束されていた時代とは、時代がちがってきたのである。「いくらがんばってみたって、お父さんや大きい兄さんのような出世はできませんよ、なにしろ時代がちがうんですからね。それに、ぼくはべつに出世なんかしたくはありませんよ。いまの時代に金もうけしたりするのは、こすっからい悪いヤツばかりですよ。だって、よほどずるいことでもやらんかぎり、ふつうにやっていて金のたまるはずがないじゃありませんか。」
 このいくじなし、といって歯をくいしばる年老いた父のまえで、小さい兄がこんなことをいっていたのを、わたしはいまに忘れられない。
 そして、自分の時代にみきりをつけた、うえのほうの兄は、時代にみきりをつけると同時にこの世の中にみきりをつけて、神の福音に自分の生きがいを見いだそうとする人になっていった。もっとも、それには、もっと深いこみいった事情もあったけれど。それで、この兄が自分のみちしるべとして求めたのは内村鑑三であった。妥協ということを知らぬ、無教会主義のクリスチャン内村鑑三。内村さんがそういう人であったように、この兄も、信仰生活の面ではいささかの妥協もない、かたくななまでに純粋にきびしい人だった。また、小さいほうの兄も、自分には出世などいうことよりもっとだいじな問題があるといって、やはりキリスト教の信仰に身をゆだねていった人であったが、うえの兄のばあいとはちがって、人間の世の中の矛盾をそのままにしておいて来世の福音だけを考えるような人ではなかった。だから、早稲田の学生であった時分には、商人の中間搾取から学生生活をまもるためにといって、学生消費組合の設立にちからこぶをいれたり、いろいろな社会事業などに献身的な運動をつづけたりもした。
 父や大きい兄には、弟たちのこの思想がついに理解できなかった。思想のちがいは、血のつながりをこえて、父と子とのあいだに、兄と弟とのあいだに大きなみぞをつくってしまった。いちばん末の弟であるわたしは、――文学をやるようなヤツはろくでなしばかりだ、わたしは、父からも兄からも問題にされなかった。そして、わたしはまた、自分の正しいと考える思想に生き、父や兄たちのあゆんできた道とは別の道を、いま、あゆみつづけている。

 思想は、だから、子をして親にそむかせ、弟をして兄にそむかせる、生きた現実のちからである。思想のもつ、そういうたくましい力というものは、がんらい思想というものが、わたしたちの生活の実際と結びついてうまれたものだということにもとづいている。子どもをふるい常識のきずなにつなぎとめようと、いくらあがいてみたところで、子どもには子どもの時代の新しい生活がある。父なり母なりの思想が、やはり親たちの生きた時代の生活の実際からうまれたものであるように、新しい思想には、また新しい時代のなまなましい体験の裏づけがあるのだ。ひとをとらえてはなさぬ、思想のねづよさは、ここにある、このようにして、思想は、現実の生活のなかからうまれ、そして現実そのものをうごかす底知れぬ力となるのである。
 思想は、いわば人生をしき写しにしたものだ。それは、歴史を生きるなまみの人間が、死に生きの人生のたたかいにおいてかちえた苦難の代償である、ということができよう。時代の体験をひとつの思想に結晶させるために、これまで、どれほど多くのひとがなやみ、もだえ、かつ苦しんだことだろう。また、純粋に、誠実にそのひとつの思想に生きようとしたために、どれほど多くのひとが、たえがたくしのびがたい、はずかしめとさいなみの、とし月をすごさねばならなかったことか。
 現代の思想の歴史は血にいろどられている。思想のたたかいのきびしさに、いたましくもきずつきたおれた、とうとい犠牲のいくたりかを、わたしたちはわたしたちの思想の血すじのなかにもっている。満州事変から太平洋戦争にいたる、この侵略戦争のさなかに、あるいはまた、人民解放のれい明がおとずれようとしていた終戦の前後において、軍閥・官僚政府の警察の手によってとらわれの身となり、およそ人間としてかくもむごいしうちがなされうるものかと思われるまでの責めさいなみによって、いたましくむごたらしくなぶり殺しにされた、いくたりかの先駆者のすがたを、いま、わたしたちは、わがこととしてわれとわが胸に思いうかべてみることができる。わたしの思想の底をながれているものも、現代を生きる者のひとりとして、こうした多くの先駆者のながしたとうとい血である。

 思想は、内なるものとのたたかいであると同時に、外なるものとのたたかいである。また、外なるものとのたたかいであると同時に、内なるものとのはげしい格闘である。こころのなかに巣くっているふるい思想とたたかうためには、わたしたちは、まず身をおこして外部の敵とたたかわなければならない。そのような思想をうみだし、それをささえているところの現実のるつぼのなかにとびこんで、現実(わたしたちの生活の実際、世の中の実際)そのもののゆがみを直そうと努力することのうちに、わたしたちの思想そのものがきたえられ、ゆがみのすくない、ちからづよい、ほんものの思想にまで成長する。このようにして、わたしたちの思想は、わたしたち自身、現実とのたたかいのうちに自分の手でかちえたものである。だから、自分のいだいている思想というものは、自分にとってはぬきさしならぬ、ぜったいのものとなるのである。
 「わたし」の思想はわたし自身のものであって、ほかのもののそれではない。「わたし」は「わたし」の思想をもっている。しいられて、むりじいにしいられて、「わたし」はいまの思想に生きているわけではない。どういう思想をもつかということは、めいめいの自由である。経験の教えるところにしたがい、むしろなまなましい自分の体験の整理として、「わたし」はいまの、この思想にたどりついたわけなのだ。
 しかも、「わたし」の思想は、わたしたちの時代のものの見かた、考えかたから自由であることはできない。わたしたちの考えは、多かれ少なかれ、この時代の思想、この時代特有のものの見かたにしばられている。時代のながれにさからって生きようとする考えも、時代のながれにさからって、とそう考えている点で、じつはかえって時代の思想というものにこだわり、それにしばられているということができるだろう。つまり、わたしのいいたいのは、思想いっぱんというようなものはありえない、ということなのだ。思想は時代の子だ。思想は、いつだってだれかの思想であり、ある社会環境に生きるなまみの人間の思想であるということだ。なまなましい自分の社会体験の要約――それが思想というものなのだ。思想は、つまり人間の社会生活の産物である。だから、その人がどういう思想をもっているかということがわかれば、また、その人がどういう生活をしてきた人かということも、げんにどういうしかたで生きている人かということも明らかになるというわけのものなのだ。だからまた、思想というのは、けっきょく、ある個人なりグループなりが、その社会をどのように生きたか、またどのようなしかたで生活しているかということの、ことばへの要約であり翻訳であるということにもなろう。
 ことばで言いあらわされないものを思想とよぶことはできない。思想はことばである。ことばに言いあらわされるということは、体験が生きた知識の体系としてまとめられるということだ。どうしてそういうことになるのかというと、「ことば」というものが、がんらい、自分の体験を相手に伝えるための手段としてつくられたものだということによるのだ。自分の体験を他人に発表できる程度にまで体験そのものを整理することによって「ことば」がもたらされ、また、ことばを手段として考えることで、必要な体験とむだな体験とがみわけられ、自分にとってたいせつだと思われる体験が知識として保存されて、こんごの生活にやくだてられるというわけなのだ。そして、だいじなことは、その知識が、生活の生きたしくみ(体系)のなかに織りこまれていくという点だ。だからこそ、それは、生活の実際にやくだつことにもなるわけなのだ。体系としてのつながりもまとまりももたない知識のかけらは、それをいくらよせあつめてみたところで、きびしい人生を生きぬくうえのたしにはならない。思想は、人間の生活の実践からうまれてくる。と同時に、逆に人間の実践そのものを方向づけるはたらきをもっている。そういうはたらきをもたない、たんなる知識は、それは学問でもなければ思想でもない。

 ところで、ことばに要約された体験が思想であるということは、思想が固定的な傾向をもつということだ。ことばは、がんらい、ものごとを固定的に――といっていけなければ、ある規定のもとにものごとをとらえるために作られたものだ。それは、規定的にものごとをとらえ、あらわすことによって、自分の考えをあやまりなく相手につたえ、また、相手の考えをあやまりなく理解する、そういうための手だてであったはずだ。「ま四角なテーブル」ということばは、長方形でも円形でもないま四角なテーブルを、いすでも机でもないテーブルをさしている。「ま四角なテーブル」ということばは、ま四角なテーブル以外のものを示すことはできない。思想は、体験のことばへの翻訳として、ことばの運命に殉じなければならない。体験はことばとなることによって、体験のしかたそのものをひとつの方向に固定し、しばりつけ、だからまた、ものごとにたいするかれの感じかたや、うけとりかたや、判断や、さらにまたそのとりさばきかたまでをも、つまりはかれの行為のすべてを、そうしたひとつの方向にみちびいていく、生きた現実のちからとなるのである。
 こんにち、なお、封建的な観念がひとびとのこころをとらえてはなさぬのは、むろんそういうふるい観念が再生産されうるような条件が社会のしくみのなかに残されていることにもよろうが、しかしそれだけではない。一方には、そういう条件をのりこえうるだけの、もっとつよい別の条件がうまれてきているのに、そうした状態がいまにつづいているのは、ひとつには、思想そのものの固定的な傾向によると考えなくてはなるまい。新憲法が施行された、この時代になっても、やはり天皇を神格化して考えることをやめないひとたちや、あいもかわらず、「陛下の官吏」として人民にのぞむ公務員や、そういう公務員と自分たち人民との関係を上と下との関係として考えるようなひとたちや、昔ながらの「戸主権」をふりまわして結婚にたいする娘や息子の自由意志を平気でふみにじる父親や、また、ストライキという合法的であった行為をなにか不道徳な、けしからんことのように考えて、「先生たるものが」といって教員組合の行動を非難する父兄や、そういう世間のわからずやの声におびえて、罪人のような青い顔をして泣きねいりする先生たち、等々々。――そういうふうに封建的な観念からぬけきれないでいるひとたちを、わたしたちは、わたしたちの周囲におびただしく見いだすだろう。
 思想というものは、こんなふうに、またこんなふうなものとして、多かれ少なかれ固定的な、われとわが身をひとつの方向にしばりつける傾向をもっている。なぜなら、それはたんなる知識、ネクタイ代りの「教養」的知識ではなくて、なまなましい自分の生活体験に裏づけられた、生きた知識の体系であるからだ。思想は、ふつうにそう考えられているように、たんに頭の問題ではない。思想は、むしろ「胸」なのだ。知性と感情とが、分ちがたくひとつものにとけあったところに、はじめて思想とよばれうるものがめばえてくる。であればこそ、思想はふじみなのだ。不死身といったのは、むろんことばのあやだし、いいすぎだけれど、踏んでも蹴られても、すくなくとも、ちょっとやそっと痛いところをつかれ、自分の考えのいたらない点や不合理な点をほじくられたところで、そんなことではたじろぎも身じろぎもしないというのが、思想というもののかたくなさである。それは、つまり、思想というものが身についた知識、知識の体系であるからだ。

 思想は、いわば住みなれた家だ。かきねがこわれ、のきがかしいだぐらいのことでは、たちのく気にもなれない、というのがふつうの人情だ。たしょう住み心地はわるくなっても、雨風をしのぐのにかくべつ不便は感じないし、それになによりも馴れだ、習慣だ。はたの眼からはどんなに使いにくそうに見えても、また、どんなにきたならしく、あぶなっかしく見えようとも、わたしにとっては住みなれた、この家がいちばんしっくりくるのだ。間どりのぐあいや台所のつくりの不合理さ、そうした不合理な設計からくる日常生活の不便を、わたしはかくべつ不便とは感じていない。だぶだぶの出来あいの服にからだを合わせるのと同じように、生活のほうを家のつくりに合わせて暮らしをたてるというしだいだ。がんらい、生活のためにあるはずの家が、生活のありようそのものを規定していく、という関係がそこにうまれてくるのである。そして、やがてひとびとは、不便を不便として感じないばかりか、それを便利とさえ感じるようになっていくのだ。そこで、生活の便利のためにつくられたことばが、かえって生活そのものをしばりつけ、思想が生活のありようそのものを固定化させる、ということにもなるのだ。
 このようにして、もともとの生活の実際に合わせてつくられたことば(思想)が、世の中の進むにつれ、生活の変化するのにともなって、現実(世の中の実際)と矛盾するようになっても、それは現実のほうがまちがっているのであって、現実をうつしたことばのほうがほんものでほんとうだと考える、妙な錯覚を生じてくる。つまり、鏡にうつった顔がほんものの顔で、顔そのものは顔のまぼろしにすぎない、というわけなのだ。いまげんに、そうしたかんちがいをもとにした、さかだちした観念が、哲学や科学や芸術の世界で大きくのさばりかえっている。


   現実の反映

 世の中は、移り変るものだ。進歩するものだ。運動ということこそ、自然と人生をつらぬく歴史の根本法則なのだ。こちらが動かなくとも、相手は動いている。いや、動かないとおもうのはまちがいで、それは自分が一歩あとじさりしたということ、世の中の進歩からとり残されたということである。あたらしいものも、時がたてばふるくなる。進んだ思想といわれるものも、そのままの考えをつづけていたのでは、やがては、かびくさくおくれた思想になってしまうだろう。それは、思想が固定的な傾向をもつのに反して、現実のほうがどしどしさきに進むからだ。歴史に停滞ということはない。置きざりにされ、とり残された思想。これが、しかし思想というものの運命である。思想は時代の子である、といったのも、まずこの意味においてである。
 そこで、思想と現実との関係を、自分の肖像写真と自分自身との関係にたとえてみることができるだろう。いま、わたしの机のうえには二枚の写真がのせられている。一枚は三十年まえの、つまりわたしの赤んぼうのころの写真だ。もうひとつのほうはというと、ついこのあいだうつしたばかりのものである。二枚が二枚とも、わたしの肖像であることにまちがいはない。そして、また、それがどういう角度からの撮影であるかということはべつとして、どちらの写真もやはりわたしのありのままをうつし出したものである。だが、赤んぼうの写真をひねくりまわして、目がどうの口がどうのといってみたところで、いまのわたしの顔かたちを理解するうえにはほとんどやくだたないばかりか、それは第一むだなばかげたはなしだ。いまのわたしを知るひとが見てこそ、この写真も過去と現在とのつながりや、その間の変化を知るための材料にもなりうるというわけのものなのだ。見合いの写真に自分の赤んぼう時代の写真をおくるばかはあるまいし、また、相手の赤んぼうのころの目鼻だちを問題にして、お嫁さんをえらぶような非常識なひともまさかあるまい。ところが、このまさかが、思想と現実との関係においてはりっぱに成り立つのだ。
 このたとえで、「写真」はむろん「思想」を意味しているし、「わたし」というのは「現実」のことである。赤んぼうからおとなへの成長といったのは、ことわるまでもあるまいが、現実の移り、変化をさしていっているわけだ。まえのたとえで、鏡にうつった顔とほんものの顔の例をあげたが、あそこに見られた関係がもとになっての、かんちがいがそこにあるわけなのだ。つまり、写真のほうが実物で、なまみのわたしはたんにそれをしき写しにしたものにすぎないという、あの錯覚である。そこで、赤んぼうの時分の目鼻だちをよりどころにして、おとなになったわたしの顔かたちを詮議するというようなことにもなるのだ。そればかりか、わたしがおとなになったというのはじつはうそで、この写真が示しているとおり、おまえはほんとうはまだよちよち歩きの赤んぼうにすぎないのだ、というていの論法をここにもちこむわけなのだ。写真にうつっている赤んぼうがわたしであることにまちがいはない。いまのわたしと似てもつかないからといって、それがわたしでないというのは正しくない。まだ見ぬひとにいまのわたしというものをわからせるためには、もう一枚のおとなの写真のほうを見せなくてはなるまい。また、いまのわたしを知っているひとにとっても、ふだん気づかなかった顔かたちの、ある特長を、はっきりと図式化して自覚させるという点では、この写真は大いにやくだつわけなのだ。
 つまり、思想というものは、現実を自覚的にとらえたところにうまれてくるものなのだ。もっとも思想とそうひと口にはいっても、思想にもピンからキリまであるのだから、その自覚というのにも「無自覚の自覚」という程度のものもあるにはある。けれど、ともかくそれがある角度、ある座標軸によって現実をとらえたものだということだけはたしかである。思想は、もともと知性だけを手がかりとした現実の認識ではない。知性による認識が日常的な生活感情のすみずみまでしみとおり、そのことによって感情そのものが高められ、また、そのようにして高められた感情においてもういちど、現実をかえりみ、現実にふれたときにうまれてくるのが思想というものなのだ。だから、思想は、むしろ感情による現実の認識であるということすらできるだろう。もっとも、その感情の高さは知性の高さに比例するし、だから思想の高さは、けっきょくその当人の知性の高さに比例するということにもなるわけだが。
 誤解をさけるために、ことわっておくが、ここに知性というのは、知識の体系、ないし体系化された知識のことであって、そういう組織づけをもたない、ばらばらの知識のあれこれをさしているのではない。むろん知性にもいろいろある。高い知性、低い知性。ゆたかな知性と、まずしい知性。だが、それが、いちおう内化され身体化され、自分のものとなった知識であるということにまちがいはない。自分というものにおいてまとめられ統一されることによって、知識は、ひろい意味での生活の体系(しくみ)のなかに席をしめるようになるのである。世間ですぐれた科学者だといわれているひとが、おがみやの「御神託」を信用する程度に、おくれた低い思想のもち主であるというような例は、体系化されない知識の無力を示す一つのばあいであるし、またそれを裏から見れば、身についた考え――思想というもののふじみなたくましさ、根づよさを示す生きた証拠だということにもなろう。

 で、ともかく、思想は、あるきまった座標軸、あるきまった視点による現実のは握であった。ところで、その座標軸のとりかたが、現実(ものの実際、ことの実際)に即しているかどうかということで、その思想のうそかまことかかが決定されてくるわけだし、また、当人が自分自身の認識の座標軸を自覚しているかどうかということが、その思想に伸びゆく可能性を約束し、また、可能性をうばいとることにもなるのである。思想は、現実とともに進歩し発展するものでなければならない。過去のある時期において真実をあらわしえたところの思想も、こんにちの思想としてはいつわりである。そして、おそらく、こんにちの真理も明日の真理ではないだろう。それは、つまり、現実が動的な現実であるからだ。現実を支配するものは、運動という歴史の法則である。だから、思想は、それが真実をあらわすものとしてあるためには、動的な思想とならなければならない。
 どういうのが進歩的な思想かといえば、それは、現実をむりやり自分の考えに合わせて解釈するのではなくて、思想そのものを現実のあゆみに合わせて発展させていくような、そうした思想のことである。つまり、思想と現実との矛盾を、現実のほうに思想を近づけることによって解決するという考えかたなのである。現実をありのままに反映することで、逆に現実の人間生活がもつゆがみやねじくれをなおし、それをまっすぐな、より高いものにみちびいていく、そういう考えが進歩的な思想というものなのだ。だから、それは、自分の考えをひとつところに固定させることをしない。現実のうごきを正しくあるとおりに反映して、社会の進歩とともに自分の思想そのものを発展させていくのである。
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