《資料》 文 学 の 仕 事 ―― 諸家の文学観に学ぶ

   ギュイヨオ 『社会学上より見たる芸術』 ( J. M. Guyau : L'Art au point de vue sociologique , 1889 )より

■最近代の心理学的研究に従えば、吾々の意識は、仮令
(たとい)(その)外観は一の単一体であるにもせよ、然(しか)しそれ自身一箇の社会であり、一箇の調和体、であって、其(その)中にはもろもろの要素的意識状態が、又恐らくはもろもろの細胞的意識が含まれている。有機体の諸細胞は生物社会の形式を採るものであって、それら諸細胞が全般的意識又は共通感覚(。。。。) Coenesthésie を生む為めには、交感的に又は連帯的に振動する必要がある。それ故個人の意識其(その)物が既に社会的なものであり、且(か)つ吾々の全機制内に又は吾々の全意識内に響き亘(わた)るものは如何なるものも社会的側面を持つものである。古代に於(おい)て希臘(ギリシャ)の哲学者達は美は調和にありとし、或(あるい)は少(すくな)くとも調和をば美の最根本の性質であると考えた。此(この)調和を古代人は余りに抽象的に 且(か)つ余りに数学的に考えたのであるが、然(しか)しこれは現代心理学からすれば有機的連帯性、生命ある細胞の努力、又は個人の内奥に存する一種の社会的乃至(ないし)集合的意識に帰着するのである。吾々は自分(。。)というが、然しそれと共に亦(また)吾々(。。)とも言うことが出来る。快感は、吾々の存在の有(あら)ゆる部分間の又は吾々の意識の有(あら)ゆる要素間の、連帯性や社交性が其(その)中に多く含まれれば含まれる程、はた又、其(その)快感が自分(。。)の中に存在する吾々(。。)から生れたものであればある程、美となるのである。
 有機体にあっては、凡
(すべ)ては相互に規定し合うものであるから、従って或る特殊な感官の快感は直ちに全神経系統に反応を起し、又は恐らくは其の有機体の全体(。。)に対して全く無関係な感覚なるものは無いのである。(…) p.9-10

■美的感情は調和状態に於ける連帯性と統一との感情の最高形式に過ぎない。又はそれは吾々の個的生命に於
(おい)て一つの社会を意識することである。(…) p.11

■有用なものは、目的が知覚されるという知的(。。)要素と予
(あらかじ)め満足が感得されるという感性的(。。。)要素とに依って初めて美となる。此(この)場合には其(その)目的に対してよき整頓された諸手段の総体を知覚して以て快を前以て感ずるのである。従ってそれは知性と意志とを満足させ、更にそうなると感性をも満足させることが出来る。此の三つの結果が生れるとき、有用なるものが吾々をその終極と目標とに導くとき、其の目的性は美となるのである。(…) p.14

■若
(も)し吾々が美の幼稚な段階から其の一層高く発達した段階に登るならば、其の社会的側面は次第に増大して、遂には、それが全体を支配するに到る。此(この)自我の諸部分が連帯性を持って共感している事は、吾々からすれば既に美的情緒の最初の階梯を構成していると思われる。而(しか)して社会的連帯性 又は一般的共感は 最も複雑な且(か)つ最も高級な美的情緒の原理と私は考えるのである。(…) p.14-15

■吾々が無生物と称しているものは、科学の抽象よりは更に一層生命を持っている。此の故にこそ吾々はそれに興味を持ち、動かされ、それと共感を為
(な)しそれに対して美的情緒を呼び醒させられるのだ。月や星の単なる光りも若(も)し打ちとけた二つの天体の笑顔を思い浮べさせるならば、それに依って吾々の心はひかれるのである。/景色を例にとって見る。吾々の眼に映ずる処では、それは人間と自然の諸物象との結合の如く見られる。(…)ある風景を味(あじわ)わんとすれば、われをそれに調和させなくてはならぬ。太陽の光を会得しようとすればそれとともに顫動(せんどう)しなくてはならぬ。それと同じく月光に対しても亦(また)夜のくら闇の中でその光りと顫動(せんどう)を共にしなくてはならぬ。(…)春を感ずる為めには蝶の翼の軽快さを多少でも吾々は自分の心の中に持っていなくてはならぬ。(…) p.16

■若
(も)し自然に対する感情は既に社会的感情であるとしたならば、吾々の仲間たる人間に依って惹起(じゃっき)させられた凡(すべ)ての美的感覚は、いよいよ社会性の特質を持つものと言えるであろう。美の感情は高等なものになればなる程、非個人的になる。(…) p.17

■美の生み出す美的情緒(。。。。)は、吾々にあっては、有
(あら)ゆる意識的形式(感性、知性、意志)を以て生命をば一般的に 又は言わば集合的に刺激することに帰着する(…)。/芸術とは意識的生命に対する一般的な且(か)つ調和ある此の刺激 即ち美的感情を構成する処の刺激を生む為めの諸手段を統一した一全体である。(…) p.18

真に其(そ)の名に価する処の芸術(…)にとっては、純粋な且(か)つ単なる感覚は目的ではなく手段である。即ち或る存在の感受的状態とそれに若干類似した他の或る生命とを交渉させ 又は結合せんとする手段である。それ故此
(この)感覚は生命を 然(しか)も集合的生命を本質的に表はすのである。(…) p.18

■芸術的情緒なるものは要するに、吾々の生命に類似した或る生命に依って、又は、作家が吾々の生命に結び付けて呉れた或る生命に依って、吾々が感得する社会的情緒である。(…) p.20

■詩人或(あるい)は画家は生命を刺激するを任務とする。然(しか)もそれは他の生命を其(その)生命に接近させることに依ってしなければならぬ。そうすれば後者は前者に対して共感し得るのである。即ち、それは感応に依って(。。。。。。)の刺激でなければならぬ。(…) p.20

■一切の芸術は其(その)根底に於(おい)ては、個人的情緒をコンデンスしてそれを直接他に伝送し得るものたらしめる為めの、言わばそれを社会的なものたらしめる為めの複雑な様式たるに外ならない。(…) p.21

■我々が芸術作品に対して持つ処の興味は、吾々と芸術家と作中の人物との間に作り出される結合から生れた結果である。それは吾々が好感や快感や苦痛や呪いやを凡(すべ)てそっくり其(その)まま抱合させる一つの新しい社会である。(…) p.21

■最後に情緒や思想の感染力を無限に増進させる為めには、表現(。。)に対して更に仮作的作用(。。。。。)が加わって来なくてはならぬ。芸術が利用する処の此の仮作的作用に依って吾々は、単に吾々の周囲に実在する生活的存在の一切の苦悩や一切の歓びのみならず、更に可能的存在の一切の苦悩歓喜にも参ずべきである。吾々の感性は詩人の創造した世界の隅々迄も広がって行く。(…) p.21

■行動が 言い換えれば意志された運動が生命の内的標示であるならば、運動はそれの外的標示である。而(しか)して又それは更に、諸存在間の大なる交渉手段でもある。然
(しか)るに一切の芸術なるものは、結局、運動と行動とを生み出し、或(あるい)はそれらを仮作する技術であり、又仮作によって共感的運動や行動の芽生えを我々自身内に発動させる処の技術と見て差支えない。(…) p.21-22

■つまるところ芸術は感情に依っての社会の拡張であって、それは自然の一切の存在に、更に超自然的と考えられる存在に、或(あるい)は究極に於(おい)ては人間の想像作用が創造した仮作的存在にさえ為
(な)さるるものである。それ故芸術的情緒は其(その)本質上社会的なものである。より大なる 且つ一般的なる生命をそれに混入することに依って個的生命を拡大する結果を生むものである。芸術の最高目的は社会的性質を持った美的情緒を生み出すにある(。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。)(…) p.23

■結局芸術は新しい社会を作っては想像作用によってそれをば吾々が現に生活している社会に付加して行くものである。(…) p.23

■実験科学は全体としては実在を分析して事実を一つ一つ記述し、次にそれから抽象的法則を引出すものである。それ故科学は地味な研究家が一つ一つ聚
(あつ)めた処の小さな事実を徐々に纏(まと)める。而(しこう)して時間と数と忍耐とに依って次第次第に其(そ)の宝を増加せしめるのである。小さな女の子が或る雨の日に雨漏りのする茅屋根の下で、雫(しずく)を一つ一つ面白半分に其の指抜き[日本では環状だがフランスでは袋状で金属製である]の中に受け入れようとするのを私は見たことがあるが、私にとっては科学は恰(あたか)もそれを思わせるものがある。風が空から吹いて来ると其(その)雫はあおられて逃げて行く。それでも子供は辛抱強く其(その)指抜きを差し伸べた。が其(そ)の小さな指抜きには未だなかなか一杯にたまらなかった。芸術は斯(こ)うした辛抱強さを少しも持つものではない。それは即座に作られ、現実の先駆を為し、又はそれを超越するものだ。それは一つの綜合であって、吾々は現実に関する諸法則が与えられているか 或(あるい)はそれらが単に仮定されて居る時に、それらを斯(か)く綜合することに依って、何等かの実在を心意に対して再構成し、又は一部の世界を改作するのである。綜合し、創造することはいつでも芸術に属することだ。だから、科学に於ける創造的天才が芸術と縁があるのは此(この)関係によるのである。応用機械学の諸発明や化学的合成(サンテエズ・シミック)は芸術である。科学者は時折外的世界に於(おい)て物的に新しい何物かを製作し得るのに、純芸術的天才は単に彼自身と吾々読者とに対してのみ創造するものだ、とするならば、斯(か)かる相違は吾々の考えるより以上に皮相なものだ。両者は何れも類似したやり方で同じ目的を追求しているのである。又は異(ことな)った領域に於(おい)て同じように現実を作り、更に生命をさえ作り、又は創造せんと努力しているものだ。例えば芸術が実在から借りて来た諸要素を結合して質の組織を作るのは、恰度(ちょうど)化学者がそれに依って物体の合成を作るのと同じである。此(この)結合に依って疑いもなく芸術は自然に関する典型を屡々(しばしば)生み出すものである。然(しか)し乍(ながら)又 時に依っては、完全に生存力あり、完全に存続し、活動し、ものの根源となり得るような典型を、然(しか)も絶えて過去にもなければ又恐らく将来にもありそうに思われないような典型を創造するに到ることもあるのだ。――然(しか)も是(これ)こそは最高の期待の一つであり、又は真の天才たるの特徴の一つである――。此の典型は人間の想像作用の創造したものではあるが、然(しか)も又それは、自然界には存在しないが人間の化学が現存の諸要素の結合様式を唯変えた丈(だ)けですっかり作り上げた処の物体と同列に見らるべきものである。(…) p.23-24

■真の詩人にとっては、彼が生あるものに就いて把握した処の性格や観察した処の個人は目的ではなく手段である。――自然が企て得る無限の結合を観破するの手段である。天才は実在よりも寧
(むし)可能性(。。。)を取扱うものだ。(…)天才は絶えず実在を超出せんと努力するものである。(…)其(その)理想主義は害悪どころではなく寧(むし)ろ天才の条件其(その)物である。唯然(しか)し内部に描き出された理想は、仮令(たとい)日常吾々が接触している現実(。。)に属しないにせよ、さりとて又吾々がほのかに予見する可能性(。。。)の系列から離れたものであってはならない。唯それ丈(だ)けだ。真の天才は何によって認知されるやと言えば、彼が現実生活の彼方に生き得る程充分に偉大であり、可能以外に決して踏み迷うことなき程充分に論理的であるという点にある。(…) p.25

■吾々は詩をば、卑俗な常識の境地ではなくて、合理的感性と一般的類推との境地に於ける最高の夢想と定義することが出来る。
 それ故、天才の第一の特色は想像力である。創造的詩人はまさしく透視者(。。。)であって、可能を現実と見、時には有りそうもないものをさえ現実と見ることがある。(…)それ故、詩人にとっては純粋に主観的なものは何一つ無い。想像の世界は独特な行き方に於ける現実的世界である。内面的世界は外面的世界の延長であり、自然界に於ける新しい自然ではあるまいか? 人間的自然を一般的自然に付加して見たまえ、さすれば芸術が得られるであろう。芸術とは人間を自然に対して付加したものである(。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。)。――然
(しか)し他方に於(おい)ては詩人にとって実在そのものは一種の幻影でなくて何であろう?(…) p.25-26


■美術家や詩人や小説家は自らの描く人物を生活(。。)すべく、然(しか)も外面的ではなく恰(あたか)も実際其(その)人物に自ら入り込んでしまっているかの如く深く(その)人物を生活せざるべからず、という如きわかり切った教訓が出て来るのだ。要するに自分自身の奥底から持って来るのでなくては生命を他に付与することは出来ない。それ故強烈なる想像力を具えた芸術家は、自らの創造する人物の一人一人をそれぞれ生かして、一人として彼自身の生命の単なる再現 又は模写たることなからしむる程に充分に緊張した生命をみずから所有していなくてはならぬ。自分自身の生命のみを投ずることに依って他の新規な(。。。。。)生命を生み出すこと、これ即ち一切の創造者が解決しなければならぬ問題である。(…) p.30

■或る者に於(おい)ては想像が優勢であり、他の或るものに於(おい)ては感性が優勢である。吾々はこれを否定するものではない。然(しか)し乍(なが)ら真の天才の特徴は実に感性が、愛情あり拡大力あり繁殖力ある感性が、創造作用に浸透している事に外ならない。純粋の想像力丈(だ)けを才能としているなどいうことは偽りだ。感情の無い色や形があると思うのは空想だ。(…) p.31

■私の見るところでは、最もしっかりした作品は最も社会的(。。。)でなくてはならぬ。それは其
(その)作家が生活していた社会、彼を生み出した社会、彼が未来に予想し 未来が恐らく実現するならん社会、それらを最も完全に表現した作品でなくてはならぬ。従って最高の美的情緒は社会的情緒である事を認めるとすれば、更に吾々は、社会の最高表現は最高の作品の特徴ではあるが、然(しか)しそれはテイヌ氏の場合の如く現実の(。。。)社会又は作者の同時代の社会のみを問題とするのではない、という事をも容易に承認しなければならぬ。天才は一種の反映物である許(ばか)りではなく、更に生産作用であり、発明作用である。それ故思想感情の指導者たる偉大なる天才を特色づけるものは、主として来(きた)る可(べ)き社会を 更に理想的社会を予想する程度にある。(…) p.35

或る読み物に就いて感情を経験しようとすれば、既に其(その)感情を自分の中に所有していなくてはならぬ。処が其(その)感情の所有は毫(ごう)も特別な偶発事ではないのだ。恰(あたか)も解剖学でいう諸部分の依存法則と同じように正確な精神的諸能力の依存法則が存在するものである。それ故、一定の時代に於(おい)て一人の個人や一箇の集団や一箇の国民の感情を検証することは、其の時代の人々なり国民なりの心理を確定する為めに重要な条件である。芸術作品は其(その)中に描写された人物の性格と相通じた精神的特性を持った人々に対してのみ美的効果を及ぼすものである。是(こ)れを一層簡単に言うと、芸術作品は其(その)作品を自己の表徴とする人々をのみ感動せしめるものである。(…) p.41 
[太字は引用者]

■芸術は二つの異(ことな)った目的を追求するものである。即ちそれは一方に於(おい)て愉快な感覚(。。)(色や音楽の感覚)を生み出そうと努めると共に、他方に於(おい)ては一層複雑性を持った観念や感情に帰着する心理的感応(。。。。。)の諸現象(表現された諸人物に対する共感や興味や哀(あわれ)みや憤り等の如き)を、一言にして云えば一切の社会的感情を、生み出そうと努めるものである。此(この)感応的現象に依って芸術は生命を表現する(。。。。。。。)ことが出来る。/芸術は感覚を目的とする時にはいつでも、科学的法則に接続しているもので、然(しか)も是れら法則の大部分は絶対に拒みがたきものである。此(この)側面からして美学は物理学(光学、音響学等の如き)や数学や生理学や又は精神物理学などに交渉を持っている。(…) p.58-59

■芸術の真の目的は生命を表現するにある。芸術が生命を表現せんがためには、二種の法則を遵奉(じゅんぽう)しなければならぬ。即ち一は吾々の主観的表象の関係(。。。。。。。。。。。)を吾々の内部に規整する法則であり、他の一は生命を可能ならしめる客観的条件(。。。。。)を規整する法則である。(…) p.60

■真の芸術家は事物を見 又は感ずるに芸術家としてすべきではなくて、人間として、社会的な又は好意に満ちた人としてすべきである。然(しか)らざれば遂には、それが職業化してしまって、其(その)心内の感情を殺し、有(あら)ゆる美の永遠に渝(かわ)らざる基礎たる生命をば其の作品から駆逐するに到るであろう。(…)/芸術に対して余りに凝り固まって生活している人がやがて陥る特徴ある欠点の一は、彼自身の眼からすれば芸術に依って最も容易に表現(。。)し得ると思われるものしか、生命の中に最早(もは)や強く見たり感じたりしないという事であり、端的に創造的世界に移植され得るものしか見たり感じたりしないという事である。彼にとっては芸術は次第次第に現実生活よりも支配的なものとなり、彼が感動する時にはいつでも其(その)情緒をばそうした応用的目的に 即ち彼の芸術の為めの利益という事に結合するのである。(…) p.62-63

■偉大なる芸術とは自然と生命とをば幻想に於(おい)てではなく実在に於(おい)て取扱う芸術であり、人間の芸術が最もよく描写し得る部分ではなく其(その)反対にそれが最も翻訳しにくい部分又は芸術の領域に最も移植しにくい部分をば其(その)実在の中に最も深く感得した芸術である。生命の大部分を芸術に表現せんとすれば、如何(いか)に生命が芸術以上に大なるものであるかということを理解しなければならぬ。(…) p.64

■吾々が人生を辿り行くに従って吾々自身にとって増大するものは、又は一般人類にとって常に増大するものは、生な感覚(。。)の集積というよりも寧
(むし)ろ観念の 又は知識の集積である。是(こ)れらはそれ自身 感情の上に反動を及ぼすものである。科学は少(すくな)くとも是れ迄のところでは無限に拡張を為すことが出来た。(…)科学は吾々をして倦むことを忘れしめるものであり、絶えず引立てては心神を爽快ならしめるものである。又個人的生存や更に社会的生存さえも同じ場所で唯足踏みをしているものでなく向上しているものだという感じが科学に依って与えられる。更に進んで言えば、科学に対する愛や哲学的感情が芸術の中に入り込んで来ると、それに依って芸術は絶えず進化するものである。というのは吾々の知性が益々開け、吾々の科学がいよいよ拡張される時には、而(しか)して極く微小な存在の中に大宇宙を見る時には、吾々は決していつでも同じ眼を以て見、又は同じ心を以て感ずるものではないからである。(…) p.65-66

■人間が何物かを創造するのは主として思惟の領域に於
(おい)てするのである。詩人たる者も想像せんが為めには思想家たらねばならぬ。其(その)生命の表現に高遠なる哲学的思想を混じて生きた体系を構成する人たらねばならぬ。(…) p.67-68

■生命は生命たる故にこそ個性(。。)である。吾々は個性的に見ゆるものに対して初めて共感するのである。芸術にとって、其
(その)創造されたものに個性化(。。。)のしるしを付与することの絶対的必要と、同時に亦(また)困難とは此処(ここ)から来る。(…) p.71

■其
(その)表現せる個物に対して結局吾々を共感せしめようとする芸術は、吾々の社会的側面に話しかけるものである。それ故斯(かか)る芸術は人物の社会的側面をも併(あわ)せて吾々に描いて呉れなくてはならぬ。即ち文学上の主人公は何よりも先(ま)ず社会的存在である。彼が吾々に最も興味を感じさせるのは、彼が社会を擁護するにせよ はた又攻撃するにせよ、兎も角彼が社会と接触している点なのである。(…) p.72

■芸術にとっては結局欠くことの出来ない具体性(。。。)は同時に特殊性(。。。)でもあるのだ。文は人なり、それ故に又個人なりである。然
(しか)し更に加うるに、文はそれと同時に其(その)個人に現われた社会でもある。其(その)時代全体の影響が其(その)個人的感情に与えた知らず知らずの変化の全部である。(…) p.74

■真の芸術とは最も緊張すると同時に(。。。。。。。。。。)最も拡張した生命又は(。。。。。。。。。。)最も個人的であると共に(。。。。。。。。。。。。)最も社会的な生命に対する(。。。。。。。。。。。。)端的な感じを充分に(。。。。。。。。。)吾々に与える芸術である。芸術に於ける決定的な深酷な且つ真正の道徳性は此処から生れて来るのだ。然
(しか)もそれは単なる道徳的議論やお説教のそれとは同列に置く可(べから)ざる道徳性である。(…) p.79

■芸術作品は吾々の眼と往来するごちゃごちゃして映像を細々と再現する事よりも寧
(むし)ろそれ等映像の中に導き入れられた遠近法(。。。)によって構成されるものだ。芸術的ということは遠近法(。。。)に依って物を見るということであり、従って又誰れ彼れと同じ点に立って物を見ないで内面的且つ独創的遠近法の中心を摑(つか)むことである。(…) p.86

■何人にとっても遠近法の自然の中心点は彼の自我(。。)であり、彼の意識状態の系列である。――而
(しか)して自我なるものは何等かの行き方で相互に結合した諸観念や諸映像の組織体に帰着するものである。――とすれば従って、或る対象を見るということは即ち其(その)対象の映像を特殊な聯合体系の中に入れることであり、もろもろの映像や観念の渦巻で包むことである。(…) p.86

■ベエコンは芸術とは人間を自然に対して加えたものである(。。。。。。。。。。。。。。。。。)、と言っている。芸術家は自然を此方
(こちら)から解釈してやるものだ。というよりも寧(むし)ろ自然そのものが芸術家の内部に於(おい)て自らを理解するのだ。自然が吃(ども)って許(ばか)りいることを芸術が表現する。『芸術は自然に対して斯(か)く叫ぶ、汝の言わんと欲する処は是れなり、と。』(…) p.88

■或る漫遊者が私に、或る山嶺で最高峰の突鼻
(とっぱな)に黎明がきざし出した瞬間の話をして聞かせ、『まァ行って見たまえ、まるで創造の営みを目のあたり見るようだ』と言った。異(ことな)った光線で見るとまるで異(ことな)って見える処の物象を斯(か)く光りで新しく創造すること、是れがとりも直さず芸術の仕事である。(…) p.88

■文学に於
(おい)ては理想主義其(その)物はそれが人為的理想に基(もとづ)くのではなくて人間性の何等かの緊張した永続的憧憬に基(もとづ)く限りに於(おい)て力を持つものだ。写実主義はと言えば、実在の中からそれの緊張味を求め乍(ながら)一層大なる実在の印象を それ故にまた生命をと真実との印象を与えるところに其(その)価値がある。(…) p.90

■吾々は個人的或
(あるい)は社会的生命の表現を示されなければ深く感動するものでない。従って努力は生命の根本的要素であるという此(この)理由からして、芸術には或る程度の苦痛や不調和が根本要素として入って来なければならぬ。醜も是れ亦(また)生命には免れ難き禍や制限の外的形式に過ぎない。如何なる点からも完全であり欠点の無いという事は吾々をして興味を覚えしむる所以(ゆえん)ではない。何故なればそれは吾々との交渉に於(おい)て少しも生きた活動をしないという欠点を常に持つことになるからである。吾々が認識する如き生命は有(あら)ゆる他の生命との連帯関係を保ち、無数の悪と直接間接交渉を持っているので、完全や絶対を全然排斥している。現代の形而上学が総体の概念に基礎を置かねばならぬように、現代の芸術は不完全の概念に立脚しなければならぬ。(…) p.92

■芸術の進歩なるものは、生活の悲惨な側面や一切の最下級的存在や下劣さや醜怪さに何
(ど)れ丈(だけ)共感的興味を其(その)芸術が付与しているかに依(よっ)て幾分判断されるものだ。是れ即ち美学的社会性の拡張である。此(この)関係からして芸術は科学の発達に、即ち何物も瑣事なりとせず又等閑視せずして全自然界に其(その)法則の無限の斉一化作用を広げる処の科学の発達に、必然的に伴うものである。原始時代の詩歌や小説は神や王様のいろいろな事柄を談(かた)っている.当時にあっては凡(すべ)て劇の中心人物は必ず他の人間よりもすぐれた人間でなければならなかった。処が今日では偉大さを示す他の様式があるのを吾々は知っている。即ちそれは深酷に其(その)人間であらしめるという事である。それは誰でも、例えば最も下賤な人間であっても問う処ではない。それ故写実主義的作品に醜が取入れられることは就中(なかんずく)道徳的又は社会的理由に依って説明されねばならず――又従ってこれに依って規定されねばならぬ。此の醜の採用を最もよく抱容するものは文学の領域である。(…) p.92

■芸術は一層写実主義的になれば当然物質化するようになる、とはよく繰返される処である。然しそれは正確ではない。良い意味の写実主義は吾々を動かすに端的な感応的快感を以てするものではなくて、実に共感的感情を覚醒させることを以てするものだ。(…) p.94

■作家たるものの忘れてならない事がある。それは、
吾々は若(も)し前以てすでに同一の精神状態を生じ易い素質を持って居るのでなければ、其(その)精神状態の生理的徴候を完全に自ら表現することも はた又感染的にそれを感ずることも出来ないという事である。例えば恐怖の如き感情を惹起させる為めには、鳩尾(みぞおち)のところの息づまるような感覚を表現するよりも、精神的な言葉使いで其(その)感情を述べた方が遥かに簡潔な方法である。そうした感覚は其(その)感情の遠い遠い結果であり、それの甚だ間接的な結果であって、吾々が其(その)恐怖感情其(その)物を既に予(あらかじ)め感じていなければそうした感覚を表現し得るものではない。(…) p.95-96 [太字は引用者]

■小説家は頭脳ではない迄も少
(すくな)くとも心情(。。)(クウル [cœur])を 言い換えれば人間の感情や情緒の全体を常に主題として来た。小説家は其の欲すると欲せざるとに関係なく、常に心理研究家であろう。唯其(その)作られる心理学に完全と不完全とがあり得る丈(だ)けだ。又は人間の心情を狭く描いて見せるか、或(あるい)は本来の偉大さを以て見せて呉れるか、の相違がある丈(だ)けだ。彼の固有の領域は情緒である。(…) p.96-97

■自然主義は荒唐無稽なロマンティックな脱線に反抗したのは正当であるにしても、其の次に今日では自らを排斥せねばならぬ。(…) p.97

■『詩人が若
(も)し卑俗な題材から興味ある側面を識別することが出来るならば、()(その)詩人の自己表現は現実(。。。。。。。。。。)を以てするに違いない(。。。。。。。。。。)』 とはゲエテの言である。良い意味の写実主義は瑣末主義 trivialisme と称せられ得るものとは全く正反対である。それは習慣的生活を再現しつつも 然(しか)も其処(そこ)から其(その)再現的相貌を清澄ならしむる有(あら)ゆる力をとり込む処に成り立つ。然も又、卑俗なくだくだしい ともすれば我慢の出来ぬような連想を其(その)再現から駆逐しなければならぬのである。それ故に真正の写実主義なるものは、瑣末なものと実在的なものとを分離させるところに成り立つものだ。此(この)故にこそ それは芸術中の非常に困難な一面を構成するのである。(…) p.98-99

瑣末(。。)を脱し乍
(ながら)(しか)も現実を歪めること無しにそれを美しくする手段にはいろいろある。而(しか)して是れ等の手段は自然主義其(その)物に支配された一種の理想主義を形作るものである。それは殊に、事物や事件を時間なり空間なりの遠方に延長し、従って吾々の共感性や社会性の感慨の領域を広げ、かくて吾々の視線を広げるところにある。(…) p.100

■ディドロオは何処かで『芸術家は余を泣かせようとすれば(。。。。。。。。。。。。。。。)彼自身は泣いてはならない(。。。。。。。。。。。。)』と書いているが、是れに対して、彼は泣いたことが無くてはならぬ、と答えた方が正当である。即ち彼のアクセントには今は消えても嘗
(かつ)ては経験したことのある感情のひびきがこもっていなくてはならぬ。これは文学者にとっても同じである。(…) p.105

■描写術の主要な特質は、作者の心を往来する映像をば読者のたましいのなかの漠然たる又は消滅する記憶と一致させるのでなくて、益々顫動
(せんどう)する思い出と一致させるにある。相対的重要しか持たない単に正確な丈(だ)けの細部と 緊張したくっきりした且(か)つ特徴ある細部とを何故に区別しなければならぬか、という理由は此処(ここ)にある。(…) p.123

■芸術は殊に社会性の現象である――何故なればそれは全く共感と情緒との法則に基礎を持つが故に――からして、芸術はそれ自身として社会的価値を持っている事は確かである。事実芸術はそれの活動を持っている処の現実社会を、常に進歩させたり或
(あるい)は退歩させたりするに到っている。然(しか)もそれは想像的に描写されたより良き社会 或(あるい)はより悪しき社会と想像に依って共感させる処から、其(その)現実社会が進歩したり退歩したりするのである。社会学者にとっては、此処(ここ)に芸術の道徳性が成立するのである。然(しか)も此(この)道徳性たるや、打算の結果ではなくて、有(あら)ゆる打算や有(あら)ゆる目的的探究から離れて生れて来るのである。真の芸術美は自然に道徳性を帯び来るものであり、真の社会性の表現たるものである。一箇の作を描いた作家が、其(その)作物(さくぶつ)に真の社会性の精神を刻み込んでいるか何(ど)うかに依って、彼が知的及び道徳的に健全なりや否やが大抵の場合認められる。勿論(もちろん)芸術と道徳とは別個のものである。けれども仮りに或る作品を読んで、その読者は最早(もは)や苦痛を感ぜず 或(あるい)は最早や堕落せずに却(かえ)って自己の進歩向上を感ずるならば、又自己自身の悩みに最早やこだわらずして、其麼(そんな)悩みは自己にとって空虚に感ぜられるようになるならば、其(その)作品は芸術品たるの立派な証拠である。最後に最も高級な芸術品は唯単に一層強烈な一層緊張した感覚を吾々に刺激して呉れるのみならず、一層広い一層社会的な感情を刺激して呉れるように作られている。フロオベエルは 『美なるものは最高の正義に過ぎない』 と言っている。実(げ)に美なるものは生命を創造せんとする努力に外ならない。(…) p.514-515
 
 (春秋社 1931年刊『世界大思想全集55』 西宮藤朝訳 「社会学上より見たる芸術」 による。表記は新漢字・現代仮名遣いに直した。 )

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