《資料》 文 学 の 仕 事 ―― 諸家の文学観に学ぶ
 

  ジャン・エプスタン 『今日の詩  智性の新たな状態』より
        ( Jean Epstein " La Poésie d'aujourd'hui : un nouvel état d'intelligence "  1921, Paris, Édition de La Siréne )

 青柳瑞穂 訳 「今日の詩」 による( 1929.6~1930.2 『オルフェオン』 第二号~第九号 分載 )
※ 原本提供:University of  Michigan  


1  緒 言  INTRODUCTION

 文学は、実生活が一時的に与ふる性情の閑適と、感情の節調価値とを満足させ、且つ、それを充実させることを目的とする。

 一個人の感情は、その人の遭遇する出来事には必しも随従するものではない。生活上の物質的事情はその感情的色彩にはさして重大ではないのである。一つの同じ事情でも、その人人に依つて或[あるい]は偽善を、又は気障[きざ]を、若[も
しくは清廉の気概を、好色を、高雅を、慈善心を助長せしめるのである。即ちその人がタルチユーフであり、ムツシッウ・ジユウルダンであり、貴族院議員ベエランヂエであり、ドン・ジユアンであり、アルシビアードであり、或ひは、聖ヴアンサン・ド・ポオルであるに随つて。すべての人間はそれぞれの喜怒哀楽を自らのうちに有してゐるのである。彼はそれらの感情を耳下腺で咀嚼のための唾液を生ずるやうに生じてやがてそれで生命を包んでそれを着物にして着せてゐる心算[つもり]なのであるが、然[しか]もこのことを生命それ自身から見れば依然として関りないことであり、裸体なままなのである。(…)

 普通の人の場合、人間は派手な着物でも、地味な着物でも、吾吾の気紛れな生理学的理由が命ずる着物なら、おとなしく着るのである。然るに、この案山子(マネキン)にも、時時足元が怪しかつたりする時があるので代人(かはり)を入れるか、さもなくても、後見役位はつけなくてはならぬ場合があるのである。この役目をするのが読書なのだ。何故なら、感情を刺激するやうなこれと云ふ大きな出来事が、一人の人間の生活の上に久しく起らなかつたとしても、この事は彼が生きて呼吸して、ものを食つてゐる以上は、その人のうちに、さまざまな感情が自然に生ずることをさまたげることはないのだから、つまり、酸素を絶え間なく吸ってゐる以上は、感情をも絶え間なく吐出さなければならぬのである。丁度炭酸瓦斯[ガス]を是非とも吐出さなければならないと同じ様に。彼がその特殊な体質に依つて、愛が、または、憎[にくし]みが身のうちに満ちるのを感じ、然も、誰を愛し、誰を憎んでよいのか解らない場合、この人は空想の世界で愛したり憎んだりすることは当然なことである。丁度、子供たちが、あの玩具の熊(テデイ ベア)を接吻する様にして。思ふにこの玩具の動物は、親兄弟の愛情の付属物として、なかなか案外な生命力を所有してゐるのである。すでにスピノザが愛に就て云つてゐる、「外部の接触によつて起される(くすぐ)つたい感じだ」と。また、マルセル・プルウストは云つてゐる。「私たちの天性はそれ自身が私たちの恋愛をつくり、ほとんど私たちが愛する女までも、その欠点までも造るのである。」と。つまり無味乾燥な生活の、普通倦怠と呼ばれてゐるやうな時に当つて、使ひ道のない過剰な感情を、人間はたまたまお人形の上にそそぐ訳なのである。かう云つたら、一見、不思議に聞えるかも知れないけれど、もともと、一人の人間の一生の間には、よろこびも、悲[かなしみ]も、さしてどつさりあると云ふ訳ではないのである。本質的に云ふならば吾吾人間と云ふものはもつと以上の[ママ]歓びとかなしみとかを身のまはりに映し出し得べき筈なのであるかも知れないが、それが出来ないのは、つまりスクリーンが時時、揺[ゆら]いだりたるんで皺になつたりするからである。吾吾に与へられてゐながら用ゐきれない感動性が、吾吾を悩ませるのである。つまりこの過剰を排泄しなければならないことになる。そこで三百頁もあつて、面白い事件が百出する小説は、蛇をおびき寄せるに足る笛の音色になることになるのである。やがて余りにその小説の中の悪漢を憎み、主人公を愛することによつて、へとへとに疲れた感情は、この時はじめて犬小屋の藁くづの上で眠るだらう。そして、吾吾は快よい疲労の休息を、心ゆくまで味[あじわ]ふことが出来るだらう。


2 文 学 の 諸 相   LA  SOUS-LITTÉRATURE

 「下級文学」 は次の一語で特徴づけられる。即ち、それが恂情的なる事である。それが発達したのは輓近の事である。その重[おも]なる特長は——第一。論理的なる事。第二。凡[すべ]ての健全な文学の如く哀調を帯びてゐる事。第三。読者の単純な心性に適合するやうに、黒白の判然とした性格を必要とする事。第四。道徳的価値を思念してゐる事。第五。正義的であり且つ、衛生的な結末を考慮してゐること。

 人間には二種類ある。即ち理解ある人とそれ以外の人々と。同様に、二つの文学がある。如何なる共和政治でも、こればつかりはどうにもしやうが無い。生理学は貴族的感受性を有する少数党と、平民的体質の大衆党とを創造する。シヤトーブリアン子の頭髪を注意深く吹き乱した暴風も、奥女中の感情の先端にさへ触れなかつた筈だ。とりわけ感情的だと云はれるメロドラマの方が、かの女の趣向に合ふのである。云ふまでもなく、言語学的意味に於ける恂情的なものは、アンリ・ボルドオの作品同様に、スタンダールのそれの中にも充分見出されはするだらうけれど、ただ、その相違は前者が若干の新聞小説を書き、そして、後者は本を書いたと云ふ点にある。上品な感動に飢えてゐる職業婦人向の、この文学的地階室にこそ、私は「恂情的な」と云ふ形容詞を付けようとするのだ。ともすれば、誤解される恐れはあるが、以下、それに関して語るうちに、読者諸君は了解して下さる事と思ふ。

 この下級文学を創造したのは実に義務教育の普及であつたのである。毎土曜日に、階段を拭き掃除するが如き苦しい労働に堪へ得る程の強健な人人が彼らがアマチユアーとして読書してゐる事などには一向頓着なく、要するに、大して解りもせずに、ただ本を読む習慣を持つに至つたのである。そのことは別に、文句を云ふ程の事ではないが、然し、事実として注意するだけの事はある。この種の人々は多数なので、一個の力をなしてゐる。その結果として彼等が贔屓[ひいき]する人気作家は十万部も本を刷るのである。だが、さうなるともうどれも皆な商売人であつて、作家ではないのである。この事はすでに、口をきはめて云はれた事ではあるが、もう一度此処[ここ]に繰返して云つておく必要がある。尤[もつと]も彼等のうち大概の作家は、彼らの小説程にさまで馬鹿ではないらしい。何故なら、彼等はこれらの小説の中で、読者の趣味に媚びて、時々馬鹿である事に努力してゐるのだから。だから彼らが創作する貧しい小説に就いて、その読者と同様に彼等を馬鹿であると批判しないだけの慈善心を人々は彼等に対して持つてやるべきであるかも知れない。(…)

 電車の中で、人は日に四回も見るのだが、タイピスト達が、ねずみ色をしたカバーの折れ目を、時々大事さうに直しながら垢だらけの本の汚れた頁の上で、彼女等の単純な感動を養つてゐるのを。車掌が電車賃を受取りに来て、せつかくの姦通事件を中断したりする時、かの女たちの心が乱れる様は実に笑止の至りである。これと云ふのもすべて文化のしからしむるところである。自由気儘にかの女たちの裸な足を情夫のそれに結び付ける事が出来ない為に、壮健な生物の免れ得ぬ生産物として、鬱屈した感情の炎は、彼女たちの閑暇を苦[くるし]めるのである。本物は容易に手に入らないので、兎も角も先づ、これら愛や憎[にくし]みの欲情を、何等かの幻影に向つて注がなければならないのである。一つの生命の活動はそれを見たり聞いたりする他の生命を刺激して生き生きした、時には、凶暴でさへある返答を要求するのである。然るに、社会は沈黙を命じ、如何に激しい要求でもそれを束縛するのである。自分に対して自分が死んでゐるのではない事を証明する為には、兎も角、感動する必要がある。人心が知らず識らずの間に堕落して行く。ここに於いてかメロドラマがはびこつて来るのである。


1)大衆小説は理論に毒されてゐる。即ちその中に書かれてゐる波乱多い事件は、仮令[たとい]それが如何に馬鹿気た取るに足りないやうな事柄であつても、必ず三段論法で、動[うごか]すべからざるものの如くに書かれてある。メロドラマの主人公が(くさめ)が、必ずや何か重大事の帰結か前提かになつてゐないと云ふ事は極めて稀である。大衆小説は宗教以上に結果論者である。(…)
 
 たしか、レオン・ドオデ氏だつたと思ふ、ルミ・ド・グウルモンを評するに際して、「不合理なる理論家」 といふ言葉を用ひたのは。ドオデエ氏にはちと済まないが、この言葉は、「馬から落ちて落馬する」 とか 「赤い顔して赤面する」 などと同じ云ひ方の反復法に外ならない。不合理ならざる理論家は、既に理論家ではなくなつてゐて、感情家なのだ。人間的に真実な理論は唯一つしか無いのである、然し、それは感情の理論であるのだが、それはすでに理論ではなくなつてゐるのである。純粋な推理といふは常に必ず不合理なものである。それがその重要な価値なのである。一般的に純粋の推理といふものは生活には適用されないものである。尤[もつと]も、それに従つて生活した為に損害を受けた生活、詳しく云へばその本来の純粋さを失つた生活は例外とするけれど。ユークリード風の幾何学で丹念に計算した原則に従つて、自分の足を運ぶ散歩者は、足の向く所、意の向く儘[まま]にまかせて歩く人程に真の散歩をしない事は確かな事実である。この事実は、二三の三段論法で約言出来る程度の、あれら大衆小説にも適用出来るのである。余りに多くの理論を取り入れた為めその結果は(云ふ迄もなく純粋理論の意味だが)かへつて馬鹿馬鹿しいことになつてゐるのである。その理由は、純粋理論は生活と何等の関りも無いからである。而[しか]して、あらゆる文学の目的は、何といつても、文学が時に自分でその代りを務めなければならない必要のあるところの生活の再現にあるのであるからである。純粋理論は実験室の産物である。それは自然の中には見出されないのである。自然の中にあつては、事件を連結する二つの方法は感情の理論と生物学上の理論である。而して、これら二つの理論を理論と呼んだりするとしてもそれは稍々[やや]巫山戯[ふざけ]気分で云つてゐることであり、またそれらを理解したと云ふ気持がしたいからに外ならないのである。心理学は純粋理論には風馬牛[ふうばぎゅう]だ。生理学にこの着物を無理に着せようとするのは、われわれ人間の仕業だ。然し、うまく体に合はないその着物が、時々やぶれたりする、すると、われわれは大あわてで仮説といふ継布(つぎ)を苦労してあてがつたりするのである。(…)


2)始めから終りまでただ無暗に悲しい計りではないメロドラマがあるとしても、見てゐてこちらが少なくとも寂しくなるのは事実である。グウルモンの言葉をかりればそれが 「われらが日の終りの楽園」 を持つた涙の谷なのである。吾等はこの下級文学のうちに、一つは全然原始的な、全然、悲惨な文学と、もう一つ他の文学、即ち、ハッピイ・エンドが此頃やうやく人の心を五月蠅[うる]さがらせ始めた所の、前者よりやや進んだ文学と、ここの二種類を区別することが出来るのである。

 第一の部類に属する文学は、その性質上、或る種の古謡や口碑に近いものであつて、正直な厭世主義に発してゐるのである。すでに苦悩の多い人生だけではまだ不足だと云ふので、人生のかくも暗い再現を試みた文学にまでも喜んで耐へ得る人人は精神的の、即ち肉体的の健康を有してゐる立派な証拠を示したのであつて、実に偉いことなのである。この場合は実生活から来る疲労が、その後で休息が快よいものに感じられるあの疲労を催させる程までには、この人人の興奮したいといふ要求を飽和させ、感激したいといふ欲望を満足させる為には十分ではなかつたのである。
 今日では、悲惨小説と云ふものは余程少なくなつて来てゐる。何れ繰返して云ふ折があるだらうけれど、文明はその貴族社会のエネルギイを衰へさせてしまつた後で、今や民衆のエネルギイをも弱らせて了[しま]つた。民衆は自分の姿を真摯に、然し憂鬱に映して見せる文学の鏡から顔をそむけて了ふ。何故ならば、同時に、自分の世路の苦悩を生活し、且つ、それに就いて考へる、即ち、何等の報償なしに、それを再び生きるといふには、今の民衆には力が欠けてゐるのである。そこで、民衆は彼らのあらゆる世上の苦悩の結末として、ハッピイ・エンドをあてにして、それを楽しみ且つ勇気を鼓舞されてゐるのである。そこで幸福の大団円が文学を独占してしまひ、絶対的な悲劇的特質がその全価値をなしてゐた悲劇を平凡化して了ふに到つたのである。恐らくあらゆる動物が経験したことであらうが、これが生理的衰退の最初の現象であつて、然もこの現象は病理的の衰退と呼ぶ、余地が無い程さほどに普遍的に拡がつてゐるのである。(…)



 
[も]し公衆が彼等の悲哀がその儘に記述されてゐるが、然し時々そこには幸福の影がさすと云ふ仕組の文学の方を愛するとしたらその原因は彼等が自分たちをより幸福に感じ、そして、何時かは全く幸福になれる日が来ると予想するに到つたからだと思ふ人があるかも知れないけれど、事実は正にその反対なのである。大衆文学は日に日に激しくなつて来る人生の不如意から、勉めて転じようとしてゐるのである。成る程死の物語は健康の人には面白いかも知れないが、病人にとつてはさうは行かない筈である。不幸を書いた物語は幸福の人がするやうには、不幸の人には耐へ忍び得ない筈である。

 同様に、真に生活の上で感動してゐる人は、書物の中で感動を補ふやうなことはしない。既に感じてゐる感動に堪へておくだけでも、彼にはその全力が要るのであるから。実生活上の情熱が平凡である限り、情熱は本を読んだりして燃焼してゐたのであつた。然るに今日では、人々は実生活に於てその情熱を甚だ痛切の感じてゐるので、最早、それを余りに有りの儘に再現した文学には耐へきれなくなつて来たのである。為めに大衆文学は生活苦をその儘に再現することをしなくなつたのである。何故ならば、既に実生活に於て、この苦労は人々の肩にとつて余りに重い荷物になつているからである。今や文学は、大衆文学でさへも、技巧を使用しはじめ、実生活から遠ざからうとしてゐるのである。今からすでに、私は御注意申し上げておく事が出来る。
技巧は 常に 疲労を 癒す 神薬 なり と。(…)



3)大衆文芸は極めて簡単明瞭な性格を有する人物を提出するのである。即ち、守銭奴は欲張りであるだけで、他の何者でもないのである。然し主として、人物は二つのカテゴリイ即ち同情をそそる者と反感をそそる者とに分れてゐて、その間に何等の媒介がない。この簡単極まるトロピズム[tropisme 反射運動]の鞦韆[しゅうせん、ぶらんこ]は、読者達の感情の体操としては彼等を遺憾なきまでに満足さすのである。七大罪と対神三徳程度が読者に理解できる微妙さの絶頂なのだ。だから、長所と短所とを一緒くたにして持たうなどとする人物は一般の興味を惹かないらしい。読者の所有する程度の単純な原子価値では、この種の人困らせの複雑した性格の人物を適確に見きはめる事は出来ないのである。それは丁度、黄と赤といふ単語は有してゐるけれど、その間のオレンヂがかつた色を示す何等の単語を持つてゐない言語があるとすれば、それはこの色に大まかではあるが前記のより単純な二色を押しつけざるを得ないのと同様である。この点に関して、映画セナリオの悪メロドラマが何よりもいい例を示してゐる。(…)


4)大衆文芸はその厳密な現実感に於いて、事実をその儘に見る事は稀であつて、必ずそこに道徳的色彩を加味するのであるがこれまた当然なことかも知れないのである。即ち第一には、言語をその価値とその職責との過去のあらゆる痕跡から解放する事は極めて至難の業であるから。第二には科学以前にあらゆる科学の総締たらんと欲した所の、また、それによつて人間が始めて自己の智慧を表示した所の、深く人心の中に食ひ込んでゐるその道徳観念が、教養の足りない人々のうちに見出されると云ふ事は極めて当然なのであるから。由来、道徳といふものは、事実を抽象の様式に変へるために為された人類最古の試みである。その時以来、厳正科学は大いにその方法を改良したのだつた、そして、若しもそれが後に備へる為に予見するとすれば、それは、今迄何度となく失敗して来た老人達のやうな用心深さを以つてするのである。道徳はそれとは別様に行動する。それは若々しく、純朴である。ある偶然の出来事やふと胸を掠めて通つた恐怖や、晴れた日に感ずる喜びや、或はまた、古い習慣とか肉体的要求とかより厳粛な要素が、道徳が不変と信ずるやうな結論を確信を以つて宣告するに十分なのである。これらの誤謬は、自然の一部をなしてゐる所の人間が、自分を自然の外にあると思ひたがつた時に起つたのである。(…)

5)最後に、この下級文学は、正義的な結果を楽しむものである。しかも、この正義の感念は、普通、人が自分で信じてゐる観念(イ デ)に相通じてゐるのであつて、自然の正義ではなくて、反対に、人工的の正義なのである。私が先きにこの言葉に与へた意味に於いて、この意味で正義感を疲労の現象として研究したら面白からうと思ふ。ここでも事実はそれ自体として考へられずに道徳的な、即ち完全に智的な母岩に取囲まれてゐるものとして思惟されるのである。この道徳的な母岩を私は智的と云ふ。何故ならば、それは感知し得べき何等の箇所も有してはゐないのだが、然し、それが想像され、そして、認容された時始めて云ふ迄もなくその本体と現実性とを持つに到つたものであるから。そして、既に先きに云つた所の論理(ロヂツク)を求める心に応ずるこの正義感の平衡の中にあつて決定的の役割を演ずるのは、実はその母岩が包んでゐる所の事実よりもむしろ母岩それ自身なのである。(…)


3 文 学 と 美  LA  LITTÉRATURE  ET  LE  BEAU

 文学:文学の基礎をなしてゐる感覚及び先に感傷性(サンチマンタリテイ)と呼んだ平凡な感覚の様式と人が対立させる感覚のこと:作家一人一人の個性の相違はこの場合偉大な働きをする事:この変化の原因をなしてゐる新機軸を出さうとする探求は反射運動から生ずる疲労の現象に関係のある事:文学は人生を写真的に再現しない事:無意識的及び意識的の或る法則〔芸術的直覚及び流派の態度〕に従つて選択の余地がある事、而してそれ等を総合したものが美学を構成する事:記憶の法則の事:疲労の法則と記憶の法則との調和の事:美に対する印象の密度の変化の事。

 是を要するに、下級文学は平凡にして千篇一律な感覚の様式から生れて来る。真の文学は、それと反対に限りない変化を有する重要な個性的な相違を求めて止まないものである。確に真の文学は日常生活の行為以上にこれ等の相違を強調してゐるものであつて、実際生活に際しては、この相違性は例へばルボン博士に依つて群集心理の名のもとに研究された諸現象の場合に於ける如く、完全に消滅することもあり得る。然しながら或る一部の人間にとつては、共同に分配されたあの均等的な同胞的精神状態は、一時的の例外の態度でしかあり得ないのである。一般的にいへば、人は他の人人と異つてゐることを得意に思ふものなのである。彼はいかに微小な特異性をも誇りとなすのである、[ママ]その特徴が単に珍しいといふ点で自分を[ママ]他の人間とを別なものにする役にしか立たないやうなものまでも誇りとするのである。中学の寄宿生で同級生一同に分配されるみな一様な黒インキの代りに、青インキで書くことが出来る者は、自分を他と異つた者である。即ち他に優れたものであると判断するのである。この事に就いては、進化論的説明を試みることも出来るだらうけれども、今迄すでに進化論は、あまりに多くのものに応用され過ぎた傾きがあつた。今時、それを持出したら人が笑ひます。進化論もさることながら、生理学が相異癖に最上の鍵を与へる筈である。

 文字こそ己れの特殊性を出さうとする苦労が最も強く現れるのである。自分自身であることが、即ち他人のやうでないことが問題なのである。この関心の烈しさたるや、他のあらゆる関心を抑圧せんばかりなのである。実際またそのお蔭でこそ文学上のあらゆる流派は生れるのである。新機軸を出さうとする探求、此処にこそあらゆる美学上の原動力があるのである。(…)

 審美的感動には、意志や、判断力や、自由選択等は関与しないといふことに就いての、神学家の所謂、信ずべき確実性を十分説明したやうに私は思ふ。ともすれば、このことを説明することは必要ではなかつたのだかも知れない程、この考へは今更甚だ古い考へなのである。唯だ此処に、審美的感動を一種の智的反射運動として見る事、否むしろ、主格の一部を為すための、(こころよ)い智的状態を伴ふ感動的反射運動として考へることだけが未だ残された問題である。ここに云ふ反射運動といふ言葉と智的といふ言葉は不調和のやうに感じられるが、この場合、双方ともその本来の意味を稍々[やや]それた意味で用ゐられてゐるのである。これは、この種の問題を取扱ふに際して屡々[しばしば]起ることなのである。『反射運動』といふ言葉によつて、私は、この審美的感動の理性的でない、反省的でない、打ち勝ち難い、性質を云ひ現はさうとしてゐるのである。尤[もっと]もこの言葉も、他に色々ある真の反射運動とに類似してゐる点では許されることと思ふ。また私が『智的』と呼ぶのは、一つの感動に伴つて起る他のあらゆる現象を念に置いてあるからであつて、ともすれば、智的状態はそれらすべての現象の中で、最も重要ならぬ現象であり、単なる表皮現象(エピフエノメーヌ)に過ぎないかも知れないのである。(…)

 反射運動の消滅の現象の中に、吾々は、美の印象と、反射運動、条件付反射運動、との間に在する、もう一つの別の類似を見出すのである。
 『一定の反作用の反復は、遂にこの反作用を消滅させてしまふといふことは、極めて一般的の事実であるのであるが、然も、この事実は反作用のメカニズムが単純である場合にも複雑である場合にも起るのである……

 パウロオの弟子達の観察は、極めて興味ある事実を示してゐる。即ちそれに依ると、高等動物の脳皮の中に起こる複雑な心理的現象には、皆これと同一の消滅の現象が存するといふのである。例へば一頭の犬が外界の或る現象を見て唾を流すといふことを習得したと仮定する、この場合にあつて、若しも継続的に行はれる実験の状態が変化しない時には、先にいふた条件付の反射運動の漸進的消滅が見られるといふのである。特にバブキーヌはこの事実を極めて強調してゐるが、それは実に重大性を有する事実である。反作用の消滅は新しい反作用の発生の原因を容易ならしむるには相違ないが、然しまた多くの場合、蘇生が消滅に続いて起るのである。』(註一)
  (註一)既出ヂヨルヂユ・ボン参照。
 これと同じく、『人間に於ても、刺激の反復は感覚の閉止に導くのである。』(註一) エバンゴオ(註二)は書いてゐる。『われわれが、よく識つてゐるのは、いま現に形成されつつあるもの及び変化しつつあるもののみであつて、すでに不変の決定された状態にあるものではないのである、(…)
  (註一)既出ヂヨルヂユ・ボン参照。
   (註二)エバンゴオ著。心理学概要。現代哲学叢書。一九一〇年発行。ヂヨルヂユ・ボンより孫びき。
 この事実が、その儘文学の上にも起るのである。文学上の流派の所有物、即ちその特徴の集合によつて造り出された美の印象は、この特徴を使用して、その印象を惹起しようとする度数を重ねるに従つてますます密度を減じて行くのである。やがて美の印象は生じなくなつて了[しま]つて、かへつてそれは不愉快な苛立[いらだた]しい感覚に変わるのである。かやうにして、浪漫主義が、高踏派が、象徴派が過ぎ去つたのである。かやうにして、メタフオール[metaphore 隠喩]が常套語になるのである。同じ状態のうちに、余りにしばしば、美の印象を、再現しようとした結果、反[かえ]つてその消滅を、来たしたのである。一八七〇年に、ロマンチックな表現の方法によつて獲得した審美的反動を、今日、人が既に得なくなつたのは、それが今迄余りに繰返されて来たのに外ならないのである。かやうにして、先に挙げた犬はもう唾を流さないようになつたのである。(…)

 尚[な]ほこの事実は、美の印象の条件が時代と共に必然的に変化する以上、不変の美学を持つことは有り得ないといふことを証明してゐるのである。美の印象それ自身も変化するといふことだけは、どうやら真実らしいのであるが、此処に到ると、一個主観的な性質の在るものがあつて、すべて明白な意見をいふことを不可能にするのである。(…)

 さて、此処に一つの文学上の流派がある。或ひは、もつと控へ目にいふならば、一つのグループがあつて、今やその誕生のすばらしい光景をわれわれに見せてくれようとしてゐる。(…)彼らが人生を眺める為に今迄自分たちの額をもたせてゐた天窓は、かつて無類に複雑した色様々のステーンドグラスであつたのであつたが、彼等は余りにそれらを見過ぎた結果、最早、その
褪せた色彩に気づかなくなつたのである。彼等は新規のアツトリビウ[attribut 属性、象徴]をもつて来たのである。人は彼らが彼らの文学に着せようと考へてゐる着物を愛せないことも出来るだらうが、然し、それ等がムーブマン[mouvement 運動、文勢、動向]である、即ち、人生であることだけは認めないわけには行かないのである。或る人達は彼らを罵詈[ばり]する。また他の人達は彼等を知らずにゐる。然しそれにしても彼等は所謂前衛(アヴァン・ガルド)なのであつて、人々は是が非でも、彼等の後に従つて行く筈なのである。普通の人々より多くを読み、そして、強く感じたが為に、彼等は一つの変化が必要であることを他人より早く(さと)つたのである。この変化を彼等は実現するのである。(…


 文学は人生を再現すべきものだといふことを、今迄人は余りに繰返していひ過ぎた。成る程、それは真実かも知れないけれど、然しそれを余りに厳格に守るべきではない。この掟を余りにも慎重に信奉し過ぎた為に、自然主義は死んだのである。あらゆるデタイユ[détail 細部、部分]をいちいち記述する必要はないのであつて、その中の表現的なものを選択すべきである。その選択の中にこそ全美学は含まれるのである。若しも人がその法則を心得てゐたなら、美は化学的反応のやうに調合される筈なのである。これらの法則に二種類あることを、少なくも人は看るのである。即ちそのなかには、甚だ、短い運命をもつてゐる法則があつて、それ等の法則はそれを用ふる文学上の流派が生きてゐる間しか命はないのである。二十五年の間にたつぷりと黴の生える程度の価値を有するこれらの手法も、実は審美的感動を再生させるに必要である新しいものを補足する点で、役立つことになるのである。それらの法則のお蔭で、われわれは賛美になくてはならない要素であるあの驚愕を感ずるのである。(註一)これらの新規の性質はその故意の目新らしさで激しく人の心を打つために、読者はそれらが付随的のものであることを忘れる程なのである。これら新規の性質たるや、疑ひもなく秤棒[はかりぼう]を反らせるには違ひないが、然し若しそればかりが単独で量られたとしたら恐らくさうは行かないだらう所の添荷にしか過ぎないのだのに、読者等は審美的感動の価値を悉[ことごと]くその新規の性質に帰してしまふのである。実はこの性質とは別口のより変化のない法則から生ずるより深いそしてより外部から見えない影響こそ欠くべからざるものなのである。或る一つの文学が常に含んでいる古典主義の部分を、若しもその文学から除去するとしたら、結果はその文学を減少したことになることに気がつくのである。この意味に於て、縦[たと]へ仮装してゐるとはいへ古典主義はわれわれの間に生き残つてゐるのである。ただ今日古典主義だけでは不十分なのである。といつて、古典主義の深い古い根をもたない近代主義だけでは一層不十分なのである。二つのうち、前者は 使ひ古されて弱くなつた 在来のコンディションを表し 後者は 後で付け加へられた それ自身では 審美的反射運動に無関係な刺激を表してゐるのである。二者の要するに協力が必要なのである。(…)
   (註一)美は驚きである(ボードレール)

 【参照】 井伏鱒二 「理論―ジャン・エプスタンの理論を読みて自ら顧みる」( 『文芸都市』 1929.6 )

HOME国語教育/文学教育《資料》 文学の仕事――諸家の文学観に学ぶ