| イリヤ・G・エレンブルグ『作家の仕事』(1953.10)より |
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| 鹿島保夫・訳『作家の仕事』(1954.5 未来社刊) |
一 黄昏の文学と夜明けの文学――世界文学の現況
(…)
わたしは決して理論をうちたてたり、あるいは助言をあたえたりするつもりはない。――そんなことは不遜なばかりでなく、馬鹿げてさえいる。さまざまな作家がさまざまな方法で文学に接近し、さまざまな仕方でものを書き、さまざまな仕方で創作のプロセスを体験している。わたしはたんに、わたしがわたしの仕事をどのように理解しているかについて話したいとおもう。 p.6-7
(…)
トルストイ、ツルゲーネフ、ゴンチャローフ、チェーホフは、かれらの主人公が任意の状況下になにを感じ、またいかに行動しているかを実によく知つていた。ソヴエト作家が、急速に変りつつある自己の同時代人の思想や感情をつまびらかにするのははるかにむずかしいことだ。作家がバクロし、あるいはたんに記述しているだけの既成社会の描写と、建設途上にあり、作者自身もその創造に参加している史上未曽有の社会の描写とを比較するわけにはゆかない。 p.9
(…)
おのおのの社会はそれぞれの芸術開花の時期を、調和の勝利を、完璧な作品の充満を知つている。このような時期は真昼とよばれている。ソヴエト社会はいま早朝を体験している。歴史にとつて数十年とは、短い時間である。わが国の作家は試掘者をほうふつとさせる。それだからこそ、わたしたちのところには、まだプーシキンやトルストイがいないのである。しかしプーシキンやトルストイはやがてあらわれるであろう。真昼は前方にあるのだから。
いまのフランスには、バルザックもスタンダールもフローベルもゾラもいない。いまのイギリスには、ディケンズもバイロンもシェリーもいない。あたらしいディケンズなりあたらしいスタンダールの誕生によせる期待が生まれでるためには、多くのものが、これらの国々における多くの変革が必要である。が、目下のところは、かれらのところにあるものはすべてがたちおくれている。 p.14
二 内面世界の探求――作家の仕事について
(…)
作家がおのれの同国人、同時代人よりも一そうつまびらかにせねばならない一つの分野がある。それは人間の内面世界である。主人公の風貌、主人公のいわゆる環境――住居なり工場の職場なり――を描くことは必要ではあるが、しかしこれは、実際にはそれほど難儀なことではない。このような描写は手段であつて、目的ではない。
諸君と一しよのところに住んでいるイワーノフなる男をあつかつた小説が、ここにあると仮定してみよう。この読者にとつては、イワーノフの容貌も、かれの日常生活も秘密ではない。この読者は、イワーノフを何回も見ているし、アクチーフ[露 活動家]の集会でかれの発言をきいたし、あるいはかれをおとずれたことさえあるかも知れないのである。しかし、イワーノフはかれにとつては依然として、なじみはあるがしかし「開かれざる耕地」といつた風の存在であつた。作家が、この縁のとおい隣人がなにを考え、かれがどのようにして苦しみにたえ、どのように辛苦し、どのようなあやまりをおかしなどするかを示すことに成功するならば、読者は、この小説の読後に、自分が豊かなつたように感ずるであろう。かれはイワーノフを知つた――そしてそのことによつて、自分をもよりよく知りえたのである。
この架空の人物、イワーノフが金属工であるならば、もちろん、作家は工場におけるかれを描くこともあるであろう。労働は人間生活の一部分であり、しかもわたしたちの社会では本質的な一部分なのだから。その場合、作家は冶金工業を理解せねばならないが、かれが職場を描くのは、イワーノフをより鮮明に描かんがためであつて、削截機を描かんがためにのみイワーノフを描くといつたことにはならない。
読者は、作家がかれよりも深く人間感情を研究したということ、作家はレントゲンの光線にもなぞらえうる眼力をもつているということをあてにしている。小説のページをひらく場合、読者は自分の同僚、同時代人、友、敵をよりよく知りたいとねがう。彼は自分自身をより完全に、より正しく知ることを、自分の生活に意味をあたえることを期待する。 p.16-18
三 芸術作品の創作過程
(…)
作家はなんでもかんでも、まただれでもかれでもを書くことができるわけではない。作家は、テーマの選択においても、主人公の選択においても、制限されている。どんな作家にも障壁というものがある。もつともすぐれた作家ですらこれをもつている。小説家の創作活動が社会によつて規定されるということ、このことはこんにちではだれにでも知られているところである。
しかし作家の創作活動は、同時にまたかれの生活の歴史、彼の生活経験、かれの性格によつても規定されるものである。 p.25
四 小説を生みだす力
(…)
芸術においては、統計学が工業生産において演ずるような役割を演ずることがない。事実はどうかといえば、一篇のすぐれた小説の方が数百の拙劣な小説よりもいいのである。小説は石炭のようにもえつきはしない。履物のように使いふるされるということはない。
無人島にいても、あるいは作家の頭にぼんやりとした形象が生ずることがあるかもしれないが、しかし本を書くための刺激は起らないに相違ない。作家は人びとのことを、そして人びとのために書くのだから。
フランスの作家マルセル・プルーストは、物音が流れこまないようなコルクばりの壁にかこまれた一室にとじこもつて、本を書いた。唯美主義者はよくこのことを理想として喋々する。かれらは、そのプルーストが、コルク張りの部屋にとじこもる以前には、人びとと一しよに生活し、フランス上流社会の研究をみごとにおこなつたということを忘れているのだ。真の文学はつねに社会生活と結びついていたものであり、作家の、社会からの隔絶だとか、「象牙の塔」だとかの論議がブルジョア社会に生じたのは、ブルジョア社会が腐敗しはじめ、小説家たちが、世界の財産総目録がつきたということ、そして現実を夢に替えねばならないということを心に決したときであつた。 p.28-29
(…)
革命前には、作家にとつて生活は容易ではなかつた。チェーホフの手紙のなかには、新聞あるいは雑誌の編集者がかれに短篇を注文した旨の記述をみいだすことができる。しかしもつとも無頓着な編集者ですら、チェーホフに短篇のテーマを提示するような挙にでようとしたものはなかつた。トルストイに「アンナ・カレーニナ」を注文するとか、ゴーリキィに「母」を注文するとかいうことがはたして想像できるだろうか?
なにを書くべきかを暗示されねばならぬほど個性のない、なにものにも無差別的な作家など、おそらくありえないであろう。それに実際の話として、作者の燃焼によつてではないしに、雑誌の編集部からだされる割当によつて生みだされた作物など、だれに必要があるといえよう? もしも作者がトルストイの助言を無視して、かれ自身の心をわきたたせないようなものを書くとしたら、かれの作品は読者を興奮させえないであろうからだ。その結果としてえられるのは、わたしのレニングラード通信員が指摘したとおり、発端も、ハッピー・エンドも、葛藤のからくりも、あるいは陰謀のトリックまでもが、――なにもかもがそなわつているが、ハートのない、もつともかんたんにほれやすい読者さえも豊かにさせえない本であろう。 p.30-31
五 芸術における傾向性――作家の情熱について
ブルジョア・イデオロギーの擁護者たちは、ソヴエト作家や西ヨーロッパの進歩的な作家たちを、傾向性をもつているからといつて非難する。わたしはフランス語の辞引をひいてみたところが、傾向性とは、<なにかに傾くこと>とある。作家が、すべての人間と同様に、あるものを愛し、あるものを憎むのはしごく当然なことである。もしも作家が自分の同時代人となにかの点でことなつているとしたら、その相違点というのは、同時代人の感情の鈍さというよりもむしろその感情の鋭利さである。作家は正義や理性や友愛に傾くことがありうる。かれはまた、おのれの本当の傾向を精神上の貴族主義だとか宗教的傾向だとか、愛国主義だとか詐称して、社会的不正や暗黒や民族的尊大やに傾くこともできる。
ダンテはかれの同時代人たちの情熱を心情として生き、政治闘争に参加し、多くの詩を政治闘争にデジケートした。傾向性はかれが「神曲」を創りだすさまたげとはならず、かえつてたすけとなつた。そしてかれの「神曲」は、八世紀の市民的波瀾が、久しい以前に鳴りしずんだにもかかわらず、いまもわたしたちの心をわきたたせている。 p.32-33
(…)
作家は慰めのために書いているのではない。有名にならんがために書いているのではない。かれは人びとをより完全なものにし、生活をより高度なものにすることを欲している。書物はかれにとつては、この闘いにおける道徳的な武器である。
わたしは、作家が小説の舞台の前面にでて、かれが描いている主人公たち、あるいは事件に、どのような態度で関係しているかをたえず説明せねばならないとは、決していおうとおもわない。小説の傾向性とは、わたしにとつては小説の情熱である。高いイデーにインスパイア(鼓舞)された作家は、社会発展の道程を理解している。かれはある人物の正しさ・生命力を、また他の人物の不正・崩壊してゆく運命をみぬいている。
作家の情熱は、ナイーヴな無力な偏愛を意味するものではない。作家は貪婪、二心的行為、あるいは偽善を憎みはするが、しかし守銭奴、二心者あるいは偽善者から人間的特徴を剥奪したりはしない。世界をたんに白黒二色で描くことはできない。憎悪は愛情と同様に抽象的な概念ではなく、生きた具体的な人びとに向けられるものなのだから。
ドイツのコミュニスト女流作家アンナ・ゼーガースの小説「死者はいつまでも若い」にでてくるファシストは、生きた人間である。かれらの一人ひとりはある程度の美徳を失つてはいないが、しかしかれらはすべて恐るべき犯罪をおかし、あるいはそれを隠蔽している。傾向性はアンナ・ゼーガースが現実をより深くのぞきこみ、芸術的により忠実な光景をあたえることをたすけた。
ショーロホフは「開かれた処女地」において傾向的だつた。かれは、農民階級の困難な変革が前進への一歩であることを理解している。そしてこの傾向性が、かれがクラーク(富農)の心を洞察し、事件の平板的な、プラカード式な描写ではなく、心理的真実のみちた光景をつくりだすことを許したのである。
情熱を抜きにしては真の文学は存在しないし、かつても存在していなかつた、とわたしにはおもわれる。ことばの粗雑さ、構成力の弱さやその他の文学上の欠陥からぬけでるのは、精神上の冷たさからぬけでるのにくらべれば、はるかに容易なわざである。あるいは、認知、鼓舞、奉仕といつた、ほとんど反対側からでた若干のことばを想起する価値があるだろうか? 実際にはどうかといえば、これらのことばはこつけいではなく、空虚ではない。これらのことばのなかには、一人の短い生涯のあいだに多くの生活を経験し、人びとの心を燃焼させると同時に、自分自身ももえたたねばならない、人間の内面世界を解明し、読者にものをよりはつきりとみ、より完全に、より高く生きることをたすけねばならない人間としての作家の義務の正しい理解がある。 p.36-38
六 作家の才能とはなにか
(…)
作家の才能におけるもつとも本質的なものとは――歴史の進行過程を理解する能力だといえようか? もちろん俗人よりも知的にすぐれていないような作家は想像しがたい。どの時代を理解し、ちようど歴史の峠といつたものからその時代をのぞきこむ能力は、作家にかならず固有なものとはかぎらない。政治家バルザックは、芸術家バルザックにたえず矛盾していた。人間の理性と心への浸透はトルストイを社会的素朴さから守つた。現代作家は、社会発展のみちすじをよりよく研究することができる。作家はもはや、天才的予言にも、議論の余地ある憶測にも満足すべきではない。現代作家のまえには、その正しさを見事に是認された科学的理論がある。マルクス主義的分析の意義を理解しなかつた西ヨーロッパの作家たちは、今世紀のおそるべき諸事件のなかにあつて茫然自失した。かれらの作品はとるに足らぬ(意義のない)個々の事件への嘆美にささげられたものか、さもなければ、いつさいの本質的なものの一括的否定であるかである。しかし、生起しつつあるものの理解だけでは不充分である。わたしたちは力弱い小説を書いた過去のすぐれた思想家たちを知つている。かれらの本にでてくる人びとは、名まえや外貌や職業やをあたえられてはいるが、しかも生きた人間とはうけとれず、真理ないしは迷蒙の図式的な具現者のようにおもわれる。 p.41-42
七 生活体験・想像力・個性
(…)
西ヨーロッパに普及している意見に反して、作家は人間悲喜劇の観客たりえない。かれはその当然の義務ある参加者である。小説第一章の執筆開始に先立つものは、作家の準備行為――おぼえがきや最初の草案だとか――の数カ月ないしは数年だけではない。緊張にみちた生活、作者の喜びや悲しみ、作者の飛躍や失敗、作者の対人関係の数年間もまたそれに先行する。
だからといつて、もちろんわたしは、作家が長篇小説ないし短篇のなかで描いているのは、もつぱら身におこつたことばかりだといいたいのではない。それどころか、作者はかれが体験したことばかりか、かれが観察したことをも変えるのが通常である。しかしながら作家はつねに、その思想なり感情なりを理解しうる人びとを書いている。このことを外しては、文学は存在しない。一方、主人公の体験を理解するためには、作者は他人の心に通ずる道をかれのためにきりひらいているなにものかを体験しなければならない。
第一次世界大戦をえがいたのは、自分の書斎のうちにこもつてではなく、塹壕のなかで塵埃と血にまみれて戦争を目撃した西ヨーロッパの作家たち――バルビュス、レマルク、レン、ドルジュレス、ヘミングウエイ、オールディントンであつた。悲愁にみちた、ドラマチックなかれらの著作にあらわされたのは、無意味な殺戮に激昂した諸国民の良心である。第二次世界大戦は、わたしのみるところでは、ネクラーソフ、カザケーヴィチ、ベック、シーモノフ、グロスマン、パーノヴァのような戦争の参加者だつたソヴエト作家の作品のなかにもつとも鮮明に表現された。 p.44
(…)
かつて一度も戦争にでたことのない人間にとつては、その参加者がなにを経験しているか、かれが恐怖をどのように克服しているか、死の絶えざる近接感のなかで日常生活がいかに形成されるか、友情がいかにして強まるか、人びとがいかにして同時により粗暴ともなり、感じやすくもなるかを想像することはむずかしいことだ。主人公を描くためには、かれらの心を開く鍵が必要であり、そして体験をわがものとして感ずることが作家の洞察力と呼ばれうるのである。 p.44-46
(…)
読書は、創造的なプロセスである。読者は小説を読みながら、作家の仕事に親近な仕事を、作家と共同でおこなつている。それは原文のなかにあるものを創造力によつて補足する。この場合、かれが自己の生活体験から出発しているのは申すまでもない。読者は同一の小説の主人公をさまざまな見方でみている。これらの作中人物は、読者の想像力によつて色どりをつけられたり、色彩のないものとされたり、高められたり、おとしめられたりする。わたしは自作の小説の討論がおこなわれる読者協議会に出席して、わたしの多くの文学上のしくじりのみでなく、人間の性格の相違についても、いやおうなしに考えさせられることがしばしばだつた。読者はある主人公の心に通ずる道はみいだすが、他の主人公は冷淡にとおりすごしてしまう。 p.50
八 虚構―観察―典型――主人公の誕生
(…)
芸術家は、自然を盲目的に描写しない。かれはそれを改造し、形象をつくりだす。そして、その形象は現実化する。 p.56
(…)
通常、小説の主人公は――合金である。これらの主人公は、多くの人びととの多くの出あいののちに創造される。作家はかれの生活経験のいつさいをそのなかに投入する。作家に親しい友人は、かれの小説なり短篇なりのなかで、自分たちの知つている事件が変形されているのにおどろきを感ずる。かれらの口にしたことばは、他の人びとの口にのぼされている。かれらの昔からの友人の外貌が、まつたく別な生活上の歴史をもつ人間に付与されているのだ。
現代作家の心の実験室をつまびらかにすることはむずかしい。かれらはわたしたちと一しよに住んではいるが、しかしわたしたちは、かれらの性格、かれらの生活の歴史を充分によくは知つていない。しかしわたしたちが、古典作家の創造した小説の主人公たちの発生の秘密をとこうとするならば、わたしたちは作家の手紙、作家の日記ないしはメモや、同時代人の回想記を知らねばならない。そのときわたしたちは、小説の主人公が作家をつよく衝撃した一人物の会合によつて生れたものではないことに気がつくであろう。主人公とは、作家が多くの遭遇に意味を付与したときに生じたのである。 p.57-58
(…)
単純な観察ではなく、芸術家によつて意義を付与される共通体験的観察が、きわめてリアルな、社会の風貌をあらわしている典型的な人物を創造することを作家に可能ならしめる。
典型的なものの概念は、統計学とは関係がない。小説にでてくる主人公に似た人物が三百万人もいれば、作者が典型を示すことができたことで、もしもそれが全部で三千人だつたら、作者は失敗したことだとはいえない。作家はその社会の生活を生き、生活から遊離した地点においてではなく、生活の深層のなかに生起するものを描きだす。作家は、人びとを、国民を、動きのなかにとらえて描きだす。 p.58-59
(…)
現代のブルジョア作家はなぜあのようにみのりがないのであろうか? かれらは生きた生活から遊離し、その作品中に他の人びとを全然想起せしめないような人びとを描いている。もちろんこのような人びとは実在しているし、あるいはおもつたよりも多くいるかもしれない。しかしかれらの基本は、小説のなかに自分や自分の時代の反映を求めている読者を沸きたたせない。
スタンダール時代のフランスにおいては、どんな十字路においてでも、ジュリアン・ソレルやルュシアン・ルーヴェンにであいえただろうとは、わたしはおもわない。――かれらが有していたような性格はめつたにないだろうと、わたしはおもう。しかしかれらは、その時代にとつてきわめて典型的な、またこんにちにおいてもなお、変形された姿で実在している情熱や傾向の精選鉱である。スタンダールの作品が読まれているのは、またおそらくこんごも長く読まれるであろうのは、この故である。 p.59-60
(…)
小説の主人公は、写真のコレクションでもなければ、画面の一枚一枚に照会文[ママ]のついている書類の包みでもない。それは、生活を感受し、それに意味をあたえうる芸術家によつて創造された虚構の、しかしリアルな人物である。 p.60-61
(…)
主人公の誕生は――作家の仕事のなかでもつとも大切な、もつとも困難なものである。このプロセスは複雑であり、これにたいして機械生産に接するような態度をとることはできない。 p.62
九 生きた人間の創造
作家は人びとを観察してはいるが、なにもかもみているとは決してえいない。人間の心のもつとも経験に富んだ研究者さえ、あきらかになしえない秘めたる思想、秘めたる感情というものがある。これらの思想や感情はときとしては、異例的な瞬間にあかるみにだされるものだ。それを見抜くもの、――より正しくはそれを判ずるものは、近親者である。小説の人物を創造する場合、作家は自分の観察だけではなく、自分の経験、自分自身の感情をもたよりにする。
イプセンの生涯はきわめて侘しいものだった。かれの数多い戯曲はすべて、作者の長々としたモノローグと名づけられることができる。晩年になってイプセンは、つぎのように告白した。「芸術家が創造できるのは、部分的にせよ、また短時間にせよ、かれが自身のなかにそのモデルをみいだすことのできるものにすぎない。」このことは、もちろんイプセンがノルウエーの社会を知らなかつたということ、あるいはかれが創作のなかでは自分自身によつてのみ、自身の体験によつてのみ生きていたということを意味するのではない。かれの戯曲のなかにわたしたちは、多くのことなつた性格をみいだすが、しかしそのすべてが作者自身の性格によつてしるされている。 p.63-64
(…)
作者は、彼の著作の主人公たちが体験するいつさいのことをのこらず体験することは決してできないが、しかし彼は、かれの人物の内面世界を理解するたすけとなるなにかを体験しなければならないとは、すでにわたしが語つたところだ。偽善、利己主義、臆病とうの罪悪を多量にもつている人物を創造するためには、作者が偽善者、利己主義者、臆病者であつてはならないことはいうまでもない。作家をも含めてすべての人間は、自己を教育し、環境によつて教育され、かれらにとつて卑しいとおもわれる感情なり感情の萌芽なりを克服する。作家はゆたかな内的記憶力をもつており、幼い頃、少年の頃、あるいは成人してからでも、ひとたび成長するや偽善者、臆病者、利己主義者となりうる要素をいかにして克服したかをおぼえている。彼は自分の近しい人びとのなかにみいだす、あるいはかつて自分のなかに認めたことのある、よくない資質をとくに憎悪する。勇気とは通常、恐怖の克服をさしていう。しかし、いかなる状況下にあつても恐怖の瞬間を一度も体験したことのない、稀にみる資質があるとすれば、そのような資質にめぐまれた作家は臆病者の行動をえがくことはできるかもしれないが、かれの内部状況をえがくことはできないであろう。 p.65-66
(…)
社会をえがき、立派な人間とともによからぬ人間をえがく場合、作家は度合、節度を守り、すべての人物を生きた人間とすることに努力する。そのためには、おのれの主人公のすべての心に通ずる鍵をみいだすことが必要である。 p.67
一〇 小説の主人公
さまざまな作家がさまざまな仕方で小説を構成し、その主人公たちを創造する。ある人々の仕事はコンパスと定規でインスピレーションを測る建築家になぞらえることができよう。他の作家たちは、粘土のかたまりを徐々に人間の顔に仕立ててゆく彫刻家にむしろ近い。小説の第一章を書く以前に、そのプランを細大漏らさず検討する作家たちが存在していたし、いまも存在している。また別な作家たちは、書いてゆくにつれて事件の進展を知る。ア・エヌ・トルストイは、小説の事件がつぎの章ではどんな風に発展するかわからぬままに、とりかかつている章をかきはじめてそれがわかると、かつてわたくしにいつたことがある。しかし、作家がもつとも詳細な著作プランをつくつた場合でさえ、かれは仕事の進行過程でそのプランを変えてゆく。 p.68
(…)
変更が生ずるのは、主として、書かれた小説の主人公は、作家がいかに長く胎内に宿していたにせよ――まだ生きた人間ではなく、幻影にすぎないからである。この幻影が肉づき成長して、作者自身にとつて、生きものとなるとき、作者は、かれがおのれの主人公のあれこれの行動を誤つて予測していたことに気がつく。またその構想中にかれが考えたり、予感したり、あるいはおこないえないものを、主人公の属性であるかのようにみなしていたことに気がつく。ア・エヌ・トルストイが、事件の進展の前途がわからない、そこでかれはそのためにおのれの主人公をよりよく知らねばならない、といつたのもそのためである。
芸術作品の主人公は、作者が意図した筋にしたがうことができず、たえずそれを変えてゆく。登場人物は作者の意図にさからう。 p.68-69
(…)
作中の主人公たちは、ある程度作者の意志から独立している、とわたしはいいたい。作者は主人公たちの性格を考慮すべきであつて、かれらに向つていかに行動すべきであるかを指示してはならない。 p.70
一一 なにを描くべきかということ
もつとも長い小説の作者でさえ、主人公たちの全生涯を描きだすわけにはゆかない。作者は、かれにとつてもつとも本質的なものとおもわれることがらを選択する。ときとしては、作者が主人公の一日をきわめて詳細にわたつて書きながら、やがてその後につづくかれの生涯の二年間については、一ことも語らない場合がある。かれは、登場人物中の一人が住んでいる住居をこまごまとえがきながら、しかもその妻の容貌を描くことを必要としないこともありうるし、また二義的人物の肖像を描いたり、秋の朝あるいは春の夕べがどんなだつたかを物語りはするが、そこに描かれている朝なり夕べなりに、仕事あるいは逢びきにでかけていつた人間の年令については、ひとことも語らないこともありうる。 p.72
(…)
作家はつねに、かれが読者に伝えているよりも以上に、おのれの主人公たちのことを知つているものだ。かれは人間の性格をはつきりとしめし、その行動を説明している事件、生活の詳細、思想や感情を選びだす。本を読みおえたとき、読者はかれが物語りの主人公たちとなじみになり、かれらの生活を知り、かれらの心をのぞき込んだと感ずるに違いない。チェーホフの「可愛い女」は短い短篇だが、しかしそれを読んだものはだれもが、かの女のそばで数年間ともにくらしてきたかのように、ヒロインを理解する。 p.73
(…)
ソヴエトの作家がソヴエト人の肯定的諸特徴を描き、社会主義社会の建設前には不可能だった、あたらしいものである偉業や思想や感じを描こうと心がけているのは、しごく当然なことである。しかしこれらの偉業は生きた人間によつておこなわれているのであり、これらの思想や感じは、一人の人間のなかでは他の、ときとしては月並みな、ときとしては以前の時代から流れでている思想や感じといりまじつているのである。わたしたちの同時代人は、きたるべき時代の理想的人間の模型ではない。きわめて困難な条件のもとで、かれらは実際に未曽有の事業をおこなつてはいるが、しかしかれらの一人ひとりには欠陥や弱点があるし、かれらの一人ひとりがそれぞれの生き方をしており、愛したり、しつとしたり、期待したり、うつうつとしたり、よろこんだり、あるいは悲しんだりしている。主人公を一つの面だけでしめし、一見したところではかれを<おとしめる>かにおもわれるものはすべてはぶき、主人公の精励振りやかれの勤労上の達成やを語ることによつて、作者は主人公を非実在的なものにしているのである。 p.74
(…)
あたらしい社会の人びとをえがきだすこと、図式ではなくリアルな人びとをえがきだすこと、複雑な、雄大な、完全な生活を生きている人びとをえがきだすこと――このきわめて困難な、しかし高貴ある課題がわたしたちには課せられているのである。 p.81
一二 描写の方法
作家の仕事について語るに際して、わたしは、頻繁に過去の作家たちを引きあいにだしている。わたしたちは、かれらからなにをまなぶことができるか? わたしたちが学びとるのは、ことばの清純さとゆたかさ、小説の構成、外面的手法である、と通常いいならわされている。
こうしたことのすべてを古典作家たちから学びうるのはもちろんである。新聞にでてくる貧弱なことばではなしに書くことができるし、また書かねばならない。人間を描きだすトルストイのあの能力、小説の動きに風景を導入するツルゲーネフの能力、ことばすくなであるにもかかわらず、表現力にとんだチェーホフに固有な手法のもつ力、ゴーゴリにおける抒情詩的なわき道のもつ異常なリズム、レールモントフの詩における昂揚の精神と真底からのあかるさとの融和およびその他多くの例を想起してみよう。
学習とは模倣を意味するものではない。あたらしい内容はつねにあたらしい形式を生んだ、とわたしにはおもわれる。十九世紀の小説は、もつぱら個人的ないしは家庭的であつた。作者は、一人ないしは数人の主人公のまわりに登場人物を結集させた。ところがいまでは、社会生活が一人の人間の個人生活のなかにより多くいりくんでいる。心理小説でさえ、主人公ないしは主人公たちがそうぐうするおびただしい数の人びとの描写なくしては考えられない。このことは、小説の構成のうえに不可避的に反映されざるをえない。生活のリズムも変った。その動きが風景の冗漫な描写によつて絶えずさまたげられているような現代の小説など、わたしには想像しがたい。それはツルゲーネフにとつては有機的なつながりがあつたが、現代ではそれは一つの様式化と考えられよう。しかし、わたしたちが古典作家から学びうる、さらにもう一つのものがある。人びとの描写にたいする態度がそれだ。 p.82-83
(…)
十九世紀の大作家たちは、かれらが目にしたものの記述にとどまつてはいなかつた。かれらは時代のとばりを持ちあげ、未来をのぞきこもうとした。しかしながらかれらには、いまではどんな初歩的な文学者の資産ともなつた社会発展の科学的理論がかけていた。かれらの哲学上・社会上の理想は、わたしたちにしてみれば幼稚な、限界のある、ときとしてはあやまつたもののようにおもわれる。ソヴエトの作家は人間の相互関係発展のすう勢を規定できるし、かれらは、どのような感情が発展し、どのような感情が死滅の運命を辿るかを知つている。
作家の仕事を語るにあたつて、わたしたちの偉大な先行者たちをわたしがかくもしばしば想起しているのは、かれらが自己の同時代人たちを異常な浸透力をもつてえがきだしたことによる。わたしたちはかれらから芸術的真実性、人間理解の深さ、人間を生けるものとして描くその能力を学ぶことができる。 p.84
(…)
ソヴエトの読者はわたしたちの文学を熱烈に愛しており、その失敗を気に病み、その成功を喜びとしている。かれらは、わたしたちの社会の雄大かつ複雑な生活をよくみているので、若干の小説にみられる真実ならざるもの、簡略化・制約性を見ぬく。かれらは書物のなかに自分たちの同僚を、同時代人を、そして自分たちを、精神的完璧さの模範としてではなしに、生きた人間としてみいだすことをのぞんでいる。かれらは、古典作家たちのものを読み、かつ繰りかえし読んでいるので、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキイが革命前ロシヤの人びとをいかに誠実に、いかに見事に、いかに明敏にえがきだしているかを知つている。そしてかれらは、この精神的にはかならずしも平凡とはいえない平凡な読者たちは、ソヴエトの小説の扉をしつようにノックしている。 p.89
一三 芸術的手法の多様性――社会的リアリズムについて
(…)
作家の、テーマにたいするロマンチックな態度は、その作家が、人間の清純な面を一身に集中している主人公を描くことを可能にする。作者の探照灯は、作者がえがきだす主人公の諸特徴のうえにさし向けられる。それは全体の均斉をするどく変化させる。わたしたちがロマンチックな本に登場する人物たちの存在にリアリティを信ずるのは、それらの人物を創造した作者の態度が教訓めいたものではなくて、詩的だからであり、かれが説教を読むのではなく、遠方や高所を(現実からはなれた空想の世界を)いささかたかめさせ、おしひらいているからである。 p.91-92
(…)
芸術における空想と実在についての論争は、西ヨーロッパでは、いまだにつづけられている。この論争は、わたしたちにせよわたしたちの読者にせよ、すこしもわきたたせない。社会主義リアリズムは、ひとつの文学流派ではない。社会主義リアリズムは、実にさまざまな芸術上の手法を許すものである。 p.93
(…)
十九世紀のロマンチストは読者たちを高峰につれ去つた。自然主義者は読者を人生の深いあなぐらに投げおとそうとのぞんだ。「レ・ミゼラブル」にでてくる気高い警官ジャヴェルと善良な医師ボヴァリーは、いまわたしが話しているこの二つの小説がほとんど同時期に書かれているにもかかわらず、一つの世界には共存しえなかつた。ユゴーは存在していなかつた人間をみいだし、一方フローベルはその主人公のうちにそれの内包しているいつさいのものをみいだすことを欲しなかつたのである。 p.93-94
(…)
読者は芸術作品をさまざまな仕方で享受している。多くのことが、読者の年令、心的状態いかんにかかつている。ある読者は、理想的な主人公を実際に模倣しようと心がける。他の読者には、このような主人公たちがわが身には縁遠く、近づきがたいものにおもわれ、かれらは弱点を有している人びとを例として、かれらのあやまちやかれらの成功に側して[ママ]学んでいる。
人びとをいかに描写すべきかについての論争は、フランスの学童や老いたる文学上のスコラ主義者にまかせておこう。わたしたちは生きた人間をえがかねばならないことを知つている。そのためにわたしたちが必要とするのは、真実性であり、情熱であり、人間性である。これらの特質は、リアリストにとつてもロマンチストにとつても一様に必要なものである。これらの特質は、一つの芸術手法を他の芸術手法からわけへだてるのではなく、文学を金もうけ仕事(やつつけ仕事)や反古同然の本からわけへだてるのである。 p.95
一四 内面世界の矛盾と葛藤――文学の社会的・教育的意義
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十九世紀の多くの作家たちは、おのれの主人公の苦悩を心にうけとめていた。ユゴー、ディケンズ、バルザック、スタンダール、フローベルの小説は、貪婪と虚偽の世界をあばきたてている。前世紀ロシアの作家たちは、より一層の深さと人間性とをもつて強者による弱者の、富者による貧者の、寄食者による勤労者の毀損をえがきだした。しかし過去の文豪たちは、かれらを片輪にし、あるいは殺している社会制度絶滅をめざす闘いに直接参加することはしなかつた。かれらのうちの若干のものは、たとえばバルザックあるいはゴーゴリがそうだが、自己撞着をひきおこし、おのれの作品中ではあばきたてたものを実生活においてはよう護した。 p.97-98
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わが国の作家たちが、文学の仕事を別にして社会活動に従事しているということはありえない。わたしたちは、わたしたちの作家の仕事を、もつとも責任のある社会的活動とみなすものである。本が人びとを変革し、生活を変革することを、わたしたちは知つている。
芸術文学は読者を教育し、読者がよりよく生活するたすけとなり、感情の文化をたかめ、人間を近親者や同僚やすべての人間にたいしてより注意深いものとする。長編小説、短篇小説、詩とは、社会の情緒的セメントである。
わたしたちの仕事には、さらに別な一面がある。作家は内面の葛藤と矛盾を示さねばならない。作家は精神的不祥事のあらゆる徴候を強調せねばならない。作家は人間の心の深みにかくされている暗黒面とあかるい面との闘いを照らしださねばならない。 p.98-99
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十九世紀の文豪たちは、おのれの主人公たちの精神的破滅をえがきはしたが、その破滅からの抜け道をみいだしてはいなかつた。かれらのうちの多くのものは、人間ドラマの社会的諸原因を理解してはいたが、しかし社会変革の可能性を信じてはいなかつた。かれらは自己の無力を、ときとしては宗教上ないし哲学上の概念によつて根拠づけようとつとめた。「アンナ・カレーニナ」の題辞は残こくだ。「復讐はわれにあり、われこれにむくいん」とある。ゾラは、「悪徳と善行とは、硫酸塩と砂糖が化学過程の結果であると同じく、不可避的な社会生活の結果である」というテーマの警句を「嘆きのテレーズ」の題辞とした。
ソヴエト作家にとつては、悪徳は生まれながらの汚点ではなく、また苦悩は宿命的な不可避性ではない。わたしたちは理性的な生きた社会に生活している。すべての時代の作家の念願は、人間のよう護であつた。わたしたちにとつては、この念願は現実となつた。わが国を支配しているのは、国民によつて選出され、国民に敬愛されている人びとである。歴史は作家にとつてのこのような可能性を知らなかつた。わたしたちは、国民がわたしたちのうえに課した使命に副わねばならないのだ。 p.100-101
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