《資料》 文 学 の 仕 事 ―― 諸家の文学観に学ぶ
 

   デューイ 『芸術論――経験としての芸術( J. Dewey : Art as Experience , 1934 ) より


 第1章 生 物

■芸術品が経験の中に起源をもち、そしてその中で作用するという、この二つの条件から遊離すると、その作品の周囲に障壁を巡らされ、美学が取扱う作品の一般的意義はそれによってほとんど不明瞭なものになってしまう。すると、芸術は隔離した領域、即ち他のあらゆる形の人間の努力や忍従や業績の内容や目的と芸術との間のこの結合が断ち切られた領域へ移されてしまう。(…) p.3


■芸術品の意味を理解するためには、しばらく作品を忘れ、そこから目を放ち、普通には(エスセティック)とみなされないような経験の平常の力や状態を顧みなければならない。われわれは回り道をして芸術論に達しなければならない。(…) p.4

■私の言いたいのは芸術やその鑑賞を、他の経験様式から切り離して、芸術だけの地域に押しやり、それによって芸術や鑑賞を隔離しようとする諸説(・・)は芸術の主題(サブジェクト・マター)に内在するものではなく、特殊な外的条件から生ずるということである。(…) p.10-11

■土壌、空気、湿度、種子が互いに作用し合った結果、初めて花咲くのであるが、この相互作用を知らなくても、花を愛玩することはできる。だが、まさにこの相互作用を考慮することなしに、花を理解する(・・・・)ことはできない。けだし、理論とは理解のことだからである。理論は芸術制作の本性および作品の認識、享受の本性などの発見をこととするものだ。(…)p.12-13

■植物をどんなに愛し楽しもうとも、原因となる条件を理解するのでなければ、その植物の成長と開花を左右することはまず偶然的にしかできない。そして、美的理解は単なる個人的享楽と違って、美的鑑賞物を生む土壌や空気や日光から説き起こさねばならない。(…)p.13

■生命は或る環境の中で営まれる、単に環境の中で(・・・・・)営まれるばかりでなく、また環境があるために営まれ、環境との相互作用によって営まれる、ということである。(…)p.14

■秩序は外部から課せられるのではなく、もろもろの(エネルギー)が互いに働き合う調和的な相互作用の関係が成り立っている。秩序は(進行するものに無関係ではないから、静的ではなく)活動的であり、従って秩序そのものが発展成長する。秩序はその釣合のある運動の中に、いちだんと多様な変化を蔵するようになる。(…)p.15

■自己と環境との間の融和の喪失とその回復というリズムは人間のうちに存続するだけでなく、人間はまたそれを意識する。このリズムの条件は人が目的を定めるその素材となるものである。情緒とは現在の破綻や目前に迫った破綻が意識面に現われるしるしであり、不調和は反省を呼びおこおす機縁である。融合を回復しようとする欲求は単なる情緒を、調和実現の条件たる外物に対する関心に変える。この調和の実現とともに、反省の素材は事物の意味として、事物の中に融合するのである。芸術家は融合の行なわれるような経験の状態を特に望むからといって、抵抗と緊張の契機を拒むわけではない。彼はむしろ抵抗や緊張をはぐくみさえする。しかし、抵抗や緊張そのもののためにはぐくむのではなく、統一的全体的経験をいきいきと意識させる力をそれらがもっているからそうするのである。(…)p.16

■芸術家は思惟せず、科学者は思惟するのみという謬見はテンポや強調の差を種類の差だと考えた結果である。思想家の観念がもはや単なる観念ではなく、具象的な意味のものとなるとき、思想家にも美的なひとときが訪れるものである。芸術家も創作するときは、やはり問題をもっており、そして思考もする。しかし彼の思考はもっと事物に即して具象化される。科学者の狙いは比較的遠いところにあるから、彼は象徴や言葉や数学的記号を用いるのである。芸術家は自分が制作にあたって用いるきわめて質的な媒介によって思考する、そしてその媒介は彼が創造しようとしているものにきわめて即しているから、媒介はじかに事物の中に融けこむのである。(…)p.16-17

■なんらかの方法で環境との和解が成り立ったときにのみ、内的調和が得られる。(…)日々の生活において、或る平衡の時期に到達するということは、同時に環境に対する新たな関係が始まることであり、またこの関係は闘争によって新たな調整を打ち立てる力をもっている。(…)p.18

■幸福な経験の瞬間はその中に過去の追憶と未来の予測とを包含しているので、現在充ち足りたものとなっていて、こうした瞬間が美的理想を構成するようになる。過去がその心を悩まさず、未来が心を煩わさないとき、そのとき初めて人はその環境と全く融合し、従って、溌溂としたものとなる。芸術は、過去が現在を強化し未来が現在を鼓舞するような瞬間を、一種独特の熾烈さで祝福するのである。(…)p.19

■芸術や美的認識を経験と結びつけることは、芸術や美的(エスセティック)なものの意義と尊厳を傷つけるとみる説があるが、このような説は全く愚劣である。経験が真に経験である(・・)ほど、その活動力は逞しいものだ。経験とは自分だけの個人的な感情や感覚の中に閉じこもることではなく、外界との活発で敏捷な交流を意味する。そして、最高の経験は自我と事物や事件の世界との間の全き相互浸透を意味する。経験は気まぐれや混乱に陥ることではなく、沈滞に陥らない安定、つまりリズミカルな発展的安定の唯一の例証をなすものである。経験はこの世界において生物が争闘し獲得した業績、所得である。だから、経験は芸術の萌芽である。経験はその初期の状態においてすら、美的経験というあの心楽しい認識の有望な兆しをその中に宿しているのである。 p.20-21


 第2章 生物と「霊妙なもの」

■有機体と環境との間の相互作用が完全に行なわれるとき、この相互作用は関与や交流伝達に変わるが、経験はこうした相互作用の結果であり、しるしであり、賜物である。(…)p.24

■時間と空間の組織は発展的な生活経験のあらゆる過程の中で予め形作られるのであるが、芸術にみられる形式とはこの時空の組織のうちにあるものを明白にする技法のことである。(…)p.26

■芸術はほかならぬ生活過程の中に前もって現われている。内部からの肉体的圧迫が外部の素材と協力し、かくてその欲求は充たされ、外的素材は変形されて、満足すべき極致に達する。(…)p.27

■芸術の存在は、人間が自己の生命を拡充しようとする意図をもって自然物や自然力を用いるということ、それも人間が自己の器官、即ち頭脳や感覚器官や筋肉組織などの構造に応じてそれを用いるということの証拠である。芸術は生物の特色たる感覚や欲求や衝動や活動などの融合を、人間が意識的に、従って意味の面において、取りもどしうるということのいきた具体的証拠である。意識が介入するということは統制と選択力と方向転換がそこに加わることである。こうして、それは芸術を限りなく多様にする。しかし、意識のこの介入はやがてまた意識的理念としての芸術の理念(・・)に導く、人類史上最大の知的偉業に導くのである。(…)p.28

■使用されるために現在作られている数多の、おそらく大半の物品や器具が純粋に美的(エスセティック)なものではないということは、不幸にして事実である。しかし、それが事実であるのは「美」(ビューティフル)「有用」(ユースフル)そのものとの関係とはかかわりのない理由からである。制作活動が経験となるのを、それも全身全霊が生動し、享受によって生きがいを感ずるような経験となるのを阻止する条件が存する場合は、常に製品には美的(エスセティック)ななにものかが欠けている。そのような製品は特殊な、限られた目的に対してはどれほど有用であっても、窮極の段階、即ちのびのびとした豊かな生活に直接かつ自由に寄与する段階においては、有用とはならない。美と有用の遊離、ひいてはその鋭い対立の経緯はそのまま産業発展の歴史である。そこでは大半の生産は生活を犠牲にして成り立ったものであり、また大半の消費は他人の労働の成果の上に立った享受である。(…)p.29

■環境のなかにある生物の諸活動と芸術との間に関連があるという芸術観に対しては通常或る種の敵意、反感がいだかれている。芸術と平常の生活過程との結合に対するこの反感は日常営まれている生活についての痛ましい見方、悲劇的でもある見方からきている。生活は通常いじけて、未熟で、不活発で、苦難に充ちている。だからこそ、日常の生活過程と芸術の創造や鑑賞との間に、或る固有の対立があるという見解をいだくようになる。(…)p.29-30

■個体が胎児から成人へ成長発展するのは有機体と環境とが作用し合う結果であるように、文化は虚空の中でなされた人間の努力の所産でもなく、或はただ自分自身に向かってなされた努力の所産でもなく、人と環境との長い間の積り積った相互作用の成果である。芸術品が引き起こす感興の深さは、この感興(・・・・)と以上の持続的経験の営みとがつながりをもっていることを示している。作品とその感興は、生活過程が思わぬ幸運な成果に達したときの生活過程そのものに連なっている。(…)p.30


 第3章 経験するということ

■知的経験がそれ自身完全なものであるためには、(エスセティック)の刻印をおびなければならない。だから、結局美的経験は知的経験から截然と切り離しえないのである。(…)p.42

(エスセティック)の敵は実践でも知性でもなく、陳腐な単調さであり、雑然としたまとまりのなさであり、実行や知的活動において旧套に堕することである。(…)p.44

(エスセティック)は贅沢品とし、超越的な観念の所産として、外部から経験の中へはいり込んできたものではなく、すべて正常完全な経験の有する特性をさらに明瞭にし強化し発展させたものであるということを、私はこれまで示そうとして来たのである。私はこの事実こそそこに美学を築きうる唯一確実な基礎であると思う。(…)p.50

■制作の完全性は制作によっては測られもしないし、決められもしない。それは、制作された作品を認識し享受する人びとを暗に予想している。(…)p.52

■作品が真に芸術的であるためには、また美的でなければならない、即ち享受し受容する認識のために形成されなければならない。(…)p.52

■形式上から言うと、芸術は、経験を経験たらしめている関係と全く同一の関係を、能動と受動、消耗する力と蓄積する力との間に、結んでいる。製品が芸術上の作品となるのは、活動と受容の二要素を互いに有機化するのに役立たないものがすべてそこから排除されているからであり、そして両者の相互浸透に役だつような状相と特質が的確にそこに取り入れられているからである。(…)p.52-53

■芸術家が制作に携わっているとき、彼は自己のうちに鑑賞者の態度をも兼ね備えているのである。(…)p.53

■芸術の制作過程は美的(エスセティック)認識と有機的に関連している。それはちょうど、天地創造のとき、神がそれを眺めてよしとし給うたのと同じである。(…)p.54

芸術家の真の働きは、経験が発展するにつれて絶えず変化しながらも、なお認識の上で一貫したところのある経験を打ち立てることである。(…)p.56

■とかくわれわれは、鑑賞者は完成した形でそこにあるものを単に取りいれるだけだという見方に陥りがちで、取りいれるということにも、創作家の活動に比すべき活動が含まれているとは考えたがらない。しかし、この受け容れるということは、ただの受身 (passivity) ではない。受容性も亦客観的完成に向かって進展蓄積する一連の反応的活動から成る作用である。(…)p.57

■芸術家におけると同じく、鑑賞者においても、原作者が意識的に経験した組織化の過程と、細部においては違っていても、その形式においては同一の組織化が、全体を構成する所要その間に行なわれなければならない。再創造の活動がなければ、ものが芸術品として認識されることはない。芸術家は自己の興味に応じて、選択し、簡潔にし、明確にし、省略し、集約する。鑑賞者も自己の味方と興味に従って、これらの活動を遂行しなければならない。両者いずれの場合でも、抽象作用、即ち有意義なものの摘出が行なわれる。いずれの場合にも文字どおりの意味の理解(コンプレヘンション)、つまり包括が行なわれる。即ち物的には散在している細部や部分を全一的経験にまとめ上げる働きが行なわれる。芸術家の側におけると同じく、鑑賞者の側でも仕事がなされるのだ。無精な怠け者や、因習に固執するあまりこの仕事をなしとげないような人は見ることも聞くこともしないのである。このような人の「鑑賞」は在り来りの賞賛の規範への雷同とか、純粋ではあるが渾沌とした感情の興奮とか、そういったものと断片知識との混合物にほかならないであろう。(…)59-60


 第4章 表現活動

■有機体の衝動が肉体の限界を超えるとき、生物は常に異国の地に身を置いて、自己の運命を、或る程度、外的環境に委ねるものである。(…)p.64

■欲求から生じた衝動性は、赴くところを知らぬ経験をひき起す。抵抗と障害は真直ぐに前進する活動を re-flection(折り返し・反省)させる、そして折り返してもどって来るのは、一方、妨害する条件と、他方自我が過去の経験から得た運転資本として所有するものとの関係である。こうしてそこに注ぎ込まれる(エネルギー)は元の衝動性を強化するから、この衝動性は目的と手段をいっそう慎重に考慮してことに当たるのである。(…)p.65

■活動そのものに関する限りでは、もしそれが純粋に衝動的ならば、それはただ煮えこぼれるというだけである。うちより外へ促すものがない限り、表現はないけれども、この湧き出るものはそれに先だつ諸経験の価値をその中に取り入れ、それによって明白にされ秩序づけられて、初めてそれが表現活動となることができる。感情と衝動の直接的発散に対して外界の事物が抵抗しなければ、過去の経験の価値は発揮されないのである。感情の発散は表現の必要条件ではあるが、十分な条件ではない。
 興奮もなく、動乱もなければ、表現はない。けれども、笑ったり泣いたりして直ちに発散される内的動揺はその発表とともに消え去ってしまう。発散することは追い払うことであり、捨て去ることである。これに反して、表現するということは、そこに踏みとどまることであり、進展発展することであり、完成するまで作り上げることである。涙をはらはら流せば心が晴れるであろうし、破壊の発作は内部の激怒にはけ口を与えるであろう。しかし、客観条件を処理することがなく、興奮を具体化するためにものを形成することがなくては、表現はないのである。ときに自己表現の活動と呼ばれているものは、むしろ自己露出 (self-exposure) の活動と言う方がいい。それは性格を、或は性格の欠如を他人に暴露することだ。それは、もともと、ただ吐き出すだけである。(…)p.67

■心情を発散する活動や単純な露呈(エキシビション)の活動には媒介(ミディアム)がない。本能的に泣いたり、笑ったりするには、(くさめ)や瞬きと同じく、媒介が要らない。(…)歓待の気持を表現する(・・・・)活動は微笑、さし延ばした手、綻び輝いた目つきを媒介として行なわれるが、意識的にそうするのではなくて、これらがかけがえのない友だちに会った喜びを伝える有機的手段となるからそうするのである。(…)ちょうど、画家が絵の具を創造的経験の表現を行なう手段に変えるのと同じである。舞踊とスポーツは、以前自発的にそれぞれ別々に行なわれたもろもろの活動が相集まって、(なま)の粗野な素材から表現的な芸術に変化した活動である。素材が媒介として用いられるところにのみ、表現と芸術がある。(…)p.69

■感情を表現 (expression) するには、内部の感情や衝動性のほかに外界の抵抗物が必要である。(…)p.70

■芸術品を形成する表現活動は時間的構成であって、刹那的発露ではない。このことは、画家が創造的構想をカンバスに描き、彫刻家が大理石を彫るには、時間がかかるというだけでなく、それよりもはるかに重要な意味を持っている。この重要な意味というのは、即ち、媒介における、そして媒介による自我の表現、芸術を構成するこの表現は、自我から生まれるものと客観的条件との間に長期にわたって行なわれる相互作用そのもの(・・・・)なのであり、そしてそれは最初は自我と客観的条件のいずれにもなかった形式と秩序を、両者が獲得する作用である。(…)p.70-71

■衝動性が混乱、動乱の中に投げ込まれるのでなければ、それは表現に至りうるものではない。押し合 (com-pression) わなければ、なにも押し出される (ex-pressed) ものはない。動乱とは、事実の上でも観念の上でも、内的衝動と環境とが接触し、ぶつかり合って、激動し発酵する、その個所を示すものである。(…)p.72

■表現活動の本性に関するほとんどすべての誤解は、感情はそれだけで心中において完成しており、ただそれを面に表わしたときだけ外部のものと接触する、という見解から出ている。しかし実際には、感情は、事実の上でも観念の上でも、或る客観物に対する(・・・)感情であり、客観物から生じた(・・・・・)感情であり、客観物についての(・・・・)感情である。感情は、結果がどうなるかはっきりしないような状況と結びついており、自我が感動して専心没頭しているような状況と結びついている。この状況は絶望的なこともあり、威圧的なこともあり、堪え難いこともあり、上首尾のこともある。自己の属する集団が収めた勝利の喜びも、友の死を悼む悲哀も、これらを自我と客観的条件との相互浸透とみるのでなければ、本質的に完全なものとはならないし、それらを解しうるものでもない。
 自我と客観的条件の相互浸透というこの事実は芸術品の個別化に関しては、特に重要な意味をもっている。(…)p.72-73

■感情は素材を選択するものであり、素材の秩序と配列を支配するものである。しかし、感情は表現される内容(・・)ではない。感情を伴わなくても、すぐれた技巧はあるであろう。けれども、それは芸術ではない。感情がそこにあって、しかも熾烈であっても、それが直接表示されて生じたものは、これまた芸術ではない。
 これと反対に、過重な感情を荷っている作品もある。感情の表示(マニフェステーション)が即ち感情の表現であるとする説に立てば、こうした過重な感情というものはありえないであろうし、感情が激しければ激しいほど、「表現」は効果的だということになる。が、事実はこれに反して、感情に圧倒された人はそのために、感情を表現しえなくなるのである。(…)76

適切な言葉(・・・・・) (mot juste) 、適当な場所での適当な事件、精妙な釣合、的確な色彩や色調や陰影などを配することは、部分部分を明確にするとともに全体を統一するのに役だつが、これは感情によってなされるのである。とはいえ、すべての感情がこれをなしうるわけではない。ただ、把握され、蒐集された素材の形成する感情のみがこれをなしうるのである。感情が直接発散されるのではなく、素材を求めて、これに秩序を与えることに、間接に費されるとき、感情は形成され、深められるのである。(…)p.76-77

 ■芸術における自発性は新たな主題の中にあますところなく沈潜することである。そして、主題のこの新しさが感情をとらえ、これを支えるのである。表現の自発性の背腹に迫る二敵は主題の陳腐さと計算の侵入ということである。反省が、それも長期間の熾烈な反省が素材の醸成に携わることがあるかもしれない。だが、この反省の内容が現在の経験の中にいきいきと取り入れられるとすれば、表現はやはり自発性を示すであろう。(…)p.77

■表現されるのは人格形成に影響した過去の事件でもなく、厳密な意味でそこに存在する事柄でもない。表現されるのは、過去の経験によって人格の中に併合された価値と、現在の生活の特性との密接な融合体である。(…)p.78

■芸術品に形成される物質素材は誰でも知っているように、変化を受けねばならない。大理石はこれを削らねばならず、絵の具はカンバスに塗らねばならない。また言葉は組み合わせなければならない。しかし、同様な変化が「内部」の素材、即ち心像、観察、記憶、感情の側にも行なわれるということは一般にさほど知られてはいない。この内的素材もしだいに作り直される、つまりこの素材もまた処理されねばならない。この変化が真の表現活動を築き上げるのである。衝動性ははけ口を求めて動乱し沸き立っているが、この衝動性が感銘深い表白となるには、大理石や絵の具や色彩や音と同程度の、また同様に細心な、処理を受けねばならない。(…)p.81

■「内的」素材と「外的」素材とが互いに有機的に結びつくまで、この素材を推し進め組織だてることによってのみ、なにものかが、つまり学問上の記録でもなく、既知事実の解説でもないものが生産されうるのである。(…)p.82

■表現とは混濁した感情を明瞭にすることである。欲望は芸術の鏡に映されたとき、自己を知り、自己を知るとき、欲望はその姿を変える。判然とした美的感情が生ずるのはそのときである。(…)p.84

■芸術が日常生活から隔たることなく、一般世人の間で広く味わい楽しまれているとすれば、それはその社会生活に統一のある証拠である。しかしまた、芸術はこうした社会生活を創り出すのに驚くほど貢献していもいる。表現活動によって、経験内容を改造するということは、芸術家や、またここかしこでたまたま芸術を愛玩している人たちだけに限った事柄ではない。芸術がその任務を果たす程度に応じて、芸術は又一般世人の経験を改造し、いっそう大きい秩序と統一に向かわせるものでもある。 p.88


 第5章 表現的事物


■芸術品は確かにユニークな性質(・・)をもってはいるが、しかしそれは、その他の経験内容の中に散らばって稀薄に含まれていた意味を明確にし、集中する性質のものだということである。
 表現と記述の間に一線を画することによってこの問題にさらに立ちいることができるであろう。科学は意味を記述し、芸術は意味を表現する――おそらくこのひと言のほうが、長々しい説明注釈よりも、私の考えている両者の差異をいっそう明らかに示してくれるであろう。(…)p.91

■芸術は科学的技術と違い、表現は記述と違って、経験へ導く道案内をするのではなく、それとは別の働きをする。それは経験を構成するのである。(…)p.92

■知的記述は平坦な舗道のように、われわれを容易にいろいろな場所に連れて行く。その範囲だけそれは効果があるというものだ。これに反して、表現的事物は個性的である。悲しみを暗示するおおざっぱな素描は或る個人の悲しみを表わすのではなく、人が悲しみに閉ざされたときの一般的な表情、即ち顔の「表現」の種類(・・)を表わすのである。だが、悲しみの美的描写は特定の事件に結びついた特定の個人の悲しみを示すのである。描かれるのは悲しみの特定の(・・・)状態であって、個々の事件や状態と結びつかない漫然とした意気消沈のさまではない。美的描写は一地点(・・・)に座を占めているのである。(…)p.99

■芸術はもろもろの関係をもっている部分部分を、全体を構成するために必要とする以上に表示することはないが、芸術は事物の諸関係を可視的な形で示すものであるから、結局芸術はやはり表現的である。すべて芸術は、表現すべき事物のもつ個々の特性を或る程度「抽象する」。さもないと、芸術は事物そのものがあたかもそこにあるかのような幻想を、正確な模写によって生み出すだけのものとなるだろう。(…)p.102

■通常、「抽象化」は顕著な知的操作と関連している。実際、抽象化はあらゆる芸術品の中にも見受けられる。が、抽象化を行なわせる興味と目的とが、科学の場合と芸術の場合とでは違っている。即ち、科学においては、抽象化は先に規定した意味での記述を効果的なものにするために行なわれ、芸術においては、事物の表現性のためになされる。そして、芸術家の人となりと彼の経験とが、表現しようとする事柄(・・)を決定し、かくてそこに行なわれる抽象化の性質と範囲を決定するのである。
 芸術が選択の働きを含んでいることは人みなの認めるところである。選択を欠き、注意が散漫なときは、作品はまとまりのない蕪雑なものになる。選択を支配する元になるものは興味である、即ちわれわれが住む複雑多様な宇宙の或る側面や価値に対する無意識的ではあるが一貫した好悪である。芸術はなんとしても自然のもつ果てしない具象性に拮抗しうるものではない。芸術家が選択を行うとき、彼は自己の興味の筋道を追って、容赦なくその他のものを捨てて顧みないが、また一方選択した好みのものに対しては、彼が心ひかれる意味や方向の中に爛漫とした姿を添え、「満ち溢れる」さまを加えるのである。そこに踏み越えてはならない限界が一つあるが、それは周囲の事物の性質や構造との関係を失ってはならないということである。それでないと、芸術家は全く私的な関連の枠内で活動することになり、その結果生まれた作品は、たとえ鮮かな色彩を放ち高らかな響きを奏でようとも、無意味なものである。科学的形式と具体的事物との間の隔たりは、さまざまな芸術が客観的関連の枠を離れないで、ものを選択したり変形したりできるその範囲、限界を示すものである。(…)p.103-104

■「虚構の意識」とは本来きわめて積極的なことをまわりくどく言ったものである。即ち、或る事件が統合的全一体の中で新たな質的価値を得る、その統合的全一体の意識がつまり虚構の意識である。(…)p.105

■芸術活動を論じて、われわれは直接的発散の活動から表現活動に至る転換が次のような条件の存在に依存していることを知った。即ち、衝動性が直接に現われるのを阻止して、これを他の衝動性と並んで存在している通路へ切り替えてくれるような条件に依存していることを知った。元の素朴な感情を抑制(インヒビション)することは、これを抑圧(サプレッション)することではない。芸術において行なわれる圧迫(レストレイント)圧塞(コンストレイント)と同じではない。衝動性はそれと並んだ諸傾向によって修正される。この修正は衝動性に より以上の意味を与える。つまり全一体のもつ意味をそれに与える。そして、それ以後衝動性はこの全一体を構成する部分となるのである。(…)p.105-106

■作品が、観る者にとって表現となるために必要な(…)要素は、過去の経験からひき出され蓄えられて、眼前の作品の中に直接現われる性質と融合するようになった意味と価値とである。(…)p.107

■芸術の表現性は、芸術がわれわれの受け容れるものとわれわれのほうから働きかけるものとの間の徹底した完全な相互浸透を示しているという事実に基因するものである。そして、後者、即ちわれわれの活動は、過去の経験から得たものを組織し直す働きを含んでいる。なぜなら、相互浸透においては、われわれの能動的活動は外的連想によってそれを付加されたものでもなく、まして感覚的性質の上に積み重ねることによってそこに加えられたものではないからである。事物の表現的性質は、感覚から得たものの中へ細心な認識活動が持ち込む要素と、われわれの受け容れる要素との間の余すところのない融合を告げ、かつ称えるものである。(…)p.112

■芸術が強化し拡充する経験は全くわれわれ自身の内部にのみ存在するものでもなく、また内容を離れた関係にのみ存するものでもない。生物が最もいきいきし、最も沈着で先進的となる瞬間は環境とこの上なく充実した交流を営む瞬間である、即ち感覚的素材ともろもろの関係とが最も完全に融合する瞬間である。もし芸術が自我を自己の内部に引きこもらせるものであるならば、芸術は経験を拡充もしないし、またこうした引退から生ずる経験はものを表現することもないであろう。(…)p.112-113

■経験の対象が必ずしも表現的となりえないのはなぜであろうか? 無感動と麻痺が依然として対象の回りに殻を築いて、この表現性を掩っている。親しさは人を無関心に陥れ、偏見は人を盲目にする。自負心は望遠鏡を反対に覗いて、対象のもつ意義を縮小し、自分の重要さを拡大しようとする。芸術は、経験される事物の表現性を掩っているカバーを取り払ってくれる。芸術は日常生活の倦怠からわれわれをよび覚し、種々さまざまな性質と形とに充ちた周囲の世界を経験する夢中の喜びに浸らせてくれる。芸術は、事物の中にある表現性を掩っているあらゆる掩いを隈なく貫いて、新たな人生経験の中に事物を組織だてるのである。(…)p.113-114

■作者が他者の経験の中で作用するとすれば、それは伝達の中でのみ生命を有するのである。芸術家が道徳的教訓にせよ、自己の才気にせよ、なにかそういった特殊な(・・・)用件を伝達しようとするならば、彼はそれによって第三者に対するその作品の表現力を局限することになる。眼前の観衆や聴衆の反響に対して無関心であることは斬新な表現内容を有するあらゆる芸術家に必要な特質である。しかし、彼らは語りたいことは語るだけのことはできるから、罪は彼らの作品にあるのではなくて、眼を有しながら観ず、耳をもちながら聴きえない輩にあるという確乎不抜の信念に支えられている。要するに、伝達できるということと人口に膾炙するということとはなんらかかわるところがない。(…)p.114


 第6章 実体と形式

■言語は話し手とともに聞き手があって初めて存在する。聞き手は不可欠の仲間である。芸術品はその作者以外の人の経験の中で作用するときはじめて完全となる。こうして、言語は論理学者の言う三位一致的な関係を含んでいる。そこには話し手と話題と聞き手とがある。外的事物としての芸術品は芸術家と聴衆観衆を結ぶ(きずな)である。芸術家が孤独の中で制作する場合でも、この三項目はすべて存在する。そこでは、作品が制作される間、芸術家は代わって、受けいれる聞き手とならねばならない。その場合、芸術家は、話しかけられる人のように、自己の認識することを通じて作品が彼に訴えかけてくるとき初めて、語ることができる。(…)p.115

■芸術を構成する素材(・・) (material ) は自己に属するよりも、むしろ公共の世界に所属する。しかも、芸術においては自己表現が行なわれる。けだし、それは自己がこの素材を独自の仕方で同化して、これを新たな事物という形で、公共の世界の中へ再び送り出すからである。その結果、この新たな事物は、その認識者をして公共の旧い素材を同様に再構成、再創造させ、こうしてその事物はやがて万人共通の世界の一部として、即ち「普遍的」(ユニヴァーサル)なものとして立てられるようになる。表現された素材は断じて私一個のものではない。(…)p.117

■芸術品がどんなに古くて古典的であっても、それは或る個人の経験の中に生きるもので、またその時のみ、その作品は潜在的だけでなく顕在的にも芸術品となるのである。(…)芸術品としては、それは美的に経験されるごとに創造し直される。楽曲の演奏に関してはなんぴともこの事実に疑いをさしはさむ者はない。楽譜の線や符点は芸術を蘇らせる手段として記せられたもので、それ以上のものと考える人はない。しかし、このことは建築としてのパルテノンについてもまた言える。(…)パルテノンに限らず、何でもそうであるが、作品が普遍的であるのは、個人個人の新たな経験の中で絶えず蘇り具体化されうるからである。(…)p.118

■先行する主題は芸術家の心中で即座に作品の内容に変わるのではない。それは発展的過程をたどるのである。(…)芸術家はそれまで創作してきたことから推して、その作品がどう進展するかを知っている。即ち、外界との接触によって生じた元の興奮と感動とは相つぐ変化を蒙るのである。芸術家のとらえたこうした内容は完成されることを要望し、それ以後の創作を局限する枠を作る。主題をまさしく芸術の実態に変えるその経験がしだいに発展するにつれて、最初心に描かれた事件や情景は消え去って、別の事件や情景がこれに取って代わることもあるが、その場合これらは最初の興奮をひき起こした質的素材によってそこに吸収され取り入れられるのである。(…)p.121

■形式と内容とが一つの芸術品の中で結合しているということは、この二者が同一物だという意味ではない。芸術においては両者は二つの別個の事物として現われるのではなく、作品は形成された内容だという意味である。(…)p.124

■芸術上 重要な区別は形式と物質との区別ではなくて、ただ適切に形成されていない物質と、完全に整然と形作られた素材との区別だけである。(…)p.127

■われわれは小説の中の事件や人物が互いに動的な関係にあるのではなく、(プロット)、即ちディザイン
[ママ]が事件や人物の上に積み重ねられていると感ずることがあるが、こういう小説の場合のように作中の関係がばらばらになっているとすれば、それだけその作品は貧弱だといえる。一台の複雑な機械のもつディザインを理解するには、その機械が役だとうとしている目的を知り、この目的達成のためにいかに多様な部分が適応しているかを知らねばならない。(…)p.127

■作品の偉大さは、過去の経験から生じた要素で、現在この場でなされる経験の中へ有機的に融け込んでいる要素がどれほどの数量と多様性をもつかによって測られる。こうした要素は作品のこく(・・)をまし、これに暗示力を与えるものである。(…)p.134

■すべて芸術はすでに幼児の経験の中に潜在していた事物への関連を、選択と集中とによって推し進めて、単なる感覚の域を越えてそれを組織だて秩序づけるに過ぎない。(…)p.137-138

■形式と内容が経験の中で融合するその窮極の原因は生物が自然界および人間界と作用し合う場合の受動と能動との緊密な関係の中にある。それゆえ、内容と形式とを分離しようとする説は結局この受動と能動との関係を等閑視するところに由来する。(…)p.144

■芸術の中にただ刹那的な興奮だけしか見ないのは平素無感動にすごす者のみであり、またこの世に見いだしえないような価値による治療と慰撫のみを芸術の中に求めるのは、意気消沈して周囲の事態を直視しえない者だけである。しかし、芸術そのものは意気消沈した者の沈鬱な心中に僅かにうごめいているような力でもなく、また懊悩の嵐の中の無風帯でもない、それ以上のものである。
 平常は無言で、幼稚で、制肘され、阻まれているものの意味が芸術によって明確にされ、凝集されるのである。しかし、それは営々として意味を築き上げるような思惟によるのでもなく、また単に感覚の世界への逃避によるものでもない。それは新たな経験の創造によって行なわれるのである。(…)p.145


 第7章 形式の生成

■形式とはすべて経験が一つ(・・)の経験となった場合の一特質である。いわゆる芸術はこの統一を生み出す条件をいっそう慎重かつ十分に作り上げる。そこで(・・・)形式とは一つの事件や(・・・・・・・・・・)事物や情景や事態の経験を(・・・・・・・・・・・・)それなりに充分完成させる力の発動(・・・・・・・・・・・・・・・・)であると定義してもよかろう(・・・・・・・・・・・・・)。形式と実態との結合は、このように固有のものであって、外部から押しつけられたものではない。(…)p.149

■芸術家の本質的特徴の一つは彼が生まれながらの実験者だということである。この特徴を失うと、彼はよかれあしかれ一介の学究となってしまう。芸術家は日常の世界、公共の世界に所属する手段と材料をもって、極度に個性化された経験を表現しなければならないから、彼は実験者たらざるをえないのである。この問題は一挙に解決できるような問題ではない。彼は自己の試みる一作ごとにこの問題と取り組むのである。そうでないと、芸術家は同じことを繰り返し、かくて美的に死滅した者となる。実験的に活動するからこそ、芸術家は経験の新たな分野を真に切り開き、日ごろの見馴れた光景や事物の中に、新たな側面と性質を提示するのである。(…)p.157

■人間の感情について言うと、その直接の発散は表現をすっかりだめにしてしまい、リズムを損なってしまう。そこには緊張を生み出すに足る抵抗もなく従って周期的な蓄積も放出もない。また、秩序ある発展に資するように力が保持されることもない。(…)p.169

■馴れ親しむということはやがて人々の心に反抗心を呼び起こすものである。見馴れた事物は吸収され、沈殿物となって、その中で新たな条件の萌芽や火花が動乱を巻き起こす。旧来のものが摂取されない場合には偏狭なものしか生まれない。却って、偉大な独創的芸術家は伝統をわがものとして取り入れるのだ。彼は伝統を斥けないで、これを消化するのである。(…)p.173

■外来の先入観の上に築かれた美学ではなく、芸術の上に築かれた美学(…)こうした学説は内外の(エネルギー)の中心的な役割――即ち、力が互いに対立するとともに蓄積保存され、休止や合間の期間を設け、そして秩序あるリズミカルな経験の完成に向かって協力的前進をとげる相互作用――に関する理解の上にのみ(・・)築くことができる。その場合、内的な力は解放されて表現を得、外的な力は事物の中に具象化されて形式をおびる。ここにわれわれは有機体と環境との間の能動と受動の関係の、即ち経験を生み出すそのもととなるあの関係の一層完全で明瞭な実例をみるのである。(…)p.174


 第8章 (エネルギー)の組織化

■経験におけるリズムというのは外的事物の中にリズムが存することを知的に再認するのとは全く違う。それは、あたかも鮮やかな調和ある色彩を見て楽しむのと、科学が数学の方程式によって調和した色彩を決定するのと違うようなものである。
 私は以上の考察を適用して、リズムに関する誤解、なぜか甚だしく美学を毒してきた誤解をまず取り除こうと思う。なぜなら、美的リズムは認識の問題であるということ、従って認識の能動的活動において自我のなす働きをことごとく包含するということ、こうした事実を考えてみなかったところに今いう誤解が基因するからである。(…)
 リズムというものを同一要素の寸分違わぬ反復、規則的な繰り返しとするのは、これを機能的にみないで、静止的分析的に解することである。なぜなら、リズムを機能的にみるということは、即ちもろもろの要素のもつ力によって経験を促進助長してこの上ない完全なものとすることを基礎として、解することだからである。リズムを厳密な反復とみる人たちが好んで引用する例は時計の秒音である。だから、これを秒音説と名づけてもいいであろう。(…)
 リズムは常に変差(ヴァリエーション)を伴っている(…)私は先にリズムとは(エネルギー)が秩序だった変差をもって現われたものだと定義したが、この変差は秩序と同様に重要であるばかりでなく、美的秩序に必ず伴う不可欠の要素である。秩序が維持されている限り、変差が大きければ大きいほど、その結果はおもしろい。(…)p.177-178

■機械的反復はものの単位の反復であるが、美的反復は蓄積し進展する関連性(・・・)の反復である。(…)反復的関連性(・・・)は部分に独自の個別性を与えて、部分を明瞭にし限定するのに役だつ。そかし、それはまた部分を結合もする。この反復性関連性によって区分された個々の存在は互いに関係を持っているから(・・)、他の部分と連合し、相互作用しようとする。こうして、部分は広汎な全体を構成するのにりっぱに役だつのである。(…)p.180-181

■美的反復は生命あるもの、生理的、機能的なものである。繰り返されるのはもろもろの要素ではなく、むしろ関連性ある、それも異なる脈絡の中で反復されて、違った結果をもたらすものである。それゆえ、それぞれの反復は過去を思い起こさせるものであるとともに、斬新なものである。この反復は期待の念を癒すと同時に、新たな渇望の念を呼び起こし、新規な好奇心を沸き立たせる。(…)p.184

■圧縮と発散とが交互に起るのでなければ、リズムは生まれない。抵抗は直接的発散を阻み、緊張を蓄える。そして、この緊張が力を強化するのである。力がこの阻止状態から解放されるときは、次に必ず拡張が起こる。(…)p.195

■肉体活動が筋肉構造における相反した組織によって行なわれるように、いかなる分野においても活動は相反する力の相互作用によってのみなしとげられる。従って、芸術においては、いっさいがそこで形成される比重や軽重の如何にかかっている。崇高と滑稽とがその差一歩にすぎぬ所以もそこにある。(…)p.196

■制作中の画家は画面全体を同時に描き上げることはできない、一個所ずつ逐次描いていかなければならない。画家は、そのとき自分が手がけている個所の「調子を抑え」ねばならないと考えている。画家に限らず、作家はすべてこれと同様に問題を解決しなければならない。これが解決されないと、他の個所を「引き立たせる」ことができない。分析すればわかることであるが、多くの場合、芸術作品の中に道徳的分子や経済的または政治的宣伝の要素を持ち込むことに美学者が反対するのは、それらが他の価値を犠牲にしてまで或る価値を重要視し、ひいては同様な一面的熱狂者以外の人々に対しては清新さよりも、むしろ倦怠の念を催させるからである。(…)p.197-198

■芸術家はリズムおよび均斉という形式で素材を選択し、強化し、凝集する。なぜなら、明瞭にし秩序だてる芸術の作用を素材が受けるとき、この素材の常に帯びる形式が即ちリズムであり、均斉だからである。(…)p.200

■「理想」という言葉は、これを通俗的感傷的な意味に用いたり、哲学的論説において人生の葛藤や冷酷さを掩い隠す弁護の意味で用いたりなどしたために俗化してしまった。しかし、芸術が理想的なものであるということには明確な意味がある。(…)或る経験を、なすに値いする経験たらしめるあの特質を、芸術は選択と組織化の働きによって作り出して、この経験と釣合った認識ができるようにする。自然は人間の利害関心に対して冷淡であり、敵意を有するにかかわらず、自然と人間との間には或る親和性があるに相違ない。さもないと生命は存在するはずがない。こうした親和力は個々の特殊な目的を支持するのではなく、味わわれる経験そのものの過程を支持するもので、この力は芸術においてこそ十二分に発揮されるのだ。このように発揮されることによって、この過程は理想的性質をおびるのである。なぜなら、平常は部分的に、それも稀れにしか経験しえないような価値を、そこではあらゆる事物が協力して完成し、保持するのだが、このような環境の観念を措いて、どのような理想を人は心からいだきうるであろうか?
 たぶんゴールズワージーだったと思うが、なんでもイギリスの或る作家は芸術を定義して、「感情と認識とを技巧的に具体化して、心中に非個人的な情緒を呼び起こし、こうして個人的なものと普遍的なものを融和しようとする力、この力を想像的に表現すること」が芸術であると、どこかで言っている。外界の事物や事件を構成し、従ってわれわれの経験を規定する力は「普遍的な」ものである。「融和」とは、完成した経験の中で、人間と外界との調和的協力の時が論議によらず直接に到来することである。その結果生ずる情緒は「非個人的」であるが、それはこの情緒は個人の運命に結びつくものではなく、自分が身命を賭して築き上げてきた対象に結びつくからである。鑑賞もまた客観的力の構成と組織化を伴うものであるから、鑑賞の情緒的性格も同様に非個人的である。 p.202-203


 第9章 芸術共通の実体

■小説は散文文学に大きな影響を与えたものだった。小説は興味の中心を宮廷から中産階級へ移動させ、次いで「貧民」や労働者へ、やがて階級の上下を問わず一般庶民へ移行させた。ルソーが文芸の分野で永久的かつ広範な影響をおよぼしたのは、彼の形式上の理論のせいではない。それよりも彼が「民衆 (le peuple) 」のことを心の中でひどく気にしていたからである。(…)退くことを知らぬ一つの革新が、形式的理論や批評の基準にかまわず行なわれた(…)。外部に設けられたあらゆる限界を凌ぐ衝動性が、芸術家の活動の本性そのものの中に内在している。心を動かすような素材を求めて、これを把握し、こうしてこの素材のもつ価値を表現して、これを新たな経験内容とする、などという働きは想像的精神の性格そのものに属する働きである。芸術品がしばしば不道徳なものとして指弾されるのは、因習によって築かれた教会を芸術が認めようとしないことに由来する。だが、或る事物におじけてこれを避け、またこうした事物が認識的意識の清浄無垢な光の中に照らし出されるのを拒否する、そういった道学的怯懦を打破することこそ芸術の一つの機能にほかならない。 p.206-207

■芸術家が心にいだく興味だけが、素材の使用を制限する唯一のものである。この制限は拘束的なものでなく、芸術家の活動に内在する一特性、即ち誠実たるべきこと、つまり虚偽と妥協を峻拒すべきことを言うにすぎない。芸術が普遍的であるということは溌溂とした興味によって選択するという原則を否認することとは大違いで、むしろ芸術の普遍性は興味の上に立脚している。(…)p.207

■芸術家は道徳的義務として「プロレタリア的」なものに取材すべきであり、プロレタリアの幸不幸や運命に影響をおよぼすかどうかという見地から或る材料を扱うべきだとする見解は、芸術が歴史的に言ってすでに乗り越えてきた地点に再びこれを逆戻りさせようとることだ、と私は思う。しかしプロレタリア的興味が注意の新たな方向の目じるしとなり、従来見落としてきた素材を観察させるとすれば、その限りにおいて確かにこの興味は、従来の素材によっては表現しようとする気持にならなかった人々の心をも動かし、以前はその人たちの気づかなかった限界を彼らに示し、こうしてこの限界を打破するのに役だつであろう。(…)p.207-208

■作品のあらゆる部分を貫き、それらを結合して、個性のある全一体を成している浸透的性質は感情的に「直観され」うるのみである。
(…)p.210

■あらゆる経験、最も日常的な経験でも不明瞭な全体的周辺をもっている。事物や対象は果てしなく広がっている一つの全体の中で、現在この場所という焦点をなしているにすぎない。この全体は個々の対象や個別的な特性や性質などにおいて明確にされ、はっきり意識される質的「背景」である。(…)p.211

■運動は、例えば上へと下へのように一方向への進行から成り立つのみでなく、相互的に接近と後退から成っている。近くと遠く、すぐそばと遠い隔たりなどは深長な意味、往々悲劇的な意味をもった性質のものであって、科学の測定をもってしては適切に表すことができない。それらは弛緩と緊張、拡張と収縮、分離と密集、高揚と消沈、上昇と下降を表わし、ばらばらな分散、飛翔と巣ごもり、中身のない軽さと重々しい一撃とを表わしている。これらの作用と反作用こそ、われわれの経験する事物や事件を形成している材料(スタフ)にほかならない。科学はこれらを記述することができる。(…)しかし、それらは経験として無限に多種多様であって、それらを叙述することはできない。けれども、芸術はこれを表現する(・・・・)。けだし、芸術は価値あるものをそこからすぐって取り、これと全く同一の衝動によって不適当なものを除去し、こうして価値あるものを集結し、強化するのである。(…)p.227-228

■思惟が観念として把握する諸関係は認識の中では性質(・・)となって現われるのだ。そして、この性質は芸術の実体そのものに固有のものである。(…)p.233


 第10章 芸術の多様な実体

■言語は自然の多種多様な外観にはとうてい匹敵できない。(…)実際に存在する個々の性質の千状万態の無限のさまをそのまま写し出すことは言語のよくなしうるところではない。のみならず、それは望ましいことでもなく、必要なことでもない。(…)しかし、われわれがものの性質を経験するときに常に生ずるようないきいきとした反応を、言語がわれわれの心中に呼び起こして、これを活発に発動させるとすれば、それだけ言語は詩的目的に役だつのである。(…)p.237

■およそ経験とは有機体なる自我と外界との継続的、蓄積的な相互作用の産物である、或はその副産物である。美学と芸術批評の地盤はこれを措いてほかにはない。(…)p.243

■素材が表現の素材として用いられて初めてその素材は媒介となるということをわれわれは牢記すべきである。自然素材および人間関係の素材は実に多種多様であって、際限がない。経験における素材の価値を、即ち想像的価値や感情的価値を表現するような媒介に或る素材がぶつかったとき、その素材は常に作品の実体(サブスタンス)となる。こうして、芸術が永遠に苦慮するのは、日常の経験においては口ごもり或はもの言わぬ素材を雄弁な媒介に変えようとする点にある。(…)すべて真正で斬新な芸術はとりもなおさず芸術の一新種の生誕だとみていい。(…)p.252

■詩においてはあらゆる言葉が想像力をかき立てる。かつては散文においても実際そうであったが、さんざん使ったあげく、すり減って古銭のようなものになってしまった。なぜなら、言葉が純然たる感情的なものでない場合、言葉はそこにないものと結びつき、それを代弁するからである。事物がそこにある場合は、これを無視しても、或は援用しても、さし示してもいい。純然たる感情的な言葉とても、おそらくこの例に漏れるものではあるまい。こうした言葉の表わす感情はそこにない事物、群がり合って個性を失った事物に向かうかもしれない。文芸が想像をかき立てる力は日常語によって行なわれる観念化の働きをさらに強化したものである。ある光景を言葉によって最も写実的に表わすということは、結局、直接耳目に触れるのがただ可能だというにすぎない事物をわれわれの眼前に示すことである。その性質上すべて観念(アイディア)は、現在そこに顕在しない単に可能にすぎない事物を表示するのである。(…)p.266

■人間の交遊には種々ある。しかし、真に人間的な交遊と言いうる唯一の形式は、暖をとり保護を求めて相寄り相集うことでもなく、また他の方面で利を収めようとしてめぐらす単なる策略でもなく、ほかならぬ伝達によって意味と価値を共有することである。芸術を構成する表現は純粋、清浄な形の伝達である。芸術は人間と人間とを分け隔てている障壁、日常の交わりにおいては乗り越ええないこの障壁を打破するものである。芸術のこの力、あらゆる芸術に共通なこの力は文芸において遺憾なく発揮される。文芸の媒介はすでに伝達によって形成されている、これは他のいかなる芸術においても主張しえぬものである。他の芸術の精神的機能と人間的機能に対しては巧妙精緻な、そして一応もっともな異論が立てられよう。けれども、こと文芸に関しては、こうした異議をさしはさむ余地は全くない。 p.269-270


 第11章 人間の寄与

■あらゆる経験は「主観」と「客観」、自我と外界との間の相互作用から成る。従って経験は単に物的でもなく、また単に精神的でもない。たとえこの両者のうちいずれかの要素がいかに有力であっても、そのことに変わりはない。(…)p.272

■人間性の中で、知的な面と感覚的な面、情緒的な面と観念形成的な面、想像的な面と実行的な面などの間に本質的な心理学的区別があるわけではない。しかし、著しく活動的な人と内省的な人、夢想家または「理想家」と実行家、好色家と高雅な人、利己主義者と没我的な人、日常の決まりきった肉体的活動に携わる人と知的探究をこととする人という違いは、個人としても種類としてもある。秩序の乱れた社会においては、これらの隔たりは甚だしく、円満な人物というもは男でも女でも稀れである。しかし因習的差別を打破し、これをその根底にある経験的世界に共通した要素に統一すること、またそれとともにこうした共通の諸要素に対する見方や表わし方としての個性を発展させること、これこそ芸術の任務である。それと同じ様に、もろもろの差別を統合し、われわれ人間のもつ諸要素間の孤立や軋轢を取り去り、またその対立を利用してひときわ豊富な人格を築き上げることが、個人の場合における芸術の任務である。だから、こうした分割的な心理学を芸術論を立てるその道具とすることは、甚だ不当なことである。(…)p.273-274

■自我といい、有機体といい、主観といい、精神といい、言葉は違っても、これらはいずれも周囲の事物と互に作用し合い、こうして経験を生み出すその一要素であるにすぎない(…)水素と酸素とが水を構成するという(…)例と同様に、自我はそこに作り出されるものの中に取りいれられる一要素であるのに、これを経験の荷い手、運搬者とみなすところに(…)誤謬がある。経験を形成し発展させるのに統制(・・)が必要とされる場合には、われわれは自我をその荷い手とみなさねばならない。自分が責任をもつためには、自我がものの原因たりうる力を有することをわれわれは承認しなければならない。しかし、自我をこのように強調するのは或る特別の目的があるからである。そして、特殊な既定の方向に統制する必要がもはやなくなった場合には、自我のこの強調は消失する。事実、美的経験においては、かように統制する必要は確かにない。(…)p.276

■一般に「静観」という言葉から連想される事柄にたいして不満なのは、主にそれが熱情などの感情に対して一見超然としているからである。私は先に認識活動の中に見られるもろもろの衝動性の間の或る内的均衡について述べたが、この「均衡」という言葉でさえも誤解を招く虞れがある、この言葉は、物事に心を奪われたときなどの熱狂状態を斥けて、静かで穏やかな釣合を暗に示すかもしれない。が、実際は均衡とは情緒的認識からそれた表面的な行動のようなものを排して、さまざまな衝動が互いに刺激し強化し合うことをさすだけである。(…)p.283-284

■ある事態を問題として見たり、また問題を含むものとして見る場合、われわれは認識によって付与された事実を一方に置き、こうした事実のもつ可能的な意味を他方に置く。このような区別は物事を反省するのに必要な方法である。経験内容を分けて、そのうちの或る要素を合理的とし、他の要素を感覚的とすることは中間的な暫定的区別である。この区別の果たす任務は、かような区別が克服されているような認識的経験、即ちかつては概念であったものが感覚を介して素材の固有の意味となっているような認識的経験に結局は導くということである。科学的概念でさえも、それが観念以上のものと認められるためには、感覚的認識の中に具象化されねばならない。(…)p.286

■芸術は感覚と意味との間の(…)差別を解消させるのではなく、芸術は表現内容と最も完全に融合するような適切な質的媒介を見いだし、それによって他の多くの経験の特色たるこの融合の強力かつ完全な実例となっている。(…)p.286-287

■日常の経験はしばしば無感覚や倦怠や紋切型に陥っている。われわれは感覚を通じてものの性質に心打たれることもなく、思考を通じて事物の意味を悟ることもない。「世の中」はわれわれにはあまりにも重荷であり、あまりにもわれわれの気を散らす。われわれは感覚の滋味を溌溂とは感じもせず、また思想によって心動かされることもない。われわれは環境によって圧倒されているか、或は外界に対して無感覚になっている。こうした経験を正常な経験と解することが主要原因となって、人々は、日常の経験の構造に内在するそうした隔たりを解消させるのが芸術だという見解をとるようになった。(…)p.287

■環境に対して偶然的な関係しかもたなくなった心は肉体に対しても同様な関係をもつものとなる。心を(能動的器官と受動的器官から遊離した)全く非物質的なものとした以上、肉体はもはや生きたものではなく、死んだ肉塊となった。このように心を孤立した存在とみる見解は、美的経験が単に「心の中」のなにものかであるという考えの根底を成しており、またわれわれの肉体が自然物や生物と活発に交流するような類いの経験から美的経験を遊離させようとする考えを強化している。こうした見解は芸術を生物の領域から追放しようとするものである。(…)p.291-292

■芸術家の先天的素質は多様な自然界と人間界との或る側面に対し特に敏感であるということ、そして好みの媒介でこれを表現し、それによってこの側面を創り変えようとする衝動をもっているということがその特色である。この内在的な衝動性が経験の或る特定の背景と融合するとき、それが気質となる。そして、この背景の大半を成しているのは伝統である。周囲のものとじかに接触し、それを観察することは不可欠ではあるが、それで十分とは言えない。独創的な芸術家の作品でさえも、もしこの作品が作者をめぐる芸術上の伝統に関する広範で多様な経験を宿していないならば、比較的浅薄であるとともに、偏ったものにもなりやすい。こうした場合、眼前の情景に向かう心の背景を成す組織は堅牢でもなく、妥当性もない。なぜなら、それぞれの大いなる伝統はそれ自身組織的な習慣となったものの見方のことであり、ものを秩序づけ伝達する仕方のことだからである。この習慣が天賦の気質や素質に加味されるとき、それは芸術家の心を構成する本質的な要素となる。自然の或る側面に対する独特の鋭敏さはこれによって発展して、一つの力となるのである。(…)p.293

■作品の創造という見地から想像の性質を判断するならば、想像は制作と鑑賞のあらゆる働きを活気づけ、それに浸透している性質を表わすものと言える。想像とは、事物が統合的な全一体をなしている場合、そうした事物を見たり感じたりする仕方(・・)のことである。想像は、心が外界と接触する個所におけるもろもろの興味の大がかりで豊富な融合のことである。古くからある見馴れたものが経験の中で斬新な姿で立ち現われるとき、そこに想像が働いているのである。新たなものが創造されるとき、はるか遠い見知らぬものもこの世における最も自然で必然的なものとなる。心が宇宙と触れ合うとき、常に或る程度の冒険(アドヴェンチャ)が行なわれる。そしてこの冒険が即ち想像である。(…)p.295

■想像の所産は初めは大衆の非難を受ける、それも作品の広さと深さに比例して非難を受ける。芸術史と同じく科学史も哲学史もこうした事実の記録にほかならない。預言者は最初は(少なくとも比喩的に言えば)石をもって追われる者である。ただ後世に至って彼のために記念碑が建てられる。(…)p.297-298

■表現は人と人とを分け隔てている障壁を打破するものである。芸術は言語の最も普遍的な形式であり、文学を除いても、芸術は万人共有の世界の共通的な諸性質から構成されている。だから、芸術は最も普遍的で自由な伝達形式である。友情や愛情の真摯な経験はすべて芸術を俟って完成されるのだ。芸術によって生ずる交歓の情は顕著な宗教的性質をおびることがある。太古から現今に至るまで、出生や死去や婚姻など人生の一大事を記念してきた儀式は人間相互の融和に端を発している。芸術は儀式と祭礼がもつこのような人間融和の力をともどもに謳い称えて、これを人生のあらゆる出来事や場面にまで推し広めるのである。この任務は芸術がわれわれに贈る賜物であり、芸術の芸術たる証左である。芸術が人間と自然とを結合することは、人のあまねく知るところであるが、芸術はまた人間が互いにその起源と運命を同じくするものであることをわれわれに知らせてくれる。 p.299


 第12章 哲学に対する挑戦

■美的経験は想像的経験である。このことは、想像の本性に関する誤った観念と結びついて、あらゆる意識的(・・・)経験は必ず或る程度創造的性質をもっているといういっそう大きい事実を不明瞭なものにした。なぜなら、すべての経験の根源は生物とその環境との相互作用の中に見いだされるのであるが、こうした経験は、過去の経験から汲み取った意味がその中に加味されるときのみ、意識的となり認識内容となるからである。過去の経験から得た意味が現在の相互作用に到達するその唯一の道が想像である。或はむしろ、(…)新しいものと旧いものとの意識的調整が即ち想像である(・・)。(…)p.300

■過去に行なわれた相互作用において蓄えられた結果が意味を構成し、この意味をもってわれわれは現在起こりつつある事柄を把握し理解するのであるが、現在ここで直接行なわれている相互作用と過去における相互作用との間には間隙がある。そして、こうした間隙があるので、あらゆる意識的な認識は冒険を伴うものとなる。それは未知の世界への探検である。なぜなら、かような認識が現在を過去に同化させるとき、それは過去を多少なりとも改造するからである。過去と現在が全く一体となるときや、そこに単なる反復や千篇一律なことしか行なわれないときには、その結果生ずる経験は型にはまった機械的な経験であって、それは意識として経験の中に現われることはない。現在行われている経験の意味と過去の経験の意味とが適合しなくては、経験の創造的側面、即ち、意識は成立しないのであるが、習慣の惰性はこの適合を阻むものである。 p.301

■心は組織化された意味の集団であり、こうした一団の意味によって現在の事件がわれわれにとって重要性をもったものとなるのであるが、心は今ここで行われている能動と受動の働きの中に必ずしも参加するわけではない。心は往々にして行きづまったり、拘束されたりしている。こうした場合、現在の接触によって活動しだした意味の流れは疎遠なものとなり、幻想や夢想となるのである。(…)p.301

■あらゆる芸術品において、こうした意味は素材の中に実際に具象化され、それによってこの素材は意味を表現する媒介となるのである。この事実は明らかに美的なあらゆる経験の特色を成すものである。美的経験においては、想像的性質が優位を占めているが、それは現在ここで行われる経験と結びついている意味と価値よりもさらに広くて深い意味と価値がそこに実現されるからである。もっとも、それは他の事物に比べて物として有効な事物を通じてではなく、表現(・・)を通じて実現されるのである。(…)p.301

■機械と違って芸術作品は想像の結果生まれたものであるばかりでなく、むしろ想像的に作用するのであって、物理的存在の領域内で作用するのではない。芸術の作用は直接経験を集中し、拡充するところにある。言い換えれば、形成された美的経験の内容は、想像力をもって呼び起こされた意味を、直接表現する(・・・・)のである。(…)芸術は事物の存在を越えた彼岸の目的に到達するための手段(・・)をただ提供するというわけではない。しかも想像力によって喚起され結集され統合されたもろもろの意味は、今ここで自我と作用し合う物質的存在の中に具体化される。このように、芸術品は、これを経験するものが想像力をもって、その作者がしたのと同様な喚起と組織化の活動を遂行するように促すものである。芸術は外面的な活動を促す単なる刺激物でもなく、手段でもない。(…)p.302


 第13章 批評と認識


 第14章 芸術と文明

■芸術の創造と鑑賞に対する集合的文化の影響という見地からすると、芸術は人間と外界との適応の内奥にある態度を表現するものであり、人類全般の態度の根底にある観念や理想を表現するものである。だからこそ、一文明特有の芸術がはるか遠い他国の文明の経験の最深の要素と共鳴し、その中に融け入る手段となるのである。この事実によって、異邦の芸術がわれわれ自身に対してもつ人間的意義も説明される。われわれの経験とは異なる形の経験の根底にある態度を、われわれが他国人の方法をもって把握する限りにおいて、彼らの芸術はわれわれ自身の経験を広めかつ深めて、もはやこれを地方的局地的なものでなくしてくれる。われわれが異文明の芸術によって表現された態度をわがものとしないならば、彼らの作品はただ「好事家(こうずか)」のみの関心事にすぎないか、もしくはそれらの作品はわれわれの美的感興を呼び起こさないか、いずれかである。(…)p.368

■各々の文化にはそれぞれ個性があり、またもろもろの部分を結合している一つの類型がある。それにもかかわらず、他の文化から生れた芸術が、われわれの経験を規定している態度の中に加わってくるとき、真の連続がそこに生ずる。われわれ自身の経験はそのために個性を喪失することはなく、むしろわれわれの経験の意義を拡充するような諸要素をうちに取り容れて、これらを結合するのである。こうして、物理的には存在しないような共有と連続とがそこに創り出される。(…)p.371-372

■人々が科学本来の意義を悟った以上、そしてまた科学の意味と過去の時代から伝えられた信念とをもはや対立的だとみなされなくなった以上、人間が自然の一部であるということを科学が示そうとするのは、芸術にとって不利な結果よりも、むしろ有利な結果をもたらすものだ。なぜなら、人間を物的世界にぴったり近づければ近づけるほど、人間の衝動性や観念は彼のうちなる本性から生ずるということがいよいよはっきりするからである。人間性の根本的活動は常にこの原則に基づいてなされてきた。そして、科学はこの活動に知的な支持を与えるものである。自然と人間との間の或る種の関係についての意識が常に芸術活動を生み出す精神なのであった。(…)p.375

■われわれが切実に感じている労働問題や雇用問題は、単に賃金や労働時間や衛生条件を変えるだけでは解決することができない。労働者が生産に携わる程度と種類とを変え、彼が生産する品物に対する社会の意向を変えるところの根本的な社会的変革によるのでなければ、この問題の永久的な解決は望めない。(…)
 外部からの圧力を減らし、自由の念を強め、生産活動に対するその人の興味を深めるように変えていく、そうした変化が肝要である。少数の者が外部から仕事の過程や製品について統制するということは、美的満足の本質的な必要条件である心からの興味を、労働者がその仕事や製品に対していだくのを妨げている主要な力である。労働者が自己の仕事の意味を意識したり、朋輩との交遊の楽しみを味わったり、うまく仕上がった製品を見て満悦したりするのを阻むような越え難い障壁が機械的生産そのもの(・・・・)の本性の中にあるわけではない。一定の心理学的法則や経済学的法則よりも、自己の利益のために他人の労働をかってに牛耳ることからくる心理的条件のほうが、生産活動に伴う経験における美的性質を抑圧し制肘する力をなすものである。(…)p.379-380

■芸術の創作と賢明な鑑賞とに導くもろもろの価値は社会的関連の組織の中に統合されねばならない。プロレタリア芸術論は芸術家の個人的な慎重な意向と、社会における芸術の地位や働きとを混同しているから、その議論の多くは的はずれであると思う。世の中に役だつ仕事をしている男女大衆が生産活動を自由に営む機会をもち、また共同作業の成果を味わい楽しむ能力を十分授けられるまでは、現在の条件下では実際のところ芸術そのものは不安定である。芸術の素材はどんな源泉からもすべて汲み取られねばならない、そして芸術は万人の近づきうるものでなければならない。こういう要求に比べれば、芸術家個人の政治的意向などは取るに足りないものである。(…)p.381

■言葉は出来事を記録する、そして依頼や命令によって未来の或る行為に指示を与える。文芸は現在の経験の中で重きをなす過去のものの意味を伝え、大いなる未来の動向を予言する。そして、ただ創造的幻想だけが現実の組織の中に織り込まれているもろもろの可能性を取り出すのである。不満の最初の胎動や明るい未来の兆しはいつも芸術の中にこそ見いだされる。きわ立って斬新な芸術はその時代を風靡していた価値とは異なる価値観念を宿している。保守的な人々がかような芸術を不道徳的な、えげつないものとするのも、また彼らが美的満足を過去の作品に求めるのも、みなこのためである。記述的科学は統計を集めて図表を作成するであろう。この種の科学の予言は過去の歴史を裏返したものだというが、けだし当を得た言葉である。想像の風潮の変化こそ、生活の瑣事ならぬそれ以上のものを左右する変化の前触れである。(…)p.382

■詩は直接人生の批評となるのではなく、想像的洞察を通じて、(固定した判断にではなく、)想像的経験に訴えて、現実の状態とは対照的なもろもろの可能性を表示することによって人生の批評となるのであるが、(…)今は実現されていないが、ことによったら実現されるかもしれないというような可能的状態が現実の状態と対比されたとき、こういう可能的状態に関する意識が、現実の状態に対するあらゆる批評のうち最も透徹した「批評」となるのである。われわれを回りから締めつけている圧縮を感じ、われわれを押えつけている重圧を悟るのは、眼前に開けた可能的状態に関する意識によるのである。(…)p.383

■一個の芸術品の中で可能と現実との融合を認識するのは大いなる善に違いないが、善はそれが存する直接的な個々の場合に尽きるものではない。認識の中に現われたこの融合はまた衝動性や思想の改造となって存続する。欲望や目的などの広範な大きい方向転換の最初の兆しは必ず想像的である。芸術は図表や統計の中には見られぬ一種の予言であり、規則や教訓や説諭や監理の中には存しない人間関係のもろもろの可能性を仄めかすものである。

 「されど、芸術をもて人は人に語るにあらず、
ただ人類に語るのみ――芸術はそれとなく真理を語り、
思想をはぐくむ営みをなさん。」  p.386

 引用頁は春秋社 1969年刊・鈴木康司訳 『芸術論―経験としての芸術―』 に拠る )

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