《資料》 文 学 の 仕 事 ―― 諸家の文学観に学ぶ
 

  アリストテレス『詩学』( Ἀριστοτέλης « Περὶ Ποιητικῆς » ) より             

 朴 一功 訳(『アリストテレス全集 18 』岩波書店 2017.3 )


   第一章

  (…)詩作の技術そのもの、およびそれのさまざまな種類について論じることにしよう。すなわち、詩作の技術の各種類はどのうような能力をもっているか、そして詩作がすぐれたものとなるためには、物語の筋はどのように組み立てられなければならないか、さらにまた詩作は、どれだけの、どのような要素から成り立っているか、同様にしてまた、同じ研究に属するかぎりの他の事柄についても、われわれは自然の順序にしたがって、まず最初の一般的な事柄から出発して論じることにしよう。
  さて、叙事詩篇や、悲劇の創作、さらには喜劇、ディテュランボス創作(3) また笛や竪琴の音楽の大部分、これらすべては、全体として見れば、「再現」(4)にほかならない。しかしこれらのものは、三点において互いに異なっている。すなわち、第一に、異なった媒体において再現し、第二に、異なった対象を再現し、第三に、同じ方法ではなく、異なった仕方で再現する、という点において異なっているのである。(…)

注 (3) ディテュランボスとは、酒神ディオニュソスへの讃歌。(…)
注 (4) 「再現」と訳された言語はミーメーシス [μίμησις ] その原意は「真似」「模倣」「模写」。(…)太字は引用者)

 
   第二章


  さて次に、再現する人たちというのは、行為する人々を再現するのであって、また行為する人々というのは、必然的に、立派な人たちであるか、低劣な人たちであるか、このどちらかであるはずだから(なぜなら、人間のさまざまな性格は、ほとんどつねにこれらの特性だけにしたがっているからである。つまり、すべての人間は、その性格に関しては、徳と悪徳の点でこそ異なってくるのである)、そうである以上、再現される人物たちというのは、われわれを標準にして、それよりもすぐれた人々であるか、あるいは、それよりも劣った人々であるか、あるいはまた、われわれのような人々であるか、そのいずれかであるということになるだろう、ちょうど画家たちが描いているように。というのも、ポリュグノトス(1) はよりすぐれた人たちを、パウソン(2) はより劣った人たちを、ディオニュシオス(3) はわれわれに似た人たちを絵に描いていたからである。(…) 

注 (1) ポリュグノトスは、前五世紀中頃に活躍したタソス(エーゲ海北方の島)の出身の画家。(…)
注 (2) パウソンについては詳細不明(…)

注 (3) ディオニュシオスはコロポン出身の画家であり、彼の絵は「感情や性格、身のこなしや衣服の微妙な襞その他にいたるまで、壮大さ以外はすべてポリュグノトスの技術を正確に模倣したもの(松平・中務訳)と言われ(…)


   第三章

  さらにまた、以上のような再現における再現における第三の差異(1) は、扱われる対象のそれぞれを人はどのような仕方で再現できるかということである。なぜなら、同じ媒体を再現するにしても、(1)ある場合には作者自身が報告する形式をとりながら、しかも、(a)ちょうどホメロスがしているように、作者がある別のものになって再現したり(2) 、あるいは、(b)作者が同じ人物のまま、変化せずに再現したりする方法(3) もあれば、他方、(2)すべての人物を、行為し、活動している者として真似る者たちが再現する方法(4)  もあるからである。それゆえ、われわれが最初に述べたように、再現というのは、以上の三つの相違点において区別されるのである。すなわち、何を媒体にし、何を対象とし、どのような方法をとるかによって区別されるのである。
  したがって、ある面では、ソポクレスはホメロスと同じたぐいの再現者ということになるだろう。というのは、両者とも、立派な人物たちを再現しているからである。しかし別の面では、ソポクレスはアリストパネスと同じたぐいの再現者ということになるだろう。なぜなら、両者とも、行為し、行動してみせる人物を再現しているからである。彼らの作品が
「劇」(ドラーマ [δρãμα] と呼ばれるのも、ある人たちの主張によれば、この理由からであって、つまり、彼らが再現しているのは、行動する(ドラーン [δρãν] 人物だからである。(…)

注 (1) 第一、第二の差異は、これまでに論じられた媒体、対象の差異。
注 (2) すなわち、ホメロスの叙事詩は報告形式と作者が別のもの(登場人物や神々)になる物語形式との混用方式。
注 (3) これは、全体が報告の形式。ディテュランボス(第一章注(3))の方式がこれにあたる(プラトン『国家』第三巻394C)
注 (4) すなわち、悲劇や喜劇の方式。(…)


   第四章 

  ところで、一般に詩作の技術を生み出したのは、ある二つの原因であって、どちらの原因も自然的なものであるように思われる。
 すなわちまず、(1)真似ること(1) は子どもの時から人間にそなわった自然の傾向であって、人間はこの点において、つまり、人間というのは最も真似をする傾向があり、最初のいろいろな「学び」(
マテーシス [μάθησις ] )も「真似」(ミーメーシス [μίμησις] )を通じて行なうという点において、他の種々の動物たちとは異なっている。また、(2)だれもが「真似られたもの」(ミーメーマ [μίμημα] )をよろこぶというのも、人間にそなわった自然の傾向である。そしてこのことの証拠は、実際に起こっている事実なのである。すなわち、われわれは実物を見るのが苦痛に感じられるようなものであっても、そうしたものについて、この上もなく正確に仕上げられた似像を眺めてはよろこぶからである。たとえば、はなはだ気味の悪い野生の動物たちとか、死体とかの姿かたちを見るような場合がそうである。
  しかしこのことについても、その原因は、そもそも学ぶということが、知恵を愛する哲学者たちにとってばかりでなく、他の人たちにとっても同じように――もっとも、彼らが学びにあずかる程度は少ないのであるが――、最大の楽しみである、という点にある。実際、人々が似像を見てよろこぶのはこの理由によるものであり、つまり似像を眺めると、それとともに学ぶことにもなって、それぞれのものが何であるかを、たとえば、「ああ、これはあの人だ!」などと推理することにもなるからである。現に、もし人が以前に実物を見たことがないとすれば、似像がその楽しさをもたらすのは、けっして「真似られたもの」としてではなく、もっぱらその仕上がり方とか、色彩とか、何かそういったたぐいの他の原因によるのである。
  とはいえ、われわれにとっては、真似ることが、そして音階やリズムも(と言ったのは、韻律については、これがリズムの一部であることは明白だからである)、自然なものとして存在するわけだから、これらに対して最も自然的素質のある人たちが、はじめに、即興の作品から出発して、それを少しずつ発展させながら、詩作というものを生み出していったのである。
  ところが、詩作はこれを生み出した人たち自身の固有の性格にしたがって、二つの方向に分かれることになった。すなわち、より厳かな性格の人たちは美しい行為や、立派な人々の行為を再現しようとしたのであり、他方、より軽い性格の人たちは低劣な人々の行為を再現しようとしたのであって、その際、この軽い人たちの方は、ちょうど厳かな人たちが讃歌や頌歌を作っていったように、はじめは、非難の歌を作っていたのである。(…)
  しかし、悲劇と喜劇が現れ出るにおよんで、人々は、自分に固有の自然本性に促されて、二つに分かれたいずれかの方向の詩作へと突き進みながら、ある者たちは風刺詩の作家になるかわりに喜劇作家となり、他の者たちは叙事詩の作家になるかわりに悲劇作家となったのであるが、それは喜劇や悲劇の形式のほうが、風刺詩や叙事詩の形式よりも壮大であり、より尊重されるものであったからである。(…)
  

注 (1) 原語は「ミーメイスタイ」。ここでは原意に力点が置かれているので、「再現すること」ではなく、「真似ること」と訳された。(…)


   第五章

  他方、喜劇は、われわれが述べたように(1)、比較的低劣な人物たちの再現であるが、しかしその低劣さは悪徳のすべてにおよんでいるわけではなく、むしろ滑稽というのは、醜さの一部分にすぎないのである。なぜなら、滑稽とは、苦痛を伴いもせず破滅的でもないある種の過ちであり、醜さであって、たとえば早い話が、喜劇の滑稽な仮面というのは醜くて、ゆがんだものではあるが、苦痛を表すものではないからである。
  ところで、悲劇のさまざまな変革や、そうした変革がどのような人々によってなされてきたのかはこれまで忘れ去られることはなかったが、喜劇のほうは、はじめから真剣な関心が払われなかったために、そのいきさつは忘却されたのである。(…)

注 (1) 第二章最後の一文[喜劇が今の人々よりも劣った人物たちを再現する傾向があるのに対し、悲劇は今の人々よりもすぐれた人物たちを再現しようとするものなのである。](…)

 
   第六章 

  (…)悲劇とは、一定の大きさをもつ厳粛で完結した行為の再現であって、心地よく響くそれぞれの種類の言葉を別々に、作品の部分部分において使い分け、しかも報告形式による再現ではなく、行動する(演じる)人物たちによる再現であり、憐れみと恐れを通じて、そうした感情の浄化(カタルシス [κάθαρσις] )を達成するものである(2)
  ここで私が「心地よく響く言葉」と言っているのは、リズムと調べをもった言葉のことであり、また「それぞれの種類の言葉を別々に」というのは、作品のある部分は韻律言語のみによって仕上げられ、他の部分は逆に、歌によって仕上げられるということを意味する(3)。(…)

  悲劇は行為の再現であり、またその行為は行為する人物たちによってなされ、しかもその人物たちは性格と思考の点で必然的に何らかの性質のものであるわけだから(実際、性格と思考によって、行為もまた何らかの性質のものになるとわれわれは主張するのであり、[本来、行為の原因というのは思考と性格の二つなのである(4)]、そしてそうした行為に基づいて、だれもが成功したり失敗したりするのである)、そうである以上、物語の筋こそその行為を再現するものにほかならない。なぜなら、私が「物語の筋」と言っているのは、もろもろの出来事の組み立てのことであって、他方、「性格」とは、われわれの主張によれば、行為する者たちを何らかの性質の人物にするところのものであり、また「思考」とは、何かを論証したり、見解を表明したりする場合に、その人物たちが語るかぎりの事柄のうちに含まれているものだからである。(…)

  物語の筋こそ悲劇の第一原理であり、いわば魂であって、人物の性格は第二のものなのである(実際、これとよく似たことは絵画にもみられる。というのは、人がどれほど美しい絵の具を使っても、ただでたらめに塗りたくるだけなら、白黒でくっきりと似像を描いた場合と同じほどにもよろこびをもたらさないであろうから)。悲劇とは行為の再現であって、悲劇が行為する人物たちを再現するのも、とりわけ行為のためなのである。(…)

注 (2) この悲劇の定義、および「カタルシス」については、解説第四節参照。
注 (3) (…)

(4) (…)


   第七章

 (…)次に出来事の組み立てがどのようなものでなくてはならないかを論じることにしよう。現に、この組み立てこそは、悲劇における第一にして最も重要な要素なのだから。
  そこでまず、われわれが定めたところによれば(1)、悲劇とは、ある一定の大きさをもつ、完結した全体をなす行為の再現であった。このように定めたのは、全体をなしていても一定の大きさを何ももたないものがありうるからである。ここで全体というのは、始めと中間と終わりをもつもののことである。そして、始めとは、それ自身が必然的に他のものの後にあるのではなく、本来それの後に別のものが存在したり、あるいは生じたりするところのものである。他方、終わりとは、逆に、本来それ自身が必然的に、あるいはたいていの場合に、他のものの後にあるようなものであって、それの後には他のものが何もないようなものである。また、中間とは、それ自身も他のものの後にあり、それの後にも別のものがあるようなものである。
  だとすれば、うまく組み立てられた物語の筋というのは、行きあたりばったりのところから始まってはならないし、行きあたりばったりのところで終わってもならず、いま述べられた形態を採用していなくてはならない。
  さらにまた、生き物であれ、いくつかの部分から組み立てられたどのような事物であれ、美しいものというのは、その諸部分がきちんと配列されていなければならないだけでなく、その大きさもまた任意のものであってはならない。(…)

 けれども、事柄の本性そのものにもとづく限界はといえば、物語の筋はつねに、その全体が明確であるかぎり、より大きなものほど、それだけその大きさに応じてより美しいのである。つまり、単純に規定して言えばこうなるであろう、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で出来事が次々と起こってゆき、不幸な運命から幸福な運命へと、あるいは幸福な運命から不幸な運命へと変転するだけの大きさがあれば、筋の大きさの限界としては十分である、と。

注 (1) 前章第二段落1449b24-25.[「そこでまず、悲劇とは、一定の大きさをもつ厳粛で完結した行為の再現であって、心地よく響くそれぞれの種類の言葉を別々に、作品の部分部分において使い分け、(…)」]


   第八章

  だが、物語の筋というのは、ある人々が考えているように、一人の人物にかかわるものなら統一性のあるものになる、というわけではない。なぜなら、一人の人物には、かぎりなく多くのことが起こるのであって、それらの出来事のなかには統一性が何ひとつ成り立たないようなものもいくつかあるからである。また、一人の人物のなすもろもろの行為についても同様であって、それらのうちには統一性のある行為にまったくなりえないようなものも数多くある。(…)

 だから、他のさまざまな再現の技術においても、統一性のある再現というのは、統一性のあるものを対象とするのであって、ちょうどそれと同じようにして、物語の筋もまた、それが行為の再現である以上、統一性のある行為、しかもまとまりのある全体をなすような行為の再現でなくてはならないし、出来事の諸部分についても、それのある部分が置き換えられたり、取り去られたりすれば、全体が動かされてばらばらになってしまうような、そうした緊密な構造に組み立てられてなくてはならない。なぜなら、あってもなくても、何ひとつ目立った違いが生じないようなものは、そもそも全体のいかなる部分でもないからである。


   第九章 

  また、以上で述べられた事柄から、次のことも明白である。すなわち、詩人の仕事とは、実際に起こったことを語るのではなくて、起こりうるようなことを、つまり、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを語る、ということである。なぜなら、歴史家と詩人とは、韻文で語るか、散文で語るかという点において異なるわけではないからである(実際、ヘロドトスの著作は、韻文に直すこともできるであろうが、その著作は韻律があっても、韻律がない場合に劣らず歴史の一種であるだろう)。むしろ違いは次の点にある、すなわち、歴史家は実際に起こったことを語るが、詩人は起こりうるようなことを語るということである。それゆえ、詩作(ポイエーシス [ποίησις] )は、歴史(ヒストリアー [ἱστορία] )よりもいっそう哲学的であり、いっそう重大な意義をもつのである。というのも、詩作はむしろ普遍的な事柄を語り、歴史は個別的な事柄を語るからである。
  ここで「普遍的な事柄」というのは、どのような人にとっては、どのようなことを語ったり、なしたりすることが、ありそうな仕方で、あるいは、必然的な仕方でおこるのかということであって、そのことこそ詩作は、登場人物に個々の名前を付けながら(1)も目指しているのである。他方、「個別的な事柄」というのは、アルキビアデス(2)が何をなし、どんな目にあったかといったことである。(…)

  悲劇の扱う題材に関しては、何が何でも伝承された物語に固執する、といったことを求めてはならない。なぜなら、そうしたことを求めるのはばかげてもいるからである。現に、知られている話でさえ、少数の人々にしか知られていないが、それにもかかわらず、あらゆる人たちによろこびをもたらすのである。
 それゆえ、以上のことから次の点が明らかである。すなわち、再現のゆえに詩人であるかぎり、また、再現されるのが行為であるかぎり、詩人とは、韻文の作者であるよりもむしろ、物語の作者でなければならない、ということである。だから、たとえ実際に生じた出来事を作品にすることになったとしても、それだけでその人が詩人でなくなるというわけではけっしてない。なぜなら、実際に生じた出来事のうちにも、生じることがありそうな、そういったたぐいのものがいくつか含まれていることは十分ありうるのであって、彼が生じた出来事の詩人であるのは、まさにその点にもとづくからである。
  しかしながら、単純な筋や行為(5) のなかでは、挿話的なものが最悪である。ここで私が「挿話的な筋」(
エペイソディオーディース・ミュートス)と言っているのは、もろもろの挿話(エペイソディオン [έπεισόδιον])が相互にありそうな仕方でも、必然的な仕方でもつながっていないような筋のことである。(…)

 他方、再現とは、完結した行為の再現であるばかりでなく、恐れと憐れみを呼び起こすような事柄の再現でもあるのだから、そうした事柄がもっともよく生じるのは、それが予期に反して、しかも相互の関係のゆえに生じる場合である。なぜなら、そのような場合のほうが、ひとりでにそうなったり、偶然にそうなったりする場合よりも、事態はいっそう驚くべきものになるであろうから。(…)

注 (1) 普遍的な筋書きの作業の後に、個別的な名前をあてがうことについては、第十七章1455b12参照。
注 (2) アルキビアデス(前四五〇年頃-四〇四年)はアテナイの政治家。ソクラテスとの愛情関係は特に有名(プラトン『饗宴』参照)(…)

注 (5) 単純な筋やや行為については、次章参照。


   第一〇章

  ところで、物語の筋には、単純なものと複合的なものとがある。なぜなら、物語の筋が再現しようとするもろもろの行為にも、もとよりそのような区別が認められるからである。ここで私が「単純な行為」と言うのは、先に規定されたように連続的、かつ統一的なものとしてなされながら(1)、事態の逆転や真相の認知を伴わずに運命の変転が生じるような行為のことであり、他方、「複合的な行為」とは、逆転や認知、あるいはその両方を伴って運命の変転が起こるような行為のことである。
  また。こうした逆転や認知は、物語の筋の構造そのものから生じるのでなければならず、したがって、それらは、先行する出来事から、必然的な仕方で、あるいはありそうな仕方で生じるのでなければならない。なぜなら、これこれの出来事が、これこれの出来事のゆえに(、、、)起こるのと、これこれの出来事が、これこれの出来事のあとに(、、、)起こるのとでは、たいへんな違いがあるのだから。

注 (1) 連続性については第七章第二段落1450b26-27の、全体が「始めと中間と終わりをもつ」という議論、統一性については第八章参照。


   第一一章
  (…)

   第一二章
  (…)

   第一三章

  さて、物語の筋を組み立てるにあたって、何を目指すべきか、なた何に注意すべきか、そして悲劇の機能は何に由来するのか、こうした問題について、今まで述べられた事柄に続いて論じなくてはならないであろう。
  そこで最もすぐれた悲劇の組み立てというのは単純な構造のものではなくて、複合的なものでなければならず(1)、しかもその組み立ては恐れと憐れみを呼び起こすような出来事を再現するものでなければならない以上(なぜなら、このことがこの種の再現に固有なことであるから)、まず第一に、(1)品位ある善き人たちが、幸福な運命から不幸な運命へと変転するさまが示されてはならないこと、このことは明らかである。というのも、その事態は恐ろしいものでも憐れみを誘うようなものでもなく、むしろいまわしいものだからである。
  また、(2)邪悪な者たちが不幸せな運命から幸福な運命へと変転するようなさまも示されてはならない。というのは、これはすべてのうちで最も悲劇にふさわしくないものであって、悲劇に必要なものを何ひとつそなえておらず、人情に訴える(2)ところもなく、憐れみや恐れも呼び起こさないからである。
  他方また、(3)すこぶる劣悪なものが、幸福な運命から不幸な運命へと転落するさまも示されてはならない。なぜなら、そのような組み立ては人情に訴えるところはあるかもしれないが、憐れみや恐れを呼び起こすものではないからである。実際、一方の感情は、不当に不幸な運命をこうむっている人に関するものであり、他方の感情は、われわれに似た人に関するものであって、つまり、憐れみは不当に苦しむ人に、恐れは自分に似た人にこそ感じられるものであり、したがって、この場合の成り行きは、憐れみを誘うものでも恐ろしいものでもないであろう。
  してみれば、残るのは、(4)これらの場合の中間の人である。それはどのような人かと言えば、徳と正義のおいて卓越しているわけでもなく、また悪徳や邪悪のゆえに不幸な運命へと変転するのでもなく、ある種の過ちのゆえに不幸な運命へと変転するような人であって、しかも大きな名声と幸運のうちにあるような人たちに属する人物である。たとえば、オイディプスとか、テュエステス(3)とか、あるいは彼らのような家系の著名な人物たちである。
  だとすれば、すぐれたあり方をしている物語の筋というのは、ある人たちが主張するように、二重のものではなくて、むしろ単一なものでなければならず(4)、しかも不幸な運命から幸福な運命へと変転するのではなく、逆に、幸福な運命から不幸な運命へと変転し、その変転は、邪悪さのゆえにではなく、大きな過ちのゆえに起こるものでなければならず、それをおかす人も、先に言われたような人物か、あるいは、それよりも悪い人物でなくて、むしろ善い人物でなければならない。(…)
 

注 (1) すなわち、逆転や認知を伴って運命の変転が起こる構造(第一〇章参照)。
注 (2) 「人情に訴える」の原語は、「
ピラントローポン [φιλάνθρωπον]」(人間愛に訴える)。
注 (3) テュエステスは、リュディア王タンタロスの子であったペロプスの子。(…)
注 (4) すなわち、筋が一つでなければならないということ。この「単一なもの」の意味は、本章第二段落1452b31の「単純な構造」(逆転や認知を伴わずに運命の変転が起こる構造)とは異なる。なお、「二重のもの」の意味については、本章1453a31参照。


   第一四章


  ところで、恐ろしいもの、憐れみを誘うものは、視覚光景から生じることもありうるが、出来事の組み立てそのものからも生じうるのであって、まさにその方が優先するのであり、その方こそ、よりすぐれた作家の工夫することなのである。なぜなら、たとえ実際に見ることがなくても、物語の筋というのは、出来事が起きてゆくのを聞く者が、その成り行きにおののいたり、あるいは憐れみを覚えたりするような、そうした仕方で組み立てられねばならないからである。まさにこういったことを、『オイディプス王』の物語を聞く者は経験するであろう。(…)

   第一五章

  他方、登場人物の性格については、作家が目指すべき事柄は四つあり、第一の、最も重要な点は、性格がすぐれたものになるように、ということである。しかるに、人物が性格をもつようになるのは、先にも言われたように(1)、言葉、あるいは行為が、何らかの決断、選択を――その選択がどのようなものであれ――明白にしているような場合であって、選択がすぐれたものであれば、性格もすぐれているであろう。だが、すぐれた性格というのは、人間の各種類に認められる。すなわち、女性であろうと奴隷であろうと、なかにはすぐれた者がいるからである。もっとも、このうち恐らく前者は劣った存在であり、後者はまったくつまらない存在であるかもしれないけれども。
  次に、第二に目指すべきは、ふさわしいということである。というのは、女性の性格が勇敢というのはありうるが、あまりにも勇敢であったり、有能であったりするのは、女性にふさわしくないからである。
  そして、第三は、当の人物に似ているということである。というのも、この点は、これまでのべられたような仕方で、性格をすぐれたものにしたり、ふさわしいものにしたりすることとは別のことだからである。
  さらに、第四は、一貫性である。すなわち、たとえ再現の対象とされる人物が一貫性のない人物であり、またそうした一貫性のない性格が前提されているとしても、それにもかかわらずその場合、当の性格は一貫して(、、、、)一貫性のないもの(、、、、、、、、)でなければならなない。(…)


  ところで、性格においてもまた、出来事の組み立ての場合とちょうど同じように、必然的なこと、あるいは、ありそうなことをつねに求めなければならない。したがって、このような人が、このようなことを語ったり行なったりするのは、必然的、もしくはありそうなことでなければならず、またこのことがこのことの後に生じるのも、必然的、もしくはありそうなことでなければならない。(…)

  そして、悲劇とは、われわれよいもすぐれた人々の再現であるのだから、作家は、すぐれた肖像画家たちを見習わなければならない。というのは、肖像画家たちもまた、人物の特徴的な姿かたちを表現していろいろと似たものを作りながら、それらをより美しいものとして描き出すからである。作家もまたそのようにして、怒りっぽい人物、軽薄な人物、その他これに類する性格上の特質をもつ人物を、そのようなものとして再現しながらも、品格ある人物に作らなくてはならない。つまり、堅物の典型でありながら、たとえばホメロスも、それをすぐれたアキレウスに作り上げたように。
  かくして、以上のことに留意しなくてはならないし、またそれらに加えて、詩作の技術に必然的に伴う感覚方面の事柄(8)にも留意しなくてはならない。なぜなら、そうした事柄においても、誤りをおかすことがしばしばあるからである。しかい、こういったことについては、すでに公刊された論述(9)のなかで十分に述べられた。

注 (1) 第六章1450b8-10参照。[「ここで性格というのは、行為者のなす決断、選択がいかなるものであるかを示すようなものであるが――まさにこの故に、語り手がいったい何を選択し、何を避けるのかといったことが全然含まれていないような言葉はどれも、性格をもっていないのである――これに対して、思考というのは(…)」]
注 (8) 「感覚方面の事柄」とは、観客が劇を見て(感覚して)受け取る印象に関する事柄。ただし、「詩作の技術に必然的に伴う」と言われていることから、主として役者の動作などが念頭に置かれており、舞台衣装などは含まれないであろう。(第六章1450b16-20参照)。
注 (9) アリストテレスの失われた対話篇『詩人について』のことと推定されている。


   第一六章

  (…)


   第一七章
 
  さて、物語の組み立て、それを語法によって仕上げるにあたっては、できるかぎり出来事を眼前に思い浮かべてみなければならない。なぜなら、そのようにしてこそ、あたかも展開される行為そのものに立ち会っているかのように、出来事をできるかぎり明瞭に見ながら適切なことを発見できるであろうしまた矛盾した事柄に気づかないということも最小限に抑えられるであろうから。(…)
  そしてできるかぎり作家は、身ぶりをしてみることによっても作品を仕上げる必要がある。なぜなら、素質が同じであるなら、もともろの感情のなかに入り込んでいる者たちこそ、表現に最も説得力があるからである。すなわち、苦しみあえいでいる者こそ最も真に迫って苦悩を伝え、怒っている者こそ最も真に迫って憤りを伝えるからである。それゆえ、詩作の技術は、素質に恵まれた人か、狂気がかった人か、このどちらかに属するものなのである。というのも、前者の人たちは、可塑性に富む人達であり、後者の人たちは忘我的な人たちだからである。(…)

   第一八章

  また、あらゆる悲劇には、出来事を紛糾させる部分と解決する部分があって、劇の外部の事柄や、しばしば劇の内部のいくつかの事柄が紛糾部をなし、残りは解決部である。ここで私が「紛糾部」と言っているのは、出来事の始まりから幸福な運命へと、あるいは不幸せな運命へと転換する直前の部分に至るまでのところであり、他方「解決部」とは、この転換の始まりから劇の結末までのところである。(…)
  ところで、悲劇には四つの種類があるが(悲劇の要素もそれだけあることが、先に述べられたが(3))、まずその一つは、(1)複合劇であり、それの全体は「逆転」と「認知」からなっている。もう一つは、(2)苦難劇であり、たとえばアイアス(4)やイクシオン(5)にまつわるいくつかの劇がこれにあたる。次は、(3)性格劇であり、『プティアの女たち』(6)や『ペレウス』(7)がその例である。そして第四は、(4)〈……〉であって(8)、たとえば『ポルキュスの娘たち』(9)や『プロメテウス』(10)、また冥界ハデスの世界を扱うかぎりの作品がこの部類に入る。
  さて、作家はすべての要素を取り入れるように最大限の努力をしなくてはならないが、もしできなければ、最も重要なものを最も多く入れるように努めなければならない、とりわけ今の時代は作家たちのあら探しをする人たちがいるのだから。というのは、それぞれの要素について言えば、すでにすぐれた作家たちが出てしまっているので、人々は各作家のもつ特有のすぐれた点を、一挙にひとりの作家にこえてもらいたいと要求しているからである。
  しかし、ある悲劇が他の悲劇と別のものであるとか、また同じものであるとかが正当に言えるのは、何よりも物語の筋の点においてである。すなわち、同じもつれ込みと同じ解決をもつような劇なら同じものと言える。けれども、多くの作家たちは、うまく出来事をもつれ込ませておきながら、拙劣な仕方でその解決を図っているのである、だが、もつれ込みと解決の両方は、きちんと適合させられなければならない。(…)

注 (3) 第六章で論じられた悲劇の構成要素を指すものと考えられるが、そこでは、六つの要素(物語の筋、性格、語法、思考、視覚光景、歌曲)があげられており、この箇所との対応関係は正確ではない。(…)
注 (4) アイアスはサラミス王テラモンの子。トロイア戦争において、ギリシア側のアキレウスにつぐ勇将。アキレウスの死後、彼は、最大の勇者に贈られるアキレウスの武具をめぐってオデュッセウスと争い、敗れて狂気に陥り、家畜の群をオデュッセウスらと信じて殺すが、正気に返って自害する(…)
注 (5) イクシオンは、親族殺しを実行した最初のギリシア人と伝えられる。花嫁ディアの父親エイオネウスを火の燃える落とし穴に突き落として殺害したが、この罪をゼウスに浄められる。しかし、イクシオンはゼウスの妻ヘラを犯そうとし、これを告げられたゼウスは、彼をヘラの姿に似せた雲と交わらせ、さらに罰として回転する車輪に縛り付ける。雲は半人半馬のケンタウロスを産む(…)
注 (6) ソポクレスの失われた作品と推定されるが、不明。(…)
注 (7) ペレウスは海の女神テティスを妻とし、アキレウスの父。ソポクレスもエウリピデスもペレウスについて作品を書いたが、断片が残るのみ。
注 (8) 〈……〉部分に底本が保存している写本の意味不明語
οης(オエース、1456a2)は、Bywaterの提案によれば、όφις [オフィース](視覚劇)である。しかし、(…)
注 (9) アイスキュロス作のサテュロス劇。ポルキュスの娘たちとは、海と大地の息子ポルキュスとその姉ケトとの間に生まれた三人のゴルゴー(ステンノ、エウリュアレ、メドゥサの妖怪三姉妹)のこと。メドゥサは英雄ペルセウスに首をはねられる。(…)
注 (10) 神々のところから火を持ち出して人間に与え、ゼウスの怒りを招いたプロメテウスについては、アイスキュロスの三部作『縛られたプロメテウス』、『解放されたプロメテウス』、『火を運ぶプロメテウス』があるが、言及されている作品がこれらのどれを指すか(あるいは別の作品を指すか)は不明。『縛られたプロメテウス』のみ現存する。


   第一九章
  (…)
   第二〇章
  (…)
   第二一章
  (…)
   第二二章
  (…)
   第二三章

  さて次に、叙述形式をとり韻文で再現する詩作(1)については、明らかに、まさに悲劇の場合と同様、その物語の筋はドラマ的なものとして、つまり、始めと中間と終わりをもつ、一つの全体的で完結した行為をめぐるものとして組み立てられなければならず、それによって作品は、あたかも一つの生き物全体のようにして、固有の快楽を生み出すであろう。すなわち、その構成は歴史と同様のものであってはならないのである。歴史において必要なのは、一つの行為ではなく、一つの時間を明らかにすること、つまり、一人の人間についてにせよ、複数の人間についてにせよ、その時間内に起こったかぎりの出来事を明らかにすることであるが、そうした出来事のそれぞれは互いにたまたま起こったというような関係にあるにすぎない。というのも、たとえばサラミスの海戦とシケリアでのカルタゴ人に対する戦闘は同じ時期に起こったのであるが(2)、けっして同じ終結に向かうものではなかったように、ちょうどそのようにして次々と進行してゆく時間のなかで、ある出来事が他の出来事の後に生じても、それから一個の終結が何も生じないような場合が往々にしてあるからである。あいにく詩人たちの多くが行なっているのは、ほとんどの場合これなのである。
  それゆえ、すでに述べたように(3)、この点においてもホメロスは、他の詩人たちとくらべて神のごとく映るのであろう。つまり、彼はあの戦争(4)でさえ、始めと終わりをもっているにもかかわらず、その全体を作品にしようとは試みなかったのである。なぜなら、そのようなことをすれば、物語の筋はあまりにも長いものになって、全体の見通しがつきにくいものにならざるをえなかったであろうし、あるいは、長さの点で適当であっても、多種多様の出来事のために錯綜したものにならざるをえなかったであろうから。現にしかし、ホメロスは一部分を取り出して、様々な出来事の多くを挿話として用いたのである。(…)

注 (1) すなわち叙事詩の試作。(…)
注 (2) ヘロドトスによれば、ギリシア軍がサラミスでペルシア軍を破った海戦と、シケリアでカルタゴを破った戦闘は、前四八〇年の同じ日に起こったと伝えられている(『歴史』第七巻第一六六節)。
注 (3) 第八章第三段落1451a22-24。
[それに対してホメロスは、他の点においても卓越しているが、同様にこうした点に関しても、技術によるものなのか、素質によるものなのかはともかく、さすがによく見ているように思われるのである。(…)]
注 (4) トロイア戦争のこと。


  第二四章

 (…)構成の長さおよび韻律の点で叙事詩篇は、悲劇と異なっている。長さについて言えば、その十分な限界とは、先に述べられたものである(1)。すなわち、始めと終わりが一望のもとに見渡すことができなければならないということである。だが、このことが可能となるのは、作品の諸構成が昔の叙事詩の場合よりも短くなって、それらが一回で聞くために提供される悲劇作品の分量(2)へと近づいた場合であろう。
  けれども、作品の規模を引き延ばすことに関して、叙事詩は特有の大きな利点をもっている。というのは、悲劇では行為の多くの部分が同時になされているところを再現できず、ただ舞台上の役者たちの部分だけを再現するにすぎないからである。それに対して叙事詩では、それが叙述であるために、多くの部分が同時になし遂げられるところを作品にすることができるのであって、そうした部分が筋に固有のものであるなら、それらによって詩の厚みは増すことになる。したがって、この点は叙事詩のもっている有利な点であり、作品が壮大なものとなるためにも、また聞く者の気分を変えて、ちがった種類のさまざまな挿話を差しはさむためにも役立つのである。なぜなら、似たようなもの、ということが聞く者をすぐに飽きさせてしまい、もろもろの悲劇を失敗に終わらせる要因になるからである。(…)

  ところで、ホメロスは他の多くの点でも賞賛に値するが、とりわけ賞賛されるべきは、詩人たちのなかでも彼だけが自分自身のなすべきことに無知ではない、という点である。すなわち、詩人というのはみずから語ることを最小限に抑えなければならないのである。なぜなら、詩人が再現者であるのは、そのようなことに基づいてではないからである。
  ところが、他の者たちは作品の全体を通じてみずから競演しているのであって、再現のほうは、わずかなことについて、わずかな機会にしているにすぎない。それに対してホメロスは、わずかなことを前置きしたうえで、ただちに男や、女や、あるいは他の何らかの役割を登場させ、しかもその人物たちはだれひとり無性格ではなく、みな性格をそなえているのである。(…)


  可能ではあるが、信じがたいことよりも、むしろ不可能ではあるが、ありそうなことを選ばなければならない。そして話の筋は、不合理な部分から組み立てられてはならず、不合理なものはできるかぎり何もないようにしなくてはならないが、もしそれができないなら、不合理なものは筋構成の外に置かなければならない。たとえば、オイディプスは先王のライオスがどのようにして死んだのかを知らなかったのがそうであって(11)、劇のなかには不合理な部分があってはならないのである。(…)

注 (1) 第七章最終段落1451a10以下。
注 (2) その分量とは、たとえばアイスキュロスノ「オレステイア(オレステス物語)」三部作が合わせて三七九五行なので、およそ三五〇〇-四〇〇〇行の長さであろう。
注 (11) ソポクレス『オイディプス王』112-113参照。


   第二五章

  (…)詩人は、画家やその他の似像制作者とちょうど同じようにして、再現の仕事をする者である以上、どのような場合でも必ず、次の三つのうちどれか一つのものを再現しなければならない。すなわち(a)かつてそうであったもの、あるいは現在そうであるもの、(b)人々がそうであると語ったり、思ったりしているもの、(c)そうあるべきもの。(…)


   第二六章
  (…)


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