井原西鶴とその文学      熊谷 孝
  
森村学園女子部国語科編『西鶴作品集』(1959.4)所収--- 

*明らかに誤植と判断できるものは訂正した。。。 
*難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。
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 井原西鶴。一六四二年(寛永十九年)町人の子として大阪に生れ、一六九三年(元禄六年)八月十日、五十二才で逝(な)くなった。きっすいの大阪町人であり、近世新興町人のヒューマンでリアリスティックなものの考えかたを、正面にうちだした、市井の町人文学者であった。
 偉大な文学者であるにもかかわらず、その私生活面に関しては、あまり多くのことは知られていない。元文三年(一七三八年)の序のある、伊藤梅宇の『見聞談叢(けんもんだんそう)』という書物に、
――「貞享元禄ノ比(ころ)、摂(せつ)の大坂津(つ)ニ、平山藤五ト云フ町人アリ。有徳(うとく)ナルモノナルガ、妻モハヤク死シ、一女アレドモ盲目、ソレモ死セリ。名跡(みょうせき)ヲ手代(てだい)ニユヅリテ、僧ニモナラズ、世間ヲ自由ニクラシ、行脚同事(あんぎゃどうじ)ニテ頭陀(ずだ)ヲカケ、半年程諸方ヲ巡リテハ宿ニ帰リ、甚(はなはだ)誹諧ヲコノミテ(中略)名ヲ西鶴ニアラタメ」うんぬん
とあるが、今わかっていることの骨子は、だいたいこの程度のことである。すなわち、この記載にしたがえば、西鶴は、もと俗称を平山藤五といった、ゆたかな商人であったというのである。井原の姓は母方のそれであろうといわれている。
 妻に先だたれたのは、一六七五年四月、彼の三十四才のときであった。
引導や廿五を夢まぼろ子規(ほととぎす)
という、妻への手向けの句が彼にあり、
巣籠(すごもり)や三人残して子規(ほととぎす)
の追善の句が同門の俳人にあるところから、彼の妻は二十五才の若さで、三人の遺児を残して逝(な)くなったことが知られる。『見聞談叢』にいうところの「一女アレドモ盲目」とあるのは、したがってこの三人の遺児のなかの一人をさすのであろう。
 しかも、彼女が逝くなる元禄六年の前年(一六九二年)のことだったらしいのである。「一女アレドモ盲目、ソレモ死セリ」という梅宇の文章は、なにか彼女が幼くして逝くなったような印象を与えるのであるが、西鶴の菩提寺であった誓願寺という寺院に葬むられているところの、光含心照信女(元禄五年三月二十四日没)という法名の女性が、じつはこの盲目の一女のことらしいのである。
 とすれば、『見聞談叢』の右の記事からだけ推して、天涯孤独の芸術家井原西鶴を思い浮かべることも、また、親らしい愛情や苦悩をついに深くは経験することのなかった、この作家を想像してみることも、おそらく的外れである、ということになろう。ともあれ、私生活面でも悩み多い西鶴であった。妻の死と、盲目の娘をかかえての苦しみ――こうした人生体験が、彼の作品に影を投げかけていないはずはないのである。
 西鶴が、道一筋に文学にうちこむようになったのは、妻の死というこの不孝な出来事を経験してから後のことと見てよさそうである。「名跡ヲ手代ニユヅリテ、……世間ヲ自由ニクラシ」というのは、そのことをさしているのであろう。鶴永という俳号を西鶴と改めたのも、妻を失った三十四才の年であったらしい。文字どおり、西鶴誕生である。「甚誹諧ヲコノミテ」――大阪談林の先頭に立った、俳諧師としての彼の活動は、まことにめざましいものがあった。たとえば、
娘どもは心してゆけ初あらし          定俊
  中人がいふは皆空の月           西鶴(『虎渓の橋』三十七才)
家質(いえしち)も流れてはやき水冷て
  今なくむしの親の時には          (『大矢数』三十九才)
此頃(このごろ)は寝ても覚(さめ)ても空をみる
  出雲千俵売つてのけうか          (同 右)                           
といった句を見ただけでも、民衆的な生活感覚にささえられた、新しい民衆詩の世界を、そこに主張していることが知られるのである。すなわち、
冬ごもり虫けらまでも穴かしこ          貞徳
しをるゝは何かあんずの花の色         同 
といった、それまでの言語遊戯の俳諧とは、すくなくとも、おもむきを異にしている。西鶴の句に言語遊戯の域にとどまっているものが皆無だということではなくて、西鶴まできて俳諧が民衆詩の息吹きの感ぜられるものになってきた、ということなのである。
 当時、俳壇の主流であった松永貞徳(一五七一年――一六五三年)一派の人たち――いわゆる貞門――のあいだでは、俳諧は「俳言(はいごん)にて賦する連歌」であると考えられていた。つまり、それは、俳言(スラングや流行語・漢語など)を使って“をかしみ”をあらわす、連歌の一つのスタイルである、と考えられていたのである。それは連歌の一体であると同時に、“をかしみ”をねらう言語遊戯にすぎないという点で、本来の連歌より格の低いものというのが、俳諧に対する当時の社会通念であった。が、それが西鶴たち大阪談林にいたって、俳諧は、連歌の従属物としてではなくて、民衆文学の新しいジャンルとしてつかまれている。観念としてはともかく、実作の上では“民衆文学”がそこに実現しはじめていたのである。同じく“をかしみ”をねらうにしても、だから右に見るように、貞門のそれとは方向や内容を異にしていたのが、大阪談林、とくに西鶴の場合であった。
 俳諧師としての彼は、一日に二万三千五百句を作るというような放れわざも、時としてやってみせるという、そんな人だった。それは、つまり、いいたいこと、訴えたいことが、いつも胸のなかにうずうずしているというふうな、問題を豊富にもった作家であったことを、いいあらわしている。くり返しになるが、そこに遊びの要素がなかったというのではない。言語遊戯の句も、すくなからず見うけられる。が、そこに同時に、ただの言語遊戯からは生まれえないような、新しい笑いを俳諧文学のなかにつくりだしているのが西鶴であった。それは、対象を突き放して見ることで問題を探ろうとする、西鶴特有の創作方法の、その突き放しかたの性質からくるところの“をかしみ”であり“笑い”であった。
 こころみに、三十代における彼の俳諧師としての活動を、年次を追って跡づけてみると、次のとおりである。
 
一六七三年(延宝元年) 三十二才 『生玉万句』『大坂歌仙』刊行
七五年(同 三年) 三十四才 『大坂独吟集』刊行
七六年(同 四年) 三十五才 『俳諧師手鑑』刊行
七七年(同 五年) 三十六才 独吟千六百句を興行、『西鶴大句数』と題して刊行
七八年(同 六年) 三十七才 『三鉄輪』『虎渓の橋』『俳諧新付合物種集』刊行、『胴骨』成立
七九年(同 七年) 三十八才 『俳諧の四吟六日飛脚』『西鶴五百韻』『両吟一日千句』『飛梅千句』刊行
八〇年(同 八年) 三十九才 独吟四千句を興行、『大矢数』と題して翌年刊行

 まことにめざましく、たくましい活動ぶりであった。そうした彼の活動が、妻を失った翌々年(一六七七年)あたりから、いっそう活発になって行っていることは、右の年譜からも明らかであろう。が、それをたんに西鶴の傷心――悲しみに崩折れることから自分を支えるための創作への傾倒、というふうに受けとったのでは、二十年にわたるその後の彼の文学活動の意義はつかめない。西鶴を先頭とする、大阪談林の盛りあがりには、一六七〇年代における新興町人の飛躍的な成長ということが、その背景なり基盤として考えられなくてはならない。すなわち、大阪談林は――談林派全般ではない――、新興町人を基盤とする文学集団であったのである。
 こうした時期に、この作家が「名跡ヲ手代ニユヅ」って“家”のきずなや“家業”から自分を解き放つ動機づけを与えていると考えられる点で、妻の早逝というこの出来事は注目にあたいする。が、それが、もともと新興町人的な生活感覚と問題意識とにおいて現実に関心をいだく西鶴であったればこそ、世をはかなんで仏道三昧に明け暮れるという方向をたどらずに、「僧ニモナラズ、世間ヲ自由ニクラ」す方向――すなわち、文学によるリアリスティックな人生探求・現実追究の方向に赴くことにもなったのである。
 と同時に、この時期における新旧町人の交替による現実の変容――複雑多岐な現実の推移・転換の様相が、この作家の問題意識と現実への志向・関心を掻き立てたに違いないのである。すなわち、封建権力と結びついて財をきずいた特権的な門閥町人の後退と、商業的農業に結びつき、あるいは一般大衆層を顧客とすることで新しい市場を開拓してきていた、新興町人の進出という現象が、そこに見られる。旧いものが音もなく崩れさろうとし、それに代って新しいものが頭をもたげはじめてきている、この現実のありようは、この作家の創作意欲と文学的才能を触発せずにはおかなかったのである。西鶴誕生である。

 西鶴は、やがて小説の筆をとるようになっていく。というより、その活動の中心が小説に移って行ったのである。四十代に入ってである。
 彼のかいた小説は、ところで浮世草子と呼ばれた。それまでに行われていた、散文形式の短編読み物は仮名草子と呼ばれていたが、人々は、彼のかいた読み物に対しては、もはや仮名草子の名をもってすることをしないで、浮世草子という新しい名称を与えた。そこに“浮世”(現実)を――現実以上の現実を実感したからのことに違いない。
 日本の小説は、西鶴の浮世草子とともにはじまる。彼の浮世草子の第一作『好色一代男』(一六八二年刊)の成立は、同時に日本における小説文学の成立であった。
 仮名草子は全般的にいって、いまだ小説以前にぞくしている。それは、ひとくちにいって、中世的な古代斜陽貴族の生活感覚を多分に反映した、貴公子と姫君との恋物語ふうのものであった。身分ちがいの恋愛というようなことも、とり上げられてはいるが、それも仏神の功徳によってあの世で結ばれる、というふうなことを定石とする物であった。あるいは、恋人や夫に死に別れて尼となった人たちが、はからずも一堂に会して見果てぬ夢を語り合い、たがいの信仰心を励まし合う、というふうな、半ば教訓的な物語であった。
 そうでなければ、封建為政者の側に身を置いた、大衆啓蒙の教訓ばなしか、遊里の細見・名所記といった、半ば実用を兼ねた娯楽読み物のたぐいであった。もっとも、小説の芽生えに似たものも、いくつかの仮名草子作品のなかに見られないわけではない。が、ともあれ、小説の名にあたいするようなものが書かれるのは、やはり西鶴の段階においてであった、といわなくてはならない。
 日本の小説が浮世草子として成立したということは、ところでそれが喜劇精神の文学として成立した、ということにほかならない。浮世草子固有の方法は、現実を俳諧化することで、笑いのなかに現実そのものの実態をさぐる、という点に求められるからである。
 その笑いには、涙に崩折れないためにする、つくり笑いの要素を多分に含んでいた。あえていえば、泣かないために笑いとばす、という姿勢が見られるのである。笑いのなかに問題をさぐる、というのは、一面、そういう意味である。
 というのは、彼の生きた十七世紀の封建制下の現実は、一方に近松悲劇を成立せしめずにはおかなかったような、いわば“泣くほかない”現実であったからである。不合理が合理を、非人間的なものが人間的なものを圧殺し尽くすような“泣くほかない”現実。が、泣いてしまっては、すべてが終りである。不合理を合理に、非人間的なものを人間的なものにつくり変えていくために、あえて笑いとばすのである。そこに西鶴の喜劇精神がある。仮名草子の系譜のうえに近世小説が生まれず、俳諧文学の、しかも大阪談林の発展的受けつぎとして、それが浮世草子として成立した一半の理由は、右のような点にある、と考えられるのである。
 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代著作より熊谷孝 近世文学論集(戦後)