〈対談〉西鶴研究の問題点 熊谷 孝/荒川有史 |
西鶴を読む会(仮称)編・発行『西鶴』創刊準備号(1959.4)所収--- |
|
*圏点の部分は太字・イタリック体に替えた。。。 *明らかに誤植と判断できるものは訂正した。。。 |
|
古典と大衆 熊谷 古典を大衆の手からもぎとっていくような傾向が、さいきん出てきているんじゃないかな。何かそんなふうな感じなんだが。 荒川 改訂指導要領なんかの《古典の非文学化》の傾向のことですか。 熊谷 むろん、それもありますね。が、僕の言うのは、むしろ、進歩主義者の側の古典の非文学化のほうのことなんです。古典に対して発言権をもつのは、その道の専門家だけだ、と言わんばかりの学者の態度ですね。古典を本当に国民大衆のものにすることが今は必要なはずなのに、こと古典に関してはシロウトの発言は許さん、という式の、カサにかかった態度が見られるような気がするのですが…… 荒川 西鶴文学についても、それがありますね。とくに西鶴の場合、その傾向が強いんじゃないかな。 熊谷 古典に対しては定石どおりの、紋切り型の理解しか許さないものだとなると、古典は文学でなくなってしまうわけですよ。ファシストたちの《古典の非文学化》が批判されなくてはならないと同時に、進歩陣営のそれが反省されなくてはならない、と思うんです。いささか八方破れのように聞えるかもしれないが、ここが泣き所、掛け声をかけるのならここの所、といった調子で、感動のしどころまで強制されるのでは、かないませんよね。アナーキーな意味ではなくて、もっと自由な理解や討議が必要だと思うのですよ。 荒川 『西鶴諸国ばなし』が『宇治拾遺物語』の趣向にならって作られたとか、『源氏物語』や『宇治十帖』の俳諧化が『一代男』や『二代男』だとか……だから源氏をこなした上でないと『一代男』はわからない、というようないい方は、西鶴を大衆から遠ざけるものですね。 熊谷 僕も「遠ざけられた」一人でしてね。学生時代、西鶴の作品を面白いと思って読んではいたんですが、そういういい方をされると、手も足も出なくなってしまって、西鶴はこっそり趣味として読むことにして、研究のほうは(つまり卒業論文のテーマですが)妙なひっかかりのない現代作家論をやることにしたんですよ。 荒川 先生の卒論は浮世草子でしょう? 熊谷 えゝ、卒業まぎわになって宗旨がえをしたのですよ。だから、ひどい雑なものを書いてしまって、卒業の口述試験のとき、しぼられましたよ。 荒川 ところで、西鶴をパロディーとしてとらえる考え方は、まだ、すたれていませんね。それに加えて、中世の民衆の生活文化のなかに、西鶴文学の源流を求めるという新しい研究方式ですが、そういう角度から見ないと西鶴はわからないという誤解を生んでいる傾向はないでしょうか。 熊谷 ありますね、たしかに。そういう整理が進むと、新しい角度から照明が当てられることになってくるわけでして、大きな期待が持たれるのですが、そういう現実からの研究の成果が出ないうちは発言停止ということではないはずですね。 西鶴は特権階級の作家か 荒川 ともかく、西鶴に対する評価はまちまちですね。『一代男』は傑作だが、『五人女』は駄作だし、偽作だ、という『五人女』偽作説をとなえる人がいますね。そうかと思うと、『一代男』から『五人女』への発展、ということを言っている人もいるのですね。 熊谷 評価がまちまち、というより、混乱しているという感じですね。 荒川 戦後、西鶴をボロクソに言うのがハヤった。西鶴は、特権的な商業資本によりかかった、上層町人階級の典型的な作家であったとか、西鶴文学の背景をなすものは、有閑特権町人の生活力であり、彼と新興町人とのつながりは薄いとか…… 熊谷 芭蕉の言い分ではないが、「西鶴が浅間しく下れる姿」[(『去来抄』故実)]、か(笑)……が、それが大体、進歩的な文学史家のあいだの通り相場だ、ということになりますかしら。そういう評価は、ところで近松や芭蕉などへの評価と相関的につながっているわけですね。 荒川 民衆とともにあった近松、封建的現実や特権的商業資本の非人間性への芭蕉の抵抗、そして西鶴への低い評価、ということになるわけでしょう。 熊谷 人間への信頼を、特権上層町人へ賭けた宿命の作家西鶴、というようなコトバをその後へつけたしてみたところで、コトバの言い回しだけでは、どうにもならない。人間的であろうとした西鶴の善意は疑わないが、しかし結果は、やはり、彼が上層町人的な生活意識と感情のワク組みのなかで、あがいていたにすぎない、ということに、そこでは結論されてしまうわけですよね。つまり、客観的には彼はリアリストなんかではなかった、と言っていることにもなるわけだ。どうも違うな。 荒川 違いますね。しかし、さすがにリアリストではない、とは言い切っていませんがね。 熊谷 コトバの上ではね。新興町人とのつながりが薄い、というのも、おかしい。鎖国と近世民衆との関係、あそこを抜きにして新興町人をうんぬんするのが第一おかしい。新興町人というのは、ほんらい階級的なカテゴリー(わく組み)でしょう。それを身分的なワク組みとごっちゃにして、都市居住者に限定して考えているような傾向も、一部にないわけではない。 荒川 同感です。鎖国が新興町人の発生を考えていく上のメルクマールですからね。それに“階級的”と“身分的”という整理はほんとうに必要だと思います。 熊谷 森山(重雄)さんが、さいきん《はなし》の民族的・民衆的な伝統につながる西鶴文学の説話性というようなところで、西鶴の積極的な姿勢を再評価しようとなさっているように僕は見てるんだが、こういう見方は森山さんにとって迷惑かな。 存在と意識 荒川 森山氏の場合は別として、戦後の西鶴を語る人たちの論法は、なにか上層町人の生活を描いているから西鶴は上層町人的だ、といっているみたいですね。 熊谷 そういう感じだな。 荒川 これは、どう考えてもおかしいでしょう? 熊谷 存在が意識を決定するという命題は、必ずしも存在と意識との一致をいっているのではない、ということを、いつか話しましたね。存在と意識がつねに一致しているのなら、文学は、はじめから成りたたないし不要・無用だという、あのときの話題……つまり、存在としての上層町人のもつ意識が、必ずしもつねに上層町人的ではない、ということですね。そこのところのつかみ方ですよ。エゴイストの人生を描いたから、西鶴はエゴイズムを肯定している、というふうな理解の仕方は、文学以前ですよね。 荒川 ところが、それがありますね。 熊谷 まさに、それがあるのですよ。だから、『一代男』に描かれた人間像が、どういう階層の人間か、というようなことだけを……だけというのは言いすぎだけれど、もっぱらそこにアクセントをおいて作品をうんぬんしている…… 荒川 『一代男』の吉野太夫を妻とした灰屋紹益は、代表的な特権町人であるとか、世之介の遊里の遊び仲間は「仕舞うた屋」のだれそれという金融業者だとか、そういう点のセンサクで終っていますね。 熊谷 ですよね。そういう論法だから、同じ『一代男』のなかでも『木綿布子もかりの世』(巻三)のような、「死なれぬ命の、つれなくて、さりとは、悲しく、あさまし」といった街娼の生活の実態にふれたような作品は、もうそのことだけで高く評価されている、という感じだな。……これは進歩的で、このほうは保守的、だからすぐれている、すぐれていない……そんな読みかたをして、いったい面白いのかな。 荒川 同じ筆法で、『二代男』や『一代女』が高く買われていますね。『一代男』からの発展である、として。 熊谷 コトバのあやでぼかされてはいるが、けっきょく、存在イコール意識という考え方が底の方にあるんじゃないかしら。 荒川 ですから、『一代男』なんかの登場人物の生活感情や意識のありかたなどを、色メガネで見過ぎる傾向がありますね。 熊谷 上層町人を顧客とする太夫などが示す、教養やら趣味・嗜好といったもの、座のとりさばきのみごとさといったもの、それを頭からグラン・ブル的だと割り切ったいい方をされると、それはそういう軸で考えていいことなのかな、ととまどい を感じますよ。 荒川 『欲の世の中に是は又』(『一代男』巻五)の、まだ脇あけの若い女の場合なんかですね。 熊谷 えゝ、たとえば、まあそういった場合も含めてですね。この発言は自信がもてないのだが、存在自体としては黒い手の存在である上層町人のなかに人間をさぐる、という所が西鶴にはあるんじゃないですかしら。人間への信頼を上層町人へ賭ける、という文脈のそれではなくて、武士のなかに“人間”をさぐる、エゴイストのなかに残された人間性のカケラを拾う、というのと同じ文脈での…… 荒川 西鶴が上層町人を黒い手の存在として明確に意識したかどうかは別としてですね。 熊谷 そうです。そういうふうに考えていかないと、統一的な西鶴像というのがつかめなくなりますね。発展とか挫折とか適当に都合のいいコトバを使って、よろめく西鶴が点描されることになる。 荒川 上層町人に賭けたかと思うと、中下層町人の立場に移行し、そしてまた上層町人の所へもどったり、というふうに書いてある西鶴論を、このあいだ読みましたが。 熊谷 そういうふうに往きつ戻りつじゃなくて、西鶴は発展しているんだ。『置土産』を西鶴文学の一つの到達点というふうに考えると、そこがハッキリするように思うんだが。人には棒振り虫同然に思われながらも、そうしたしがない生活のなかに、あえて我れと我が身を追いやることで発見できた、新しい人生、新しい人間の発見。……あそこの所まで行って、意識と存在との一致が出てくるのですね。前向きのかたちでの存在と意識の一致がですね。 荒川 『置土産』も再評価されなくてはならないわけですね。 素材と認識内容との混同 熊谷 さっきの話で、ふっと気づいたのだが、好色物・町人物というジャンルの分け方ですね。あれは便宜的な分類であって、本質的な区分ではないわけなんだ。ところが、好色物では遊里や愛欲生活を描き、町人物では都市町人の経済生活を描いた、という方式の考え方が一般に行われていますね。あれは、表現の媒体としての素材と、認識・表現の対象なり内容とを混同した見方なんだ、と思うのですよ。 荒川 スタンダールの『赤と黒』を恋愛小説だと定義してすましているのと同じくらい滑稽ですよね。 熊谷 そうですよ。……戦時ちゅう、横山大観の描いた富士の絵が、なにも富士山そのものを表現しようとしたのではなくて、ヤマトゴコロだか八紘一宇だか何だか、ともかくそういったものを表現しようとしたわけですね。富士山そのものは、表現の媒体としての素材にすぎなかったわけです。それと同じことが、西鶴の作品についても言えますね。むろん、それは、たんに素材ではないけれど、好色物から町人物への展開というのを、その認識や表現の内容を見ないで、素材の側からだけ見てうんぬんするのは、どう考えても、おかしいですよ。 荒川 その点、僕もそう思います。しかし、僕自身長いこと、あのジャンル論に引きずり廻されていました。それをおかしいと思うようになったのは、先生や佐藤(和男)君や徳永(桂吾)君たちと、一緒に西鶴ゼミを持つようになってからでした。 熊谷 僕も、その点、あまり大きなことは言えないのですが、ともかく、好色物とは別世界という、あの割り切り方、あの先入観で西鶴を見ていたとき、西鶴の作品が全然面白くないんだ。 荒川 文学として西鶴の作品に接するのでなくて、何を書いているか、何が書かれてあるか、という、ただそれだけですから…… 熊谷 おまけに、その“何”が表現や表現内容のことではなくて、ただの素材にすぎない。 荒川 だから、面白くないのですね。 熊谷 むろん、素材の選択のちがいのなかに、いわゆる発展なり挫折なり、認識の変容が見られない、という意味ではありませんが。 荒川 先生のいまお話しになったことを前提にして言いますと。好色物から町人物への展開は、西鶴が現実や人間を見るうえの側面を変えたにすぎない、ということになりますね。すくなくとも、そうした面にアクセントをつけて、西鶴の文学的発展を再認識する必要がある、ということになるでしょうか。 熊谷 えゝ、側面を変えたことが、どういう意味をもつか、ということをカチッとおさえてですね。『一代男』あたりで、それこそ上層町人の生活面に取材していたこの作家が、『世間胸算用』あたりへくると、中下層町人の生活を正面にすえて考えるようになったのは何故かとか、『置土産』のあの落はく の生活の描きの示す意味とかを、つかんでですね。 荒川 とにかく好色物・町人物といった分類は、一おうご破産にしてかかることですね。 熊谷 そうですね。レッテルを剥がして、実際の内容から判断していくことだと思います。 |
‖熊谷孝 人と学問‖熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より‖熊谷孝 昭和20年代著作より‖熊谷孝 近世文学論集(戦後)‖ |