人間の回復――西鶴の創作方法とその喜劇精神について      熊谷 孝
  
「広場」22(1958.7)掲載--- 

*圏点の部分は太字・イタリック体に替えた。。。  
*明らかに誤植と判断できるものは訂正した。
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 〈はじめに〉 これは、ついさきごろ、某大学の学内講演会で話したことの一部、その速記録であります。当日の講師に故障があって、臨時にかり出され、ぶっつけ本番、思いつきを即席にしゃべったわけですから、しどろもどろです。手をいれればいいんでしょうが、時間がありません。このところ、不健康と多忙に、紙屑みたいにクシャクシャになっています。どうぞ、こんどだけは書き下しはご勘弁ください。

     感情同化と感情異化と

 『文学』の六月号をお読みになったでしょうか? ……あそこで乾さん、心理学者の乾孝さんと作家の安部公房さんが対談をやっていますね。たしか《芸術と言葉》そんな題でしたかしら。非情に面白かった。読んでいろいろ考えさせられました。
 あの対談のなかで、安部さんが紹介していますね。ブレヒトの芸術観を。ベルト・ブレヒト――例の『ガリレオ・ガリレイ』のブレヒトです。その演劇論というか芸術観について安部さんが語っておられた。
 「これまで感情同化をもたらすのが芸術の基本だと言われてきているが、私はそうは思わない。すくなくとも、私の舞台の仕事は、観客のあいだに感情異化作用を起すことをねらいとしている。」ブレヒトの考え、というより考え方ですが、彼の考えは、安部さんの紹介するところでは、大体まあそんなことだったと記憶します。
 感情同化と感情異化――つまり、登場人物のなかの誰れかに自己投入して、その人の身になって泣いたり笑ったりしながら劇を見るというのと、それと反対に、相手を突き放してそれを見るというのとの違いです。普通は、まあ、ある一定の割合いで観客の同化できそうな人物と、できそうもない人物とを組合せて舞台に並べる。そのことで、主人公への共感なり同情の念を観客の胸にかき立てる。これが普通ですが、なかには、全部の登場人物がそろって一様に同化できない要素を持っている場合がある。主役から端役にいたるまで、みんなお人よしでマヌケぞろい……という、そこのところで、観客は異化作用を起こしてゲラゲラ笑いだす、というようなのもあるわけですね。軽演劇に多い構成です。
 子ども芝居……児童演劇というんですか、今は。うっかり子供芝居なんて言おうものなら、叱られてしまう。ゲイジツですからね。(笑声)どっちだって、本当は同じことなんだが。(笑声)乾さんも、その児童演劇について観客調査の面から、あそこで同じ問題にふれている。「子どもが俳優になって出る児童演劇よりも、人形劇のほうが、子どもたちには、わかりがいい。相手が人形なので、突っぱねて見ることができるからだ。それで人形劇では、割に早くから全体の流れがつかめるし、したがって登場人物に対しても批判的になれる。」といった意見でした。
 そう。それから、「ほんものの子どもが登場する児童演劇では、観客――子どもたちの間に自己投入が起ってしまって、全体が見渡せなくなる傾向がある。」というような点も、たしか指摘しておられましたね。僕も、なるほど、そういうものかなと思って興味ふかく読んだんですが、ともかく感情同化、異化というのは、ここで乾さんの言っているような事柄をさすわけです。
 もっとも、僕のこれからの話は、演劇に関してではありません。演劇面のことじゃなくて文学についてなのですが、ここに標題としてかかげました西鶴……井原西鶴という十七世紀のこの喜劇精神の作家がとった方法、創作方法も、やはり、この感情異化作用を読者のあいだにひきおこすことをねらいとしたものだった、と言ってよさそうです。


     エゴイストの人生

 例外はむろんありますが、西鶴文学の世界は、感情異化のはたらきを、読者のあいだにひき起こさずにはおかないように構成された世界であります。たとえば、といっても選択に迷うぐらい、どの作品も、ほとんどみんなそうなんですが、そこでまあ、本当にアブラが乗りきって書いているという感じの作品『世間胸算用』をとりあげてみましょうか。
 これは余談ですが、西鶴という作家には、よく作家というものについて言われるところの“円熟”した時期というのが、なかったように思われるんです。円熟するというのは、いいことには違いないが、でもそれは、やはり、一種の停滞だ、というふうに僕なんかは感じるんですが、それはそれとして、彼は最後まで未完成のままで終った作家だ、と思うんです。
 念のため、断っておきますが、けなしてるんじゃなくて、ほめているんですよ。未完成のまま終ったということは、たえず前進していたということです。つまり、円熟してる暇がなかった。という言い方はおかしいが、彼がアルチザン、体(てい)のいい芸術職人なんかではなかったことの証拠になると思う。円熟し大成したといわれる芸術家のなかに、むしろ僕はアルチザンを見つけて、げっそりするのです。
 話をもとへもどしまして、西鶴には、つまりアブラの乗り切った時期というのはあるけれど、円熟期というのはなかったということ、『世間胸算用』というこの作品集も、そういう意味で未完成なものなのだが、じつはそこが取り柄(え)だということ、そのことを言いたかったわけです。
 で、『ねずみの文づかい』――あのエゴイストの人生を描いた一編をとりあげてみましょう。
 エゴイストの人生を、と言いましたが、情景は、大晦日の昼下りから夕刻までの僅かの時間にしぼられているのでした。そういう断面において描かれた、エゴイストの人生、ということになります。ケチンボで、一年に一回しかお風呂に入らない男(笑声)……多分、そうだろうと思うのですよ。この男が、手拭いを肩に街の銭湯へ出かけたという形跡はない。(笑声)……

 ともかく、彼の家出は、年に一回しか風呂を沸かさないのです。えっ?……ふだん、それでは、どうしていたか、というのですか(笑声)……さあ、それを僕におたずねになっても(笑声)……
でも、そうですね、西鶴はほかの小説、『永代蔵』のなかでなのですが、銭湯を倹約するために毎日井戸端で行水を使っている男の話を書いていますから、まあ、そんなところでしょうか。(笑声)
 ともかく、それで、年末に大掃除のすんだところで入浴するわけなのです。なかなか合理的です。(笑声)おまけに、その日の風呂の燃料を涙ぐましい努力で(笑声)一年がかりで用意します。五月の節句にチマキを食べますね。食べたあとのカラ、それを捨てずに、ちゃんとしまっておく。お盆に使った蓮の葉、これも大事な燃料です。(笑声)まあ、こういった調子で、原文によりますと、「塵もホコリも捨てぬ随分こまかなる人」――これが主人公です。
 いや、本当の主人公は彼ではなくて、作者のコトバを引けば、「この男(――つまり、さっきの始末屋、ケチンボです)この男生れたる母なれば、その吝(しわ)きこと」かぎりないという婆さん、当年とって七十何歳かの老婆が真打(しんう)ちなのです。
 「この男生れたる母なれば」というのは、ステキですね。 「この男生れたる母なれば、その吝きことかぎりなし。」(笑声)……利いてますね、このコトバは。
 兎も角、この作者のコトバのえらび方は、ほんとにすばらしい。詩の世界で長いことコトバに苦労してきただけのことはありますね。談林俳諧、大坂談林のあの突っぱねた笑い、感情異化の詩の世界に身をゆだねた西鶴なればこそ、といった感じです。
 作品のストオリーは、知ってのとおりのことですから、はぶきます。この婆さんと、この倅との親子関係に眼をつけて下さい。親一人、子一人のあいだなのだが、金のこととなると、もう他人です。いや、他人どうしでも、こんなことはない。まるで敵味方ですよね。たった一人の息子、普通だったら眼に入れても痛くない一人っ子、その一人息子をペテンにかけて、実にあくどいやり方、手のこんだやり方で高利の金をふんだくって、意気揚々とわが隠居所へひきあげていくこの老婆のたくましさといったら、これは、敵ながらアッパレという感じです。(笑声)


     作家はしかし愛情をもって描いている

 で、こうした人物の、いったいどこに僕たちは共感し同化できる、というのでありましょうか。いいかえれば、そこに自己投入して肯ける何があるか、ということであります。この作品を読み続けていくうちに、おのずとこみあげてくるところの笑いは、共感から発するよろこびの笑いではなくて、異質的なものに対する笑い、むしろ彼らに同化できないからこそ起こる笑いではないでしょうか。
 いいかえれば、突き放して見るところに生ずる笑いではないか、異化作用に伴なう笑いではないか、というこのなのですし、作者のとった方法――読者のあいだに異化作用を捲き起こすという方法が実現するところに発生する笑いであろうということなのであります。
 けれど、また、これらのエゴイスト群像に対する読者の感情異化が、なにかアモーラルなものに対する場合の嫌悪や憎悪のそれとは性質の違うものであることにも、すぐに気づかされるのであります。
 この気持を整理したかたちで説明することはむずかしいが、ともあれ、これらの人物には、そのどこかに愛すべき一面がひそんでいるのであります。
 どこからどこまで、計算づくめで生きているように見えて、案外、ころっと人にだまされるような、他愛ない一面も彼らは持っています。それは、ただ欲に眼がくらんで損をする、というふうなことではなしに、お人よしなために失敗する、という“善良”な一面が見られる。たとえば、相手にがなり立てられると、それが手とも気づかずに、ムキになってしまう。ムカッ腹をたてる。損得づくでなしに、しん底からカアーッとなって怒ってしまうのです。そのために、この倅は、まんまと相手にしてやられ大損をします。
 腹の底から怒れるような人間に悪人はいません。この倅が、それなのです。
 彼の母親――老婆にしたって、見えすいた拝み屋(しかけ山伏)の手にひっかかって、彼女にとってはそれこそ命から二番目の大事な金をだまし取られる、という他愛なさです。そこに、やはり、普通の人間、僕たちと同じ“人間”を感じるのです。
 彼らは、たしかに、さもしい人間です。が、やはり人間です。これっぽっちの、ほんの僅かなものかもしれないが、人間らしい愛すべき一面が顔をのぞかせているように思えるのです。
 それは、やはり、作者が、これらのエゴイストたちに対しても愛情をいだいていたからこそのことに違いありません。エゴイストを、そしてエゴイズムそのものを、西鶴が支持していたというのではありません。その反対です。彼は、エゴイストのなかに、エゴイズム以前の“人間”を見つけて、それを描いた、という意味なのです。
 或いは、それを次のように言ってもいいかとも思います。西鶴は、エゴイストのなかに、一カケラでもいい“人間”のカケラを見つけようとして必死だった、というふうに、であります。ともあれ、作者が愛情をもって書くのと、そうでないのとでは、描かれた人間の骨ぐみや肉づけがまるで違ってきます。僕たちが、『文づかひ』の主人公たちに、とぼけたところや、まぬけたところ、庶民の善良さといったものを感じるのは、作者が愛情をもって描いたからのことに違いないのです。
 いいかえれば、この作者が人間をかぎりなく愛し、人間へのかぎりない信頼を持っていたからのこと、――僕は、そう考えます。そう考えるほかないのです。


     作者の怒り、民衆の怒り

 もしも、作者の眼が怒りと憎しみに燃えていたら……いや、作者の憎悪と大きな怒りは、直接彼らのエゴイズムそのものに向けられてはいません。これらのエゴイストの描写の背後に、僕たちは作者の怒りの眼差しを感じはしますが、その眼はしかし、彼らエゴイストを越えて、どこか別のところに向けられているらしく思われます。
 人間は本当は美しくあり得るはずのものなのだ。無限の可能性を秘めた人間存在。それを、これほどまでに、みにくく薄汚れたものにしてしまっているのは、いったい、どこの誰れなのか? ――西鶴の文章は、何かそこのところを考えさせようとしているらしいのです。実は、そこのところを考えさせるための、、“突き放した人間の描き”であり“笑い”であったように思えるのです。

 話を進めているうちに、しかし僕は大へんな誤りを犯しかけていたらしいのであります。いい気になって話しているうちに、いつか自分が西鶴文学ほんらいの読者であるような錯覚にとらわれ始めていたのであります。
 西鶴文学の本来の読者は、しかし言うまでもないことですが、西鶴と同じ時代を生きた封建制下の民衆、新興町人であったはずです。とすれば、あのエゴイストの老婆や倅に対しても、こんにちの僕たち読者が感じるような“他人”を、当時の読者・本来の読者は感じてはいなかったでありましょう。感ずるはずがないのであります。
 むしろ、人々はそこに、自分たち自身の姿を見てとったに違いないのであります。自己のみにくいエゴイズムを、あくどい自分のエゴイストぶりを、いやというほど、そこに見せつけられたに違いないのであります。しかし、拡大されクローズ・アップされた、薄汚れた自己の立体的な映像を、であります。
 と同時に、そうしたみにくい自分のなかに、なおも息吹いている“人間”を、人々はそこに見つけることができたに違いないのであります。
 とすれば、こんにちの僕たち読者の感じる嫌悪や感情異化とはまた違った、別のある種の異化作用がそこには捲き起こっていたはずであります。彼らの間に捲き起こされた異化作用の一つは、思うに“自己嫌悪”のそれであったでありましょう。
 しかも、その自己嫌悪は、自虐自嘲の苦笑へ流れたり、笑いを足場として問題回避のコースへ流れたりするのではなく、全身の怒りをそこに燃えたたせたような、自己反省へと発展していくような自己嫌悪だったのではないか、と思われます。というのは、彼らの感ずる、感じた自己嫌悪は、自分自身のなかに“人間”を発見したればこそもたらされた“自己嫌悪”にほかならなかったからであります。
 そして、そのような“人間発見”は、この場合、自己の“人間回復”“人間奪還”への行動を動機づけるような強さをもったものであったからであります。安部さんは、先刻紹介した対談のなかで、笑いや涙に、異(こと)なる二種の作用のあることを指摘しておられます。
 安部さんに言わせると、涙も笑いも、しょせんケイレン、胃ケイレンのケイレンですが、泣くのも笑うのもケイレンだと言うのです。(笑声)……ところで、それに二種類ある。発動ケイレンと解除ケイレンだ、というのであります。つまり、笑いにも、行動を起こす前の、そして行動を動機づけ方向づけるような笑いと、行動が終った後の、あるいは行動をあきらめたという意味での、さらにこれは僕に言わせると、行動をあきらめさせるような解除ケイレンの笑いがあるわけです。
 西鶴文学の笑いは、つまり安部さんのいう行動ケイレンの笑いだった、というふうに考えられるのです。笑いが、やがて憎しみに、そして怒りへ、というわけであります。
 ともすればエゴイズムを彼らの上にもたらした何ものかに対する、彼らの怒りと憎しみは、――いいかえれば、この作品の享受をとおして、そこにみちびかれた彼らのいきどおりは、ほとんど僕たちの想像を絶している、と考えられるのでありますが、なおこの点を作品の表現を機能的に分析することで明らかにしてまいりましょう。(以下省略)

 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代著作より熊谷孝 近世文学論集(戦後)