《参考》 
 人間復興      
日本評論社刊 近藤忠義著『日本古典読本 西鶴』(1939.5)第三章--- 

 *その制作過程で熊谷孝氏が深くかかわったとされる上掲書から、「第三章 人間復興」を抜粋して掲載する。
 *漢字は原則として新字体を使用した。 *引用部分以外は現代仮名遣いに替えた。 *傍点の部分は太字・イタリック体に替えた。
*明らかに誤植と判断できるものは訂正した。
*難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。


          T
 
 中世の暗黒の底から近世の黎明(れいめい)が輝き初めた時、長い間の呪縛を解かれて、「人間」は再び蘇(よみがえ)った。
 人々の生の営みのあらゆる細部までもが、神仏の意思によって支配されれ、現世の生活のあり方は、すでに過去世に於いて決定せられており、今日の生活は、そのすべてがはかない仮象に過ぎず、真の生活はただ死後の世界にのみ求められる。愛も憎しみも、芸術も恋愛も、すべては人間のこころの問題ではなしに、神々の意思に他ならぬ。――中世とは実にこのようなものであった。そこには生ける人間は無く、ただ「宿世(すくせ)」の操る傀儡(かいらい)があっただけである。人間の力の認められぬところに、こころの自由の虐(しいた)げられるところに、発展も創造もあり得るはずはない。
 このような暗闇の袋小路をつき抜けて、新しい人間=近世町人――公卿でも武士でも又農民でもない近世町人は生れ出たのである。
 はじめて己れたちの為の新しい歴史の舞台に登場して来た彼等町人にとっては、旧(ふる)い中世の因習的な物の見方を払い棄て、そういう物の見方を培う旧い枯渇した知識を押し除けて、新しい自由な物の見方を身につけ、その為の大切な養分となる生きた知識を我が物とする、という仕事が緊急の課題となって来ていた。近世初期に、かの夥(おびただ)しい百科辞彙的な著作が世に出たのは、まさに此のような知識的欲求に応えんが為のものであった。
 西鶴の「諸国咄」はまず第一に、右のような社会的要求を土台として出発し、更に一段と近世小説としての成長を示したものである。それが、実際に見知らぬ遠い国々の出来事であるか否かは別として、「世間は広いのだ、こんな珍奇な話もあるのなのだ、それを信じ得ぬ人々は世間を見ぬからだ、視野を広げて広い世間を見よ」という見解、封建的な視野の狭さ・固陋(ころう)な見解に対する激しい抗議、新しい人間にとっての大切な資格としての、柔軟・自在な受容力を育(はぐ)む事の必要の強調。そうしたものが「諸国咄」全篇の底を貫いて流れている点を読者はすでに看て取られたであろう。そうして、それらが更に、強く近世生活としての裏打ちを与えられて小説化せられている点をも理解されたであろうと信じる。例えば「剪燈新話」中の「龍堂霊会録」から「伽婢子(おとぎぼうこ)」の「幽霊評諸将」(巻五ノ二)に繋がり、更に西鶴の「諸国咄」に来たと思われる「雲中の腕押」(巻一ノ六)矢、同じく「剪燈新話」の「牡丹燈記」、「伽婢子」の「牡丹燈籠」(巻三ノ三)「狐の妖怪」(巻二ノ三)・「中有魂形化シテ」(巻七ノ四)、などに繋がる「紫女」(巻三ノ四)、「続斉諧記」の「鵞籠記」とその忠実巧妙な翻案「残る物とて金の鍋」(巻二ノ四)、等々を比較する時、西鶴の、謂わば中世的な素材に与えた近世化の態度を、古い材料に己れたちの生活の息吹きを入れて再生せしめる方法を、一層明瞭に看取することが出来よう。

 文学が、新しい町人の為の文学であるためには、それが他の誰のでもない町人自身の生活のあるがままの再現である事が何よりも望ましい。そこで、前時代から遺されて来た古典や古説話の素直な近世化や殊更な近世化――もじりやパロディー――の他に、在来の文学の中からは全然求めえない新しい題材や主題の探索がはじまる。談林の俳諧が果敢にそうした努力をし、たとえ断片的にであろうとも、豊富に新題材・新主題を収集し提示するという、延宝期の文学として荷(にな)い得る極大限度の積極的役割を果し得た事については、すでに前の章でその概略を見て来た。天和以来の浮世草子に対しては、それらをより具体的に全円的に展開することが求められた。「一代男」に在って、当時の町人生活の典型が、そのあらゆる断面に於て示されている。実に「一代男」は、所謂(いわゆる)好色生活――それこそが当時の全町人生活の典型に他ならなかったという点については後にも触れる――に関する厖大(ぼうだい)なエンサイクロペヂアであり、小説的形式を採った「色道大鑑」であった。そこに取扱われた材料を項目的に並べて見ても、遊里では島原・新町・吉原をはじめ、(略)等々に及び、遊女も島原の吉野・(略)など高名な遊女を網羅し、更に、(略)等々に及んでおり、その他、(略)歌舞伎若衆・後家・手かけ者・蓮葉女・縣巫女(あがたみこ)・神子・御殿女中・勧進比丘尼(びくに)などがあり、それらを通じて示される好色生活の諸相が、余すところなく繰りひろげられているのである。
 新題材の発見は、当然、新しい美――旧い標準に制せられず町人独自の審美眼にたよる新しい美――の発見を伴うて来ざるをえない。たとえば、「唐土の楊貴妃、本朝にては衣通姫(そとおりひめ)」・「芙蓉の眦(まなじり)、丹花の唇」というような常套的文守[文辞 ヵ]で形容せられて、それで事の済んだほどの非個性的な女性の美も、西鶴に来ると次のように生々躍動する新鮮な美に発展する。
先づ年は十五より十八迄、当世顔はすこし丸く、色は薄花桜にして、面(おもて)道具の四つ不足なく揃へて、眼は細きを好まず、眉あつく、鼻の間(あい)せはしからず次第高(しだいだか)に、口ちひさく、歯並あらあらとして白く、耳長みあつて縁あさく、身をはなれて根迄見えすき、額はわざとならず自然(じねん)の生えどまり、首筋立ちのびて後れなしの後髪、手の指はたよはく長みあつて爪薄く、足は八文三分に定め、親指反(そ)つてうら透きて、胴間(あい)つねの人より長く、腰しまりて、肉置(ししおき)たくましからず尻つきゆたやかに、物腰衣装つきよく、姿に位そなはり心だておとなしく、女に定まりし芸すぐれて万(よろず)にくからず、身に黒子(ほくろ)ひとつもなき云々(一代女・一ノ三)
 読者は又、「五人女」巻三の第一節に於て、流行衣装を身に纏(まと)った数人の女性の、詳細・精密な描写を記憶せられる筈(はず)であるが、更に次の例を見られたい。「続つれづれ」巻四の第三話「御所染の袖色ふかし」という掌編であるが、京の千本念仏に多くの当世女が群集すると言う短い前置きの後に、母親の付添った美しい娘の風体を述べて、こう書いている。
近くになる程々に素顔(すがお)にして微塵(みじん)もつくろひなし。いまだ十四なるべし、自然と玉をのべたる生れ付き、是れ結ぶ神の御宝ものにもなるべき女なり。衣装ゆたかに、下には藤色に碁盤の紅絹(もみ)縞付け、(略)前髪に鯨の鰭(ひれ)の曲りたるを入れ、髪の狂はぬやうに仕懸け、わづかに俯向(うつむ)き、首筋ありありと見せて、付け肱(ひじ)に、左の手先にて袖口を揚げ、右の肩より袖ゆきしとやかに流し、これ又どこの国にか有るべきと思ひながら、恋に欲あつて尋ねける。世は広し、もし有る事もや。
 そうして此処には、右の女の立姿が、右の通りの解説入りで、挿画として添えられてさえいるのである。
 読者も気づかれたように、最後の二行ばかりの筆つきによって、どうにかこの小話は、小説らしい体裁を備えるに至っているのであって、この掌編全体が、実は一つの流行衣装・当世風の美粧法の雛形をなして居ると見ることが出来るのであった。ここで注意を要することは、前時代の幸若(こうわか)舞曲の詞章やお伽草子などに、外見上 これと類似の記述がしばしば見出されることである。例えば「十二段草子」笛の段には、御曹司牛若の風体を侍女が浄瑠璃姫に報告する箇所で次のように述べている。
唐巻染にすずし裏、唐綾おもて二かさね、花橘にみなしろをもつて、ひわ柳いろを引き重ね、精好の大口に、顕紋紗(けんもんしゃ)の直垂(ひたたれ)の、下の袴まはりには、(略)御腰の物の結構には、腰胴がねをいれさせて、表の目貫は正八幡、裏の目貫は北野の天神、柄口には九つの彦星棚機(たなばた)を彫らせつつ、栗形には八人の桂男を黄金を以て鋳させたり。天の霞をむすんで下緒(さげお)にさげられたり。柄頭小尻は、日光月光二つの光りを鮮かにあらはし奉りたるをこそさされたれ云々
 読者も夙(と)くに退屈されたであろうように、この叙述は甚だしく煩瑣である。ここに現れた枯渇した似而非(えせ)写生は、説明するまでもなく、中世の死せる形式主義がもたらしたこけおどし の羅列癖に過ぎない。西鶴の衣装の描写が、満腔の自恃(じじ)を以て、町人生活の豊かな現実の姿を誇示し、謳歌しようとする所から生じる、生き生きとした写実的態度に発するものである点と、明確に区別せられなくてはならぬ所である。と同時に又、西鶴の作品に於ける右の如きスタイルブック的要素が、今日の、積極的な生活意欲を喪失した結果としての退廃期型の「美粧文化」とは大いに異なる所のものである点にも留意して置くべきであろう。更に又、西鶴に於けるこのような写実が、当時の町人生活にとっての、一つの健康な・力強い自己主張であり、そのこと自体が、すでに積極的な・建設的な意義を持つものであって、それよりも更に数段高次のリアリズムが把持せられねばならぬ筈の現代文学に在っては、右のような西鶴的写実を模倣することは、単なる一片の「風俗誌」を制作する結果となるに過ぎぬものであるという点をも此の際理解して置く必要があるだろう。このことは言う迄もなく、啻(ただ)に衣装などの問題のみに止(とど)まるのではなく、リアリズム全般の問題について言えることなのである。

 西鶴のリアリズムが、今日の吾々の眼から見て、人生をその全面的な・統一的な規模に於て捉えようとするものではなく、人生をその感情生活の一面に局限して――しかも知性・思想性によって裏打ちせられるところの無い、生のままの官能の世界に限定して――これと取組もうとするようなリアリズムであったこと、現代に於ては、もはやそのままでは正しくリアリズムとは呼びえないようなものであったことは、吾々の近世リアリズム一般が荷(にな)わせられていた運命であった。新興社会の基本的な構成要素であり、従って時代の先導者でなくてはならぬ筈の町人は、しかしながら、政治的社会的には、周知のように、大きな制圧をうけていた自由無き身であった。そのような自由の無い不自然な境涯からは、生活の円満な具足した発展は望みえぬことだ。それは狭い感情生活の隙間(すきま)に向って、歪んだ成長をするより途(みち)がない。しかも思想生活・知的生活を伴わぬ所に育った感情生活であったから、それは素朴で激しい感情――色欲や物欲の形を取って生育せざるを得ない。すでに述べたあの旺盛な知識的欲求も、それが遂に新しい知性を確立し、言葉の正しい意味での良識となって花咲かなかったのも、同様にやむをえぬ自然の径路であった。西鶴が長篇小説を構成し得なかったという事実も亦(また)、右の事情と結びついている。個人的に見れば、あの談林俳士としての長い修行が、彼に長篇を書きえなくした、と考えられるかも知れぬけれども、西鶴に限らず、少(すくな)くとも近世全般を通じて、真の篇作家の名に値する者を、唯の一人も吾々は持っていない。後の馬琴の読本(よみほん)の如きも、人生を大きな規模に於て構想する真の長篇では決してなかった。吾々の近世人が長篇を構想し得なかったことは、上に述べたように、人生を正しい意味で全円的に捉える能力を、社会的に奪われていたいう事情から見て、まことに当然のことでなければならなかったのだ。
 西鶴のリアリズムが、ひいては近世のリアリズムが、このように局限せられたものであったことは、しかし歴史的な運命であって、それはそれとして、そうした限界の裡(うち)に在って最大限にその威力を示し、巨(おお)きな文学的建設を成し遂げたものは、西鶴のリアリズムであった事は、これ亦看過されることの出来ないところである。西鶴の文学を単なる情痴文学として理解する人々の浅慮は問わぬとしても、これ亦、ものを単なる外見上の類似によってのみ理解する、その非歴史的な謬見は指弾せられなくてはならぬ。
 西鶴の所謂好色物の主流をなすものが、なによりも遊里文学であり、職業的な女性を対象とする性生活を取扱うものであって、それらが他の男色を扱ったもの等に比しても、遥かに優れた作品となって現れているということには根拠がある。一体、男色というものは、当時大いに流行していたであろうけれども、それは実質的には、畢竟(ひっきょう)女色の擬装物であり、それ自体がもともと不自然なものであり、生活的な根柢を持っていないものであるから、西鶴に在っても、男色物と呼ばれる彼の一連の作品は、遊里文学に比して、リアリズムの高度の遥かに低いものとなって現れて居る。「男色大鑑」を一読してもこの事情は明かであろう。また「五人女」巻五のおまん源五兵衛の物語は、恐らく原巷説が、その儘(まま)他の巻々と々大きさに小説化せられるには余りに抽象的な僅(わず)かな材料をしか彼に提供しなかった為であろう、前半に男色物語を添えているのであるが、その部分のみは、他の物語と異なり、極めて非現実的な傾向を強く示す結果を生じて居るのである。そこには近古小説「幻夢物語」(「伽婢子」巻八第四話「幽霊出て僧にまみゆ」も爰(ここ)に発したものであろう)の不手際な模倣が見られるのみであって、男色物語の構想が、中世的稚児物語とこのように直ちに結びつき得るところに、その如何ともし難い宿命があったと考えられる。男色物一般について言える右のような特長は、男色そのものが、元来生活の上にしっかり根をおろし得ぬ、かりそめな現象に過ぎぬものであるから、リアリズムと言う物の見方にも創作方法にも堪え得ないところから生じる当然の帰結だと見なければならぬ。
 これに対して遊里文学はどうか。すでに固定し形式化して、近世初期の町人たちの自然な人間性への憧れ・生活感情の自由への欲求と、全く相容れないところのきびしい家族制度・窮屈極まる男女関係からの、擬制てきに作られた避難地帯としての意義を、当時の遊里の繁栄は、その思想的な根拠として潜めていた。すでに述べたように、特定の感情生活の一面にその全生活が集中せられざるを得なかった近世町人にとって、遊里の生活は、彼らの生活の典型的な面を言い表すものに他ならず、従って彼らの遊里文学が、今日の所謂情痴文学・遊蕩文学とは実質的に異なるものであるという理由が、此処にもあるのである。西鶴の遊里小説は、当時に於ける一つの解放の文学であった。

 西鶴の浮世草子は、右のようにして、新しい町人社会の為の、件セル・解放の文学としての意義を持つものであった。従って、其処には先ず合理主義的な思想が随所に示されている。そして、合理主義思想は、旧い形骸化した・不合理な制約を押しつける・因習的思想を棄て去って、新しく自由に、新社会の成長の線に添って、物を見なければならぬと言う、現実の必要から出発するものであるが、又一方、それらの地盤となったものに、儒教思想がある。家康の政策によって広く普及した儒教の思想には、形式主義と合理主義との二つの相反する思想が含まれていて、この両者が臨機に、町人生活に対して、その教化的作用を及ぼして行ったのであって、少くとも近世初期には、例えばかの対仏教の思想戦に於けるが如き、儒教はその合理主義の一面を強く押し出して勝利を占め、近世社会の発展の為の世局的な役割を遂行したのであった。西鶴以前の最重要な作家の一人たる浅井了以の諸作が有する建設的な意義は、彼が仏家出身でありながら――従って又仏教の因果思想との相剋に屡々(しばしば)たじろぎつつも―とにもかくにも儒教合理主義思想を強く把握していたという点に拠るとことが大きいのであった。たとえば
又青野が原には、長範が物見の松とて、大なる松一本あり。……この木に触(さわ)りぬれば、其まゝ盗人になると申し伝へ侍ると語る。楽阿弥(この作の主人公)聞きて、もろこしの呉隠之といふ人は、その生れつき至りて律儀なる火となり。広州といふ国の代官になりて下りしに、国の境に清水あり、其名を貪泉(たんせん)といふ。昔より伝へて、此水を飲む者は、如何に律儀・廉直(れんちょく)なる人も、欲深く物をほしがる心になるゆゑに、貪はむさぼると読ませて、貪泉と名づくと申しけるを、呉隠之爰(ここ)に行きて其水を飲みて曰く、「古人言此水、一歃懐千金、試使夷斉飲、終当不DD心」[古人、この水を言ふ、ひとたびすすれば千金を懐(おも)はんと。試みに夷・斉をして飲ましむれば、ついにまさに心を易(か)えざるべし。]といへり。伯夷叔斉とて、兄弟は胡国の王の子なりしが、古(いにし)へ並びなき律儀者なり。この水を何ほど飲みたりとも、その廉直(れんちょく)なる心は易(か)はるべからずやとて、呉隠之も飲みたりしが、愈々(いよいよ)律儀にして欲心無かりきと言へり。赤坂の物見の松にさはれば、盗人ごころのつくと言ふは、下地(したじ)より盗人心あるものなるべし。その松にさはりたればとて、律儀を忘るる道理なしと、垣やぶりに申しければ、亭主も男も目ぐはせして、尤(もっと)も也と感じたる体なり(東海道名所記・四)
 などは、その最も明瞭に現れた場合の一例である。そういう立場から形式主義に抗議した一例としては、たとえば次のような物がある。
楽阿弥語りけるは、古き人の申し伝へ侍る、この宿に地蔵堂あり。昔紫野の一休和尚爰(ここ)を通り給ひしに、その頃此所に地蔵菩薩をつくりたてゝ、誰にも往来の僧の尊(とうと)からんを頼みて開眼すべしとて待ちける所に、一休を見つけ奉りて、開眼を頼みしかば、和尚いとやすくうけがひ給ひ、すなち[ママ]地蔵に打向ひて、言葉はなくて、「釈迦は過ぎ弥勒(みろく)は未だ出でぬ間のかゝるうき世に目あかしめ地蔵」と詠みて打通り給ひぬ。在所の人々、安からぬ事かな、凡(およ)そ開眼供養と申す事は、威儀たゞしく、経を読み、その外さまざまの作法あるべき事なるに、わけも無き歌よみちらして、うち通り給ふこそ心得ねとて、あたり近き寺の僧をやとひて、開眼をいたし直す。かの僧ことごとしく威儀をつくろひ、九条の袈裟に、座具とり添へ、水晶の数珠をすり、地蔵発願経を片言(かたこと)まじりによみ、高座に上り、鼻うちかみて、地蔵のことあらあら説き述べ、追従(ついしょう)らしく啓白して……なんど、よき事を揃へて言ひ散らし、回向(えこう)の鉦(かね)を打鳴らしければ、諸人これこそ誠の開眼供養なれとて、随喜の涙を流しけり。その夜在所中の者に、地蔵とりつき給ひ、口ばしりて曰く。名僧の供養によりて目を開(あ)きけるものを、いかにわけも無き供養に迷わかしけるぞや。元の如くになして返せ、と言ひて、大熱気さして患ひける程に、人々驚きて、一休を呼び返して、詫言(わびごと)をいたしければ、又さきの歌を唱へ給ひしより、地蔵もしづまり給ひて、今に隠れなき関の地蔵と崇(あが)められ給ひけり(同右・五)
 西鶴に在っても、このような合理主義思想は、随所に強く示されている。「五人女」巻二に、おせんの奉公先きに偶々(たまたま)おこった数々の不思議をのべた個所で
かゝる折ふし、鶏とぼけて宵鳴きすれば、大釜自然と腐りて底を抜かし、つき込みし朝夕の味噌風味かはり、神鳴内蔵の軒端に落ちかゝり、よからぬ事うち続きし。是(これ)自然の道理 なるに、此事気にかけられし云々
と述べて、「自然の道理」を言い、怪異を否定しているのである。又例えば「諸国咄」巻四の第一話では、木偶(でく)の怪異をのべて、それが何の事はない狸の仕業だったのだと結んでいるのは、怪異に対する「暴露」のつもりなのである。狸が人をたぶらかすと言う事は、当時としては、真実として信じられていたことで、そのことは怪異でも何でもなかったのである。
 怪異の否定という形をとって現れる合理主義思想のみを引例したが、この思想は、町人生活のあらゆる面に浸み入って、其処に人間の本性を高く認め人間の力を深く信じる所の、人間主義とも言い得る思想を展開しているのである。「諸国咄」巻四の第六話「力なしの大仏」などに示されているものは、一見人間の力の遥か彼方に在ると考えられるような、驚異に値する能力も、撓(たゆ)まぬ修練によっては、獲得しうるものだとする、人間への大きな信頼の気持の一つの現れであった。同書巻四の第二話「忍び扇の長歌」は、極めて注目すべき小話の一つであるが、其処には身分賤しい侍と契ったお姫様の、一個の生ける人間としての、旧い形骸化した道徳=貞操観に対する極めて強硬な抗議が示されている。
……姫の御方に参りて、「世の定まり事とて、御痛はしくは候へども、不義遊ばし候へば、御最後」と申上ぐれば、「われ命惜しむにはあらねども、身の上不義は無し。人間と生をうけて、女の男唯一人持つ事、これ作法也。あの者下々(したじた)を思ふは是れ縁の道なり。おのおの世の不義といふ事を知らずや。夫ある女の、外に男を思ひ、または死に別れて後夫を求むるこそ、不義とは申すべし。男なき女の、一生に一人の男を、不義とは申されまじ。又下々を取上げ縁を組みし事は、昔より例(ためし)あり。我少しも不義にはあらず」云々 
 ただ身分の低い男との契りを「先例」によって正当づけなければならなかったり、夫の死後、再婚する事を不義と考えねばならなかったりする所に、この社会に育つ合理主義――人間主義の荷(にな)わせられた大きな限界がある事は止(や)むを得ぬところであった。
 また此の人間主義的思想は、当然、人間平等論となって現れても来る。
それ人間の一心万人ともの変れる事なし。長剣させば武士、烏帽子(えぼし)をかづけば神主、黒衣を着すれば出家、鍬(くわ)を握れば百姓、手斧つかひて職人、十露盤(そろばん)置きて商人をあらはせり(武家義理物語・序)
黒衣を着すれば出家、烏帽子白張着れば神主、長剣差せば侍となり、世に人ほど化物話し(好色盛衰一ノ三)
 (公卿も)装束して子細らしく座につき、和歌の沙汰する時は、これ外の人間なり。万事脱ぎ捨て、常の姿は、色の小白き膏薬売りにかはる事なし(同四ノ三)
 これらの、剥き出しの形で語られている場合のみならず、この見解は彼の全作品中に瀰漫(びまん)している。ついには神々までをも市井の平凡な一人間として取扱いさえしている事も、人のよく知るところである。彼の俳諧にも
知れぬ世や釈迦の死跡に銀(かね)がある

釈迦すでに人にすぐれて肥えられて
      嵯峨の駕籠かき増(まし)や取るらん
などと言うほほえましいものが少(すくな)からず見出される。

 これらの合理主義――人間主義的思想は、また、彼等町人の日常の生活の現実と結びついて、実利主義の思想となっても現れる。
諸芸を鍛錬する事、それぞれの家業の外は、深う其道に入る事なかれと、古人の言葉一つもたがふ事なし。唐土の鄒燕(すうえん)と言う人、篳(ひちりき)に五十年来の心をつくし、七十余歳にして妙を得たり。六月に冬の調子を吹きて庭前に霜を降らし、万人此音律に目をよろこばしける。かくの如く学び得て程なう世を去りしに、身の一大事の覚悟もなく、子孫に伝え難く、わづかの遊楽何の益なし。此の外、左慈道人・我朝の果心居士、これらが技術の法は乱の基、年月手練して何か世の助け身の為にもならず。人間の第一は筆道執行の後学問の外なし。今の世の人心、分限相応より高うとまり、鞠場の柳蔭に日を暮し九損一徳に早足(さそく)が利けばとて別の事なし。闇き夜は提灯もたせて静かに行けば溝へはまらぬ物也。殊更楊弓、官女の業なり。如何にしても大男の慰み事にはぬるし。尚又諸職人の槌・鋸を持ちたる手には似合はず。よし又百筋ながら当り或は大金書(おおがながい)の看板に付きてから何。此矢自然の時の用に立ち、せめて盗人を射とめるにもあらず。肴(さかな)引く猫に当てゝも更に驚く事なし。十種香はいよいよ福徳備はれる隙人(ひまじん)の花車あそび、これ聞分くる鼻にて飯の焦げるを聞出し、釜の下の薪を引かすれば始末の種にもなるぞかし云々(世の人心三ノ二)
 こうした実利主義は、又当然、排仏的思想となっても現れて来る。
名利の千金は頂を摩(な)づるよりも易く、善根の半銭は爪を離すより難し。されば今の世の万人、身過ぎの家業是れ盛んの時、所持を内(うち)ばに構へ利欲を捨て心になりけるは、近年世間に仏道を聞入れ、自然と気力失(う)さつて、只当分の暮しを楽しみ、末々の事までの願ひは無かりき。この心底からは富貴になるべき子細なし。福徳祈る商人の家に、世の無常を観じ人の嘆きにかまふ事なかれ(町人鑑二ノ五)
丹後の国切戸の文殊堂に金童子といへる脇立(わきだち)あり。是を開帳する事銭百文に極め置きて諸人に拝ませける。この童子智恵の箱といふ物を抱きて立たせ給ふ。愚かなる参詣の人々、拝めば仏の智恵を貰うて来るやうに思ひぬ。……其の智恵の箱百文にて見る事、さし当って百文いる也。これを出さぬ所が第一の智恵云々(世の人心五ノ一)
 以上述べてきたような思想や見解が、その上に花咲いた文をして、旧い中世から奪い返された生ける人間の文学たらしめる為の、土壌となったのであった。


          U

 西鶴を先導とする、第十七世紀後半の新文学の抱く諸性格を、新しい知識的欲求の精神、新題材・新主題の探究、新しい美の発見、感情生活の解放、人間主義・合理主義・実利主義の思想、などの面から眺めて身、それらの文学が、旧い中世の虚偽と暗愚とから解き放たれた新しい生ける人間の文学たり得た所以を、大体明かにしたと信じるのであるが、右の事情が、西鶴と戯曲作家近松と俳人芭蕉との、三人の代表的作家の間に、どうのような相異をを以て現れたか、という点について簡単に考えて見、それを通じて、此の三人の活動の歴史的意義を明(あか)らめたいと思うのである。
 すでに述べて来たような、新しい人間の文学は、それらの採る文学理論としてもリアリズムを掲げるのは当然である。近松が、浄瑠璃の文句は「情(じょう)を籠むるを肝要とす」と言い、みずから「打詠(うちなが)めて賞するの情」を持つべしと説き、
たとへば松島なんどの風景にても、アヽよき景かなと誉めたる時は、一口にて其の景象が皆言い尽されて何の詮なし。其の景をほめんと思はゞ、其の景の模様どもを、よそながら数々言ひ立つれば、よき景と言はずして、その景の面白さが、おのづから知(しら)るゝ事なり。
などと述べている所にも、彼の明瞭な写実主義理論を窺うことが出来る(これらについては、岩波文庫「曽根崎心中」付録の拙稿「難波土産」解説を参照して戴きたい)。また、「此の道に古人なし」と言い、「松の事は松に習へ」と言って、所謂「誠」の俳諧を説いた芭蕉の理論も亦(また)写実主義に他ならなかった。土芳はこれらの先師の言葉を次のように解説している。
松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞の有りしも、私意をはなれよと言ふ事なりl。この習へといふ所をおのがまゝにとりて終(つい)に習はざる也。習へと言ふは、物にいりてその微の顕れて情感ずるや、句となる所也。たとへ物あらはに言い出でても、そのものより自然に出づる情にあらざれば、物と我と二つになりて其の情誠にいたらず。私意のなす作意也」(あかさうし)
 中世以来の伝統的な、一定の型を成している見方から離れて、新たに独自の眼で対象に眺め入り、その眼の訴えるままを、有るが儘に再現しようとする写実主義的態度を、彼らの言葉から読み取ることが出来るのである。
 これらの言葉は、その限りに於ては、まさしく写実主義的であったが、しかしそこには又、それぞれに大きな限界が負わせられていた点をも見落してはならぬ。近松の写実は彼の
昔の浄瑠璃は今の祭文(さいもん)同然にて、花も実もなきものなりしを、某(それがし)出でて加賀掾(じょう)より筑後掾へ移りて作文せしより、文句に心を用ゐる事昔にかはりて一等高く、たとへば公家(くげ)武家より以下、みなそれそれの格式を分ち、威儀の別よりして詞遣ひ迄、そのうつりを専一とす。此の故に、同じ武家なりといへども、或は大名或は家老、その他禄の高下につけて、その程々の格を以て差別をなす。是も読む人のそれぞれの情(じょう)によくうつらん事を肝要とする故也(前掲書)
という見解が明かに示すように、徹底した写実ではなしに、「類型」を把(とら)える事を以て其の限度とするものであった。一個の人物を描くにしても、彼の個性・個人的特性の隅々にまで分け入って之を再現するのではなくして、たとえば大名の型、家老の型、軽輩の型という風な、それぞれの類型を把える事を以て足れりとするものであった。有名な彼の「虚実皮膜論」も、同様に、かれの写実主義理論の行き詰りに対する合理化に他ならなかった。芭蕉の写実論にも亦同様の限度が示されている。
     蘿(つた)の葉の――何々とやらん、跡は忘れたり。終わりの人の句なり。

此句は蘿の葉の谷風に一すじ峯まで吹きかへさるゝと言ふ句なるよし。予先師に此句を語るに、先師曰く、発句は斯くのごとくくまぐままで言ひつくすものに非ず となり。支考かたはらに聞きて、大いに感驚し、はじめて発句といふ物を知り侍るとて、此頃ものがたり有りけり云々(去来抄・先師評)

     下臥につかみわけばやいとざくら

先師路上にて語り給ふ。此頃、其角が集にこの句あり、いかに思うてか入集しけむと。去来曰く、糸ざくらの十分に咲きたる形容、よく言ひおほせたるに侍らずや。先師曰く、いひ課(おお)せて何かある。予こゝに於て肝に銘ずる事あり、はじめて発句になるべきことゝなるまじき事とを知れり(同右)
 谷風に裏吹き返されて、山腹から峯まで、一筋しろじろと靡いて行く蔦の葉の戦(そよ)ぎというような、あまりに特異な題材の微細な表現や、咲きこぼれる糸桜をその下臥しに掴(つか)み分けたいまでの衝動に駆られる、と言うような個人的な特殊な主観を通して表現することを、芭蕉は否定するのである。恐らく芭蕉は、そうした句を、謂わば「糞リアリズム」だと見ていたに違いなかった。或る時、晩鐘を聴いてたまたま淋しからず感じて物した風国の句に対する去来の批判(同書・同門評を巳よ
なども、極めて雄弁に右の写実の限界を物語っている。
 彼らの写実主義理論の、このような不徹底・発育停止は、蕉風俳諧や浄瑠璃あやつりと言う形態それ自体が、歴史的に抱かせられている性格と、不可分に結びついている。このことは又、それらの享受者層――俳諧の鑑賞者・素人作家や人形芝居の観客――の抱いている物の考え方の歴史的水準とも切り離して考える事が出来ない。(極めて常識的に考えても、相当文字の素養を必要とする浮世草子の読者に比べて、安易に大量にアマチュア作家・鑑賞者を獲得し得る性質を持つ俳諧や、眼に一丁字の無い人々をさへも広汎に、その観客として動員することの可能な人形劇の享受者が、比較的遅れた物の考え方の持ち主であったろう事が想像せられるし、当時の浮世草子・浄瑠璃・俳諧という形態そのものの荷っている伝統・その成立の事情から見ても、この事は明かであろう)。こうした俳諧や浄瑠璃の代表的作家としての芭蕉や近松が又、西鶴に比して一段旧い思想の持ち主であった事は当然である。この時代の典型的「人間」は町人である。純粋な町人作家西鶴に対して、他の二人は、謂わば農民的な・節的な陰翳(いんえい)を、彼らの思想の上に落している。其れは彼らが共に武士の出身であるという事情――この事は、確かに彼等の教養の質を規定し、従って彼等の思想の歴史的水準を約束する一つの有力なきっかけ をなしている――だけから説明せられてはならぬ。右にのべた、俳諧形態・浄瑠璃形態が携えている歴史的性格との連関に於て理解せられなくてはならない。
 その作品の細部に於ては、極めて近世的=町人的な姿態を示しながらも、遂に究局に於ては、その町人的な・ヒューマニスチックな要素を、封建道徳への妥協・屈従の形で圧し歪めてしまうのが近松であった。「五人女」のお夏やおさんと、「五十年忌歌念仏」や「大経師昔暦」の彼女たちとを比較するがよい。恋情のほとばしるが儘に、奔放自在に生活し行為する西鶴の彼女たちに対して、強いて、封建的な徳目と妥協させられようとしている近松の女性たちの、歪められた人間性を見よ。
また、その青年時代には、かの「貝おほひ」(寛文十二年)などの判詞を書き、
今こそあれ我も昔は衆道(しゅどう)ずきの云々
浮世五十年、一寸もまだのびぬ花の枝、咲くまでの間遠なれば、まず目の前の晩鐘寺のけふの花見こそたふとけれ
伊勢のお玉は鐙(あぶみ)か鞍かといへる歌なれば、たれも乗りたがるはことわり云々
京女郎にほの字は誰も鋤鍬(すきくわ)の、かねがねのぞむ事なれど云々
などと、浮世男らしくはしゃいでいた芭蕉も、やがて、町人的な「人間」を捨てて、自然――和歌文学以来の、人生の装飾物としての自然・人生の積極面からの避難所としての自然――との交渉の面に限定せられた人間、言い換えれば抽象人間・普遍人間を追求して行ったのである。生ける現実に対してまともに 立ち向うのではなしに、その片隅のしずかな日陰に潜み入って、「門しめて黙って寝たる面白さ」と言ったような境涯をいつくしむのが、芭蕉の生き方なのであった。延宝期の談林俳諧の示した、あのような対人生の態度から離れて、全く別途の道に踏み込んだ芭蕉の俳諧――それはすでに述べたように、俳諧形態そのものの遂に行かねばならぬ道であったのだが――の、「深さ」や「芸術的な高さ」や「香り」や、ひいてはその「日本的性格」を言う者は、その前にまず、芭蕉が求めた人間性が果して如何なるものであったかを理解しなければならぬ。
 人間の文学――新たに蘇った人間の文学としての、西鶴・近松・芭蕉のそれぞれの文学は、いずれも人間性を激しく追い求めたものであるには相違なかったけれども、その追求せられる人間そのものの実体は、決して同じものではなかった。生ける町人――町人こそが此の時代に在っては人間の典型であった――と、旧時代・封建の世界からその片足を抜き得ない半町人的人間と、抽象人間にまで濾過せられ、昇華させられた農民的人間と。
 芭蕉の人生が芭蕉的に偏向したように、それとは歴史的意義を異にしたのではあったけれども、西鶴の人生も亦、すでに述べたような事情のもとに、特定の情の世界に偏向したのであったが、真の・厳格な意味での・思想の自由が抑圧せられ、従って生活の正しい・調和ある把握が妨げられていた彼等にとって、その唯一の天地としての感情生活は、そのようなものとして孤立し固着して、もはやどのようなものにも発展しえない状態に置かれていた。この事情は封建的なものの圧力の加重につれて、愈々(いよいよ)その弱点を露(あら)わにして行き、その当然の結果として、人間の文学としての意義を、そのリアリズムを、喪失して行った。西鶴以後の浮世草子が、かの八文字屋本に最も明瞭に示されているように、遂に再び人間を見失い、屍(しかばね)に脂粉をほどこしたようなものに墜ちて行ったのは、まことに止むをえぬところであった。近松没後の木偶劇の見せ物化や、芭蕉亡き跡の俳諧の遊戯文学化がまた之(これ)に照応して起っている。西鶴の浮世草子は、このようにして、近世文学の領域に於ける、最初にして而(しか)も最後の、人間の文学となったのである。


  『日本古典読本 西鶴』の中で上掲の「第三章 人間復興」は以下のような位置づけになっている。
はしがき
本文篇
研究篇
  第一章 西鶴の閲歴
――著作略年表――
  第二章 俳諧師より浮世草子作家へ
  第三章 人間復興
  第四章 西鶴研究手引

 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より