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正木信一・国字問題に寄せて (<学芸特輯>前文) 熊谷 孝 |
「法政大学新聞」91(1939.1.5)掲載
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〔学芸特輯〕 国語国字の問題が現下学界を賑はしてゐる今日、中学二年の一生徒が、この問題について卓抜な論文を脱稿した、われわれは敢[あへ]て「綴り方教室」の豊田正子を生み出し、その恐しい天才児の出現を興味の目を以て眺めジヤーナリズムに酷使しやうとは思はない、極めて良心的な編輯方針の下に真摯な学究を紹介することはわれわれの誇りであり喜びである、指導者熊谷孝氏は本学国文科出身にて現在法政中学教諭であるがこの論文は全部正木君の創意に基くものである。。 |
先日、本学附属の中学校三年の作文教室で、山本有三、高倉てる両氏の国字論をデーターとして質疑応答を行つた後「国語・国字問題批判」を生徒に課題した。正木君の論文は、この論題の下に集められた百数十篇の作文中、最もすぐれたものの一つである。中学生が目下緊急に解決を迫られているこの問題を、どう観てゐるかを知ることは文化人に取つて甚だ興味あることであらう |
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【資料】 国字問題に寄せて 正木信一 |
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国字問題発生の必然性![]() 現在日本の国字として採用されてゐるものは、幸か不幸か一種類ではない。大別して漢字と仮名の二つ、更にその仮名が又片仮名と平仮名とあるのだから、結局我々は此種の文字を所有してゐることになる。 同じ言語をこんなにいくつもの文字を以て書きあらはしてゐるところから、山本有三氏がその著「戦争と二人の婦人」の「あとがき」に謂ふ所の「非文明な文章」も生れる事になるのであり、国語・国字の統一・単純化といふことが、茲に大きな問題として大方の論理の対象とせられることに至つた訳でもあつた。 大分前の話だが、この問題に関して林髞氏が、東京日日新聞(八月二十三日―二十六日)に発表して居られた。今それを瞥見しながら少しく偏見を開陳して見たい。
これ等は一体何を意味するものであらうか、実に話す通りに書くといふことが人間の本能だからなのである。一番自然だからなのである。いくら標準語を教へられても、話す言葉には打勝つことができないからなのである。斯様に、話す言葉といふものがいかに強い力を持つてゐるかといふことは、この一事に 林髞氏の国字論への批判 然るにかゝる事実をどう見たものか、或ひは全く気がつかないのか。
なるほど国語をよくするといふことは、我々にとつて 漢字がその大部分を埋めてゐる文章にルビがなかつたら一般の大衆が見向きもしないであらうことは請合である。それを何 話す言葉と書く言葉 林氏に言はせれば筆者のいふ「話す言葉で書く」といふことも国語貧困化運動の一つにされてしまふかも知れない。だが一口に「話す言葉」といつても、その道の専門家と一般民衆とではそこに自ら幾分かの開きがある。しかしそれは話す言葉と書く言葉との
言葉が時代の波に乗つて甚だしく変化するものであることは氏の論を待つまでもなく疑ふことの出来ぬ事実である、そして又これが書く言葉と話す言葉との間に大きな懸隔を生ぜしめた一因子である。 昔の日本人は言語と一緒に文字も文章も同じ様に変化させてゐる。此調子で近世殊に明治維新後急激に変化した話す言葉と同時に書く言葉をも変へて行くべきだつたのである、高山樗牛はその明治時代の文学を論じた文中に次の様な事を述べてゐる 即ち、小蔵が徳川時代の勧善懲悪主義の羈絆を脱して写実主義に移り、更に欧米思想の影響を受けて言文一致体の興つた次第を明かにした後
易しい言葉を使つて文章を書くといふことは、果してその文の価値を削減してしまふものかどうか。一々辞書を引つくり返さなくても済む様な芸術的文章といふものは果してないものであらうか。 所謂国語尊重論者の逆立ち振り 正岡子規は徒らに古語雅語を弄した陳腐な和歌俳句を斥けて、新語俗語を取入れた佳句秀歌を多く歓迎してゐる。実に偉大なる先覚者といはなければならぬ。彼が此の問題を耳にしたら何といふか。実際国語尊重の大袈裟な看板を振廻して、たゞ無暗にやゝこしい古語古字を羅列することを以てやれ国語だ、やれ文学だ、やれ芸術だなどゝ喚いてゐるのは、旧弊を踏襲する悪風の抜け切らぬものといふべく、取るに足らぬ老の繰言と思つてよからう。国語問題を云々する前に宜しく子規先生の爪の垢を探しておく必要がある。
再び言ふ、文字は言語を表現する為の道具である、と。そして更に言語そのものは思想を表現する為の手段なのである。 国民思想の善導といふことが文筆関係者に与へられた最大至上の責務となつた今日、言語や文字が思想表現の為の手段であり道具であることを忘れて、徒に漢儒の訓話の風を模するが如きは全くその本末向背を誤つたもので宜しく速かに之を棄てゝ正道に立ちかへるべきである。歴史を認識することは大切だが古事記が読めないからといつて直ちに非国民と責めるわけには行かず、源氏物語を知らないからといつて事務に差支へる様なこともあるまい。いや難しい文字や言葉を使つて訓話[「詁」カ]学をやりながらでは却て能率を妨げることにならう。 外国では僅かに二十六個の文字を学べば後はその文字をどんな順序に列べるかといふだけである。が日本の小学生はさう簡単には行かない。片仮名を知り、平仮名を覚え、その上更に又漢字といふ厄介な代物を無理やりにつめ込まれる。その漢字も日常頻繁に使ふものばかりでなく我々がいつも御無沙汰してゐるものまでいやおうなしで二重三重の骨折りを繰返させられてゐる。こんな風だから山本氏がルビを文明国の恥辱だといつたことに対して
こゝで一こと断わつておくが、筆者はすぐさま国字をたゞ一種に限定してしまへといふものではない。今のところ所謂漢字まじり文で充分結構である。又仮名も現行の通り二種類あることも差支へない。真に実用的に、一つに単純化し得ればそれに越したことはないが、ローマ字やカナモジの一点張りにしてしまつて、漢字の特徴を全然棄てゝ顧みないといふことには反対である。尤もこれは現段階においての話であつて、ローマ字に統一すべきだといふことは自ら別問題である。筆者は、 文化と言語 さて林氏は言ふ
易しい文字易しい言葉易しい言廻しで書いてゐると、一つの文中に同じ文字同じ言葉同じ言廻しが何度も出て来て読者に倦怠と陳腐な感じとを与へることになりやすい。高山樗牛も或はこの辺の消息を指して言つてゐるのではないかと思ふ。我々が文を書く場合に用ゐる言廻しは大抵過去における自己の経験の範囲を出ることはあまりない。従つて限りある経験の中から難しいもの読みにくいものを取去つてしまへば、残るところはごく僅かである。そこで同じ文句がいくつも出て来て面白味のない、変化に乏しい文章になつてしまふのであらう。しかし現在の世の中が要求してゐるものであるからには我々はこの弊害を除く為にもつと多くの易しい言葉遣ひを工夫しなければならぬ。経験の中から抜き出すのでのではなくて、経験を基調として新しく創造して行かなければならぬ。語学は勿論、その他の自然科学をも更に深く研究することの大きな目的の一つがそこにあるとも考へられよう。即ち基礎といふものゝ必要が生じて来るのである。具体的に一例をいへば、三角形の内角の和は何も二直角にならなくても我々は日常生活には何の不自由も感じない。しかし之が真の実用的な文章となるものであるからこそ数学といふものを研究しなければならないのである。筆者のいふ理想の文化、即ち林氏の所謂実用と縁の遠い文化も、将来に於て実用に供せらるべきものであるからこそ必要なのである。難しい言葉を使はずに易しい言葉を使へといふのは、決して難しい言葉をあだおろそかにするわけではない。確乎たる基礎の上に立って、現在の世情に最もよく適合した、即ち実用的な文章を書くのが今日の文学者の務めだといふのである。そして次第に民衆を引上げて行って遂には天を摩して雲際に 言語と民衆
又「書く言葉によつて話す言葉をつくつてゆく」といふのも、話す言葉がやはり「自分で生育してゆく生きもの」である以上、如何に「書く言葉の通りになれ」といふ脚本を書いても、この役者は恐らく舞台監督の言ふことを聞かないだらう。この自分で生育して行く話す言葉を、書く言葉の方から無理に「矯めてゆくといふことが果して生き物のために上策なのであらうか」却て逆効果を奏して、見るに堪へ奇形児が出来上ってしまひはせぬか。筆者がさきに大きな矛盾と言つたのはこのことである。 国語と日本精神 次に国語と日本精神といふことを考へて見よう。よく外来語を見れば必ず目の仇にせずにはおかない、あやしげな国粋主義者がある。
さて外来語が国語であるといふことになると、今度は之を片仮名で書いて他の語と区別し、継子扱ひにするのはいゝか悪いか、といふ問題に逢着する。これは相当考慮を要することであらうが、今のところ我々には区別した方が便利である。便利であるといふことは能率的なことである。実用的なことである。仮名が二種類あることに不都合はないといつた理由もこゝにある。 話が思はぬところで脱線したが、もう一度日本精神へ撚りを戻して見よう。
話すとほりに書け 斯く我々の祖先は、漢字漢語が渡来すれば直ちに之を用ひ、ポルトガル人やオランダ人がくれば彼等の聞きなれぬ言葉をすら受容れて来てゐる。我々は明治以後、殊に近年著しく増加した外来語を出来得る限り多く咀嚼し消化して行くことに努めなければならぬ。 いつだつたか、どこかの大学の先生が講演中一こともあちらの言葉を口にしなかつたといふことを聞いた。之に対して人は
此の観点に立つて山本氏の所論を聴くに、これこそ最もよくその時宜にを得たものといふべく、筆者は満腔の賛意と敬意とを以て之を歓迎するものである。道は近きにあり、などゝいふと講義録の広告見たいだが、本当に今すぐ実行のできることなのであるから話は簡単である。今からでも遅くはない、振仮名を廃して、易しい言葉で易しい文字で文章を書きさへすればそれで済むのである。そして同時に仮名遣ひを発音通りに改めることである。ここまで来て始めて、「話す通りに書く」といふ事が完成されるわけである。 小学校で六年間やかましく言はれてその結果、中学校へ行つて作文を書かされると、仮名遣ひを誤らぬものは殆どないといふ。そればかりではない、最高学府を出たインテリのサウサウ[後の「サウ」は繰返し記号]たるお歴々ですら往々にして迷つてゐるのがこの仮名遣ひである。読む文章は皆完全な仮名遣ひであつても、又それが如何にいゝ文章であつても、如何に好きな読み物であつても、 さて、今まで大分長広舌を振るつて来たが、之を要約するに筆者の言ひたいことは、何度も繰返した如く、話す通りに書くといふことである。そして此の問題に就てはたゞ文学者に一任しておけばいゝといふ様な無責任な態度は絶対にいけない、国民自身の為に、国民自身が深く考へ、国民自身の手によつて我々の国語を向上させ発展させて行かなければならないのである。 |
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