(時評 国文学)古典の現代的意義      熊谷 孝
  
「法政大学新聞」87(1938.10.23)掲載--- 

 *漢字は原則として新字体を使用した。 *引用部分以外は現代仮名遣いに替えた。 *傍点の部分は太字・イタリック体に替えた。
*明らかに誤植と判断できるものは訂正した。
*難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。


 新聞の報ずるとことによると、谷崎潤一郎氏は、多年苦労の労作「現代語訳源氏物語」を近く公にされるとのことだが、これ迄の口語訳の類と異(ことな)って現代語による古典的世界の再現を企てた、謂(い)わば創作に属する性質のものであるらしい。この種の試みに対するわれわれの期待は、新しい歴史小説の端緒が、かかる方向から切り拓かれてゆくのではあるまいか、という点にかかっている。いま迄の歴史小説――余り適切な例ではないが菊池寛の「忠直卿行状記」など――の世界に躍る人物の姿は、結局現代の(その当時の)インテリゲンチャの苦悩の姿に外ならなかった。また、そうした在り方を示していたればこそ、それらは当時意義を有(も)ち得たのだけれども、しかしこの様に現代の知識層の胸と頭を持った傀儡(かいらい)にチョン髷(まげ)を載せるというやり方が、畢竟(ひっきょう)寓話的なものである以上、またそれだけの限界内に止(とどま)らざるを得なかったのも当然である。「法政大学新聞」87
 たといその性格が現代人的なヴァラエティーに乏しかろうが、その心理が没個性的であろうが、古典人をその在ったが儘(まま)の姿において描き出し、彼をその位置する歴史の場において観察することこそ、ほんとの意味で現代的な視角から古典人に対することであり、ほんとの意味での現代的意義をもった歴史小説を創り出す所以(ゆえん)でなければならない。われわれのいま一つの興味は、氏が特に源氏物語を択(と)りあげて現代の読者に与えようとする、その選択の原理についてである。つまり、この作品が鑑賞されることの現代的意義を氏がどう考えて居られるか、ということだ。このことが、作品の方向――作品の在り方を決定するのである。氏のこの点に対する反省こそ、大きな問題でなければならぬ。
 一方にこうした古典の翻訳がおこなわれ、一方に古典論が(われわれ同業者間に謂(い)うところの)国文ジャーナリズムの堰(せき)を超えて、一般ジャーナリズムの域に迄のして来たこのとき、恰(あたか)も彼ら国文学者によって古典の現代的意義の問題が捉えられた、ということは、十分注目されていい。それの現代的意義に対する反省を欠いて、現代的意義ある古典論は制作され得ないであろうし、同時にまた、現代的意義ある歴史小説も制作されはしないであろうから。こうした点への警告が、国文学者自身によって発せられたことは、当然であるとはいえ、自らの責務に対する彼らの誠実さを証拠だてるものとして、賞賛されていい(たとえば 文学 十月「古典の現代的意義」特集号)。
 ところが、この現代的意義に関する彼らの論議を詮じ詰めると、多くは、一見作品の制作された当時の歴史的背景を顧慮しているようではあるが、重点はむしろ、それの作者が今生きていたら、今日の時世をどう描いたろう、というような好事趣味にあるのであり、或(あるい)はまた、古典が創られた当時と同じ文脈における意義を現代の読者に対して有(も)っているかの妄想的独断にある。
それでは以上のような見解が、今の国文学界の水準かというと実はそうではない。この学界における「古典の現代的意義」」に関するヨリ正しい取扱いについては、既に一昨年度このかた理論的に検討し尽(つく)され、実践的にも一部少壮学徒の手によって果されていたのである。それが今になって充分の成果を挙げ得ないで右にみるような妄論に了(おわ)っているのには、いろいろ理由もあるが、それは兎も角、この問題が最も重要性を帯びてきた今日、われわれは、一昨年以来の立場を確保し、更にこれを前進せしめる必要があるだろう。そこで、かつての問題をいま一度顧みることも無駄ではあるまい。
 われわれの最も力説した点は、芸術における鑑賞者の積極的な役割を前景に出すことであり、彼ら享受者の歴史的社会的性格を明(あきら)かにすることによって、はじめて作品が完全に理解され得るということであった。例えば当時の読者が鑑賞した源氏物語の表現と、現代のわれわれが一読者として受取った表現との間には質的な相違が存すること、つまりわれわれが源氏の中に見出す内容は、決して過去の読者の見出したそれではない、ということだ。この開きは、解釈学派と[のヵ]いう単なる「立場の交換」なぞというものでは埋められるものではなく、あくまで歴史社会的な関係の中に覓(もと)められるべきものなのだ。ここに鑑賞者としての私と科学者としての私との混同すべからざる理由が存するのであり、ひいては古典が現代に研究されることの意義と、現代に鑑賞されることの意義との区別が確認されなければならぬ根拠があるのだ。
 問題は、ここを起点としてヨリ着実に発展せしめられるべきであり、人は歴史的な誤謬に再び陥ることを極力いましむべきであろう。
(この論文は「文学と教育」bP60(1992.12)に再録されています。)
 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より