西鶴の文芸――「五人女」の歴史的意義と現代的意義―― 鈴木福五郎(=熊谷 孝) |
文芸復興社刊「文芸復興」1-4(1937.9)掲載--- |
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*漢字は原則として新字体を使用した。 *引用部分以外は現代仮名遣いに替えた。 *傍点の部分は太字・イタリック体に替えた。 *明らかに誤植と判断できるものは訂正した。 *難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。 |
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T 私たちの「好色五人女」論は、どのように構成せらるべきであるのか。この反省は今日の場合、自ら次の問題を問題とせざるを得なくなって行くであろう。 ……それは、昨年度このかた私たちのシューレ[Schule 学派]に依って展開された文芸学への方法論的反省・論議に対して放たれた批難であるのだが、「徒(いたず)らに理論に走り、『実践』を忘却している」という叫び、そういう叫びが今なお、いやますます激しくこの処一部の人々の間に行われている。 こういう言い分は、実に私たちのアルバイト[Arbeit 仕事、研究、論文]が「序論」に限られ未だ「本論」にまで突き進んでいない、そうして唯徒らに反発にのみ終始している、という昔ながらの、かの俗物的見解の伝統を負うものなのであり、学問の何であるかを解しない犬儒的見解なのである。「実践」とは何であるのか。それは飽く迄正しき理論によって貫かれたものでなければならぬだろう。理論的反省を忘却した「実践」は、たとい「実行」ではあっても、学的実践 では断じてない。私たちの実践は学的実践でなくてはならない。そうである限り、今日のごとき「現実」に直面している私たちにとって、文芸学の健康な発展を期待しまた、そのための努力を致そうとする私たちにとって、方法論への反省こそ、「序論」こそ最重要な関心事で有らねばならぬ筈(はず)ではないか。理論的反省を欠く事に依って歪められた方向に「実践」を「深めて」行くことは蓋(けだ)し文芸学の発展に何等寄与するところなく、いやそれの発展を阻止し逆転せしめるの結果をしか齎(もた)らしはしないであろう。私は、この「五人女」論をかかる反省のもとに試みようとする、歪みに深められてあるよりは寧(むし)ろ序論として終ろうことを期する、序論としての正しさを願いつつこの小論を展開しようとする。 U 「五人女」は、西鶴作品中の最大傑作の一つとして数えられている。その傑作とされている所以は、外でもない彼の初期の作品などとは比較にならぬ程「文学的」であるということなのである。ところで、ここで一寸(ちょっと)考えて見れば判る通り「文学的」「非文学的」ということは、実は現代の私たちにとってそうであるという丈(だけ)のことなのであって、西鶴にとっての本来の読者(作品制作に際して予想された読者・当時の読者)の鑑賞は茲(ここ)では全く切り捨てられ、現代の私たちの鑑賞がかかる判断の規準とされているに過ぎないということなのである。 がしかし、私たちにとって「一代男」などなどより「五人女」の方が「文学的」だ、というのが事実であるのなら、その事実を事実として語ることになんの差支えもない筈である。それはそれでいいのだ。問題は、私たちにとって「文学的」だと感じられたということからして、当時の人々にとっても矢張りそう感じられたという風に思い違えたり、そのことから直接、「五人女」の歴史的意義 が高いという風に早合点したりすることを警戒しなければならぬ、という点にかかっているのである。この問題については熊谷孝氏が何遍も語っているから(例えば、国語と国文学・十二年月号、文学・同年四月号)繰り返さないが、かかる私たちの主張に対して、それでは古典の現代的意義 を無視する積りかなどという開き直った抗弁も現われているので、この場合古典の歴史的意義と現代的意義についての誤謬(しかも幼稚なプリミチヴな誤謬)の根源を明かにし整理して置く必要があるだろう。そうして、この問題こそ「五人女」の意義を論じようとする私たちにとって見遁(みのが)すことの出来ない問題なのである。私は以下において西鶴の作品就中(なかんずく)、「五人女」を対象としながらこの点を問題にして行こうとする。 V 「五人女」所収の五篇がそれぞれユニィクな持味を示している、というこれまでの五人女鑑賞論 についてはここでは言わない、それら五篇の説話が、筋の運び・作品の構成等々に技巧上の差こそあれ、その何れもの短編の描きを規定する視角・現実観照の態度(角度)、ひいては作家の世界観に(一応)根差 のない事はいわれていいだろう。巻一・お夏清十郎の物語にもせよ巻四・八百屋お七の物語にもせよ、そこに取上げられている表現技巧はそれぞれ異(ことな)ったものを示しては居るけれども、それらに於いて描き出されているところの人間の姿に個性的な違いがあるだろうか。「清十郎龍門の不断帯」の中から現われた遊女の恋文を読んで「浮世ぐるひせし甲斐こそあれさて内證にしこなしのよき事もありや女のあまねくおもひつくこそゆかしけれ」と清十郎に想いを寄せ始めるお夏、積極的に清十郎に働きかけて交渉する「町女房はまたあるましき帥(すい)さま」のお夏、それとは恋の動機こそ違え吉三郎を慕って部屋を抜け歩く途次寝ていた飯たき女に裾をひかれ「小半紙壱折手にわた」されて「さてもさてもいたづら仕付てかかるいそがしき折からも気の付きたる女ぞとうれしく 」思うお七、「吉三郎寝姿に寄添て何共言葉なくしとげなくもたれかゝ」るそういうお七、すべてがすべて同じ角度からの描写ではないだろうか。情熱に吾が身をまかせ切って悔いない女性のすがた、お夏・お七ともども良家に育った「むすめ」として描かれていながら、しかもその描き方は実に男知った女、いや男を知り尽した女――典型的な有閑マダムか遊女の性的情熱の姿として描かれているではないか。 以上はほんの一例にすぎないが、五篇の説話を貫くものはこうした「情熱」の賛美であったのである。情熱の賛美、それは言いかえるならば自由の賛美に外ならなかったのだ。――「五人女」は巷間の実話に取材したと言われている。巷間の実話に取材した、ということ、その事の言いあらわす意味(乃至(ないし)意義)については直ぐあとで触れる、ここでは先ずそういう実話をどう取り上げているか・如何(どう)描いているか、という点を問題にしよう。で、話は一応前にかえる。処女である筈のお夏やお七が「男知った女」として描き出されて居る点なのである。要するに彼女たちが「遊女」とかわりない女としてえがかれているという、私の前の言葉を思い出して欲しいのだ。町人の現実 (実際)の家庭生活、それは結局家庭ではなくして「家」の生活に外ならなかった。町人層の、町人としての性格(市民性)とは背反する封建的な家の生活をしか彼らは持ち得なかったのだから。しかし、歪められた意識に於いてさえ、辛くも持ち得た彼らの市民性の欲求するところは、矢張り市民的な自由に外ならなかったのだ。そういう自由への欲求・情熱、それらを彼らは遊里に求めた。遊里に於いて彼らはフェミニストでさえもあった。また、そういう生活面に於いてだけは自由主義者ででもあり得たのだ。尤(もっと)もそういうフェミニズム・リベラリズムといったものも、所詮は無内容に等しいフェミニズムであり、リベラリズムに過ぎなかったのだけれども。 こうした実生活と遊里生活との矛盾、かかる矛盾は「五人女」のお夏の・お七の姿を規定している。彼ら町人は自由を求めた。しかし好色生活に於いてしか与えられない自由でそれはあったのだ。お夏は「遊女」であらねばならなかった。処女お七もまた「男知った女」特有の情熱をもった処女、そういう奇怪な女性であらねばならなかった。現代の私たちが処女らしくない彼女たちの姿にリアリティを感じようと感じまいと、彼女たちが元禄町人にとって文学的リアリティに貫かれてあるものとして在ろうがためには処女お夏は、処女である筈で処女でない女性であらねばならなかったのである。 飽くまでも自由を欲求して止まない元禄新興町人の逞(たくま)しい世界観、その最もよき代弁者としての西鶴の眼(世界観)がその様な描き方を決定しているのだ。誰でも知っていよう、等しくお夏清十郎事件を取上げた近松は、お夏をそんな情熱の持主として描き出しはしなかった。素材といったものは一つであったろう。しかしその描写の角度はまるで異(ことな)ったものであったのだ。近松の場合は、謂(い)うならば、農民的な・旧時代的な現実観照の態度によって貫かれたものであったのだ。かかる古き世界観的角度からして現実の真の姿 を、客観的真実を把握することは蓋(けだ)し不可能の事に属する。近松の場合がまさにそうであった。所謂(いわゆる)義理と人情との相剋、それは町人の実際の 生活面には存在したであろう、前にも言った通り町人の生活は実に新旧両要素の矛盾の表現であったのだから。しかしそのような事実を「事実」として描き出すことは、自己の心情に「忠実」であるにしても、それは決して現実を現実的に描破した事にはならず、客観的真実を文学にまで肉体化したことにはならないのである。 W 私はさきに「事実を事実として描く」といった。しかしその場合、それが単なる事実の記録でない限りそれは、何等か「事実」の解釈であるだろう。しかも、文学である以上、その解釈を概念として語るのではなしに、それを体験の面に於いて語るものであるだろう。謂わばそれは体験のコトバとして語られるものでなければならぬであろう。体験の面に於いて語る、ということは何か を如何なる仕方 に於いてか語る事であるだろう。 で、「何」とは何であるのか。通俗的にいうならば「何」とは一般に素材乃至題材であるといわれる。素材とは、現象として現象した事実を意味する、言いかえれば現象的事実に外ならない。題材とは、かかる事実が彼(作家)の芸術的再現の対象として選ばれた、そういう場合に於ける素材をいい表わすのである。素材が題材と呼ばれる場合、それはも早(はや)現象としての「事実」ではなくして、彼の世界観――現実観によって解釈を施された、その様な「現実的事実」を意味している。それゆえそれは既に現象的事実以外のものである。それが客観的真実性を保留しているか否かは実に作家の現実を見る「眼」が前を向いているか、或は彼の眼が背中についているかの如何によって決定される問題なのである。その限り、題材とは、所謂素材とは違って、作家の世界観的角度から眺められた(だから要するに或る特定の解釈を施された)事実を指し示すものなのである。 「如何に」とは何であるのか。一般にそれは「描き方」「描写の仕方」であると言われる、ところで、かかる「描写の仕方」なるものは、単なる表現技巧のこと、乃至神秘的に解釈された「芸術過程」のことではないのだ。 「如何に」とは「何を」と切り離して考え得られることではない。彼の描写の仕方は、彼自身の世界観によって、まず決定される問題であるのだ。しかし何等か彼の予想したところの享受者層のありかたによってその表現の仕方を制限されるそのようなものであるのだ。文芸の表現はフレクシビリティを持たねばならぬ、といわれる。フレクシブルであるか概念的であるか、ということは、しかし、享受者にとってフレクシブルであるか否かということに外ならぬであろう。つまり享受者にとってそれが体験のコトバとして迫って行くものであるか否かということであるだろう。 「如何に」はかくしてまず彼の世界観によって制約され、更にその描写の・表現の効果は「技術」の問題となって来る。この問題についての詳細は後の機会に譲る。 話は前にかえる。近松の場合におけるお夏なる題材と、西鶴の場合に於けるそれとの相異はかくして生起する。 ところで、西鶴にもせよ、近松にもせよ、自らの文芸の素材を巷間の事実に求めたという事はこの場合見遁すことの出来ない点である。それはすでに屡々近藤忠義先生その他によって明快に指摘されているように、町人文学には町人の生活をという、かの新興町人の、如何にも新興町人らしい態度によって決定された、そのような取材の仕方であるのだから。西鶴に於いて、それはすでに「好色一代男」このかた(浮世草紙の場合に限って言っても――)の態度であった。しかも、いわれているように、巷間の事実に取材するということは、「五人女」に至って確然ととられたところの態度であるだろう。そしてこのことは、明かに西鶴の創作方法が肉体化されたものとなって来た事を意味する。その限り「五人女」は、今日の私たちの眼から見てヨリ町人文学的なものとして受取られるのも蓋し当然なことであろう。 X 便宜上、前に引いた例を取上げていおう。お夏・お七、彼女たちは自らの恋愛的情熱に身を任せ切って、謂わばそういう情熱のおもむくがままに何の「反省」もなく行動して行く女性の姿として描かれている。「五人女」に描かれた女性の姿はそうしたものだった。 「自由」とは何であるのか。前にも述べた通り、市民的自由――それは個人の自由な経済競争の上にうち建てられた町人の生活および生活意識が要求していたところの市民的自由であったのである。そういう自由を要求して止まない女性(人間)が「五人女」には描かれているのだ。そして、これは大切な点なのだが、そういう女性を肯定的に西鶴は描いているのだ。「五十年忌歌念仏」を繙(ひもと)いて見ると明かなように、近松は、お夏を西鶴の様には描いていないのだ。否定的に描いているという訳ではない。誤解を招き易い言い方だが、まるで「性格」の違った、いいかえればもっと封建意識の濃い女性として描いているというのだ。(ここで読者は、私が前にいった「何を如何に」についての言葉を想い起して欲しい。)近松が、西鶴的現実(客観的真実性にヨリ近くあった新興町人的現実)に身を置くことに耐えなかった、――彼の道義感がそういう自由奔放な・不逞な生活態度のもとに身を置くことに耐えなかった――などという彼自身にとっての主観的な憶測はこの場合一応別問題なのである。彼はお夏を、西鶴の場合に比してヨリ封建的意識の強い女性として描きあげているという点がまず問題なのである。尤(もっと)も、近松のそうした心情にまで思いをひそめることもかかる文学史的事実をヨリ正確に理解する資料として充分大切なものであるのは確かだけれども。そしてまた、近松の場合と雖(いえど)も、一概にあの一時代前の作家たちの描きのような女性描写を試みているとはいえないのだけれども。しかも義理と人情との相剋といったかたちで辛うじて市民的自由を主張している、に過ぎないと云うことは言えよう。そして、そういう「自由」が結局「義理」の前に屈服せざるを得ない現実の姿を、謂わば人間一般 の宿命(避けることのできない宿命)として描いているのだ。問題は、客観的真実にとってそのような描写がどういう意味をもつか、またどういう意義をもつかということにあるのだ。近松の「潔癖な」道義感が「歴史」に対して如何なる意義をもつか、いやいやそういう態度で書きあげていった作品が現実にわけもつところの役割は一体どういうことになるか、彼の作品の町人文学史の上に果したところの役割は、どう評価されねばならぬのか、そういう点こそ私たちが文学史的認識の目標であらねばならぬ筈だと思う。(しかし、かかる作品の歴史的役割の認識は、或はそれの果した役割の評価は「認識」すること自体「評価すること」自体が目的なのではなく、今日の文学を逞しく更生し、あるべき方向に方向づけようがための「認識」であり「評価」である限り、心すべき点なのである。この点についての詳細は、文学・四月号・熊谷孝氏「古典評価の規準の問題」および本誌八月号・乾孝氏の稿など参照。) 兎も角も「五人女」は、その現実描写に際して客観的真実を彼等町人として可能な限りの真実性に於いて描きあげたという点、そして元禄のあの 時期に町人生活を一層逞しいものに方向づけるようなプラスの役割を果したという点にその歴史的意義が認められていいのではないだろうか。 私は前に「彼等町人として可能な限りの」といった、「五人女」の作品としてのあり方はまさにそのように多くの夾雑物を孕(はら)むものであったのだ。誰でも知っているよう各説話の随所に見られる教訓的な口吻(こうふん)、「五人女」の基本的な口吻、一例をあげていうなら巻二・「情を入し樽屋物かたり」の巻尾,不義露われて、 樽屋は目をあきあはゝのがさぬと声(こゑ)をかくればよるの衣をぬぎ捨(すて)丸裸(はたか)にて心玉飛(たまとぶ)かごとくはるかなる藤(ふち)の棚(たな)にむらさきのゆかりの人有ければ命からがらにてにげのびけるおせんかなはしとかくごのまへ鉋(かんな)にしてこゝろもとをさし通(とほ)しはかなくなりぬ其後(そののち)なきからもいたづら男も同じ科(とが)野に恥(はぢ)をさらしぬ其名(そのな)さまざまのつくり歌に遠国迄(ゑんごくまで)もつたへけるあしき事はのがれずあなおそろしの世やと物語の筆を結ぶあたり明かな自己矛盾を示しているだろう。しかしかかる矛盾はいわば町人生活自体がうちに孕むところの矛盾であったのだ。町人文学が文学一般 ではなく町人の文学 である以上それは免れることの出来ない矛盾であったのだ。「五人女」にあってはかかる矛盾が、かかる避けがたい矛盾が矛盾として表現せられているというにとどまる。引用したこの一節なども、この一篇の方向からすれば付焼刃(つけやきば)の観をさえ呈しているのだ。(近松に於ける義理と人情の相剋、それはも早単なる「矛盾」の表現ではない、その矛盾にひきまわされつつ、そして、矛盾を矛盾として感じるというのではなく、矛盾にひきずられている者のただ訳もない「苦」に泣く心情を吐露しているというだけのことなのだ。宿命として諦めている者の訳もない悲しみが反抗的にでも、否定的にでもなく吐露されているだけのことなのである。)つきつめていえば好色的女性としてお夏を・お七を或はおまんを描いていった、恋愛をあのような性欲的なものとして描いていった、またそう描かざるを得なかったという点にも、もっともっと深い矛盾があるのだ。処女であると規定されていて実質は遊女とかわりない女性お夏等々を描かざるを得なかったという点にこそ矛盾があるのだ。しかし、これは前にもいった通り町人生活そのものの矛盾であったのだ。矛盾を孕んだ町人生活、町人の世界観のそれとして可能な限りの積極性は実にかかるかたちに於いて最大限に表現をもち得たのだ。だから矛盾を合理化したり歪曲したりしているのではないのだ。それは已(や)むなき発現であった、と私たちが語る所以(ゆえん)なのだ。近松にあっては(彼自身にとって決して意識的ではなかったろうけれども)義理と人情の組み合わせは実に矛盾の合理化、しかも武士的な・封建的な合理化・歪曲であったのである。 Y 要するに以上が「五人女」の歴史的意義であった。尤も、「五人女」の史的位置についての具体的な、したがってまたヨリ詳細な考察は当然「一代男」より少くとも「置土産」等々に至る西鶴の作品史への見透しを必要とするものであるがその点に関しては近く私の同学の友人某氏が発表せられる筈であるからそれに譲って、ここではただ単に該作品の、作品としてのあり方およびその特性を人物描写――「何を如何に」――の点を中心に近松などと対比しながら極めて簡単な考察を加えたにとどまる。 さて、ここで、私たちが西鶴の作品、この場合「五人女」を読むことに意義は一体那辺(なへん)に存するのであろうか。ここで私たちは、故山田花袋の「西鶴小論」の語るところに耳を傾けることを便とするであろう。該小論への批判については、私たちは同学の友人の適切な論評をもっている(国文学誌要・第四巻・第一号「箔のついてきた西鶴論」)。『近代作家に置きかえられた西鶴』のすがたがそこに描かれているに過ぎない、と同君は指摘している。まさにその通り花袋の影がそこに投影されているというだけのことなのだ。しかし、これも花袋が自らの創作の糧を自らの鑑賞によって得たという限りあながち無意義だとはいえないのだ。だからといって、そのことからして直ぐさま該作品の歴史的意義が高いなどとはなおいえないのだけれども。現代に於いて鑑賞され、作品制作の糧となるということの意義と、該作品の歴史的意義を闡明(せんめい)し、その作品の構造を明かにし、作家の取り上げた創作方法(態度)などを究明することによって、今日の作家たちの創作方法への批判・乃至寄与を提供しようとすることなどの意義とを取り違える、などいうことは心すべき事である。これを要するに、古典(作品)を、(言葉の素朴な意味での)鑑賞することの意義と、該作品の歴史的意義を明かにすることによって現代文芸への寄与をなそうとすることの意義とは確然と峻別せらるべきである、ということなのである。 早い話が、西鶴の作品を「読む」ことにより(鑑賞することにより)読者〔今日の読者〕なりの鑑賞の仕方によって読者の受容の仕方なり受け取り方によって該作品から強い感銘をうけ、強い刺激を受け、逞しい創作意欲を与えられたという、場合があったとする。その結果そこにすぐれた作品が制作されたとする。ところで、彼がその作品の或る特定の部分に心ひかれたとする。若(もし)くはその作品全体から或る種の特定の感銘を得たとする。しかし彼が受け取ったところの感銘、それは必ずしも該作品の制作に際してネラわれたかんどころだとは限らないし、また当時の読者の受け取った感銘の部分(或は性質)と同様だとは言えない、一概に私たちへの感銘の故に該作品の歴史的意義が高いとは言えないのだ。それと同時に該作品の歴史的意義は、この限り、それを歴史の事実あったところの位置に位させて見て始めて明かにされるものということが言える訳なのだと思う。 そしてこれは非常に大切なことなのだ、これからの良心的な(「歴史」に対して良心的な)作家たちは古典に対しても、かの日本浪漫派流の直観をもってしてでもはなしに[ママ]もっと具体的に該作品の歴史的意義を明かにし、古典作家の創作方法を分析し、或はそこから積極的に創作の糧を、或はその創作方法への批判から自らの反省の資料を得て、逞しく現代文学の再建に参加すべきではないか、ということなのである。 これは私自身一個の経験なのだけれども、かつて私は西鶴に比して近松の方にヨリ身近いものを感じていた。何故かというに、――卑近な例で恐れ入るが――西鶴はあまりにも俗物的である、町人物にあっては私たちが軽蔑して言う意味での「町人根性」を露呈しすぎる、好色物に示された恋愛は私たちの恋愛観からすればあまりにもエロティシズムにすぎる、近松はそれに比すればもっと人間の内面を見ている。これは私の私人的な経験にすぎない。しかし、私と殆(ほとん)ど同様の経験を経験している人々を私は案外身近なところに知っている。して見ると、これは私一個人だけの感慨ではないのかも知れない。そしてなお私は、西鶴はエロティシズムの作家だ、俗物だという俗物的な見解に禍(わざわ)いされて彼の文芸を食わず嫌いに終ってしまっている人の多くを知っている。(それには、もとより一時代前の近世文学研究家――三味線を習わなければ江戸文学は判らない・西鶴のエロティシズムがたまらなくいい、などいうことをディレッタンティッシュに[dilettantisch 好事家的に]もってまわったあの一時代前の「江戸文学研究家」たち――の流した害毒が禍しているということはいなみ難いのだが、そしてまたその故にこそ私たち今日の近世文学者はムキになって従来の道楽的「研究」の排撃とその跡始末に苦心しているのだけれど。)ところが、これまでの、この叙述を読んで下さった方々にはも早自明なように西鶴作品のあり方は、近松作品のあり方は、だからまた西鶴の作品(この場合「五人女」)の歴史的意義と近松に於けるそれとは私自身のかつての鑑賞による判断とは全然別個の「意義」であるのだ。それの歴史的意義の闡明(せんめい)は実に私たちの文学する方法への大きな示唆を提供するものとなって来るのである。 私は、そして私たちは近松的方法を否定する、西鶴的リアリズムに逞しく生きよ、と叫ぶ。「西鶴に還れ」とは、しかしながら、西鶴が取り上げたような「方法」を素朴に取り上げよ、という意味ではない。そうではなくて、西鶴が元禄的現実の中に取り上げたような逞しい・前のめりな創作態度を自らの態度にせよ、ということなのだ。西鶴の試みたような作品の構成・構想等々を直ぐさまもって今日の私たちの文芸の技法とせよというのではない。それは一つのアナクロニズムに過ぎないであろう。そうではなくて西鶴の方法・精神に還れというのである。西鶴が、元禄的現実をああも見事に逞しくアバき出した、あの逞しい「作家の眼」をもてというのだ。そうすることによって客観的真実を文学的リアリティに於いて表現せよ、というのだ。尤も、西鶴と現代作家との場合は条件が違うのだ。それは確かに違う、しかしそれは今日の作家の方が分が悪いというのではない。事実は全くその反対なのである。今日の作家たちは、彼等は自らのインテリゲンツ[Intelligenz 思考能力、知性、聡明さ]に対して誠実であるならば、良心的であるならば、彼等は現象に足を掬(すく)われることなしに客観的真実を確然と認識し得る筈である。彼等はまず自らの知性の声に聴くべきであろう。彼等にして、もし「真実」に生きようとする情熱を持つならば、文芸復興は決してうつろな叫びとして終ることはないであろう。 1937.8.8 |
‖熊谷孝 人と学問‖熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より‖ |