洒落風俳諧の史的位置      熊谷 孝
改造社刊「俳句研究」4-3(1937.3)掲載--- 

*漢字は原則として新字体を使用した。 *引用部分以外は現代仮名遣いに替えた。 *傍点の部分は太字・イタリック体に替えた。
*明らかに誤植と判断できるものは訂正した。
*難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。


              1

 蕉門の人々の間に漸(ようや)く党派対立の兆候が萌(きざ)しはじめたのは、芭蕉の没後歳(とし)幾何(いくばく)もない元禄末年の一時期に於いてであったという事や、そうしてそのような対立は、やがて宝永・正徳を経て「都会的なるもの」(洒落風・化鳥(けちょう)風など)と「地方的なるもの」(美濃風・伊勢風など)との二つの俳風への分裂の機運を孕(はら)んで愈々(いよいよ)顕著化されて行くものであったという事や、そうした過程において継起した同門諸俳人の軋轢(あつれき)や論争等々については夙(つと)にひとのよく知るところである。
 ところで、そうした俳壇の分化は、いったいどの様にして、どの様な理由からして齎(もた)らされた現象であったのだろうか。
 その理由としてひとびとが指摘しているところは必ずしも一様ではない。それにも拘(かかわ)らず、含蓄のある言い廻しが採られていると否とに拘らず、芭蕉の「死」に、作家めいめいの素質にその窮極の原因を覓(もと)めているという点で誰しもの意見が全き一致をみているのである。芭蕉という統帥者が死んだからそういう結果になったのだ、謂(い)わばそういった「解釈」や説明の仕方が、これ迄の凡(あら)ゆる蕉門解体論の根幹となり、それの基調をなすものであったのだ。たとえば、其角が師の没後間もなく洒落風の偏依に堕して行ったというのも、もともと彼の性情が都会人にありがちな現象主義者として素質づけられていた事のゆえに他ならぬ、といった観察の仕方であるが、それは謂うならば、親父の眼の黒い中は如何(どう)やらおさまっていたが、持って生れた悪癖は如何(いかん)ともし難く、親の年忌の明けない中に到頭(とうとう)遊蕩三昧に身を持崩した、という底(てい)の云い方と寸分違わぬ現象の把(とら)え方であるだろう。
 芭蕉の没後、俳壇が収拾し難い混乱に陥ったといい、彼の死がキッカケとなって党派的分裂がおこなわれたという、現象はまさにその通りである。指導者を失った其角が、やがて本来の性向に立ち帰っていった結果、自然ああした作風を現前させることにもなって行ったのだ、そうした云い方とても現象記述として 恐らくは正しいものであるだろう。云われているように、其角は、師の生前に於いてすら一面 正当派とは異(ことな)った句作の態度を示していた作家であったのだから。が、しかし、一切の根源を行為の動機 に覓(もと)めつつ現象を説明していくというこうした説明の仕方は、所詮現象を現象として述べ立てるというのがもともとの処なのであって、本来それ以外の(或(あるい)はそれ以上の)はたらきを示し得る筈(はず)のものではなく、説明らしい説明を或は解釈をそこから覓めようとするのは初めから無駄な話だったのである。なぜなら、そこでは「芭蕉の死」という現象 が「俳壇の分化」という現象 を説明するための説明原理として原理するという無意味な空廻りがおこなわれているという丈(だけ)の事なのだから。所詮は現象を追い廻して(或は現象に追い廻されて)ぐるぐる廻りを演じているという丈の事に過ぎないのだから。たとえば、洒落風成立の素因 を其角の素質 に覓め、芭蕉の死にその直接の起因を覓めるという場合などである。江戸座の盟主としての其角を起点として青年期の彼の句作に迄遡(さかのぼ)り、それらにあって既に後年の其角におけると略ゝ(ほぼ)同様の視角が示されていたという事からして(そうしてまた彼が芭蕉などとは育ちが違う生粋(きっすい)の都会人であるという事などを理由として)、彼はもともと都会人らしい派手好みな新奇を衒(てら)う性質の人間であったのだ、まず以てそういう帰結に到達する、とういう素質の、そういう風に性格づけられた作家であったから、師の没後当然ああした俳風に堕して行く事にもなったのだ、次いでそういう結論を与えるという順序である。なんのことはない、やあ降って来たな、そういえば今朝の空模様は危(あや)しかったよ、というに等しい。かかる「後向(うしろむ)きの預言者」的な結果論・現象論によって私たちは何ものをもプラスされはしないのである。
 それでは、芭蕉の解体(分化)の過程を、ひいては洒落風成立の事情をいったい私たちはどの様にな意味において理解したらいいのであろうか。


              2

 学齢以前の子供にしか通用しそうにもないこの種の素朴な結果論・現象論が、ともかくこれ迄(いやそして今もなお)一人前以上にはばを利かせて来たということには、「文芸の偶発性」への迷信が救い難い迄にひとびとの心情に喰い入っていたことが考えられる。学界・俳壇の現状に即していえば、かかる事態は、天才詩人芭蕉への深い追慕の情が、やがて彼を神格化し絶対視しようとするに至り、それが必至的に「天才が歴史を創造する」という観念――今は古びたかの天才論に結びついていった結果齎(もた)らされた現象であったのだった。(俳諧がともかく現代にあってなお制作され観賞され、芭蕉の詩境が、現に多くの人々によって至上・最高の境地と考えられているという事情が、そうした偶然論の支配をいっそう力強いものにさせているのである。)そうしてまた、その様な考え方が、歴史に対する個人の意志の支配を絶対視することによってのみ成立つものであることは云うを俟(ま)たない。天才は歴史の創造者である。そうして、優れた素質(天才)の支配下にある限り、歴史はいわゆる「歴史的時代」として現前し、凡庸の素質の群立するところ、歴史はなんらの進歩も発展をも示さない。――こうした建て前からして、芭蕉の出現は輝かしい蕉風時代を創造し、芭蕉の死は俳壇の堕落を齎(もた)らした、といった、其角の浮華な素質は師の没後とみに悪化を加え、やがて洒落風の成立を結果するに至った、といった現象論・結果論も、なんの矛盾もなく、十二分の満足感を以て人々に受容れられて来たわけであるが、偶然論の立場に立つ限り、ひとは、刻銘な現象記述を以て現象の十二分の説明として満足しなければならないだろう。歴史は所詮偶然の総和でしかないのだから。しかし、前にも云ったように、現象記述は、本来現象の説明とはなり得ない。そうして、それはまかり間違えば「後向(うしろむ)きの預言者」のナンセンスに陥るものでさえあったのである。私たちの蕉門解体論は、かくして、かかる偶然論の繋縛(けいばく)から自らを解放させていこうとする努力の中に組立てられて行くのでなければならない。
 私たちは偶然論を否定する。しかしながら、歴史の現象面における偶然の支配を決して否定しはしない。講談師がよく云うところの、家康が早逝して秀吉が長生(ながいき)したとしたら、豊臣公爵が今頃貴族院に議席を占めることになったかも知れないという論であるが、私も或はそうかも知れないと思う。が、しかし、こうした講談師的・寄席的偶然論でさえもが、徳川議長の出現を一つの偶然的な現象と見做(みな)しながらも、今日の日本が今ある通りの議会制度の国家に迄発展してくる必然性を(無意識的にしろ)肯定しているように、まさにその通り、歴史の発展を規定する原則に変りはないのである。豊臣公爵論は、だから要するに、集権的封建制確立への歴史的要求が家康によってではなく、秀吉によって具現された場合への想定に他ならない。そうして、若(も)しもそういう偶然が現象したとしたら、といった事を空想してみたところで、それは実際にはなんの役にも立ちはしない。私たちは、家康の国家統一を、集権制確立への歴史的要求の具現の端緒、そのメルクマール[Merkmal 特徴、特性]としてみればよいのである。
 話の筋はそれと同じことである。よく耳にすることだが、芭蕉がもう数年生き延びていたら、などいう事を云ってみた処ではじまらない。故人に対する追慕の念が遂そういうことを口にさせるのであろうが、云わでものことである。芭蕉がいま暫(しばら)く延命したとしたら、事実俳壇の混乱がしかく速(すみや)かに現象しなかったかもしれない。けれども、歴史の発展を規定する原則に変りはないのである。当代の俳壇は、やがては分化すべき歴史的(必然的)制約を負うものであったのである。ひとり俳諧の領域に於いてばかりでなく、元禄――享保期の町人文芸は、その全領域に亘って、文化・混乱を現象するに至る歴史的社会的条件に条件づけられていたのであった。歴史の発展は個人の主観的努力など様のものによって、機械的に左右され得るものでは決してない。去来その他が、師の遺風を守るべくあれ程の努力を傾けたにも拘らず、俳壇はひたすら分化・混乱の道程を辿るのみであったのである。
 私たちは、芭蕉の死を、洒落風の成立を、蕉門解体の、俳壇分化の、そうした現象を齎(もた)らすに至った文芸史的必然の、具体的なメルクマールとして理解すれば事足りる。そうして、また、かかる現象も、そうした観点からとり上げられてこそ、そうしてこそはじめて私たちの問題の対象ともなり得るのである。


              3

 其角が、師の生前に於いて既に現象主義者としての一面を、都会人気質を発揮していたとは屡々(しばしば)いわれるところである。こうした点に彼の本来的な天性・素質の現れが見られるとは、また誰しもが指摘するところである。しかしながらかかる都会人的な態度なるものも、実は蕉門俳諧が内包する一要素に他ならぬものであった、という点を見落してはならない。蕉門の俳諧は、謂わばそれに先行する俳諧文芸が、それぞれ個別的に持していたところの「都会的なるもの」と「田園的なるもの」との、これら二つの要素の統一者として出現したのであった。そうして、芭蕉その人すらもが、一面、
  ひ ろ ふ た 金 て 表 か へ す る         野 坡
は つ 午 に 女 房 の お や こ 振 舞 て       芭 蕉
  又 こ の は る も 済 ぬ 牢 人            野 坡
                             (冬 の 日)
 こうした句作の態度を示していたのである。
恨 た る 泪 ま ふ た に と ゝ ま り て        越 人
  静 御 前 に 舞 を す ゝ む る             其 角
空 蝉 の 離 魂 の 煩 の お そ ろ し き         同
  あ と な か り け る 金 二 万 両            人
い と を し き 子 を 他 人 と も 名 付 た り      同
  や け と 直 し て 見 し つ ら き か な        角
酒 熱 き 耳 に つ き た る さ ゝ め こ と        同
                        (曠 野(あらの) 員 外)
あ ち き な や 戸 に は さ ま る ゝ 衣 の 妻   其 角
  恋 の 親 と も 逢 ふ 夜 た の ま ん        越 人
や ゝ 思 ひ 寝 も し ね ら れ す う ち 臥 て       同
  米 つ く 音 は 師 走 な り け り           其 角
                               (同 右)
誰 と 誰 か 縁 組 す ん て さ と 神 楽       (炭 俵)
花 さ そ ふ 桃 や 歌 舞 伎 の 脇 躍        (続猿蓑)
年 の 市 誰 呼 ら ん 羽 織 と の            (同 右)
 されば、其角のこれらの句は、けっきょく蕉門俳諧が内包する「都会的」な一面を最も理解されなければならぬものである。しかも、かかる都会人的な制作態度は、決して其角にのみ特徴的な態度なのではなく、(右の引例がそうした事実を立証している様に)蕉門の人々の殆(ほとん)ど凡(すべ)てが多かれ少(すくな)かれ有(も)って居たところのものであった、という点への理解を確かなものにしておく事は、この場合絶対的に必要であると考える。
そうしてまた、私たちは、蕉門の俳諧がいいあらわすところの「都会的なるもの」が、「大坂独吟集」その他に示された西鶴の俳諧に於けるが如き「都会的なるもの」とは全然「質」を異にしたものであった、という点に充分注意しなければならない。たとえば、――
三 味 線 は 皆 長 持 に 打 込 て
  戯 女 狂 ひ 分 散 の 月               (大矢数)
お じ や つ た か 寝 覚 の 里 に 何 も な し
  大 節 季 ま で い ゝ 延 て 松           (同 右)
懸 乞 も 分 別 盛 の 秋 更 て
  こ ら へ 袋 に 入 相 の か ね        (大坂独吟集)
 これら西鶴の句が指し示すところの「都会的なるもの」は、都市生活者としての町人が、謂わば生活者 としての立場から自らの生活現実と対峙することによって齎(もた)らされた詩的表現に他ならぬものであったのであり、蕉風の場合に於けるそれは、(右の野坡・芭蕉・其角・越人等の句を一見することによって自(おのずか)ら明かにされる様に)寧(むし)非生活者 的な、それこそ風流人の視角からなる都市生活の再現に過ぎぬものであったのである。
や ゝ 思 ひ 寝 も し ら れ す う ち 臥 て
  米 つ く 音 は 師 走 な り け り
  ひ ろ ふ た 金 て 表 か へ す る
は つ 午 に 女 房 の お や こ 振 舞 て
凡てが凡て、こうした態度に生き抜く句であった。「ひろふた金て」の句に何かしら生活的 なものの描きを予想させながら、「初午に」の句によって、結局自然 の裡(うち)に解消され尽(つく)した人間生活の姿がそこに展開されてくるのであった。――かくして、蕉門俳諧が、先行俳諧文芸から承け継いだ「都会的なるもの」は、談林的な・乃至(ないし)は西鶴的なそれでは決してなかった、ということなども、も早自ら明かであろう。都市生活を自然の一点景として眺めていく、そうしてそこに情趣的な美を創り上げていこうとする態度、そうした観照の態度が、蕉門において「都会人的な制作態度」といわれるものに他ならなかったのである。したがって、それはまた、蕉風の基本的な態度であるところの「田園的なるもの」となんら矛盾することなく並立し得たわけでもあったのだった。そうして、これら二つの要素は、調和美が要求されるに至った元禄の文芸時代にあって、芭蕉らの手により統一に迄齎(もた)らされて行く事になったのであった。(西鶴における仮名草紙の諸要素の統一・近松における古浄瑠璃の集成等に私たちはこの時期の文芸に特徴的な一般的現象を看て取ることができる。)
 しかしながら、ますますレアクチオネールな[reaktionär 反動的な、逆行の]状勢に傾きつつあったこの時期の歴史事情は、必然的にひとびとの認識をますます片輪な、一面的なものに導いていった。物ごとをその全円的な相に於いて把(とら)える能力は、かくしてひとびとの間から自ずと失われていったのである。文芸とても、もとよりかかる歴史の支配から自由ではあり得ない。こうした反歴史的時代における町人文芸が、愈々(いよいよ)狭隘(きょうあい)な境地に沈潜しようと企てたことは至極当り前のことだった。この場合、蕉門の俳人たちが、或は「都会的なるもの」に或は「田舎的なるもの」に自らの安住の境地を狭く築き上げようと企てたことは自然の数であった。かくしてここに蕉門の解体がおこなわれ、やがて洒落風の成立をみる事にも自らなっていったのだった。
 けれども、蕉門末流における「都会的なるもの」と「地方的なるもの」との対立は、言葉の正確な意味での対立 を言いあらわすものではなく、根本的な行き方に於いて全く同一の態度を示すものであったという事、いいかえれば、芭蕉自身にあってこれら二つの要素が矛盾するものでなかった様に、この場合やはりなんらの矛盾を孕(はら)むものでもなかったという事、そしてまた退嬰的・遊戯的であるという点で、末期的症状を露呈しているという点で全く同質のものであったという事などを注意しておきたい。洒落風俳諧は、謂わば蕉門俳諧における都会的要素の拡大であった。自然の一点景として対象を把えるという点で、両者の間に質的なひらきは見られないけれども、対象の把え方 の上に真摯(しんし)な態度が失われ、遊戯的・感覚主義的な態度への移りが看取されるのであった。(その様な態度を生みだすに至った一般的根拠については一応前にのべた。)
 最後に、次の二つの点に注意しておきたい。――其角が、蕉風における都会的な一面を最も特徴的に代表する作家であるという事については既に述べたのであるが、しかし、(芭蕉生前における)彼の全作品を子細に探求してみた場合、彼自身の本領は寧ろ自然観照の句に「田園的なるもの」の中に発揮されている、という事が知られるのである。啻(ただ)に量的に云ってそういう句が多いという丈(だけ)ではなしに、質的にそうなのである。
脇 息 に あ の 花 折 レ と 山 路 哉  (うら若葉)
  稗 と 塩 と の 片 荷 つ る 籠        孤 屋
辛 崎 へ 雀 の こ も る 秋 の く れ      其 角
                             (冬 の 日)
たとえば、そういった句も見られたのである。そうしてまた、「虚栗(みなしぐり)」その他彼の初期の選集の任意のページを繰ってみることによって明かにされる様に、談林張りの句作の多くが、それらに於いては示されていたのであった。この様に見てくれば、彼の本領は、寧ろ談林的な句作に、そうして蕉風田園的なるものに、最後の階梯にあっては都会的・洒落風的なものに於いて発揮されたものと見なければならず、したがって、彼にとって素質的なるものとは、却(かえ)ってそうした推移の中に具体的に表現をもったところの、動的な・現実的なすがたの謂(い)いでなければならなかったわけである。
 ――今一つは、西鶴と其角との両者がひとしく目新しい現象に取材したという事態から、両者の句作が同一の〔同質の〕態度を示すものであるという現象論への反駁(はんばく)であるが、この問題については一応前にも触れておいたから、今は唯次の一事を補足しておくにとどめる。西鶴の場合におけるそれは、彼のリアリスティックな現実観照の態度が必至的に執るに至った新現実面への取材をいいあらわすものであり、謂わばそうした現実の問題を問題とせざるを得ない生活的要求に迫られての取材の態度を示すものであったという事、其角に於けるそれは、啻(ただ)に遊戯的・有閑的興味からなる、徒(いたずら)に新奇を衒(てら)う末期的現象主義者の態度に他ならぬものであった、ということを――。赤穂浪士に取材した追善の句
う ぐ ひ す に 此 芥 子 酢 は な み だ 哉
と上掲西鶴の句例とを対比してみることによっても、両者のそうした開きをはっきり看て取ることができよう。

四十度近い感冒熱と歯痛に災いされ蕪雑な稿に了(おわ)ってしまった。編集者に対しても、読者に対してもまことに申訳ないことであった。謹んでお詫び申しあげる次第である。

 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より