西鶴論断章――文芸の偶発性の問題にふれて(西鶴の俳諧を中心に)――      熊谷 孝
  
「国語と国文学文学」昭和12(1937)年3月号掲載--- 

*漢字は原則として新字体を使用した。 *引用部分以外は現代仮名遣いに替えた。 *傍点の部分は太字・イタリック体に替えた。
*明らかに誤植と判断できるものは訂正した。
*難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。


        は し が き

 私は、この論考において、西鶴がその芸術活動の領野を俳諧から浮世草紙へと移行させていった間の経緯を、作家と世界観の問題、世界観と創作方法の問題、文芸形態(ジャンル)と享受者層・創作方法などとの相関・背反の問題等々に還元して考えてみることによって、だから要するに、そういう西鶴の作家的転身を文芸史的な関係において眺めてみることによって、やがて、延宝・天和の交における町人文芸の歴史的特質に触れていこうとする。したがって、この考察は、さしずめ「好色一代男」の成立(浮世草紙の生成)を触発した契機の解明を目指しておこなわれる事になるであろうが、その場合おのずから、芸術生成の問題――芸術・文芸の生成を偶発的な現象と見做(みな)すか、歴史・社会的に制約された必然的な現象として理解すべきかの問題が問題となって来るであろうし、また、そういう問題への応答を準備し得るようにこの小論も組立てられて行かなければならぬわけである。
 そういうことを書きつけて、私は、私の西鶴論のはしがきとしようと思う。しかしながら、本稿は、飽くまで一つの試論であるにすぎない。
この論考は、筆者の旧稿「仮名草紙小論」(国語と国文学・昨年一月号)「永代蔵の成立過程」(文学・同年三月号)「本朝町人鑑試論」(立命館文学・同年四月号)等の記載を前提として書かれるものであることを予(あらかじ)めお断りしておく。

         

 後年「檀林二祖」をもって目され、『惣(すべ)て此(この)道さかんになり、東西南北に弘(ひろま)る事、自由にもとづく誹諧の姿を我仕(し)はじめて已来(いらい)也。世上に隠れもなき事、今申(もうす)も愚(おろか)也。』と自ら誇らかに語り、貞門一派の批難に応えて『阿蘭陀(おらんだ)流といへる誹諧は、其姿すぐれてけたかく、心ふかく詞(ことば)新らしく云々』と迄(まで)いい放った西鶴が、やがては俳壇の第一線から退いて浮世草紙作家へと転じていかざるを得なかった間の経緯を、そうして、彼の句作に於いてともかくも実現されつつあった、しかしながら結局完成への可能性を阻まれていた本来的な町人生活相の再現が、「好色一代男」意向の浮世草紙に至ってはじめて完成の域にまで達し得たという事情を、いったいわれわれは、どの様な意味において理解したらよいのであろうか。
 人々は、それに対して次のような解釈を下している。阿蘭陀西鶴とまで罵(ののし)られ、「放埒(ほうらつ)抜群に勝れ」た彼が、所詮十七音節・十四音節の制約を負う俳諧に自らの世界を創造しうる筈(はず)はなかった、自由な表現形式を覓(もと)めて散文の世界へ走ったことは極めて自然の経路であった――。もともと西鶴は詩人的な素質に乏しい、生れついての小説家肌の人間であったのだ、句作に芸術的な深まりを示し得なかったのも寧(むし)ろ当然すぎるほど当然のことだったし、だから自らも行詰りを意識し、他に安住の地を覓めていった結果小説に筆を染める事にもなったのであろう――
 私は、こうした種類の解釈を、作家本人を主体とし、彼の制作動機やなどなどを規定する個人的・主観的条件についてあれこれと思いを廻らしつつその創作心理を追求し説明したものとして、その限り多分正しいものだろうと思う。だが、こういう解釈の仕方は、本来なんらの解釈をも説明をも期待し得る筈のものではなかった。なぜなら、それは現象を現象と繋ぎあわせ、そのときの作家の心理はこうもあったであろう、と憶測を逞(たくま)しうするだけのものなのだから。だから、いちばん無難にいった場合でさえ、現象そのものが現象を説明するための説明原理として原理するという無意味な空廻り・悪しき循環を繰返しているわけなのだから。(たとえば、西鶴の天分・素質を云々することによって這般(しゃはん)の事情を説明する、などいう場合である。彼の俳諧は割につまらないが、浮世草紙にはなかなか傑作が多い、してみると所詮彼は詩人としてよりは小説家としての天分に恵まれた作家であったのだ、ひと先ずそういう結論を導きだす。そういう素質の、そういう風に性格づけられた作家だったから、当然ああいう経路を辿る事にもなっていったし、事実小説家としての西鶴は古今独歩の作家ででもあり得たのだ、次にはそういった「解釈」を下すという段取りである。)そこで、創作心理を探るということが(若(も)しもそういう操作が必要であるとすれば)いったい如何(どう)いう目的のために必要なのか、という点が反省されなければならぬのであるが、この種の問題についての論議は他の機会に譲ることにして、ここではさし当って必要な次の一事を指摘しておくにとどめよう。――一作家が、この場合にあっては西鶴が、特定の心理状態に支配されて小説家に転じたとか、特定の心理過程を辿って「一代男」を製作するに至ったといった説明を与えてみたところで、(よしその説明が正確に精密におこなわれ得たとしても)、それ丈(だけ)では、すくなくともそれ丈では現象を現象的に説明したというに過ぎず、決して現象を客観的に理解し説明した事になりはしない、ということすなわちその事なのである〔補註 一〕。まして、現代作家に対すると同じ手心で西鶴の創作心理が云々された場合には、西鶴その人はいつしか雲の彼方に昇天してしまっていて、現代作家西鶴の戯画 がそこに描き出されてくる、という丈のことに過ぎないであろう。
 〔補註 一〕 一作家の作風の変遷や、その作品の構造などを、創作心理を追求することによって、よしそこにまっとうな説明が与えられ得たとしても、結局それだけでは、研究者自身、作家のよき同伴者・享受者であるということを証明する以外のものではなく、所詮「引摺り廻される一読者」になり果てた事をいいあらわすに過ぎない、ということ、――この場合そういう説明を付け加えておけば事足りよう。
 些(いささ)か饒舌(じょうぜつ)を弄しすぎた嫌いがあるけれども、これ迄の西鶴論が、われわれの研究に資する多くのものを提供していてくれるにも拘(かか)わらず、肝心の方法論的な論理の構造において、いま見て来た様な結果主義的な循環論・現象論の誤謬(ごびゅう)を不知不識(しらずしらず)おかしていると思われる節々が少(すくな)くないのであり、そういう点を反省しておくことは、この際、われわれの前進のために何は措いても必要な事だと考えられるのであり、殊更に近世初期文芸理解への重大な契機であらねばならぬ俳諧師西鶴から浮世草紙作者西鶴への転身の経緯が、安易に常識的に片付けられて了(しま)っていることへの憾(うら)みも手伝って、先ずもって一応の整理を試みた次第である。


         

 私は、以下数章に亘って、嚮(さき)に掲げた課題に対する一応の解答を展開しようとするのであるが、さしづめ「大坂独吟集」(延宝三年刊行)「虎渓の橋」(延宝六年刊行)「大矢数」(延宝九年刊行)などに見える西鶴の俳諧を対象として、それらに於いて、当代の町人生活相が(また町人生活のどの様な面が)どの様な視角からどの様に取材されたのであったか、だからまた、そういう新しい現実内容が、彼の俳諧にあってどの底(てい)の具体性をもって再現せられるに至ったのであったか、という事を探り求めながら、解答の手懸りとなるべき契機を把(とら)えようと考えるのである。
   御造作(ごぞうさ)や夕月ながる龍田川
   からくれなゐのせんたくぞする   (大坂独吟集)
   大師講けふ九重を過越て
   匂ひけるかな槇木(まき)のお違(ちがい)      (同  右)
 西鶴の句に、一般に談林の句に故事・古歌を踏まえたものの多い事はひとのよく知るところであるが、そして右の引用などもその一例を示すものであるが、その様な態度は、西鶴の句作にとって、如何(どう)いう意味をいいあらわすものであったか。
 この場合、われわれは、「仁勢(にせ)物語」や「竹斎」など模擬物と呼ばれる一連の仮名草紙に示された古典再制作の態度と、西鶴のそれとを一応 対比的に考えてみることが出来ようかと思う。たとえば、「仁勢物語」の
   おかし男、ぬかみそをおもひけり、つぼある人のもとに
       こ ね わ び ぬ あ の ぬ か み そ を 入 る て ふ
              し ほ か ら つ ぼ も く だ き つ る か な

「竹斎」の
       だ ち 馬 に に ほ ひ お こ せ よ わ さ 米 を
              つ か ひ な し と て あ き な わ す れ そ

といった狂歌の類であるが、そこに見られる古典模倣の態度は、しかしながら、これ迄も屡々(しばしば)語ってきた様に〔註一〕、単なる古典追随の、盲目的な踏襲を言いあらわすものではないのであって、兎も角も新しい歴史の担い手として現前しきたった、そして漸(ようや)く自らの文芸を文芸時代を創りあげようとする迄の文化水準を獲得しつつあった新興町人が、内容的に形式的に真に町人文芸の名に値する文芸をうち建てようがために先ずもって採った(そして不可避的に採らざるを得なかった)謂わばそういったポォズを示すものであったのだ。そのことは、だから一面からすれば、近世町人の担う文化の伝統のまずしさを、いや彼らが殆(ほとん)どなんらの文化の伝統をも教養をも持合せない階級であることを指し示すものではあったが――。謂わばそうした新しい地盤のうえに自然生長的に生れいでた町人文芸の、第一次発展の段階が、その様に過去の文芸遺産の継承の時期として特質づけられていた事は当然すぎるほど当然のことだった。しかも、そういう文芸遺産の継承が、決定的に自らの必要に応じた古典的遺産の摂取として、いわば明日の文芸の創造の資としておこなわれている、という点は見遁(みのが)し得ないところであり、近世初期の社会を覆うて前のめり なものに方向づけたあの逞(たくま)しい新興町人の知的探究の精神のあらわれを、われわれは、その様な点にも看て取ることが出来るのである。(凡(あら)ゆる転形期の、前進的な新興文芸が、つねにそうしたものとして現象しているという事実を、文芸の歴史は、われわれの前にまざまざと示している。)だから、それは、古典の「影響」〔補註 二〕といった抽象論をもって安易に片付けてしまう事のできない、謂ってみれば文芸の生成・発展の一様相を具体的に指し示す一つの場合であったのである。
〔補註 二〕 新しい地盤のうえに自然発生的に誕生した新興文芸が、さし当って古典の、乃至(ないし)は前時代文芸の形式を借りて自己の生活感情を吐露しようと企てる、という事は極めて自然な現象である。かかる段階における新興文芸は、古典の、しかもリアリズムの形式を採り上げるを原則とするという「公式」は暫(しばら)く措いて、事実、近世初期の文芸の各分野にあっては、自己の上昇的な生活意識・感情を盛るに適(ふさわ)しい形式への選択がおこなわれる、という現象が現象したのだった。すなわち、――模擬物が採ってもって自らの糧(かて)としたところの作品は、「伊勢物語」「枕草子」等々であったし、前時代文化への懐古的な態度に生きようとした文芸(たとえば比丘尼(びくに)物など)は、必至的に中世末期の没落的貴族文芸の踏襲(文字通りの追随)として表現を有(も)ったのだった。
 また、談林派の俳諧が、謡曲の詞章に拠る場合の多かったという事なども『たとへ古文学に拠る事の不可避性があらうとも、その拠り所を比較的彼らに近い武士の生活、武士の観念の上に立つた文学に移行して行かうとした態度』*のいいあらわしに他ならぬものであったのであり、われわれは、そこに金平(きんぴら)浄瑠璃などと共通した、この時期の文芸の一般的特性とその歴史的限界性を看て取ることが出来るのである。
   * 近藤忠義氏「日本文学史概説・上方江戸時代」(岩波講座日本文学)
 それと略々(ほぼ)同じことが西鶴の俳諧の場合においても云われていいのではなかろうか。尤(もっと)も、近世俳諧が、俳諧の連歌を母胎として発生したもので在ってみれば、(俳諧の連歌が、連歌文芸の中にあって寧(むし)ろ傍系的な「云捨(いいす)て」なるべき連歌としての位地を占めるものであったにもしろ)所詮和歌・連歌をつなぐ長い伝統の制約を負うものであり、それだけに古典の覊絆(きはん)に拘束されがちな文芸形態であった、という事は云い得るとしても。だから、西鶴の場合についても、俳諧そのものの伝統性を無視して論じる事は出来ないのだけれども**――。しかし、ともかくも原則的には模擬物における文芸遺産の摂取の意義と略々同一の意義を指し示すものである、といった一応の概括を試みることに、この場合さして大きな誤(あやまり)はないであろう。そういう前提が許されるとすれば、西鶴の俳諧における対古典的態度が言いあらわすところのものの、その輪郭だけは已(すで)に明かにされたわけである。そこで、われわれは、われわれの論をいま一歩おし進めて具体的な考察に移行させていくことの必要に迫られて来るのである。なぜなら、単に古典を模倣するとか、古典的遺産を継承したという丈(だけ)なら、なにも西鶴に(乃至(ないし)は談林派に)固有な特徴的な態度ではないのだし、それは既に貞門の俳諧において示されて居たところのものでさえあったのだから。だから、嚮(さき)に私が模擬物の歴史的性格を語りながら、西鶴の俳諧に対しておこなったところの規定は、寧ろ貞門・談林派を含めて、それらを概括し得る、その底(てい)の規定なのだとさえ云うことが出来ようものなのだから。
  ** ジャンルの問題については後の章を参照。
    (一) 大坂独吟集
      けぶり立(たつ)(えぞ)の千嶋の初やいと
      あまのあか子も田鶴(たず)もなく也
      小便やもしほたれぬる朝ぼらけ
      須磨の上野にはゆるつまみな
  
    (二) 大矢数
      不慮に一夜乙女の姿抱てしめ
        雪の通路■[蹈(ふむ)ヵ]は忍び路     (第一)
      無慚(むざん)やなそこへ常盤を横霞
        彼入道がいたづらの春            (第十一)
        仏と名付て雪のかたまり
      清盛の寵愛(ちょうあい)なさるゝ月澄て      (第三十一)

    (三) 虎渓の橋
      人はいさ心もしらずひぜんがさ         松  意
      床へは入つたがさはりもせなんだ       西  鶴
      くらまぎれ鼠の引し新枕            江  雲
      やがて別れのとりもちをねる           松  意
      此跡の太夫を惜しむよしの山          西  鶴

 これらは、いずれも故事・古歌を踏まえた句例であるが、一読して明かな様に、そこでは、古典的(貴族的)詩の世界はそれの本来性に於いて決して己を主張することなく、謂ってみれば啻(ただ)に表現技巧上の拠り所としての、町人自身の「生活」再現を可能ならしめる一つの機縁としての役割を勤めているというにとどまり、町人詩の世界に全部的に席を譲り了(おわ)っているのである。「人はいさ」の句に対する西鶴の付け方を見てもその事は知られようし、それはやがて行きつく処、「くらまぎれ」の句によって、「やがて別れの」等々の句によって、町人の好色生活面――遊里生活の描写へと展開させられて了(しま)うものでさえあったのだった。(「床」といえば「新枕」をもって応え、それを初会と見做(な)すことによって、後朝(きぬぎぬ)の「別れ」にとりなし、「太夫を惜む」と付ける、という付合(つけあい)は、飽くまで自らの生活を前面に押出そうとする、談林一派の積極的態度が必至的に執るに至った創作方法の、一つのあらわれであった。この点については後に再びふれる。)更に、第一例・第二例の「大坂独吟集」や「大矢数」の場合などは、古典を拠り所としながらも、しかもそれでいて古典を古典としてそれへのまっとうな敬意を表するどころか古典を冒涜する事をも敢(あ)えてしかねまじい揶揄的な口吻・態度をもって、そこに自らの詩の世界を誇らかに主張しているのであった。〔註二〕(とりわけ、「無慚やな」「彼入道が」などの一連において、彼のそうした制作態度をはっきり読みとることができる。二句の結合によって、そこに展開された古典の世界は、古典的雰囲気が醸し出す情趣美の世界ではなく、謂わば、近世町人の現実観によって解釈を施されたそれなのであり、清盛にもしろ常盤にもしろ唯の一個の人間として、市井の一好色漢と浮世女房との関係に置き換えられつつ描写がおこなわれているのである***。この点については後の章で再論する。)
*** ということは、なにも西鶴が、清盛・常盤の故事を直接古典に覓(もと)め、それを典拠としてこれらの句を作ったのだという事をあながちに云うのでもなければ、「清盛」といえば好色漢を意味する、という事が当代における一般の通念であったろう、という推定を否定するわけでも決してない。
      花 よ り も 団 子 や あ り て 帰 る 雁
 貞徳の句であるが、もとより「古今集」巻一・伊勢の『春霞たつをみすてゝ行雁は花なき里にすみやならへる』に拠ったものであるのだが、それを上掲西鶴の句と比較してみるならば、所詮彼の古典摂取の態度は、字づら通りの意味での「古典の再制作」の域を脱し得ていないものであり、西鶴の場合におけるそれは、謂わば肉体化された「古典の利用」をいいあらわすものである事はも早(はや)語らずして明かであろう。(尤(もっと)も、「御造作や」「大師講」などの一連には、前者と余りひらきのない句作の態度が見られもするのだけれども。)そうした貞徳の俳諧から西鶴のそれへの発展は、過去の文芸遺産の継承・摂取の過程をとおして次第次第に文芸的経験を蓄積していくことにより、漸くそこに町人文芸らしさ を想わせもする自らの本来的な表現技巧をうみだすに至ろうとしていた、そういう事実を反証する現象であったのだった。したがって、それはまた、町人イデオロギィが、も早啻(ただ)に概念として作用するにとどまらず、感情に浸透し、生活に喰い入り、ひとびとのモラルにまで身体化され来(きた)つていたことを意味している。西鶴の文芸は、まさにかかる段階における町人の文芸であったのである。〔補註 三〕
〔補註 三〕 たとえば「可笑記」(寛永刊行)など一連の教訓的仮名草紙に於いて、われわれは、中世的僧侶的世界観・近世武士的世界観等々多くの夾雑(きょうざつ)物を孕(はら)んだ町人の世界観の、極めて未発達な町人プロパアな世界観への努力と概念性克服への努力の跡を看て取ることが出来るのであるが(拙稿「永代蔵の成立過程」〔文学・昨年三月号〕第二節など参照)、そうした努力の行きつく処、やがては浮世草紙の成立をみる事にも自(おのずか)らなっていったのだった。かかる概念性克服の過程が、町人イデオロギィのモラル化への道程を指し示すものである事は云うまでもあるまい。近初における町人文芸は、この様にして、漸次(ぜんじ)実用芸術の域から抜け出していったのだった。
 しかし、かかる事態からして、なべて概念的なフレクシビリティーに乏しい作品が、謂うところの「芸術的に洗練された」作品よりも価値が低い、というような結論に飛躍してはならない。「概念的である」とか「芸術的に洗練されている」「芸術的に深い」という事、そのこと自体が 作品の価値評価の規準に決してなりはしないのだから。「芸術的に洗練されている」とか「芸術的に深い」といった云い分を詮じ詰めていくと、結局、「複雑な技巧が用いられている」とか、「作家の血みどろな体験から滲み出たことばだ」」とか乃至(ないし)は「それが優れた技術によって表現されている」という事に尽きるのではないのか。尤(もっと)も「芸術的に深い」という言葉は別の意味にも使われている。「浮世ばなれのした気品のある作品だ」という意味に――。複雑な技巧 を用いた作品が、必ずしも優れた作品だとは限らない。これは至極判りきった事柄である。作家の体験に裏づけられたモラル化されたところの表現、それが(意識的無意識的に)彼が予想したところの読者に所期の働きかけをなし得た場合、この作品は技術 的に優れた作品であるだろう。しかし、技術的に優れた作品必ずしもプラスに価値づけられる作品ではない。たとえば、――石坂氏の「麦死なず」が大向(おおむこう)を唸らせ、鶴田氏の「コシャマイン記」が世の絶賛を浴びた事は誰でも知っている。これら二つの作品は、ともども技術的に優れた作品であるだろう。ところで、「麦死なず」が、その巧妙な表現によって読者を如何(どう)いう方向に組織づけたか、「コシャマイン記」は、事実、如何いう働きかけを人々に対しておこなったのであったかという段になると、二つの作品の果たした役割は凡(およ)そ真反対なのである。両者が傑作である丈(だけ)になお更もってそうなのである。そのいずれがプラスの価値を有(も)つかは歴史を正視し、現実にまっとうに対峙する事によって自ら明かにされるであろう。
 教訓的仮名草紙が、その概念性の故に、それが素朴な技巧をしか用いていないという事の故に低く評価されてはならない。凡(あら)ゆる建設期における芸術は、直接的に当該社会の政治的必要(政治的啓蒙)に奉仕する(たとえば明治期における政治小説など)。近初啓蒙期における実用芸術として、かかる目的奉仕のために制作されたこれらの作品が素朴な技巧による、フレクシビリティーに乏しい表現を示していたというのも至極当然のことだった。そうして、概念的であり、技巧が素朴であったればこそ、それらは、啓蒙期における町人文芸としての文芸性 を固く自らに約束づけ、自らに課せられた歴史的任務をヨリよく遂行することが出来得たわけでもあったろう。……概念性が克服されている、という事そのことに価値があるのではない。それはも早(はや)自明である。われわれが、「他我身の上」から「浮世物語」への発展 といい、仮名草紙から浮世草紙への発展 というのは、あながち後者にあって概念性が克服されているという理由からでも、「芸術的に洗練されている」などいう理由に基づくものでもない。そうではなくて、町人プロパアな世界観への努力が、したがって町人文芸プロパアな表現への努力がそれらの過程に示されているからであり、特定の歴史的社会的条件の下に町人イデオロギィが一段と強化され、必然的にそれがひとびとのゲミュート[Gemüt 心情]に迄身体化されモラル化され、概念性を克服し得た表現を齎(もた)らしていた、という事態を示しているが故に他ならない。(繰返していうが、イデオロギィが作家のモラルにまで体験化され日常化されている、という事そのことに意義があるのではない。どの様な観念がどの様にモラル化されているかが、われわれの問題にされなければならない点なのである。その意味に於いて、われわれは、西鶴の文芸のもつ否定面を仔細(しさい)に吟味していかなければならない。この問題の検討は後の章に詳しい。)
 ついでだから一言すれば、――「浮世ばなれのした気品のある」作品が芸術品として 尊い、という考え方であるが、現実となんのかかわりもない有閑芸術の気高さを讃え、これこそ真の芸術だというのは、宛(あたか)も「役に立たない」という事が上品であり尊いことだ、と考えている閑人の趣味的な云い分に等しいものであり、それは、芸術作品をサロンの装飾や床の間の置物などと同一視し骨董品扱いにする逆立ちした観念にすぎない。装飾芸術は本来的な意味での芸術ではないのである。(有閑〔装飾〕芸術の問題・技術と技巧の問題・形式と内容の問題等々についてのわれわれの見解は、乾・吉田両氏との共同製作「文芸学への一つの反省」〔文学・昨年九月号〕の続論形式で後に発表する。) 
 が、しかし、かかる発展は、抽象的に理解された時代の相違とか、歴史的関係から切り離して考えられた両者の芸術家的素質・作風の相違といった点から理解が運ばれてはならない。かかる理解が齎らすところのものは、結局、前章に於いてわれわれがその誤謬を指摘しておいた結果主義的な循環論・環境論以外のものではないであろうから。古典的遺産の摂取が、単に貞徳・西鶴個々人の気まぐれな思いつきなど様のものによって左右されたところの、要するに個人的偶然 が結果したところの、そういった態度ではなく、それは、近世初期文芸の全分野に亘っておこなわれた対古典的態度の、個人的な一つの現れであった、という点への理解を確かなものにしておく事は、この場合絶対的に必要であると考える。
 もとより貞徳・西鶴らの古典的教養が、彼らを駆ってそうした制作態度を採るに至らしめたのだとは云い得るけれども、しかし私に云わせれば、抑々(そもそも)そういう風に考えることが、そういった考え方をすること自体が凡そ意味ないことなのである。逆な云い方をすれば、かかる過去の文芸遺産の摂取を避けがたいものにしていた文芸時代にあって、新興町人文芸陣の作家として前進的な文芸活動に参与しうる(またそういう活動に堪えうる)ための第一要件は、いうまでもなく新しい世界観の所有者であり、古典的教養に教養づけられた人物であらねばならぬ筈(はず)なのだから。そういう資格において欠けているとすれば、ひとは先ず作家である事をやめるであろうから。(この時期において活躍した作家たちの殆(ほとん)ど全部が全部、貴族・僧侶・儒者・神官等々の、乃至は浪士といった中間的知識層の人々であったという事は、かかる観点からして極めて興味ふかい現象であった。)之(これ)を要するに、私は、当該文芸時代を古典的遺産の継承・摂取の過程として、そうした過程のうちに段階的な発展のすがたを覓(もと)めつつ対象するのでなければ、貞徳対西鶴の比較論も所詮無用の饒舌(じょうぜつ)に了(おわ)らざるを得ないであろう、という事を云いたかったのである。
 かくて、嚮(さき)に述べた様に、貞徳・西鶴の両者がひとしく古典の形式を拠り所としながらも、しかも前者に比して後者が遥(はる)かに自由な表現技法によって現実を描き出しているのであったが、いいかえれば、前者とは別個な創作方法によって其処(そこ)に自らの新しい詩の形式を実現させつつあったのであるが、彼らの採りあげた創作方法のかかる異なりは主体的には彼らめいめいの現実認識の、現実観照の態度によって、客観的には前期ロマンティシズムの段階における町人の世界観と後期ロマンティシズムの段階における町人のそれとの相違によって制約されている、という事などはも早(はや)自明であろう。
〔註一〕 たとえば、拙稿『仮名草紙小論』(「国語と国文学」前掲)など。
〔註二〕 やがては、この一派の行き方に敬遠的な態度をとるに至ったと迄いわれている宗因その人が、「小便や」の句に対して長点を与え、『行平卿の捨子にやといたはしく候』という評を加えている、というところなどからも談林一派の対古典的態度の一般的傾向を窺い知ることができる。

         三

 西鶴の俳諧が、古典形式への依存からこそ全くは免れ得ていなかったけれども、しかし兎も角も貞徳の場合などに比して自らの生活相をなんらか新しい技巧のうちに再現させつつあった、という事、そうしてその事が、上昇的ロマンティシズムの第二次的発展段階を形づくる町人文芸の一般的現象に洩れぬものであったという事などを、私は前章において語ったのだった。ところで、彼の俳諧についてなおも探索し続けていくならば、嚮に例示した一連の句のほかに、(それが古典を踏まえていると否とに拘(かかわ)らず)もっともっと積極的な姿態において、町人本来の視角から自分自身の生活現実と対峙した、謂わば「生活」そもののをまっとうにも前面におし出した句作の多くを、われわれは、そこに見出すことが出来るのであり、それらに在っては、俳諧なる特定の制約を負う短詩形態として可能な限りの具体性において、極めてレアルな現実面の描きがおこなわれているのであった。しかしながら、西鶴の俳諧を特質づけている、かかる一面については、既に近藤忠義先生が論文『西鶴の俳諧』(俳句研究・昭和九年十一月号)において殆ど余す所なく論じ尽くしておられるから、詳しくは同稿を参照して戴くことにして、ここではさし当って必要な次の二三の点に触れておくにとどめ、更にそれを起点として結論に向って論をおし進めていくことにしよう。

    (一) 夫手たて運気を雲に知れたり
          米は買置き進退は蛻(から)             (大矢数・第二)
        買置の本は残さず此蔵に
          大ひねと云米柳陰                  (同右・第二十三)
        此頃は寝ても覚ても空をみる
          出雲千俵売つてのけうか               (同右・第三十九) 
    (二) 家質も流れてはやき水冷て
          今なくむしの親の時には               (大矢数・第一)
        十露盤(そろばん)に泪の玉が置かれうか
          無念や恋はうせ物にたつ               (同右・第一)
        三味線は皆長持に打込て
          戯女狂ひ分散の月                  (同右・第六)
    (三) 人置の祖母が参つて申やう
          実盛常々捨て銀の沙汰               (大矢数・第三)
    (四) さほ姫に縦(たとい)敷金付とても
         分散所袖のとめ伽羅                  (大矢数・第五)
        縁組も銀が敵のうき世也
          押へて首をしめて口すう               (同右・第十七)
        敷金が付とてよべばあんな月
          世上は恋の中の秋風                (同右・第二十三)
        娘どもは心してゆけ初あらし         定俊
          中人がいふは皆空の月          西鶴   (虎渓の橋)
    (五) 内證の苦は色かゆる目安箱
          十露盤上手といはれし我も              (大矢数・第四)
        おじやつたか寝覚の里に何もなし
         大節季(おおせっき)までいゝ延て松           (同右・第十)
        算用詰十露盤枕ねる計
          雨にあらしに舟間也けり               (同右・第十一)
        大黒殿の袋には風               定俊
          懸乞(かけごい)が見る白がねの山高し   西鶴  (虎渓の橋)
        懸乞も分別盛の秋更(ふけ)
          こらへ袋に入相(いりあい)の鐘            (大坂独吟集)

 第一例は「買置」を、第二例は遊女狂いなどなどによる「二代目の分散 」を、第三例は「人置」を、第四例は敷金付の結婚等々の商略結婚やその間に介在する仲人などを、第五例は大節季・懸乞等々の中小商人の「内證」をそれぞれ取扱ったものであるが、これら句作の素材となったところのものは、云うまでもなく当代町人の経済生活様式が必然的に齎らしたところの真新しい、謂わば実生活的な諸事象があったのだった。すなわち、明暦・万治――延宝期は、謂うところの早期資本主義的経済機構が、まさにその体制を整えはじめようとしていた時期に当るのであり、商業資本・金貸資本の威力は、漸く凡(あら)ゆる層のうえに、社会の全面を覆うて到る処に発揮され来たったのであった。その結果として興業物等々に対する投機・投資もおこなわれ、そこに一攫(いっかく)千金の夢も実現され「大かたは吉蔵三助がなりあがり」(「永代蔵」)なる「俄(にわか)分限」も簇生(そうせい)する一方、そうした投機の失敗が齎らすところの分散、中小商人の窮乏化とそれに伴う「内證見えて」の分散、分散を免れる手段としての持参金(敷金)目あての商略結婚、その間に横行する「十分一銀」とる媒介業者の発生等々の目新しい現象が見られたのであった。こうした事象が、西鶴の句作に際してその題材として取り上げられたところのものであったのである。それは、近藤先生の云われた様に『町人の文学には町人自身の生活をという延宝――元禄期の彼らの文学に課せられて来た要求への一つの応答*』に他ならぬものであったのであるが、更にかかる課題へのヨリみごとな答案は、後に彼自身の手によって浮世草紙のうちに書き上げられるに至ったのであった。
* 「西鶴の俳諧」(俳句研究・前掲)
 なお、この種の、経済生活的題材を扱った句例を二三列挙しておこう。

     正直は俄(にわか)分限にとどめたり
       かうべに付る油売しか        (大矢数・第五)

 諺を踏まえての付句がおこなわれているのであるが、油商人の更生・致富を主題とした「町人鑑」の巻三・第一話などと比較対照してみればいっそう明かな様に、後の町人物などに示された西鶴の視角と略々(ほぼ)同一のそれが早くもこうした処に示されていたことが知られる。殊更に手法の上からいえば、これらの句は、油商人の話の「おのずから正直の首(こうべ)に付る髪の油もよく云々」といった章句に転用されていくものであったのだった。こうした例を彼の俳諧の中に無数に見出すことができる。たとえば、――

       契りも今宵たいこ上(じょうろう)
     念頃(ねんごろ)に語り申せば只金じや
       五段続けて寝ころうで聞       (大矢数・第二十四)

 この一連の句が、「一代男」の『人のしらぬわたくし銀」〔註三〕(巻七)・「諸艶大鑑」の『敵無の花車』〔註四〕(巻三)等々において、一主題を形づくるに至るところの遊女もしくは遊里生活の背面的な描き・経済生活的角度からなる取扱い、そうしたものの一つの雛形を示すものである事は云うまでもあるまい。凡(すべ)ての事象を己が経済生活の上に立って、そういう観点から眺めわたしていく、謂ってみればそういった彼の現実観照の態度を、これらの句は如実に示すものであった。そういう彼の眼差しが、故事・古典の世界に向けられていった場合、そこに

     質の種子巖の肩か薄衣
      伯夷叔斉世の契約
     是は又衆道の外の物思ひ       (大矢数・第九)
     塞翁が馬をつないで大臣さま
       年貢納むるもろこしの里       (同右・第十一)

といった揶揄的な句もうみ出されていくのであった。だから、それらは、嚮に例示した

     無慚(むざん)やなそこへ常盤を横霞
        彼入道がいたづらの春 

といった一連の句に示された句作の態度と、根本的な行き方において全く同一の態度をいいあらわすものであったのである。
 清盛と常盤との関係を、市井の一好色漢と浮世女房とのそれに置き換えて、だから彼らを一介の素町人、自分たちと全く同質の人間に迄ずり下して眺めていこうとする態度、そういった態度の行きつく処、やがては

       寝られぬ時の伽(とぎ)の村雨
     腰もと衆奥より召され侍ふぞ
       徒(いたず)ら目つき玉のきざはし    (大矢数・第十二)
     大名の御手が懸つて産出して
       恋の重荷当座に千石         (同右・第三十)

 この種の暴露描写もおこなわれる事になったのだった。大名とても所詮自分たちと同じ一個の人間ではないか、謂わばそういった観察がこれらの句には示されている。かかる観察を可能ならしめたものは、「天下の町人」、西鶴をしてそう豪語させたところの新興町人の自己認識の態度であり、そういう自己認識を裏づけた彼らの人間万能の、金力万能の、逞(たくま)しい現世主義的生活意識・態度であった。之を要するに、町人の「生活」は、もともと彼ら個々人の自由な経済競争の上にうち建てられたものなのであり、そこに「俗性筋目にもかまはず只金銀が町人の氏系図」(「永代蔵」)といった自覚も生れてき、そう自覚された自己の立場から(自由競争的な段階にあった彼ら町人は、ひとしく根差(ねざし)ない人間=個別化された人間=個人としてあった筈である)、凡(あら)ゆる事象に接していこうとする態度も、おのずから齎らされていたのであった。権威・尊厳・神秘、そうした非人間的なるもの・超現実的なるものの凡(すべ)ては、現世主義者町人にとって、も早拒否さる可(べ)きものであったのである。現実に実在する人間、人間性によって裏づけられた人間、人間の現実の生活、こうしたものが、そしてこうしたもの丈(だけ)が、彼らにとって生活興味の対象であり得たわけである。……そういう町人のうたった詩が人間讃美の詩であり、人間謳歌の詩であることに不思議はなかった。かくして、自らの詩の対象として取り上げようがためには、武家生活なるものも、人間的な面 において抽象 されなければならなかったのである。かかる抽象画における武家生活――それは、だから町人生活との共軛面である――なるものこそ、はじめて町人詩としての俳諧の対象ででもあり得たわけなのだから。〔補註 四〕(かく抽象するはたらきこそ作家の現実認識の態度――竟局において彼の世界観によって制約されているのである。この問題については後の章で再論する。)
〔補註 四〕 この場合、西鶴によって発見された人間(人間性)なるものは、しかしながら、どの時代の、どの層の人々にも通用する、謂わば人間性一般――普遍人間性などというものを言いあらわしているのではない、という事、それは飽くまで当代の町人 にとっての人間であり、人間性である、という事、だから要するに、「近初の町人」という具体的な歴史的人間 の謂いに他ならぬものであるという事、そういう点をはっきりさせて置く事が必要なのである。
 ところで、われわれにとって問題は、かかる人間の発見――たとえば武家生活に対する暴露描写をとおして具現されたところの――が、好色生活面における、若(も)しくは経済生活面における人間の姿のそれとして専(もっぱ)らおこなわれた、ということの指し示す意味なのである。
 このことは、終局において、近世町人の宿命的な政治的地位に関連している。近世社会は、その微妙な特殊的な歴史的構造性の故に、彼らの経済的制覇力にも拘(かかわ)らず、町人に対して決して政治の自由を与えはしなかった。政治の自由を剥奪された自由、それは所詮擬制的な自由にすぎなかった。彼らが、権威・尊厳・神秘、そうした個人の自由を束縛する凡(あら)ゆるものを否認し続けたにも拘らず――。彼らがせめてもの自由を、生の欣(よろこ)びを享受し得たのは、僅(わず)かに経済生活と好色生活との、そうした狭隘(きょうあい)な二つの生活局面に於いてであった。しかも、それとても所詮は擬制的な自由に過ぎなかった。なぜなら、彼らは結局「町人身分」以上のものではなかったのだから。(奢侈(しゃし)禁令・好色本禁令等々のいわゆる禁令・御法度の形式・手段による鉄槌(てっつい)が幾たび彼らの頭上に加えられたことか。)その当然の結果として、彼らは、純粋と云い得るような市民的世界観を、生に対する市民的な認識の方法を遂にもち得なかった。当初から彼らが拒否し続けた中世的僧侶的世界観そのものからすら全くは免れ得ていないところの、必至的に武士的儒教的世界観をも反映したところの、謂わば諸々(もろもろ)の対立的なものを内包しているところの極めて矛盾に満ちた世界観、それが近世町人の世界観であったのである。近世町人文芸は、まさにかかる社会矛盾の、かかる世界観的相剋の一具現であらねばならなかった。内面的洞察を欠いた現実観照、極めて低度の、極めてまずしい認識――町人生活のありかた(ひいてはその水準)を規定するものは、そうしたものだった。かかる町人の生を地盤として生れいでた文芸が、人間の内面的な深みに徹し、人間の内部的な心理を掘り下げようと欲するものでも、そういう個性的心理描写をおこなう事を要求されているものでもなかったのは固(もと)よりの事であった。町人文芸はそうしてまた、はじめからその様な能力を剥奪されている、その種の文芸であったのである。(こうした点にこそ、近世町人文芸が、個性描写 にまで発展し得ないで、遂に類型描写 の埒内(らちない)にとどまらざるを得なかったことの一般的根拠がある。)之を取材的な点からすれば、彼らの文芸が、謂ってみれば「町人の文芸には町人自身の生活を」(前掲)といった要求へのヨリよき応答を目指すものであった以上、その対象となるべきものは、経済生活的諸事情であり、好色生活の諸様相であって、決してそれ以外の生活圏に及ぶべき筈のものではなかった。よし武家の生活や古典の世界・神秘の世界などが対象化される様な場合があろうとも、なんらかこれら二つの生活面とのかかわりに於いて、なんらかそれらと共軛(きょうやく)する局面を抽象することによって、だから要するに町人の現実生活との共軛面を対象化することによって、それらの生活圏の再現を企てようと欲しがちであった事はあり得べき必然であった。そうして、その様な生活面における生活者として描かれるに至った人間が、乃至(ないし)は人間と人間との関係が、何ら内面的生に裏づけられることのない人間の姿として、なんら内面的な生の交渉をも有(も)たぬ人間のかかわりとして再現せられている、ということの意義は、嚮(さき)にも述べた様に、町人文芸の描写の対象となった素材としての「人間」が、読者が、作家が、凡(すべ)て「町人」という具体的な歴史的人間 であった、という視点を獲得する事によってのみ、まっとうに理解され得るものなのである。
 われわれは、町人文芸のかかる否定面を見遁(のが)すことはできない。彼ら町人の文芸は、それを規定する歴史的社会的諸条件の故に、やがて享保期を経て全(まった)き自己否定の文芸へと転落していくべき宿命を負うものであった。が、しかし、この時期における町人文芸は、こうした矛盾をそれ自身のうちに孕(はら)みながらも、兎も角将来に対する充分の見通しをもち得ていたのであり、輝かしかるべき明日への発展を予約されていたのであった。そうして、かかる発展性を自らに約束づけようがためには、この場合、彼らとして可能な限りのリアリズム(それは所詮否定的なリアリズムの了らざるを得ない宿命を負うものではあったけれども)に拠って、自らの生活現実との血みどろな格闘をおこなう可(べ)きであった。いいかえれば、自己の「生活」の積極面を飽くまで前面におし出し、それを町人プロパアな世界観的立場に統一づける事によってレアルな描写を敢行すべきであった。そうして、兎も角も談林派の俳諧、わけても西鶴の句作に於いてその様な試みは着々と実践されていたのであった。しかしながら、西鶴の俳諧において示された彼の現実観照の態度は、しかくレアルな視角によって統一され、謂うならば町人本来の市民的世界観によって裏づけられていたにも拘らず、そうしてまた、事実そうした視角からなる題材の選択もおこなわれ、新しい現実内容の再現が企てられていたにも拘らず、かかる現実内容が、完(まった)き写実主義的創作方法による表現をもち得なかったという事、それが俳諧文芸の内容として定着し切れなかったという事、その事はいったい何をもの語るであろうか。しかも、町人文芸のまっとうな殆ど唯一の進路であるべき町人生活の積極面――経済生活と好色生活とに於いてのみ発揮され得たところの彼らの市民的本来性――の肯定的なとり上げが(兎も角も談林派の俳諧にあっては遮二無二(しゃにむに)敢行されていたところのそうした取材の態度が)、遂に蕉門俳諧によって継承され、発展せしめられる事なしに、やがて「炭俵」の示す様なありかたに於いて近世俳諧の「完成」の姿をみるに至った、という一見不可解な現象を、そうして、西鶴がその句作に際して結局概念的・抽象的にしかとり上げ得なかった町人生活の真新しい諸様相が、彼の浮世草紙に於いてもののみごとに具象化され、写実的・具体的に描き上げられていったという現象を、いったいわれわれは如何(どう)いう意味において理解したらいいのか。
 これらの問題は、西鶴・芭蕉らの個人的な素質・天分について如何様(いかよう)に比較論評してみたところで、また彼らの創作心理をどう追い廻してみたところで解決され得べくもない事は自明であろう。時代的環境の相違、といった抽象論をもってしてなんら妥当な結論に到達しえないという事なども、も早説明を要せずして明かであろう。芸術・文芸の生成・発展は、作家の個人的偶然などによって左右され得るものでは決してないのだから。これらの問題については、私が、前二章において繰返し繰返し論じて来たところであった。そして今は次のことを云い添えておけば事足りよう。芸術・文芸が、その本質において歴史的制約から自由な、したがって他の文化諸形態とは根本的にその質を異にした神秘的なものであるかに、それが普遍的人間的な問題を問題とし、〔補註 五〕人生永遠の相に触れる神秘性によって裏づけられているものであるかに迷信する事によって導かれたのが、文芸の偶発性への誤まれる理解であった、ということを――
〔補註 五〕 文芸が、何らか人間の問題を問題とし、なんらか新しい問題を読者に向って提供するものであるとは確かにいわれる。したがってまた、文芸作品に表現され、そこに提供されたところの問題が単なる事実としての問題ではなく、問題とされなければならない問題であるとも確かに云われうる。しかし、その事は、文芸に表現された問題が、普遍人間的な問題だということを決して意味しはしない。(たといそれが空前絶後の大作だとか、百世に生きる傑作だなどと云われる札付きの作品であったとしても私の論脈は変らない。)この場合、見落してならぬことは、問題なるのものは、歴史の基礎づけなしには問題ではあり得ない、ということその事なのである。「新しい問題」といい、「問題とされなければならない問題」という、そうした言葉そのものが、已(すで)に歴史を意識する事なしには使用され得ない筈である。「問題」は個々に歴史的構造をもつ。そして、このことは、作家も読者もひとしく具体的な歴史的人間 である、という点に思いを廻らすことによって、てっとり早く理解され得るであろう。昨今、われわれの学界において論議の対象となっている「鑑賞」の問題なども、かかる点への鋭い理論的反省を試みてこそ、そうしてこそ、はじめてまっとうな 解決の端緒を捉え得るのではあるまいか。
〔註三〕 拙稿「永代蔵の成立過程」(文学・前掲)五七-五八ページ参照。
〔註四〕 同右、五八-五九ページ参照。


         

 そこで愈々(いよいよ)われわれの解答を展開すべき順序に至ったのであるが、嚮(さき)に私が貞徳と西鶴とを比較するに当って問題にした様に、ここでも西鶴と芭蕉との世界観が先ずもって問題にされなければならない。
 凡そ作品制作に際しておこなわれるところの題材の選択・取材の仕方といったものが、主体的には、作家めいめいがめいめいの現実体験をとおして与えられた視角によって統一されている、という事は云うまでもない。したがって、その作家が、何を問題にし、それを如何いう仕方で問題にしているかによって、いいかえれば、彼の現実認識の態度・方法によって現実のどの様な面がどの様に抽象されるかが決定される。かかる抽象作用は、だから竟局において、作家の世界観によってその働きを制約される方法的な操作であらねばならぬ。ところで、それが作品として表現をもつ場合、(作品そのものがなんらか読者への働きかけを予想して製作されるものである以上、)その表現の技術は、必然的に予想された一定の読者――享受者層のありかたによって制約される。文芸が、作家と読者との共軛(きょうやく)した体験の面において「場」を構成するものである以上、そうなのである。(文芸作品は、作家と読者とのミット・アルバイト[Mitarbeit 共同作業]であるという云い方は、こうした意味で語られる限り正しい。)そうして、このことは、またジャンルの問題にかかわっている。どの様なかかわりなのか。
 西鶴が、その句作において示したところの取材の仕方が、彼自身の進歩的な市民的世界観によって制約されている、という点については前にのべた。しかし、この場合、それらの句は、彼の世界観が命ずるところの創作方法によって完(まった)く処理し切られているとは云い難いものであった。そして、西鶴のその様な制作態度は、俳諧に関する限り浮世草紙作家として現前しきたった天和二年以後の句作に於いてすら、一貫して変らぬものであったのであり――そのとき彼は、浮世草紙の制作に完き写実主義的創作方法を実現させつつあったのである――、行きつく処、やがては蕉風のそれにも近い境地へと沈湎(ちんめん)して行くものでさえあったのだった。西鶴の俳諧にみられる表現の概念性、そうしてまた破格・奇調、こうしたものを、現実面の未成熟・町人の現実観の未成長、ひいては彼の世界観の浪漫性・概念性等々に基くものとして、だから要するに上昇的ロマンティシズム文芸の一般的特性をいいあらわすものとして概括することは十分可能であろうし、それはまた極めて至当な企てでもあろう。しかし、そう概括する事はわれわれにとってさまで困難なことではない。われわれの困難は、(殊更(ことさら)天和二年以後の彼の俳諧に対峙した場合)俳諧師西鶴と浮世草紙作者西鶴とのかかる矛盾・乖離(かいり)を如何に理解すべきかにある。西鶴の試みた生活現実面への取材が、彼自身に於いては固(もと)より俳諧史上に、なぜそれ以上に発展性をもち得なかったか、という点にかかっている。……かかる現象に対する解決の鍵は、俳諧文芸のジャンルとしての特性と作家の世界観(またそれによって制約される創作方法)とのかかわりを問題とし、それへの省察をおこなう事のうちに覓(もと)められるのでなければならない。

 俳諧文芸の形態的な特性を形づくるもの、それは云うまでもなく、和歌・連歌このかたの短詩形態を貫く作法上のしきたりであった。連歌を母胎として生れいでた俳諧は、発句は固より連句にあっても、五・七・五および七・七の十七音・十四音を基調とするところの、特定の制約を負う短詩形としてあらねばならなかったのであり、殊更に発句の制作に際して「季」を無視し去るなどいう事は、詩感として已(すで)に許され得ないという迄の、決定的な伝統を形づくっていたのであった。ところで、「季」なるものは、夙(つと)に近藤先生によって鮮かな概括が試みられている様に、『和歌・連歌をつなぐ長い伝統の中に自(おのずか)ら生じて来た約束であり、それは「自然の風物」といふ比較的 に変移の少い対象から、人々が長い時代の間に同じ様な経験を汲み取りつゞけて来た結果、人々にとつての共通 の予備知識・予備感情として、一般に承認されたものが、一つの「規約」として打ちたてられたものに他ならぬ』*のであり、したがって、それは、事実、自然観照の句を制作するに当っては十分積極的な役割を担当するものであり得たわけである。(こうした点にも蕉門俳諧の成長性を約束づけた技術的条件をはっきり看て取ることができよう。なぜなら、後に述べるように、彼らの俳諧は結局自然観照を建前とするものであったのだから。)そうして、また、かかる短詩形態によって自己の感情を吐露しようがためには、何らか「季」のごとき規約を前提とすることを避け難いものにさえしていたのである。しかるに、西鶴らの再現を企てていたところの生活現実面のとり上げに対しては、かかる規約はネガティヴなはたらきをこそすれ、決して積極的な援助を与えるものではあり得なかったのである。(西鶴の俳諧が、その付句にも増して発句において概念性を著しいものにしていた、という事はひとのよく知るところであるが、そのような彼の俳諧に特徴的な現象も、叙上の理由からして極めて自然に理解することができる。)殊更、十七音節・十四音節の短詩形そのものが新しい現実内容を盛るべく最適のジャンルであるとは云い難いものであることに加えて――。いいかえれば、近世新興町人の社会が(彼らの新興商業ブルジョアジィとしての生活のありかたが)必然的に齎らしたところの生活内容(市民的現実内容)は、所詮貴族文芸としての和歌・連歌の伝統的制約のもとに成立つ俳諧文芸形態をもってして再現し切ることのできない、必至的に散文形態を要求するに至るところの、特定の歴史的構造を有(も)ったものであったのである。近世俳諧は、謂わば生れながらにしてかかる一定の限界性をそれの発展のうえに条件づけられている宿命的なジャンルであった。西鶴の世界観が彼に命ずるところの創作方法は、しかしながら、かかる敗北的なジャンルをとおして全き発現を期待することはできえない。どのようなジャンルが優位性を確保し得るかは、各々の文芸時代の、それぞれの歴史的構造性によって具体的に規定されているところの問題であり、ジャンルを制約する伝統の覊絆(きはん)は、作家の主観的努力など様のものによって断ち切られ得べくもないものであるのだから。
* 「談林俳諧の成長とその限界」(俳句研究・昭和十年六月号)
 こう見てくれば、近世俳諧の、町人文芸(市民文芸)としてのまっとうな発展が、西鶴の俳諧が示す様なありかたに於いて限界づけられたということの、また、それ以上に発展の可能性を孕むものでもあり得なかったということの経緯を、一つの歴史的必然として理解することができる。そうしてまた、西鶴は、天和二年「好色一代男」の制作を機として漸く浮世草紙に主力を注ぐに至るのであるが、そのことは、主観的には如何(どう)あろうと客観的には、近初七十年の浪漫的蕩揺(とうよう)期を閲(けみ)した延宝・天和の町人文芸が、ここに一歩現実主義の段階に到達するに及び、漸く小説ジャンルに優位性が確保されきたったことの、したがってロマンティシズムからリアリズムへの発展に伴う一つの文芸史的現象 に他ならぬものであった、という事なども、かくしても早おのずから明かであろう。西鶴が、浮世草紙作家としてその創作技能を十全に発揮し得たということも決して偶然ではなかったのである。〔補註 六〕
〔補註 六〕 「西鶴は生れついて小説家肌の人間であった」といった云い方も、こうした意味において語られる限り正しいものであり得るだろう。素質 なるものがディナミッシュ[動的]に把握されている、という意味において――。ディナミッシュに理解される限り、素質は世界観との緊密なかかわりに於いてあらねばならぬものなのだから。世界観とのかかわりに於いて把(とら)えられてこそ素質も、はじめて具体的な姿をもって現れ、われわれの問題の対象ともなり得るのである。(そしてわれわれが問題にして意味のある「素質」「天分」というのは、こうした文脈における素質であり、天分だけなのである。)……ところが、一般に「西鶴は詩人的素質に恵まれていない男だ」とか「彼は所詮小説家肌の男だ」とか云われる場合、素質は、なんらか静的・固定的なものとして考えられているのではないか。いいかえれば、古代から現代に至る作家たちを十把一からげにして、詩人型・小説家型といった無意味な色分けをおこなって居るのではないか。近世俳諧の特性をも近代詩の特性をも凡(すべ)て無視し去って、だからジャンルの歴史的意義などははじめから切り棄ててしまって。そういう結果は、西鶴が詩人的素質に欠けていると云われることが彼の芸術家としての尊厳を傷つける事でもあるかの様に思い込み、彼の晩年の句などをかつぎ廻って、ひたすら西鶴の詩人的素質のための、ひいては彼の芸術家的十全さのための弁護にうき身をやつしたりする事になるのではないのか。(そうして、私に云わせれば、彼が詩人的素質に乏しい人間だとか、いやそうではないとかいう事をいくら論じ合ってみたところで、それは所詮なんの役にも立つものではない、という結論になってしまうのであるが。)いまひと言付け加えれば、こうした種類の論議は、西鶴がもっと詩人的天分に恵まれた作家であったら如何いう結果をうんだろう、といった「クレオパトラの鼻」を地でいった論と壁一重の間柄に在るものだ、という事なのである。
 ところで、われわれは、次に、西鶴によってともかくも俳諧文芸のうちに獲得された市民性が、なぜあの様なかたちで蕉門によっておし斥(しりぞ)けられたのであったか、また、西鶴自身なぜあの様な後退ぶりを晩年の句作に示したのであったか、という問題の解決に迫られてくる。……結論を先に出してしまえば、それは、延宝-元禄期のリアリズムの文芸時代において、小説ジャンルに優位性が確保されるに至ったことの反面、俳諧文芸が形態的な敗北性を露わなものにしきたったことの具体的ないいあらわしに他ならなかったのである。そうして、そのことは、(前述の)近世社会のありかたを規定する歴史・社会的条件にかかわる問題なのである。以下において、私は、こうした結論を導きだすに至る道程に瞥見(べっけん)を与えることによって、ひと先ずこの章の叙述を了ろうと思う。

    うしの跡とふらふ草の夕くれに           芭蕉
     箕(み)に鮗(このしろ)の魚をいただき       杜国 (冬の日)
    方々に十夜の内のかねの音            芭蕉
      桐の木高く月さゆる也              野坡
    門しめてだまつて寝たる面白さ          芭蕉 (炭 俵)

 これらの句が示すところを以ってしても明かな様に、蕉門俳諧は、現実の生活に対しては眼を背けたところの、ひたすら自然観照を建前とするところの、謂わば現実遊離の、非生活者的態度によって貫かれたものであった。そのことは、すくなくとも蕉風を蕉風として特質づけるに至った「冬の日」以後の各集について云われていい事だった。芭蕉の句作にあっては、よし人間の姿が描かれる場合があろうとも、それは決して「生活者」としての人間の姿ではなく、

    しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮
    狂句木枯の身は竹斎に似たる哉(かな)

 これらの句にいいあらわされている様な、自然の一点景としての人間、若(も)しくは「門しめてだまって寝たる面白さ」の境地をひとり楽しむ人間の姿に於いてであった。もとより

    手のひらに虱(しらみ)這はする花の蔭

のような卑俗味に生きる句も少くはなかった。「こそこそと草鞋(わらじ)を作る月夜ざし」(凡兆)の句に「蚤(のみ)をふるひに起(おき)し初秋」と付ける彼でもあった。そうしたところに、流石(さすが)元禄人芭蕉の姿が窺われもするのだけれども、しかし芭蕉(ひいては蕉門俳諧)の場合、卑俗味の現れも、結局上掲の句が指し示す底(てい)のものであって、決してそれ以上に突込んだものではあり得なかった。いいかえれば、西鶴にその典型を見出し得るような、町人プロパアな世界観によって裏づけられた卑俗味ではなかったのである。そうして、「手のひらに」の句に於いてさえはっきり読みとることができる様に、蕉門の俳諧は、なんらか情趣的なるものへの追求的態度に生き抜こうとするものであったのである。
 芭蕉らのこの様な態度は、彼らが『当時としての新時代的な生活者でなく』『前時代的な物の考へ方』『農民的な考へ方の代弁者であつた』(近藤忠義氏前掲論文)という点に理由をもつものなのであるが、しかもかかる旧時代的・農民的世界観によって色濃く彩(いろどり)なされた文芸が、最も輝かしかるべきリアリズムの文芸時代に於いて、ともかくも町人文芸の一翼として存立し得たことの社会的根拠は、たといそれが擬制的なものであったにしろ、この国の近世社会にあっては、封建制度が厳として存在していたということ、すなわち、武士支配を可能ならしめる物的条件が跛行(はこう)的にではあるが、ともかくも存続し得ていた、という点に覓(もと)められなければならない。浮世草紙の読者層を形づくる人々の多くが京阪の都会人であったろうことは想像に難くないのであるが、それと対比的に、蕉門が、郷士・地主農民層等々による地方的地盤の上に活動したということは、かかる観点からして興味ふかい現象であった。(ということは、西鶴の浮世草紙が都会人士にだけ読まれたという事を云うわけでも、蕉門の俳人中に都会生活者―町人の存在することを障(さまた)げるわけのものでもない。問題は、それが現実の町人 〔或は農民〕であったか否かに存するのではなく、それぞれの文芸形態がそれぞれ市民的世界観の所有者により、農民的世界観の所有者によって支持されていた、という点にかかっているのである。)
 処で、「冬の日」(貞享元年)に独自的な詩の世界を現前させた蕉門の人々は、更に「猿蓑」(元禄三年)「炭俵」(元禄六年)等に至って自らの詩境をより深いものに、謂うところの軽み の境地にまで掘り下げて行ったのであるが、そのことは要するに、彼らが自らを現実からますます遊離させてゆき、上述の「非生活者」的態度をもってひたぶるに自然観照にその身をうち込んだことの結果をいいあらわすに他ならず、したがってまた、俳諧文芸を町人文芸の軌道の外におし出した という事を指し示す以外のものではなかったのである。(蕉門俳諧のかかる「発展」を、われわれは、モラルの深化の過程としてみる。しかし、モラルが深化したという事、そのことに意義があるのではない。そうである限り、蕉門俳諧における詩境の進化の過程を、言葉の正確な意味での発展 と呼ぶことはできない。――〔補注 三〕参照)かくして、蕉門俳諧の、俳諧史上に、また近初町人文芸史の上に遂行したところの歴史的役割は、西鶴の俳諧や浮世草紙の多くが果したような積極的・前進的なそれでは固(もと)よりなく、町人の生活意識・感情をひたすら消極的・退嬰(たいえい)的なものに組織する、謂わばそういった反歴史的なものであったのだった。西鶴によってひと度はおし斥けられた和歌このかたの伝統――王朝貴族的な花鳥風月趣味・中世末流貴族的な寂(さ)びの趣味等々によって構成されるところの――は、ここに再び芭蕉らの手によって「復活」されるに至ったのであった。しかしながら、伝統の復帰 なるものも、或る種の人々の考えているように、単なる世代的〔周期的〕回帰として現象するものでは決してない。その様な伝統の復活を要求するに至る必至的な事情を当該社会がうちに孕むことなくして、かかる現象は決して現象しはしない。そうしてまた、伝統が再び省みられるというとき、伝統が伝統として固定し、動かし難いものにされるに至った当初の〔過去における〕歴史的意義と必ずしも同一の意義において省みられるとは限らない。(「復活」された伝統が、どのような役割を当該社会に分け有(も)つかという事は、それがどの様な要求のもとに、どの様な意味に於いてとり上げられていったか、という唯その一事によって制約されているのである。)和歌の伝統は、かくして、自らを育てあげたと共通の地盤――封建的社会地盤の上に、特定 の社会的要求の一具現として蕉門俳諧のうちに復活されるに至ったのであった。(芭蕉一派が、所詮伝統の制約のものとに於いてのみその機能を十全に発揮し得るところの俳諧文芸にひたすらその身をうち込んでいったという事が、ひとえに彼らの世界観内容のありかたによって規定されているという点についてはも早贅言(ぜいげん)を要しないであろう。)蕉風が、「猿蓑」から「炭俵」へと愈々(いよいよ)退嬰性の深みに堕していった元禄三年-六年の一時期は、とき宛(あたか)も、社会矛盾の進展に伴い、西鶴その人すらもが「町人鑑」「置土産」等々に漸く諦念的・消極的な態度を露(あら)わなものにし来(きた)つていたときだった。(「町人鑑」については拙稿「本朝町人鑑試論」(立命館文学前掲号)を、「置土産」については後に発表する「西鶴置土産論稿」をそれぞれ参照せられたい。)西鶴晩年の俳諧が蕉風化されるに至ったという事も、そうしてまた、かかるときに当って蕉門俳諧の「円熟」が示されるに至ったということも、かくしてあながち偶然な現象ではなかったのである。
 以上数章にわたって、近初町人文芸における詩・小説それぞれの形態的特性(機能)について、及びそれら各文芸ジャンルを支持するそれぞれの享受者層の世界観内容や身分関係などについて考え、傍(かたわ)らそれらとのかかわりに於いて作家と世界観の問題・世界観と創作方法の問題等々にふれてゆき、そこに貞徳・西鶴・芭蕉三者の比較論を展開させることによって、西鶴の俳諧が近世俳諧史のうえに刻印したところの歴史的役割を、彼が浮世草紙作家へと転身を遂げるに至る間の経緯を、そうしてまた、文芸の生成・発展の合則性をひたすら追求し続けてきたのであった。そうして、兎も角もこれまでの処で、叙上の課題に対する一応の解答を用意しえたかと思う。しかし、残された問題も決して少くはない。西鶴の俳諧に示された「古典的遺産の摂取」が、彼自身の浮世草紙の制作に於いて、どのような成果を齎らし得たのであったか(いいかえれば、それが、浮世草紙の成立のためどの様な技術的条件を約束づけるものであったか、という事)、そうしてまた、それはどの様なかたちに於いて蕉門俳諧に受け継がれていったのであったか、例えばそういった問題なども――。が、今はそれらの問題にかかわっているだけの余裕を全く与えられていない。したがって、ここでは唯単に、西鶴の俳諧は、彼自身の文芸的発展の上からすれば、だからまた浮世草紙の生成を焦点として観察すれば、彼の小説活動のための一つの文芸的基礎経験を、技術的地盤を用意するものであった、という事などを(前三章の考察をとおして)概括し、補足しておくにとどめよう。(諸々の俳諧的技巧が、浮世草紙的表現技術に統一づけられつつ縦横に駆使されている、という実例を、われわれは、彼の小説の全作品系列にわたって極めて夥(おびただ)しく見出すことができる。――第三章参照――
 ところで、私は、嚮(さき)に、町人文芸がそれの市民的本来性を十全に発揮しようがためには、必至的に散文形態をその表現媒材として要求するに至るべき筈のものであった、という事について語り、また、リアリズムの段階において小説ジャンルに優位性が確保されるに至ったことの必然性について語ったのであったが、かかる要求の発現としてとり上げられるに至った散文なるものが、いいかえれば、西鶴が「好色一代男」その他の制作に際して、採ってもって自らの糧(かて)としたところの散文形式が、謂うところの純文芸 的小説体ではなくして、直接的には 遊女評判記・遊離案内記・地誌・名所記〔旅行案内〕等、当代町人の日常生活的要求(必要)に応えることを目指した実用的制作 に限定されていた、という事情は、芸術・文芸の生成の問題に対して可成り大きな、そうして有力な示唆を投げかけているように考えられる。
 私は、最初、評判記・名所記等の展開を歴史・社会的に跡づけていきながら、それらの性質をいま少し具体的に考えてみ、そうした手続きを完了したうえで、「好色一代男」その他とこれら実用的諸制作との、ひいては仮名草紙の諸制作や西鶴の俳諧などとの関係(繋(つなが)り)を実証し、そうした操作をおこなうことのうちに自ずと右の問題に触れていくことを予定していたのであったが(そうしてまた、そういう手続きを抜きにするわけには行かないのであるが)、も早所定の枚数も遥かに超越している始末であるから、結論的に、さし当って必要な次の一事を指摘おく[ママ]にとどめよう。
 明暦――延宝期の仮名草紙は、概括的にいって、已(すで)に過去の文芸遺産の継承の段階を了え、古典形式を肉体化することによって、漸(ようや)くそこに町人文芸らしい表現技巧を散文形式に齎(もた)らしていたのであった。教訓物にもしろ評判記にもしろ、これら仮名草紙が実現させたところの形式は、しかも当代町人社会のありかた(現実内容)によって規定されたところの、いいかえれば、凡(すべ)て当代町人の実生活的必要(要求)に応えんがために急速に生産されたところの、謂わば実用芸術 の形式であった。かかる散文体が、やがて浮世草紙生成の地盤となり、それらが獲得していた表現技巧が浮世草紙的構想のもとに統一されて「好色一代男」の成立をみるに至るのである。われわれは、そこに、新興町人の文芸が、それの最後の仕上げを、謂(い)うところの芸術的に洗練された (われわれの言葉でいえば複雑な技巧を用いた)しかしながら没落的な意識・感情によって貫かれた中世末流貴族文芸(無いしその亜流的作品)によっておこなうことなく、飽くまで自らの上昇的浪漫主義の世界観に裏づけられた文芸様式(町人文芸様式)――それは固(もと)より素朴な技巧をしか用意していないものであった――に拠ってなし遂げた、という事実をみるのである。このことは、啻(ただ)に新興町人文芸の生成がかかる事態において現象したといった、唯それ丈(だけ)のこととして片付けてしまう事のできない重大な問題を孕(はら)んでいるのではないのか。文芸の再建の問題が問題とされている今日、そうして、かかる問題を問題としているわれわれにとって、先ずもって反省されなければならない根本問題を、それは提示していはしないか。われわれの目指すところの文芸の再建が、果して純文芸の「再建」などであっていいのか、真の「文芸復興」の大道はどの様な基線に沿って切り拓かるべきか、等々々……。人は、批評家が「文学する」人間の苦悩に対して余りにも無理解であるという事を語り、批評家の迂遠さについて屡々(しばしば)嘲笑的な言辞を弄する。職業文壇人同士の、かかる掛合いは私の関知せざるところである。私の云いたいのは、「文学する」ことの意義について、今の芸術派の作家たちは、一応も再応も鋭く反省してみなければならない時機に遭遇しているのではないか、という事なのである。それは一応「文学以前」の問題である。しかし、また文学以後を、文学する方法を決定する問題でもある。そうして今は、また、かかる文学以前への反省を最も必要とするとき ではないであろうか。
本稿に於いてとり上げた偶然論の問題への補考として、また主として第四章に於いて問題の対象とした蕉門俳諧への追考として「俳句研究」三月号・拙稿『洒落風俳諧の史的位置』を参照して戴ければ、いちばんしあわせである。
 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より