箔のついてきた西鶴論 熊谷 孝 |
法政大学国文研究室「国文学雑誌」4-1(1936.6)掲載--- |
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*漢字は原則として新字体を使用した。 *引用部分以外は現代仮名遣いに替えた。 *傍点の部分は太字・イタリック体に替えた。 *明らかに誤植と判断できるものは訂正した。 *難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。 |
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ここで、さし当って問題の手懸りとして取りあげようとするのは、「早稲田文学」大正六年七月号に掲載され、〔註一〕 再び、西鶴記念号として特集された同誌大正十一年十月号に採録されている田山花袋の『西鶴小論』である。私は、しかしながら、ここで花袋の西鶴論を、作家花袋を(もしくは彼の作品を)理解する手だてとして眺めてみようとするのでも、西鶴研究史の資料として取り扱おうとするのでも、また、性急にも素朴に、二昔(ふたむかし)も前に書かれた西鶴論を西鶴研究の現段階にまで引き摺り下して「批判」〔註二〕を加えようと企てているのでも、もちろんない。ひとえに次のような事情が、私の、この論考にたいする関心を喚び起したに他ならない。すなわち、それが、当時一般に西鶴研究家――国文学者たちによって好意的に迎えられたもののようであったし、とりわけ人々のその後の西鶴研究の方向を全般的にとはいい切れないまでも、かなり明瞭に花袋張りなものに規定していっているという事情なのである。そして、私の最大の関心は、そういう花袋流の西鶴論の血統が、いまになお人々の西鶴研究の態度のうちに脈々たる繋(つなが)りをみせている、という事態にかかっているのである。そこで、空ら廻りなようではあるが、一応『西鶴小論』の論脈を辿りながら、いまは古びたこの論稿にこそ却(かえ)ってその典型を求めうるような、西鶴研究上の、おしなべて国文学研究上の、今日的な問題の二三を拾いあげてみよう、と考えるのである。 〔註一〕 西鶴記念号所載同稿末・編集者付記による。『西鶴小論』の第一頁は、以上のような章句をもって綴られている。それらからして、私たちは、浮彫りのようにくっきり刻まれた人間西鶴の、芸術家西鶴の、姿に、輪郭に触れえたような思いがする。だが、この西鶴の肖像も、結局、作品に投影された西鶴の人間としての、芸術家としての姿の断面々々の抽出に他ならぬものなのだし、そういう抽きだし方が、そういう風にして捉えられた「西鶴」が、また、花袋自身の観方(視角)に統一づけられて、花袋らしい眼鏡を通して捉えられた西鶴であることも当然すぎるほど当然なことなのだ。そこには、たえず作家花袋の眼が、いかにも作家らしい眼が、はたらいているのだ。『渠の性情が……心境が、渠をして長い日本文学の中に、かれ独特の創造に姿と心とを刻むことが出来た』というあたりに、単なる作品の享受に止まりえない、作品の背後につねに作家の姿を、創作にその身を打込んでいた作家の姿を想い泛(うか)べないではいられない、いかにも「文壇人」らしい彼の態度がみられよう。おし進めていえば、そういう彼の言葉のうちに、作家の性格的なものが、結局作品のあり方をどうにでも規定していくのだ、という文学の発展にたいする作家の立場の主張が、つまるところ作家の選民意識が潜められているということをも見遁(のが)しえないのである。 『文反古』に行くと、その因縁観が更に深い。好色物を書き、金を書き商売を書き、武士を書いた渠は此処に来ると三世(さんぜ)因縁と言つたやうな不知不誠界に対する戦慄(せんりつ)を示してゐる。女房を十数人取替へた男の悲劇、鳥の眼をむき出しにした武士の話、それを読んで、誰か深い深い不思議に捉はれずにゐる者があらう。死ぬに死なれず、生きるに生きられず、遂には仏に手を合はした人達が其処にも此処にもゐる。お七を書き、お夏清十郎を書き、女の一代を書いたかれがかうした境にも入つたかと思ふと、短かい年月の中にかれがいかなる方面に心を注いで行つたかと言ふことが点頭(うなづ)かれる。こういう花袋の感想をきけば、どぎついいい方だという風に読みとられたろう嚮(さき)の私の言葉も、も早(はや)あながちないい過ぎとのみは受取れまい。つまり彼にとっては、「五人女」から「文反古」への、そのような展開も、たかだか「短い年月の中に」「多方面に心をそそいで行つた」西鶴の作家的努力にたいする賛美の声を挙げさせただけの事にとどまるのだし、そういう裏には、作家の心境の変化が自然作品の変化を結果し、だからまた、作品のあり方をも違ったものにしていく、という作家本位の文学観がうごめいてさえいるのである。そして、ここで注意しなければならぬことは、そういう心境の変化が、何ものにも拘束されない(註をつけると、「選民である」「およそ一般凡俗とはおのずから趣を異にした境地、神秘的な境地を形づくっている」)作家個人の内部生活の変化として捉えられているという点なのである。いってみれば、およそ歴史などいうものには縁のない(いいかえると、「歴史」的制約などいうものからは全く自由な)人間――作家の姿がそこに刻まれているということなのである。だから、西鶴には、ああいう面もある、こういう面もある、実に多面的な作家だ、複雑な性格のもち主だ、結局そういう結論になってきたりもするのだ。 彼の作には自己が割合に混沌としてゐるのを誰も見る。だから無論若い人達にはわからない……成程(なるほど)そうかもしれない。「若い人達にはわからない」のかもしれない。仕方がないから私なども老境に入るのを俟(ま)とうかとも思うが、兎も角「若い人達に」わかる、わからない、というものいいが、彼の西鶴論が純粋な(!)享受の立場からのそれであることを十分証拠だてているし(尤(もっと)もそういう事は、はじめからわかり切っていた話ではあったのだが)そういう観方をすれば、創作心理を語るに適(ふさ)わしい人は或いは作家であるかも知れないし、事実、彼の言葉は、近代作家に置き換えられた西鶴 の創作心理を鋭く いいあらわすものではあったのである。(わかるわからない、という事の正体がどんなものか、という問題をつきとめる事に私自身の興味はあるのだが、今はそうしている余裕をもたぬ。唯、結論をいうと、「研究者としての私たちにとっては、そんな事はわからなくとも一向痛くも痒(かゆ)くもないのである。」) 今の都新聞に掲載されてゐる三面の艶種(つやだね)の記事、毎日一つづつ巧(たくみ)に書いてある花柳種の記事、ああした気分が西鶴の文章の何処かにある。穿(うが)った鋭い言葉だと思う。西鶴の文を熟読味読した人の言葉だと思う。享受もここまで徹すると馬鹿に出来ないものだとさえ考えさせられる。だか、それと同時に、享受は飽くまで享受であって(或る学者の考えているように)どれほど享受に徹していこうと決して批評〔註三〕に到り得るものではない、つまり、享受と批評とは、操作を異にした全然別個の秩序に属するものだ、という事をも、私自身一層はっきりさせられたような次第である。つまり、ここで、現象は現象として、その限りともかく正しく掴(つか)まれているのであるが、それはそれだけの事である。「ああした気分が西鶴の文章の何処かにある」といった単なる事実の指摘、に止まるものなのだし、現象を羅列した(そして、見遁されてならないのは、「現象を羅列した」ということが、この場合「現象を花袋自身の興味・趣味に任せて排列した」ということを意味している点である)だけの話なのだから。(断っておくが、私は花袋自身を批難しているのでは断じてない。それなのに、こういういい方をしたことの子細はおいおいわかってくる。)そういう現象を捉えることの鋭さという点からいえば、 西鶴が『世相』をあつかつた作家であるといふことは、今では誰でもしらぬものはあるまい。西鶴の作は詩ではない。近松のやうな詩ではない。……従つて、詩がないから主観的要求がないから、かれの作は、ある意味に於いて、ありのまゝである。作者は唯見たり聞いたり感じたりしたことを書いた。その作が割合に『世相』を明かに読者の前に描いて見せることが出来たのである。という言葉や、 これに比べると、近松は凡て正反対だ。近松の芸術は明るい。主観的、要求的である。泣いたり笑つたりしてゐる。かれは真よりも詩を求めてゐる。泣いてもその泣くのがすぐ拭(ぬぐ)はれて晴々しくなつて行く涕泣(ていきゅう)である。笑つてもくすぐつたい笑ひである。私は曾(かつ)て『近松は女に持てた男、西鶴は持てなかつた男』と言つて評した。という言葉などもえぐっている。『かれは近松に比すれば非常に野暮である』という言い廻しと照応して『近松は女に持てた男、西鶴は持てなかった男』といういい方は、論の当否は別として、西鶴と近松との相違点をはっきりさせてくれる。「その主観があるものに捉えられてゐないがために、その作が割合に『世相』を明かに読者の前に描いて見せる事が出来た」そういういい方もきわめて気の利いたものではある。だが、それは矢張りそれだけの事である。彼の西鶴論は、まかり間違えば 性欲は尋常茶飯事だといふ。さういふのが既に尋常茶飯事でないのを示してゐる。又性欲は生死の淵だと言ふ。これがまだ生死の淵でないことを表はしてゐるのである。浅いやうで深く、深いやうで浅く、ある人には遊びになり、ある人には生死の問題になる。かういふ生滅の即不即の性欲の気分を西鶴ほど如実に描いたものはない。そういった身勝手な解釈に堕していくものでさえあったのだから。そこには西鶴の姿に似せた花袋の、漸(ようや)く自然主義を逸脱して宗教的な境地を形づくってきていた花袋みずからの姿があるだけなのだ。 数えたてていけば、こうした例は、彼の西鶴論の中にいくらでも見出せる。だが、いまはそうした事にこだわっている余裕がない。 大分奥歯に物のはさまった様なものいいをし乍(なが)ら『西鶴小論』の論脈を辿ってきたが、慧眼(けいがん)な読者諸賢は、そこに今日の典型的・支配的な作家論・作品論の雛形が示されている、という点に夙(つと)に気づかれたであろう。今日のそういう「研究」がなんらか偏向に陥っているのではなかろうか、という点にも思いを致されたことと信ずる。そこで、私は残された紙数の範囲で一応のしめくくりをつけておきたいと思う。 私は、まえに、思わず洩らした批難がましい言葉に、それが決して花袋自身にむけられた矢ではないという註をつけておいた。それは如何(どう)いうわけなのか。 私たちは、事実「享受者」としての「私」である場合がある。その場合、古典に、古典の章句に感激をおぼえたとする、そういうとき、そういう感激を率直にのべるに何の憚(はばか)る所のないのもいうまでもないことだ。また、作家が、たとえば花袋が、西鶴の作品にうたれ、それに自らの創作の糧(かて)を獲たとする、そういう場合も事実ありうる。(花袋にそういう事実があったか如何かはしらない。単なる譬喩(たとえ)である。)だが、そういう「感激」を古典から受け取ったとしても、それはそれだけの話である。私人としての「私」に関した事柄で、他人の知った事ではないのである。「好色物では、私は一番『一代女』と『置土産』とをすぐれていると思ふ」と花袋はいう。自分には「一代女」と「置土産」がいちばんぴったり訴える、という程度の感想に他ならない。だが、花袋にあっては明かに、自己の主観的な感想が、つまり好き嫌いが、評価の物差しになっているのである。「評価」と感想がごちゃごちゃになっていい筈(はず)はない。だが、花袋がそういういい方をしたとて格別気に障りもしない。彼は所詮よき享受者なのだし、悪い意味で作家なのだから。が、そういう混乱した評価の仕方をそのまま継承した西鶴論者を国文学者たちのうちに見るに及んで、「気に障る」まえに唖然とするものである。救い難いものを感じるからである。ともかく「評価」するということは、作品にたいする私人的な嗜好や興味を才に任せて小器用に並べたてることでは断じてないという点について、そして「価値」という言葉の意味内容について今一応反省して戴きたい、ということを、こういう方々に向って一言申し上げておく次第である。 私たちは、いちばんはじめに、『西鶴小論』が、何よりもまず人間西鶴の、芸術家西鶴の塑像(そぞう)を彫刻することを目指していた、という事実を、そして、そういう彼の問題の立て方の背後に潜んでいるものを指摘したのだった。何かしら、文芸の研究が、一つには作家の性格を把(とら)える事に、芸術家としての作家の姿を明かにする事に目標をおいていたような傾向は、ずい分前から私たちの学界にも甚だしかった。(ということは、花袋について指摘したと同様の根拠が、つまり文芸の生成・発展を作家的偶然に帰するような文学観がまた学界人を支配していたという事をいいあらわすに他ならない。)花袋の西鶴論は、偶然であったかそういう学界の傾向と照応するものだったし、ともかくそういう花袋流の西鶴論は、それ以後の西鶴研究の一つのタイプをつくってしまったような観がある。しかしながら、文芸研究の終局の目標は、文芸作品自体の研究にあるのであって、作品から作家の性格を、芸術家としての面貌を発見することにあるのではないのはいう迄(まで)もないことだ。作家は、作品を理解する資料として、手懸りとして重要視されなければならないけれども、それは飽くまで資料的な意味に於いてであって、文芸研究の究極目的を作家におこうとするのは、ひどい錯覚である。文芸研究は、何処までも作品自体の研究を目ざすものでなければならぬ。(そして、作品の正しい理解は、作品の歴史的構造を問題として追究しない限り、結局完(まった)きものとはなりえないであろう。 問題をもとに戻そう。そういうタイプの西鶴論も、しかしながら、今日ではも早もともと通りの、素朴な形では己れを主張しえなくなって来ている。そこにさまざまなカムフラージュがおこなわれる。うち見たところ鑑賞主義の擬装とは思われぬまでの巧みなカムフラージュが。だが、今でも昔ながらのものいいをした勇敢な、悲壮なまでに勇敢な宣言を案外身近な処にきかぬでもない。「彼が人生に対してもう少し深い批判と、高き理想とを抱いていたならば、更に芸術家として思想家としてゆかしい西鶴を作り出しえたであろうに」といった西鶴への哀惜の言葉として――。素朴な偶然論の命脈は、まだまだ私たちの学界では断ち切られていない。 ともかくそういう昔ながらの作家的偶然への迷信が根深く巣喰っておればこそ、花袋張りな、創作心理追求的な「研究」もおこなわれ、『近松は女に持てた男、西鶴は持てなかつた男』というのと五十歩百歩の現象論も横行しているのである。だが、そういう花袋の後裔(こうえい)を名乗る西鶴論者たちといえども自らの信仰にたいして不安を感じてはいるのだ。或る場合には行きがかり上居直(いなお)り、或る場合には自己の狭い殻に閉じ籠(こも)り、或る場合には擬装してあらわれるという微妙なポォズは彼らの足掻(あが)きと苦悶の象徴である。きわめて悲喜劇的である。 〔註三〕 もちろん私は、ここで文芸史的批評を意味している。 |
(この論文は「文学と教育」bP43(1988.2)に再録されています。) |
‖熊谷孝 人と学問‖熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より‖ |