「永代蔵」の成立過程――町人物の成立と、その意義――      熊谷 孝
  
岩波書店刊「文学」昭和11(1936)年3月号 掲載--- 

  *漢字は原則として新字体を使用した。 *引用部分以外は現代仮名遣いに替えた。 *傍点の部分は太字・イタリック体に替えた。
   *明らかに誤植と判断できるものは訂正した。*難読語句(文字)には適宜、読み仮名を添えた。


 謂(い)うところの町人物の嚆矢(こうし)である「永代蔵」について、それがどのようにして、どのような歴史的条件のもとに制作されたものであったかを、いいかえれば、それがどのような過程を辿って、そうしたすがたにゆきついたのであったかを、追求しながら、やがて、町人物の成立の意義に触れてみようとするのがこの小論の企てである。


        

 「一代男」の成立は、いわれているように、仮名草紙の諸要素を総合・統一することによってなされたのであるが、しかもそれはその生誕とともに、好色物・町人物・諸国咄へと分化してゆくべく宿命を負うていたのであった。いってみれば、「一代男」は、近世レアリズムの歴史的性格の故に、その成立と分化の宿命をその生誕とともに刻印されていたのである。――
 近世レアリズムは、ひとも知るごとく、町人階級が商業ブルジョアジィとしての結成をとげ、自由競争的な段階に踏み込んだことの反映であった。しかしながら、そのようなレアリズムも、卒然としてあらわれ、忽(たちま)ちにして確立されえたものでは、もちろんなかった。仮名草紙の発展のすがたがそうした事実を端的に、具体的に示しているように、新しい世界観への、レアリズムへの努力は、はやくも慶長・元和このかた、彼ら町人のあいだに(それは無意識的なものであったかも知れないけれども)おこなわれていたところだった。近世レアリズムは、まさに、そのようにして近世初頭いらい、人々によってつづけられきたったレアリズムへの(一面からいえば、中世的世界観・武士的世界観の超克への)不断の努力のうえに、しかも延宝・天和のころに於ける物的・社会的地盤の成熟をモメントとして確立されたところの、町人ほんらいの世界観――新興階級のみがもつ輝かしい世界観であった。
 かくして、いまや、個人(市民的人間)の発見が一応可能なものとなったのである(自由競争的な段階にあった彼ら町人は、ひとしく根差(ねざし)ない人間――個人であった筈(はず)である)。けれども、近世社会の特殊的な政治的・社会的諸条件の故に、経済的覇者町人も所詮は被支配階級としての宿命を負うものなのであり、したがって、彼らの現実主義的態度の発揮も、好色生活と経済生活とにせまく限られてしまい、かくして町人にとってほんらい的な個人の自由への要求は阻まれ、歪められ、否定的なレアリズムに了(おわ)ったのであった。もちろん、そうした二つの生活面に於いて、彼らは一応みずからの自由を享受しえたのであったけれども、それすらもが所詮はせばめられた自由であり、形骸的な自由であったにすぎない。ということは、彼ら町人の生活を、けっきょく内面的洞察の欠けたものに了らしめたのでもあった。それと同時に、彼らの認識のありかたをも、きわめてまずしいものにしてしまったのだった。――
 こうした地位にあった町人の文学が、それが彼らの生活現実面のレアリスティックな再現をいいあらわすものであった以上、取材的にいったこれら二つの生活面に制約されてきたのは当然のことであり、また、彼らみずからの生活に内面的なふかさを要求していなかった限り、その努力が現実への視角(態度)の深化を意味するものとはなりえないで、いいかえれば、レアリズムそのものの発展とはなりえないで、ひたすらに技術的な方向をとらざるをえなかったのも自然のいきおいであろう。(いわれているように元禄の文学は、人間復興の文学としてあらわれ、わが文学史のうえに輝かしい一時期を画したのであった。けれども、それがいいあらわす人間発見は、その歴史的諸条件の故に、個別化された人間――個人の発見であるにとどまって、内面的な人間――個性の発見ではありえなかったのである。)このような偏技術的な関心は、みずからの生活をその全体性に於いて取上げえず、さしずめその二つの面を個々に取扱うという制作態度を齎(もた)らしたのであるが、そこに、「一代男」の好色物・町人物への技術的分化がおこなわれることになったのである。それとともに、そうした条件と関連して、彼らの日常生活的な話題(慰み)として最も適(ふさ)わしかるべき諸国咄的なるものを傍系的に派生することになったのである(新興階級としての町人の、飽くことのない知的探究の精神が、ひとつにはそうした珍談・奇談的な話題への要求として表現をもったことも、またありうべきことだった、――もちろん、そうしたところに、ひくめられた彼らの認識水準が示されているのではあるけれども)。
 さて、町人物の成立の過程を追求するのがこの小稿の課題なのであるが、以上に於いて明(あきら)かなように、このテェマは、「一代男」の分化の意義と関連して考えられなければならぬものなのであり、したがって、われわれの考察も、おのずから、「一代男」の分化の過程を跡づけることによって、町人物の成立を触発した具体的な諸条件を明かにするという構図のもとにすすめられなければならなくなってくる。
 まず、手続きとして、「一代男」に於ける経済生活的題材の取上げ方から順次に瞥見(べっけん)を与えてゆこう。
 鼓も優れて、興(きょう)なけれども、跡より恋の責めくればと、そこ許(ばかり)を、明(あけ)くれうつ程に、後には親の耳にも、かしましくて、俄(にわか)にやめさせて、世をわたる男芸とて、両替町に春日屋とて、母かたの所縁(ゆかり)あり、此(この)もとへ銀(かね)見習ふためとして、つかはし置(おき)けるに、はやしに一ばい三百目の借り手形いかに、欲の世中(よのなか)なれば迚(とて)、かす人もおとなげなし、(巻一・「人には見せぬ所」)
 見世門(みせかど)も明(あけ)はなれてそれより、足はやに成(なり)て、路次に走入(はしりいれ)ば、人の目をしのふこゝろもやさし、小娘は親のため、又は我男(わがおとこ)を引連れ、我子を母親にだかせ、姉は妹を先に立(たて)、伯父姪姨(めいおば)の、わかちもなく、死なれぬ命の、難面(つれな)くて、さりとは悲しく、あさましき事共、聞(きく)になを不便(ふびん)なる世や……(巻三・「木綿布子(もめんぬのこ)もかりの世」)
 町人の経済生活面の一端や、私娼の暗い生活裏面などが描かれているのであるが、それらを通じてみられるところの、そうした題材の取上げ方は、町人物に於いて指摘されるような自覚的な取上げをいいあらわすものではなく、いわばそこに彼らの経済生活面の影が殆(ほとん)ど無意識裡(り)に投げかけられている、というにすぎぬものなのである。町人の好色生活が、彼らの豊富な経済力を前提として成り立ったものであり、それの誇示であったとすれば、それと同時に、これら二つの生活が、彼ら町人にとって不可分離の関係にあったのであってみれば、好色生活面の描写にともすれば経済生活面の影がみられるのも、また、きわめて自然であった、といえよう。そうした「一代男」に示されている、角度は、
 其後(そののち)手元にありし、百銭(ぜに)をぬきて、心覚(こころおぼえ)に目の子算用、何の事にもせよ、女郎はせましき事也、大臣此(この)淋しさ、座にたまり兼(かね)て、立(たち)さまに此有様を見て、まづ安堵いたした、勘定あそばす程の、御機嫌なればと、宿へも礼いふて帰(かえり)ける、是(これ)を何とも思はず、人の若いものらしきを近付(ちかづき)、小判がしの利は何程にはまる物ぞといふ、つらへ水懸(かけ)たし……(巻七・「人のしらぬわたくし銀」) 
 という、遊女の幻滅的な半面の描きを取上げてみることによって、一層明かなものとなるであろう。町人物の世界に於いては、無関心に、というよりはむしろ肯定的に眺められているような、こうしたタイプのがっちりした女が、ここでは、「つらへ水懸」けたいまでのにくさげな女として描かれているのである。町人物に於けるそれとはおよそ対蹠(たいせき)的な、こうした描写角度は、取り立てていうまでもなく、「世界の偽かたまつてひとつの美遊となれり」(「置土産」西鶴自序)といった現実諦視の眼をいいあらわすものでは、もちろんなく、好色的享楽の追求に夜も日も明けぬ、そうした町人の生活態度――現実観照の態度が、おのずから齎(もた)らしたところのものであったのだ、と思う*
* 上掲引用の個所以外に町人物の要素として指摘される代表的なものは、「別れは当座はらひ」(二〇頁一二行―二一頁末行)・「髪きりても捨てられぬ世」(二七頁三行―九行)・「うら屋も住所」(三七頁一行―九行)・「出家にならねばならす」・「是非もらひ着物」(四六頁二行―一一行)・「木綿布子もかりの世」(五一頁六行―九行)・「らく寝の車」などである。〔丁付・岩波文庫本「好色一代男」〕
 次に、「諸艶大鑑」について簡単な考察を試みよう。
 老(おい)て後子供の手代の異見にも、彼(かの)誓紙を取出し、悪所くるいにも、よひ程しるべし、ほれませぬといふ起請(きしょう)世になひ事なれども、是にてさへ見捨てがたく、心を尽くし通ひぬ、まして汝等に、今世智賢(せちがしこき)女郎が、指先やぶりて筆を染(そめ)、烏の目の所はよけて、水に酒塩(さかしお)まぜて、裏よりまじない事して、科(とが)からさきへ逐(のが)るゝ誓紙を取て、うれしがるこそあさましけれ、十月廿日は誓文払(せいもんばらい)、たゝ商(あきない)大事にして、何の事もなふ買(こう)てあそぶべし(巻一・「誓紙は異見のたね」)
 其(その)一家(いっけ)の女良(じょろう)五人三人つゝかた寄(より)、何がいふぞと、次の間にさし足して聞(きく)に、頼みにせし男の、家質(いえじち)をなげき、上町(うえまち)の母親 見世(みせ)(まで)来て、呼出さるゝもつらし、禿(かぶろ)も袷(あわせ)時迄 綿入(わたいれ)きせてもおかれず、空が曇れば、長柄の傘(からかさ)なき事をかなしみ、夜は当座買のらうそく、茶も人並につめねばならず、二布(ふたの)も昼の床ははづかしく、万事に付て、此(この)(つとめ)のはじめ情なしといふて……(巻三・「無敵の花車」)
 これらは、いずれも華(はなや)かな遊里生活のかげにひそんでいる暗い裏面の描写であるが、たとえば「誓紙は異見のたね」の、傾城ぐるいにたいする教訓的な口吻(こうふん)だけを取り上げてみても、そこには、「一代男」に於ける西鶴の眼とはおのずから異(ことな)ったものがみられるのである。いいかえれば、「諸艶大鑑」に於いて、西鶴は、「一代男」に於けると殆(ほとん)ど同一の素材を取扱いながら、経済生活面をはるかに意識的に、いわば町人物に於ける彼を想わせるような筆致をもって描き出しているのである。われわれは、そこに、も早「一代男」にみられるような、好色物らしいおおらかな描きを、再び見出すことは出来えないであろう。そのようにして、同一の素材に対する、異った角度からなる取扱いが、そこに示されきたったことには、なんらか理由があるのでなければならない。では、そうした制作態度は、どのようにして齎らされたものであったか。
 好色本禁令の布告などが、好色物的な制作態度を抑圧したであろう、といった機械的な理由も、当然そこに憶測されるところであるが、もしそうであったとすれば、そのことは、西鶴が経済生活面へ眼をむける直接的な動機をなしているには違いないのであるけれども、もっと根本的な、いいかえれば、そうした動機づけをももちきたしたところの、原因が考えられる。それは、取りたてていうまでもないことであるが、町人の経済生活が漸(ようや)く固定化への傾向を示しきたっていたことの、そうした現実のありかたの、人々の意識・感情へのはたらきかけであった。ことさらに、そうした経済面の固定化という現象は、貨幣経済の進展(商業資本の集中化)にともなうそれであったのであり、したがって、それはまた、武士の依拠する物的地盤の動揺をいいあらわすものでもあったのである。かくして、その支配機構の強化への努力は、みずからの世界観の絶対化と、それの彼ら町人への強制というポォズを武士にとらしめることになったのであり、そうした条件のもとに好色本禁令・奢侈(しゃし)禁令等々の、いわゆる禁令の続発も、この時期に於いておこなわれることになったのであった。そのようにみてくれば、「諸艶大鑑」に至って示されきたったような西鶴の現実観照の態度は、まさに、自由競争期を了ろうとしていたときに際しての、人々の、おのずからなる経済生活面への関心の昂(たか)まりをいいあらわすものであり、それと同時に、武士の世界観に織り込まれつつあった彼ら町人のそれを表現するものであった、と考えられるものである。「誓紙は異見のたね」(前掲引用文参照)のうちに、われわれは、そうした現実面の反映をみないであろうか**
 いわば町人物の成立の客観的条件は、徐々に具備されきたったのであった。
** なお、「心を入て釘付の枕」・「花の色替て江戸紫」(一六六頁二段一一行―一七行)・「津浪は一度の濡」(一七九頁末行―一八〇頁一段七行)・「髪は嶋田の車僧」・「男かと思へばしれぬ人様」・「百物語に恨が出る」・「朱雀の狐福」(一九七頁一段一行―一九八頁)・「楽助が靱猿」(二〇六頁一段一行―三段末行)・「心玉が出て身の焼印」(二二一頁二段一行―一〇行)・「忍び川は手洗が越」・「四匁七分の玉もいたつらに」・「釜迄琢く心底」・「勤の身猿の切売よりは」・「袂にあまる心覚」(二九六頁末行―二九七頁一段一六行)・「終には掘ぬきの井筒」(二九九頁一段四行―三〇〇頁一段一八行)等を参照せられたい。〔丁付・日本名著全集「西鶴名作集・上」〕
 こうした町人物への歩み寄りは、「五人女」・「一代女」・「本朝二十不孝」***などに至って決定的なものとなってくるのである。まず、「五人女」を取り上げて、そうしたすがたをながめてみよう。
 おなつも同じ歎(なげき)にして七日のうちはだんじきにて願状(がんじょう)を書(かき)て室(むろ)の明神へ命乞(いのちごい)したてまつりにけり不思義や其(その)夜半とおもふ時 老翁枕神(まくらがみ)に立(たた)せ給ひ あらたなる御告(おつげ)なり 汝我(わが)いふ事をよく聞(きく)べし惣じて世間の人 身のかなしき時 いたつて無理なる願ひ 此(この)明神がまゝにもならぬなり(中略)過(すぎ)にし祭にも参詣の輩(ともがら)壱万八千十六人 いづれにても大欲に身のうへをいのらざるはなし 聞(きい)ておかしけれ共(ども)散銭なけるがうれしく神の役に聞(きく)なり 此参りの中に只壱人信心の者あり 高砂の炭屋の下女 何心もなく 足手そくさいにて又まいりましよと拝(おがみ)て立(たち)しが こもどりして 私もよき男を持(もた)してくださりませいと申(もうす) それは出雲の大社(おおやしろ)を頼め こちはしらぬ事といふたれども ゑきかずに下向しけり……(巻一・「状箱は宿に置て来た男」)
 生れながらの現世主義者であった町人が、神をこのような戯画化した姿に於いてながめていたことも、またありうべきことだった。そして、こうした神の取扱いは、すでにこれまでも、――たとえば「大下馬」の雷神の話(「神鳴の病中」)などに於いて――試みられていたところであった。およそ西鶴の浮世草紙が示しているような、超現実的・非人間的なるものにたいする揶揄的・暴露的な態度は、中世的神秘主義・悲観主義へのアンチ・テェゼをいいあらわすものであり、まさに、新興町人の個人の自由への要求の、それと関連する権威の否定の精神の、積極的ないいあらわしであったと考えられるものであるが、そうした権威の否定が、そこでは、あらゆる「権威あるもの」の人間化――町人化 への方向に於いて表現をもった、ということは十分注意されてよいであろう。(そうしたところに、近世レアリズムがいいあらわす人間発見が、どのような人間の発見であったかを理解するための、一つの鍵が与えられているように考えられる――。彼ら町人にとって、人間〔人間性〕とは、つねに「町人」のいいであったのである。神の人間化とは、いいかえれば、神の町人への還元であったのである。)
 然(しか)も水論(みずろん)は、正保(しょうほう)年中、六月はじめつかたの事なるに(中略)日の照(てる)最中に、ひとつの太鼓なり、黒雲まいさがつて、赤ふどしをかきたる、火神鳴(ひかみなり)の来て、里人に申(もうす)は、先(まず)しつまつて聞(きき)たまへ、ひさしく雨ふらさずして、かく里々の、難儀は、われわれ中間(なかま)の業(わざ)也、此程は、水神鳴(みずかみなり)ども、若げにて、夜ばい星にたはぶれ、あたら水をへらして、おもひながらの日照(ひでり)也。おのおの手作(てさく)の、牛房(ごぼう)をおくられたらば、追付(おっつけ)雨を請合(うけあい)と申(もうす)。それこそやすき事なれと。あまた遣しけるに、龍駒(りゅうのこま)壱駄(いちだ)つけて、天上して、其(その)(あけ)の日より、はやしるしを見せて、ばらりばらりと、痳病(しょうかち)けなる雨をふらしけるとぞ、(「大下馬」巻二・『鳴神の病中』)
 彼ら町人とともにひたすら好色的享楽を追い求めている、そうした神の姿を、われわれは、「神鳴の病中」のうちにみないであろうか。「五人女」に於いては、「散銭なけるがうれし」い神が描かれている。それらに共通してみられるところの町人化された神は、しかしながら、前者にあっては、好色生活面に於ける町人の姿を示しており、後者にあっては、経済生活面に於ける町人のそれをいいあらわしている、ということを見遁(みのが)してはならぬものである。
 さらに、「永代蔵」の、
 折ふしは春の山二月初午(はつうま)の日、泉州に立(たた)せ給ふ水間寺(みずまでら)の観音に貴賤男女参詣(もうで)ける、皆信心にはあらず、欲の道づれはるかなる苔路(こけじ)姫萩 荻の焼原(やけはら)を踏分(ふみわけ)、いまだ花もなき片里に来て、此(この)仏に祈誓かけしは、其(その)分際程に富(とめ)るを願へり、此御本尊の身にしても、独り独りに返言(へんごん)し給ふもつきず、今此娑婆につかみどりはなし、我頼むまでもなく、土民は汝にそなはる夫は田うちて婦(ふ)は機織(はたおり)て朝暮(ちょうぼ)其いとなみすべし、一切の人此(この)ごとくと戸帳(とちょう)ごしにあらたなる御告(おつげ)なれども、諸人の耳に入らざる事の浅まし、(巻一・「初午に乗てくる仕合」)
 と、「五人女」に於ける神の扱い方とを比較すれば、この作品が、好色物から町人物への転機を示すものであることが、より一層明かになってくるとともに、「初午に乗ってくる仕合」の原型が、「状箱は宿に置て来た男」の、そうした描写角度・取扱い方・筋のはこびなどのうちに示されていることが指摘されるのである。
 毎日の届文(とどけぶみ)ひとつの山をなし紋付の送り小袖其まゝにかさね捨(すて)し三途川の姥(うば)も是みたらば欲をはなれ高麗橋の古手屋もねうちは成(なる)まし 浮世蔵と戸前に書付(かきつけ)てつめ置(おき)ける 此たはけいつの世にあかりを請(うく)べし 追付(おっつけ)勘当帳に付(つけ)て……(巻一・「恋は闇夜を昼の国」)
 遊里生活の描写であるが、そうした生活面すらもが、殆(ほとん)ど町人物の世界に置き換えられてながめられていることなどについては、ことさらに取りたてて説明するまでもないであろう。煩わしいから引用することを避けるが、「してやられた枕の夢」(巻三)・「身の上の立聞」(巻三)・「小判しらぬ休み茶屋」(巻三)などを取り上げてみれば、それらと町人物との緊密な繋がりが明かなものになってくるのであり、また、その各巻各説話随所にそれと同様の関係――町人物の要素――を指摘することができるのである。
 さらに、「一代女」についてみれば、ヒロインの好色生活につき纏(まと)う暗い影――経済生活的裏面の描写が、その全巻全説にわたってきわめて夥(おびただ)しく、しかも意識的に試みられているということが、まず、指摘されよう。その代表的なものを一二例示すれば、――
 そもそも奉公人の肝煎(きもいり)渡世とする事、捨金(すてきん)百両の内拾両とるなり、此の十両の内を又銀にして十匁使(つかい)する口鼻(かか)か取(とる)ぞかし、(中略)其女(そのおんな)御奉公済(すめ)ば銀一枚とる事なり、(巻一・「国主の愛妾」)
 男ありなしにかぎらず目にたゝぬ色作りて、相手次第の御機嫌をとりて、浮気を見すまし酒の友にもなりて、其跡(そのあと)は首尾によりて分(わけ)もなき事、世をわたる業とて胸算用(むねざんよう)して、たとへば九匁五分の抱帯(かかえおび)一筋十五匁に売(うる)も、買人(かうひと)も其(その)合点(がってん)づくなり、(巻五・「美扇恋風」)
 この作品が、西鶴の町人物への転機を示すものであることは、さらに次の比較によって明かになるであろう。
「一代女」(巻四・「身替長枕」)
 大坂はおもふより人の心うはかぶきにして、末の算用あふもあはぬも縁組くはれいを好めり、娘の親は相応よりよろしき聟(むこ)をのぞみ、むすこの親は我より棟のたかき縁者を好み、取むすぶより無用の外聞斗(ばかり)をつくろひ、聟のかたには俄普請(にわかぶしん)嫁のかたには衣類をこしらへ、一門の女談合(だんこう)よろづおもはく違ひ内證ふるふて百貫目のしんだいの中より、敷銀拾貫目入用銀拾五貫目、それのみならず(中略)親類つきあひ彼是(かれこれ)隙なくいつともなしに、目には見えずして金銀へらして、娘縁に付(つき)てよりしんしゃうつぶす人数をしらず、
「永代蔵」(巻一・「世は欲の入札に仕合」)
 世の風義をみるに手前よき人表むきかるう見せるは稀なり、分際より万事を花麗(かれい)にするを近年の人心 よろしからず、嫁取時分のむす子ある人はまだしき屋普請(やぶしん)部屋づくりして、諸道具の拵(こしらえ) 下人下女を置添(おきそえ)て富貴に見せかけ 嫁の敷銀を望み商(あきない)の手だてにする事 心根の恥(はずか)しき 世の外聞ばかりに をくり迎ひの駕籠(かご)、一門縁者の奢(おごり)くらべ無用の物入かさなりて、程なく穴のあく屋根をも葺(ふか)ず家の破滅とはなれり、或(あるい)は又娘持(もち)たる親はおのれが分限より過分に 先の家を好み、……
 「永代蔵」の、「一代女」からの脱化の過程が、はなはだ明瞭に読みとられよう(また、「身替長枕(みがわりのながまくら)」のそれにつづく部分と、「永代蔵」の『昔は掛算今は当座銀』の前半のそれとを比較することによって、以上と殆ど同様の結論に到達することが出来る)。
*** さらに、「本朝二十不孝」(『今の都も世は借物』・『親子五人仍書置如件』・『先斗に置て来多男』)、「男色大鑑」(『情の大盃潰胆丸』・『蛍も夜は勤めの尻』・『執念は箱入の男』)、「懐硯」(『明て悔しき養子が銀筥』)などを考察することによって、町人物への漸層(ぜんそう)的なあゆみよりのすがたが、より明かなものになってくるのであるが、それらについては割愛する。

 以上、西鶴の文学的発展の跡を辿りながら、好色物から町人物への展開の過渡的な様相に瞥見(べっけん)を与えたのであるが、そうした考察の結果、次のことが結論されてくる。すなわち、「一代男」の成立とともにその生誕を約束されていたとことの町人物も、しかしながら、忽(たちま)ちにしてそのようなすがたをあらわしたものではなく、根柢的には、そうした題材文学をおのずから要求していた歴史的条件に触発されつつ、好色物等の制作の過程にその技術的経験・生活体験を漸次(ぜんじ)まし加えることによって、やがて、その成立がなしとげられたのであった、ということが。いいかえれば、「一代男」に於いてすでに萌(きざ)していたところの町人物へのうごきは、しかしながら、「一代男」がいいあらわしているような(単に、彼らの経済生活が、そのほこらかな好色生活の源泉であり、基礎をなすものであり、それの背景である、といった意味での)経済面の「おおらかな取り上げ・描き」――そうした視角そのものの発展としての方向をとることなく、「一代男」から「諸艶大鑑」への、更に「永代蔵」に至るまでの西鶴の作風の変遷のしかたがそのことを説明しているように、特別の才覚・努力・勤倹を一般に避けがたいものにしきたったみずからの固定化した生活事情――そうした現実のありかたのうつりと結びつくことによって、おのずから特定の視角が決定されていき、やがて、「永代蔵」の示しているようなすがたに於いて、町人物の成立をみるにいたったのであった、ということが――。さらに、「永代蔵」の作品としてのありかたについて分析を試みるならば、「一代男」などが代弁しているような町人の世界観に比して、それがいいあらわすところのものは、はるかに武士の世界観に歪められたそれであることが結論されるのであるが****、そうしたところに、一応は みずからのほんらい的な性格を発揮しえたかにみえた元禄町人文学が、はやくもその矛盾性を拡大せしめつつあった、すくなくともそうした傾向を示しきたっていたすがたがみられるのである。貞享三年の好色本禁令の布告が、西鶴をして武家物に筆をとらしめ、やがては町人物へと着眼せしめていった、いわば町人物の成立を動機づけた、直接的な理由をなしていることなどについては、いま事あたらしく述べたてる必要はないであろうけれども、それが特定の 歴史的条件のもとに布告されたものであったことを思い併せてみるとき(前述)、そうしたところにも、「永代蔵」の、そのようなありかたを決定していったところの、一因が考えられもするのである。しかしながら、以上のような観察のしかたは、「永代蔵」が発展性を見失った作品である、という結論を導き出す結果には、けっしてならぬであろう。何故ならば、以上に於いてわたくしは、「永代蔵」の示すポォズが、現実から、そして現実が内包する矛盾(それがどのような矛盾であったかについては繰り返えし前に述べた)から、あながちに眼をそむけようとする、そうした態度をいいあらわすものであるとして規定したのではないのだから。むしろ、わたくしは、ここで、経済機構の再編成の時期に際しておのずから齎らされた新現実の種々相を、まっとうに取上げているところに、そうしたありかたを示しているところに、「永代蔵」の積極的意義を考えたい、ということをいおうとするのである。――かつて近藤忠義先生が、この点について明快な論断をくだしていられた。『町人の生活様式の全面に渉(わた)って新しい相貌が見られ始める時、西鶴は彼の鋭い眼でその一々を把(とら)え、それらをはじめて文学の領域にもたらしたのである。この仕事は全くの処女地に於て為された。新しい内容は忽ちにして 適切な形式を生み出す事は不可能である。しかし兎も角も西鶴はそれを着々として成し遂げた。浮世草紙の埒内(らちない)に於てそれらの新しい内容に一定の形式を与える困難な仕事を遂行したのである。それが「町人物」であった。』(西鶴と其磧・国語と国文学・昭和八年十月号)
**** たとえば、「一代男」の巻八・『都のすかた人形』の、「折節(おりふし)初紅葉の陰に、自在おろし、金の大燗鍋(おおかんなべ)、もろこしの酒功讃(しゅこうざん)を遷(うつ)すとて、遊女三十五人おもひおもひの出立(でたち)、紅(くれな)ゐの、網前だれ、より金の玉だすき、あや椙(すぎ)のおもひ葉をかざし、岩井の水は千代ぞとて、乱れ遊びの大振舞、我(われ)京にて、三十五両の鶉(うずら)を焼鳥にして、太夫の肴(さかな)にせし事も、今此(この)酒宴におどろき、風俗も替(かわ)りて、しほらしと誉(ほむ)れば、……」に示されている現実観照の態度と、「永代蔵」の巻一・『昔は掛算今は当座銀』の「婬し[女以](いんし)の平生きよらを見するは渡世のためなり、万民の美婦は春の花見 秋の紅葉見、婚礼振舞の外は、目立(めだつ)衣装を着重(かさね)ずともすむ事なり、……此(この)時節の衣装法度 諸国諸人の身のため、今思ひあたりて有(あり)がたくおぼえぬ、商人(あきびと)のよき絹きたるも見ぐるし、紬(つむぎ)はおのれにそなはりて見よげなり」、がいいあらわすそれとを対比することによっても明かであろう。


        

 町人物が、町人の経済生活面を主題とした小説のいいであるとすれば、そのようなものはすでに仮名草紙のうちにあった。謂(い)うところの教訓的仮名草紙がそれである。町人物の先蹤(せんしょう)は、はやくもそれらに於いて見出される。――
 近世初期は、ひとも知るごとく、武士支配の社会再建への過程をいいあらわす時期であった。しかも、そのとき、中世期末葉いらい徐々に経済的実力を蓄えきたった町人階級は、漸(ようや)く新興階級として歴史の檜舞台に登場すべくその緞帳(どんちょう)の際までさしかかっていたのであった。とすれば、この時期は、一般的には創生期の性格を担っていたのであったけれども、転形期の不安定性をも同時に孕(はら)む、そのような時期であった。すなわち、土地経済は未だ上昇線を辿っていたのであったけれども、早期資本主義の諸要素は、漸くその萌芽を壊熟[ママ]せしめつつあったのであり、おのずから経済面・社会面は、この時期に入って複雑多岐な面貌を示しはじめたのであった。そのようにして、経済生活的関心は、人々のあいだに喚起されつつあったのであるが、そうした事情を反映して、教訓的仮名草紙の題材としても経済生活面が夥(おびただ)しく取り上げられることに、おのずからなっていったのだった。
 以下、寛永刊行の「可笑記」・明暦刊行の「他我身の上」・万治刊行の「浮世物語」・寛文刊行の「為愚癡物語」などを当面の対象とすることによって、教訓的仮名草紙に於いて経済生活的題材がどのように取扱われていたのであったか、という点への一応の見透しを与えながら、やがて、それらから町人物への発展の過渡的な諸様相を明かにしようと考える。
 まず、「可笑記」および、「為愚癡物語」の中から、そのような題材の取扱い方の特徴が端的に示されているような個所を一二引用しよう。
「可笑記」
(上略)たとい天命にて身こそ貧には候(そうらえ)とも、うき世の人に誉(ほめ)あがめられ、奔走せらるべし、其上(そのうえ)身の貧なる事も、何ゆえかくと悟りあきらめ、愁(うれえ)悲しむまじ、愁悲しむ事なくば、富貴栄耀の愚人よりはましなるべし、げにげにいかほど富貴栄耀なりとも、欲念におぼれ愛着の思ひにおかされなば、一生うれへ悲しみ絶(たゆ)まじ……(巻一・第八)
「為愚癡物語」
 しはく つまやかにして、一代まづしくくらす人あり、また くはれいをこのみて、一代福貴にくらす人もあり、ひんぷくは くはれい しはきにもよらず、ただ人によりて心によらず、天に有、貧福の来れる時刻の其気に乗じて、こゝろもへんずるものなればなり、(巻二・第二〇)
 「たとい天命にて身こそ貧には候とも」といい、「ひんぷくは……天に有」という、それらを通じてみられるところの貧福論が、儒教的世界観に裏づけられたものであることはいうまでもなく、「世に貧福の二つは是非なし」「富貴の家にうまれ出るは前生の種也」(「町人鑑」)といった、町人物にみられるような貧福論と殆ど同様のポォズを示すものであることが指摘されるのであるけれども、しかしながら、町人物がいいあらわしているところの貧福宿命の思想は、自由競争期を了え、漸く「銀がかねをもふくる世」と化した、そうした現実面に遭遇した町人の(厳密にいえば中小商人の)現実諦観が、嚮(さき)に述べたような特定の条件のもとに(前章参照)反町人的な世界観に結びついていった一つのばあいなのであり、「可笑記」・「為愚癡物語」などに於けるそれは、漸く町人の経済力のもとに依存せざるをえなくなってきつつあった武士の物質観・現実観の、おのずからなる文学への反映であった、とみなければならぬものなのであって、それらはけっきょく同一の視点からは論じえないもののようである。そのようにして、武士的な視角が明確に映しだされているところに、そうしたところに、教訓的仮名草紙の啓蒙期の文学としての特性も窺い知ることができるように思われるのである(この時期に於いて展開された啓蒙運動は、いうまでもなく、武士を主体とし、儒学をその指導精神としておこなわれたのであった)。
* 以上、「可笑記」と「為愚癡物語」とを纏(まと)めて取扱うという便宜的な構図のもとに論をすすめてきたが、しかし、それをもってこれら二つの制作の史的位置・意義を同一に論断しようとするものではない、ということを明記しておく。
「他我身の上」
 さるおかしき人、今日貧乏神にまいりあひたるが、正しく貧乏神は、子を五人持(もち)給うと覚へたりとかたりしかば、かたへなる人、そのうたでき神のすがたはいかなるぞとゝへば、されば其事(そのこと)也、其神のすがたはよく人ににたり、其子どもの名、まづ惣領を僭上太郎、遊山の次郎、博奕(ばくえき)の三郎、朝寝の四郎、慳貪(けんどん)五郎とかたられし也、(第五・「びんぼうがみの事」)
 抽象的・概念的な取材の態度に(ことさらにその思想的根柢に於いて)、「他我身の上」が、「可笑記」と殆ど同一の性格を示すものであることは取りたてていうまでもないことであるけれども(なお第一・第五話・第一九話等を参照せられたい)、「可笑記」などから承け継いだ「教訓のための教訓」を、比喩的技法をもって表現しようと企てているところに、とにもかくにも概念性を克服しようとする努力の跡をみることが出来る。(しかし、そうした比喩的な態度は、町人文学のほんらい的な性格からしても、やがては揚棄さるべきものであったのである。前掲「びんぼうがみの事」と「永代蔵」の巻四・「祈るしるしの神の折敷(おしき)」に於ける貧神の扱い方とを比較してみることは、このばあい、便宜である、という以上に必要なことなのであるが、それらについては割愛する。)さらに、その第一・「長者二代なき事」、第三・「けいせいぐるひいけんの事」などを取上げてみれば、筋のはこびが、とにかくにも漸層的なしくみをもっておこなわれているのであり、原始的・端緒的な形に於いてではあるけれども、小説的構想が一応実現されているということが指摘されるのであって、そうしたところに、「可笑記」からの進一歩の飛躍がみられるのである。こうした「可笑記」から「他我身の上」への発展は、いうまでもなく、初期の町人文学に於けるレアリズムへの――浮世草紙への(小説に限っていえば)あゆみよりをいいあらわすものなのであるが、そうした動きのすえは、やがて「浮世物語」をうみだすことにもなっていったのである。
 さて、「浮世物語」の、「明日はゑんぶのちりともなれ、わざくれ浮世は夢よ、白骨いつかは栄耀をなしたる、これこそ命なれ」とひたむきに遊興にその身をうちこんだ挙句「つゐにはみなたゝきあげて、かのてつるてんのすりきりとこそ成(なり)にけれ」という説話(巻一・「傾城ぐるひ異見の事」)を取上げ、それと、「可笑記」の随所に指摘される傾城ぐるいにたいする批難的な口吻――たとえば、
 それさぶらひとならば、傾城に心をまよはすべからず(中略)しかるに当世の僧俗、貴賤、老若ともに、此けいせいにたらされ心をまよはし、後に身命破滅する、是(これ)不忠孝、不礼儀、不智仁のいたれる也、(巻三・第三一)
 および、「他我身の上」の「けいせいぐるひいけんの事」の末段
 太郎ハ理につまり、此のほどそれがしがおこなひ、さぞおかしく思(おぼ)すらん、もはやよくがてん参りたりとて、ひごろ傾城のおこせし、文玉章(ふみたまずさ)もやきてすて、今までのひが事せしをくやみ、はゝに孝をつくして、ちゝの跡をとぶらひ、すゑはんじやうとぞなりけるとかや……
とをそれぞれ比較すれば、「可笑記」・「他我身の上」が武士の儒教的教化の立場から、もしくはそうした武士の意識を直接的に反映した町人の角度から、傾城ぐるいにたいして否定的・批難的な態度をもってしていることはいうまでもなく、それらにたいして「浮世物語」が、ほんらい的な町人の角度から、みずからの一生活現実としてそうした生活面を取り上げ、それをあるがままに眺めてゆこうとするものであることが明かになってくる。「浮世物語」に於いてみられる「わざくれ浮世は夢よ云々」という刹那的享楽主義の態度は、もちろん、中世的ペシミズムへの町人の反発をいいあらわすものであったけれども、他面、武士の世界観(直接的には儒教的禁欲主義・律法主義)への反逆の宣言をも意味するものでもあった、として理解されなければならぬものである。すなわち、明暦・万治のころに至って、社会面は、みまがうべくもなく転形期の相貌を示しきたったのであり、武士と町人との利害は漸く矛盾し、相剋しはじめたのであった。「浮世物語」のそのようなありかたは、いわばそうした現実面の成熟の、ひとつの文学的反映であった、と考えられるものである。
 とはいえ、彼ら町人は、その最も健かな発展期に於いてさえも、武士の世界観の桎梏(しっこく)からみずからを解き放ちえない歴史的宿命を負うていたのであった。とすれば、「可笑記」などが示しているような意味での武士的な性格はそこにはみられないけれども、なお、その多くの説話のうえに(たとえば「米の直談たかき事」)、儒教的教訓的な口吻をとどめて(というよりは溢(みなぎ)らせて)いたことも、そうした矛盾を内包していたことも、また当然の結果であったように思われる。
 焦点を町人物にうつせば、――「浮世物語」にみられるところの刹那主義は、町人の、積極的・前進的な意味での反発的態度をいいあらわすものではあったけれども、そうした反発が刹那主義として表現をとっていったところに、いまだみずからの世界観を確立しえない(といってふるい世界観にも安住し切れない)彼らの動揺したすがた、いわば過渡の不安にあがくすがたが示されているのだ、といえよう。そうした過渡期の性格が、この作品のもつ角度の不統一さ・曖昧さを齎らしているのだ、ともみられよう。そのような動揺・不安は、しかしながら、西鶴の浮世草紙にはみられない。「永代蔵」の、傾城ぐるいの結果、親の遺産を蕩尽(とうじん)するという説話(巻五・「大豆一粒の光り堂」)を取り上げてみれば、「可笑記」・「他我身の上」などに於いてみてきたような傾城ぐるいにたいする批難的・教訓的な口吻も、「浮世物語」にみられるような刹那主義の態度も、そこには見出されない。いってみれば、すでに好色物の主題として取り上げたところの、そうした町人生活の現実面を、経済生活的な視角からみなおし(前章参照)、それを「分散」の一つの型として描写しようとする態度をみるのみである。町人生活の現実を現実として凝視してゆこうとする、つよい現実主義の態度があるのみである。

 以上、この章に於いては、教訓的仮名草紙から町人物への発展の過渡的な相貌について、きわめて簡単な素描を試みたのであるが、それによって、おのずから、次のことが結論されてくるであろう。すなわち、「可笑記」から「他我身の上」への、更に「浮世物語」への発展の過程にレアリズムへの漸層的な、歩一歩のあゆみがみられるのであるが、そうしたレアリズムへの不断の努力が、やがて、「永代蔵」の示しているようなすがた――ありかた――に於いて結晶したのであった、ということが。いいかえれば、経済生活面が、純粋にほんらい的な町人の視角からまっとうに取り上げられ、そうした題材がレアリズム小説のそれとしてみごとな定着をもったのは、「永代蔵」に於いてであった、ということが――。「永代蔵」とこれら教訓的仮名草紙との距離が、町人の階級的発展の姿相に根柢をもつ歴史的な相違をあらわすものであることは、ことさらに取りたてていうまでもないであろう。
【あとがき】 おわりに、本稿の所論(わけても第二章に於ける)と、拙稿『仮名草紙小論』(国語と国文学・昭和十一年一月号所載)のそれとは、あい俟ち、補わるべきであることを、いいそえておく。
 
 熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より