●教材化 【〈文学と教育〉ミニ事典】から
○文学作品の教材化――それは、子どもたちの感情の素地のありように即してその感情をはぐくみ、その発達を促すうえに必要な作品を選択する作業です。その作品の選択は、作品本来のテーマにおける選択でなければなりません。どの側面においてかその作品本来のテーマを生かすかたちの、発達に即して発達を促す目的による、あるテーマにしたがっての作品の選択――それが文学作品の教材化ということです。
そのような作品の選択、作品の教材化は、手がたい上にも手がたく行なわれる必要があります。教師ひとりひとりの責任において、であります。教材があらかじめ教材という形においてそこにある のではない。その 作品に対して教材化を行なうのは個々の教師――教師その人以外ではない、ということが、そこに確認されなければなりjません。教材は与えられるものではなくて、教師がつくる ものなのです。めいめいの教師は、めいめいに、これが自分の教材だ、というものを持つ必要がありましょう。
自分の教材で自分の教育をやる、という姿勢を欠いては、文学教育が文学教育にならないのです。自分の教材でなくては、作業が作業にならない、という教育活動が文学教育です。もっとも、その自分の教材 は自他共有の教材であって、いっこう差しつかえないわけです。むしろ、そうであることのほうが望ましいわけです。要は、自分のものだ、といいきれるような仕方で、自身に、その作品をつかんでいるかどうか――なのであります。
〔1965年、熊谷孝監修/文学教育研究者集団著『文学の教授過程』p.43-44〕
○[検定教科書における作品の扱いが現場の教師大衆を暗いあきらめに追い込んでいる、という事実にはハラが立つが]と同時に、各自めいめいの、眼の前の子どもたちをオシャカにしないために、先生方にもやはり、もうひとふんばり してもらわなくては、という願いを私としては持たざるをえないのである。教師には妥協できない一線がある、ということなのだ。さし当たって、教材は教師の武器である、ということの確認である。教材がそこにあるのではなくて、まず作品があるのだということ、それを教材化するのは教師その人の仕事だ、というような点の自覚・確認である。納得のいく教材に拠らなくては、納得のいく授業はできないのである。ではないのか。
〔1966年1月、熊谷孝「教材と指導過程の問題」(明治図書『教育科学・国語教育』) 1977年『岐路に立つ国語教育――国語教育時評集』(再録)p.48〕
○文学教育を国語教育の中に実現することで、国語教育を国語教育らしいものにするというためには、文学教育がどうのという先に、自身に文学の機能をカチッとつかむことですね。教える、というただそれだけのために、あるいは、教える必要にせまられたときにだけ、教材として 文学作品に接するというのでは、これはどうも仕様もない、と思うのです。いわゆる意味の文学に強いとか弱い、というようなことは、これはどうでもいいんですが、自身に文学に感動するということがないと、文学教育はスタートしないだろう、と思うのです。文学教育における教師の役割りは、さっきもいったように、小さな眼の前の読者たちの媒介者となることです。その自分が、文学ってまだるっこいものだとか、退屈なものだ、と思っているのでは媒介者になるどころの話ではない。
と同時に、その教材となる作品が骨なしクラゲみたいな作品では、感動のしようもないわけです。教師が自身に感動を呼ばないような作品を教室に持ちこむことは、ムチャだ。わたしは、そう実感するのです。文学教育にとって教材がきめ手だというのは、そういうことなのですね。教師はめいめいに、これが自分の教材だ、という教材と教材体系をもつ必要がある。教材は教科書の中にあるのではなくて、読むべき時期に読むべき作品を子どもたちに与えていく、というために、教師が多くの作品群の中から「これだ」というものを選んで教材化 する、という姿勢で用意されるべきものだと、わたしは考えます。
〔1967年、熊谷孝著『言語観・文学観と国語教育』p.98-99〕
○文学教育に関していえば、文学の〝眼〟でたえず自分自身を見つめ、現実をみつめなおして行動の選択ができるような人間に、ということです。で、そういう視点に立って、読みもの教材の選択ということも考えるわけなのであって、教科書教材をどうこなすか、というふうな、こなし方手順の「研究」――こいつが普通に教材研究といわれてるシロモノなわけだけど、これはわたしたちの教材化研究とは無縁のものだ。
なぜ山へ登るのか、そこに山があるからだ式に、なぜ教材研究をするのか、そこに――つまり教科書に教材が並べられてあるからだ、というんじゃ、ペケですね。教材がそこにあるのではなくて、まず作品がそこにあるのですね。その作品群の中から、発達に即して発達を促す姿勢で、ある作品、ある作品群を教材化するのですね。教師が教師自身で自主編成するのです。教科書のわく に縛られる義理なんか教師にはない。あんな押しつけ、割り当ての教科書なんかに……。教師が義理だてしなけりゃならん唯一の相手は、眼の前の教室の子どもたちだけだ。眼の前の子どもたち、これを人間のオシャカにしたら、おしまいです。教材の自主編成、これは教師の義務です。教材は教師の武器だからです。教材がナマクラでは、いい教育ができるはずがない。
で、わたしたちの教材化の論理 というか視点は、「読むべき時期に読むべき作品や書物を」ということです。文学教育の場合でも、いや、とくに文学教育についてそのことがいえるわけなんだけれども、ただ文学に関心を持たせればいいってものではない。小説や詩やお話以外のものには眼もくれないみたいな読書態度ぐらい、困ったものはない。これは逆に、文学が分からなくなってしまうような、文学への関心の持ち方です。「読むべき作品や書物 を」と、わたしたちが考える理由です。
そこで、「読むべき作品や書物」への要求が児童や生徒たち内がわから生まれてくるような、そのような子どもたちの主体づくりの仕事が国語教育のだいじな作業になっていくわけです。と同時に、そのことのためにも、また生徒たちが自分で本や作品を選択できるようにするためにも、必然性と可能性における生徒たちの内的要求をさきどりするかたちで、その要求を満たすような作品の選択をおこない、指導手順をくむ、ということが〝教材化〟ということ なわけです。教材研究というのは、じつは教材化研究ということであるべきなのです。
〔1967年、熊谷孝著『言語観・文学観と国語教育』p.108-109〕
○そのころ[1964年11月、明治図書発行の『授業研究』に「文学作品教材化の論理」を執筆したころ]、わたしや、わたしの所属する文学教育研究者集団(文教研)が強く主張していたことの一つは、「教材研究」という発想の否定であった。言い換えれば、教材は与えられるものではなくて、教師が目の前の子どもの発達のありようを見つめ、その発達を促すように教師自身で作るべきものだ、という主張である。
一般に教材研究と言われているものが、教科書教材という形で与えられた教材の、ただの指導手順、こなしかた手順の「研究」に終始していることに非常にあきたりない気持だった。教材がそこにあるのではなくて、まずそこにあるのは、さまざまの作品、さまざまの文章ではないか。その中から、今この時期に児童や生徒に与えるべき文章はこれだというものを教材として選ぶ、教材化 することが必要なのではないか、とわたしたちは考えた。教材を研究するのではなくて、指導の目的に従ってその文章を教材――つまり教える材料 だ――として生かして使う「教材化研究」が教師にとって必要な教室の事前作業なはずだ。わたしたちは、そう考えた。
わたしたちは、「教材化」「教材化研究」「教材化の視点の研究」ということを機会あるごとに口にもし、また書きまくった。最近では、どうやら、この教材化 ということばも一般化してきたようである。だが、それは現実の事実としてはことばが普及 しただけのことであって、「教材化」というこのことばに人々が託しているものは、依然として「教材研究」のあの発想のものであるようだ。
〔1970年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.272-273〕
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