《 喜劇精神 》 | ||||
【井筒満[喜劇精神と単純化と」 】から …「喜劇精神」についてですが、レジュメに用意しておきました戸坂潤の指摘(「笑い・喜劇・及びユーモア」/『戸坂潤全集第四巻』所収)を読んでみたいと思います。
「笑い」にもいろいろな種類があります。たとえば、自己保身や現実逃避のための「はぐらかしの笑い」、あるいは自分より弱いと思った相手を嘲る「いじめの笑い」。この種の「笑い」は、対話を通して問題の本質を見極めようという精神を私たちから奪ってしまいます。現在の日本で氾濫している「笑い」には、こういう性質のものが多いですね。
「意識せざるエゴイズムや人間疎外」を西鶴が「大きく問題として喜劇化している」(同右)のは、それがまさに民衆としての自分たち自身の問題だからです。疎外との対決を通して自己の人間を回復すること、また、民衆相互の真の対話・支えあいを実現していくこと、そういう課題意識と結びついているからこそこうした笑いが生まれるわけです。… |
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●喜劇精神 【<文学と教育>ミニ事典】から 「新旧ともにあまりのぼせあがらないように」という、近代主義と前近代主義に対する統一的批判の姿勢は、どうやら芥川文学にとって一つの基本的姿勢を示すものであったように思われる。それは言い換えれば、人生に調和をもたらすことを求めての文学であった、ということである。調和というと、何がなし常識的でぬるいものを想起しがちであるが、ぬるいというのは当たらないけれども、そこに希求されている調和が常識を基準としての調和であったことは確かである。もっとも、彼の考える常識というのは、「危険思想とは、常識を実行に移そうとする思想である。」(『侏儒の言葉』)という意味での「常識」のこと以外ではなかったけれども。(…) 「調和を求める精神は、センチメンタリズムの否定につながり、またセンチメンタリズムの否定において喜劇精神につながっている。あるいは、喜劇精神だけがセンチメンタリズムへの逸脱をくいとめ、真実の調和と統一をそこにもたらすものだ、ということになるのだろうか。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.230-232〕 |
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【参考文献】 ○ 井筒満「喜劇精神と単純化と――広島・第十九回教育基礎講座・講演記録」(『文学と教育』第174号 1996.8) ○ 戸坂潤「笑い・喜劇・及びユーモア」(『思想としての文学』第二部13 1936.2/『戸坂潤全集』第四巻』1966.7 所収) ○ 熊谷孝「西鶴の創作方法と喜劇精神について」(『日本文学』 1959.8) ○ 熊谷孝『芸術の論理』(1973.5 三省堂) |
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