《 喜劇精神 》

【井筒満[喜劇精神と単純化と」 】から

「喜劇精神」についてですが、レジュメに用意しておきました戸坂潤の指摘(「笑い・喜劇・及びユーモア」/『戸坂潤全集第四巻』所収)を読んでみたいと思います。

 「大きく見えるものがその本質に於て小さかったという意識が……(笑いの)条件だと言って好い(その逆は感心や驚嘆にしかならぬ)。この大小の……対比は併し、単に量的で静止した比例関係を意味するだけではなくて質的な意味に於て、膨大な複雑な外見から要約された単純な本質を暴露する、という動き を意味している。今その点を注意しなければならぬ。暴露 のこの作用、批判 作用こそは笑いの最も大事な条件なのである。……歴史的に考えられた現象を要約し、それから本質を抽出することが論理の機能であるが、して見れば笑いがどれ程 論理的 なものであるかを今云ったことから推測出来るだろう。」

 「笑い」にもいろいろな種類があります。たとえば、自己保身や現実逃避のための「はぐらかしの笑い」、あるいは自分より弱いと思った相手を嘲る「いじめの笑い」。この種の「笑い」は、対話を通して問題の本質を見極めようという精神を私たちから奪ってしまいます。現在の日本で氾濫している「笑い」には、こういう性質のものが多いですね。
 だが、笑い」の積極的な機能はそんなものではない。対比によって、「複雑な外見から要約された単純な本質を暴露する」ことが「笑いの最も大事な条件」なのだと、戸坂さんは指摘しているわけです。また、同じ論文の中で、「事物の表面へ事物の裏面がつまみ出されて、この表面と裏面とが対質 せられると、吾々は笑わされるのである」とも指摘しています。

喜劇精神による笑いの特質をさらに明確にするために、レジュメにある熊谷孝さんの指摘を読んでみましょう。熊谷さんは、井原西鶴の喜劇精神について次のようのに書いています。

 「この作家が喜劇的な人物としてそこに登場させているのは……いかなる意味においてか疎外された人間である。その批判・風刺の笑は、他を疎外することで同時に自己疎外をおこなっているような人物に対して向けられている。あるいは、自己を疎外することで、意識せずして他を疎外しているようなタイプの人物に対してである。/この後者のタイプの人間疎外がエゴイズム(意識せざるエゴイズム)に結びつくとき、この作家の批判は、とくに痛烈をきわめている。善意も、それが人jを傷付けるような善意であるというかぎりにおいては、それは作者と読者とから手きびしい批判を受けなくてはならない。/……まごころ主義的な考え方の裏側に住むエゴイズムをみのがさない。」(「西鶴の創作方法と喜劇精神について」/『日本文学』一九五九年八月)

 「意識せざるエゴイズムや人間疎外」を西鶴が「大きく問題として喜劇化している」(同右)のは、それがまさに民衆としての自分たち自身の問題だからです。疎外との対決を通して自己の人間を回復すること、また、民衆相互の真の対話・支えあいを実現していくこと、そういう課題意識と結びついているからこそこうした笑いが生まれるわけです。


喜劇精神  【<文学と教育>ミニ事典】

  「新旧ともにあまりのぼせあがらないように」という、近代主義と前近代主義に対する統一的批判の姿勢は、どうやら芥川文学にとって一つの基本的姿勢を示すものであったように思われる。それは言い換えれば、人生に調和をもたらすことを求めての文学であった、ということである。調和というと、何がなし常識的でぬるいものを想起しがちであるが、ぬるいというのは当たらないけれども、そこに希求されている調和が常識を基準としての調和であったことは確かである。もっとも、彼の考える常識というのは、「危険思想とは、常識を実行に移そうとする思想である。」(『侏儒の言葉』)という意味での「常識」のこと以外ではなかったけれども。(

 「調和を求める精神は、センチメンタリズムの否定につながり、またセンチメンタリズムの否定において
喜劇精神につながっている。あるいは、喜劇精神だけがセンチメンタリズムへの逸脱をくいとめ、真実の調和と統一をそこにもたらすものだ、ということになるのだろうか。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.230-232〕

 【参考文献】
○ 井筒満「喜劇精神と単純化と――広島・第十九回教育基礎講座・講演記録」(『文学と教育』第174号 1996.8)

○ 戸坂潤「笑い・喜劇・及びユーモア」(『思想としての文学』第二部13 1936.2/『戸坂潤全集』第四巻』1966.7 所収)
○ 熊谷孝「西鶴の創作方法と喜劇精神について」(『日本文学』 1959.8)
○ 熊谷孝『芸術の論理』(1973.5 三省堂)

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