《 印象の追跡としての総合読み 》

 印象の追跡としての総合読み(その一)  【文教研・文学教育研究基本用語解説 Ⅳ】から
  ここでは、「印象の追跡としての総合読み」を、二つの側面から説明することにする。すなわち、はじめに、文教研がこのテーマに精神的に[後注:「先進的に」の誤植か] 取り組んだ課題意識の側面から、次に、「印象の追跡としての総合読み」の方法原理として、これまでに文教研で共通確認されたことの整理という側面から、ということである。
 民族の今日的課題、私たちはそれを「はたらく国民大衆相互の連帯の回復」と考える。民族とは、熊谷氏の整理によれば、「第一義的には、その民族社会の生産労働の担い手である国民大衆=民衆のこと」である。民衆が本来の自己の意識を見失い、他人の発想でものを考え、行動させられる 、という状況の中で、民衆相互の連帯はズタズタに分断されている のである。このことが、あらゆる面で民衆の生活を圧迫し破壊しつづけている大きな原因となっている。私たちが、民衆の連帯の回復を目ざす理由はここにある。
 このことは、私たちが、民族の課題にこたえる教育活動という発想で国語教育を考えるとどういうことになるのであろうか。国語教育では、民衆の連帯回復のための「文体づくりの教育」ということになる。本来の自己を見失い、他人のことば(飼いならされた言葉)でものを考え、行動させられる 民衆を、自分の言葉(野性の言葉)で考え、行動できる 民衆につくりかえていくことである。子どもが生活しているのは、おとなと同じ社会の中である。「白紙」というようなことは絶対にありえない。子どもも子どもなりに飼いならされつつある。飼いならされた言葉(発想)から子どもを解放していく教育活動、これが「文体づくりの国語教育」ということになる。民衆の子供を、未来に向けて、野性の言葉(発想)で考えることのできる民衆に育てていくことが、国語教育の今日的課題である。
 この課題にこたえる読みの作業面の方法が「印象の追跡としての総合読み」なのである。
 ところで、文章の理解というものは、戸坂潤の用語・発想を援用していえば、受け手自身による自己の「印象の追跡」という形で成立し展開していくものであろう。ここで「印象」というのは、熊谷氏の整理によれば、「一定の刺激に対する受け手の全人間的な反応(反射)」のことである。
 第二信号系理論をくぐれば明かなことであるが、その文章、その言葉は、伝え(=伝え合い)の媒材、媒体以外ではない。とすれば、その文章、その言葉は、思想や感情の容器として、相手にそれらを運搬する道具的存在ではなく、受け手自身の内部に反応・反射としての刺激を与える媒材・媒体として存在するのである。だから、受け手は媒材・媒体である言葉や文章の中に中味を求めてもその内容をつかむ(文意をつかむ)ことはできるはずはなく、それからことば刺激を受けとることにより、反応・反射という形で内容をつかんだことになるわけである。こういうわけで、読みは必然的に受け手の主体を通す形で成立するのであり、そこには印象が生じるということである。くりかえすと、その受け手自身の自己の印象を追跡するという形で読みは成立し、展開していくものなのである。
 この「印象の追跡」による読みの過程をもう少しくわしく、その過程的構造の面でとらえると、およそ次のようになる。
 読みの過程的構造は、三層構造として、①前 ②中 ③先 ととらえられる。①その文章表現(あるいは記述)が媒介している事象、現象に関し、それと同一の事象に対する、受け手による受け手自身の反応様式の想起として、文章の内容の理解が端緒的に成り立つ。つまりは、先行体験の端緒的成立である。自己の反応様式の想起として、受け手のこれまでの体験が、受け手の新しい体験(準体験)を成り立たせる媒体として機能するという意味で、受け手の過去の体験との関連・関係の中に求められる。このような自己の反応様式に支えられ ②その文章の文体(=発想のスタイル)が示す他者の別個の反応様式との対比・対決を通して、自己の印象の点検・確かめ、印象の転化・深化を促すのである。つまり、そこで立ち止まって考えたり、迷ったり、驚きや感動を覚えたりしながら ③予測をたてながら期待をいだいて読みつづける。そして、第二の層の対比・対決を通して既成の自己を越えた新しい反応様式(別個の文体)の喚起をみちびく。
 以上が読みの三層構造であるが、これはあくまでも構造としてとらえた読みの過程であり、実際の読みの過程を形式的に三層に区別するというナンセンスな主張ではない。読みはじめてから最後の行を読み終わるまで、この前、中、先という三層の読みの過程を、何回となく、重層的かつ上昇循環的にくりかえしながら、「印象の追跡」としての読みが実現していくのである。が、読みの目的であるその内容の理解、事物との対決、異なる反応様式との対決のいとなみは、むしろここからはじまるのが普通であろう。くりかえし読む、要所要所を読み返すなどというように。
 この読みの過程を生かした読み、それが文教研のいう「印象の追跡としての総合読み」である。つまり、読みはすべてこういう形なのであるが、教師がそれを意識化してつかみ、それぞれの段階、次元に応じて子どもたちに徐々に意識化していく。それによって、子どもたちに文体の素地を培い、飼いならされた言葉から解放していく。(

 印象の追跡としての総合読み   【文教研・文学教育研究基本用語解説 Ⅶ】から
 読みとは、その文章が示す発想=文体的発想と、自己(読み手主体)の発想とを対比・対決させながら、自己の発想のしかたを点検し、たしかなものに組み変えていく過程である。そして、究極においては自己変革をめざす。別のいい方をするなら、自己の体験の枠を越えた、他者の経験を媒介し自己変革をという「準体験」を実現させることにある。自己変革、それを言葉操作という側面からいうなら、自己の文体変革=文体づくりということになる。なぜなら、言葉と発想・言葉と人間とは、二人三脚の関係だからである。「印象の追跡としての総合読み」はそうした自己変革・自己の文体変革を保障する読みの方法をいう。
 したがって、読みの対象となる文章は、読者に新しい発想を提起し、自己凝視を促すような文体の文章でなければならない。それを教育という視点から整理していうなら「発達に即し発達を促す教材体系」の構想が要請される。
 ところで、印象(文学作品の場合は、概念にささえられた、イメージの造型・客観化としての形象的反映像)とは、刺激に対する全人格的な反応・反射・反映のことである。つまり、読者の母国語体験の蓄積のうえにたった、文体刺激に対する文体反応のことである。そういう印象から読みは始まる。白紙の立場で文章と向い合うわけではない。また、その印象は、文章全体を読み終わって、初めて湧き起こるというようなものでもない。読みは、次のような過程を繰り返しながら進行する。
〔前〕 作品・文章の冒頭の部分を読むことで、というより、その題名を読むことで、既にある印象を読者はもつ。全体像の予測をふくんだあるイメージが形成される。どういうイメージかはそれ以前の母国語体験のあり方が規制する。第一次の段階をとした理由である。
〔中〕 読者は、その印象や予測をささえとしながら、次のセンテンスを読みすすめる。あるときは喜びや驚きを感じ、またあるときは、自己の発想と文章の示す発想とのくい違いが生じ自己凝視を迫られる。個々で読者は、他者の発想と自己の発想との対比・対決の体験=準体験をする。
〔先〕そうした過程で最初の予想や期待は変更・修正され新たな予測や期待が生じる。それをささえにさらに読みつづける。

 読みという営みは、実は〔前〕〔中〕〔先〕の過程を何回となく繰り返しながら進行し、文章の最後まで読みすすめる。が、それで完結するわけではない。さらに最初にもどって読み返す。読み返すことで、上昇循環的に深まっていく。よりダイナミックなイメージが形成される。
 しかし、自己の実感ベッタリの読みの繰り返しでは、深まりようがない。読みの上昇循環を保障するには、その過程で、①言語表現のあり方を規制する場面規定、つまり、誰が誰に向けての、あるいは、誰と誰との間で、どのような時間的・空間的な場面での言表か。②あるいは、読者である自己の生活実感や実践と、その言表場面とがどう関係するのかという、自己規制をともなわせることである。
 「印象の追跡としての総合読み」は、そうした操作を加えながら、印象を追跡しなおしていく。あるいは、対象をつかみなおしていく読みのことを言う。(F


  総合読み   【<文学と教育>ミニ事典】から 
  読み の作業面での具体的な方法が“印象の追跡としての総合読み”である。いや、意識しているといないとにかかわらず、文章の読みはすべて印象の追跡による総合読みにほかならない。が、それを教師自身ハッキリ意識化してつかみ、また、そのそれぞれの段階、次元に応じてそれなりに、子どもたちにも徐々に意識化させていくことで、受け手自身による印象の追跡(=点検)のしかたを確実なものにする指導が、ここに言う総合読み ということなのである。(…)

 端的に言って
総合読みとは、
 ①自己の文体、自己の発想(発想のしかた)を自覚する(させる)読みである。
 ②それは、ことばに表わすすべ を知らない自己の発想・想念をことば(文章)に結びつける読みである。
 ③それは、自己の発想をことば(文章)に結びつける過程で、自己の発想のしかた自体を点検し、確かなものにする読みである。言い換えれば、その発想のしかた自体を変革することで、究極においては発想そのものを変革する読みである。
 ④それは、表現・記述の過程(=読みの過程)をたいせつにする読みである。すまわち、ことばの継時性における文章の部分と全体、全体像との関係を、それの言表の場面規定 を押え、自分自身の遠近法 の調節において主体的につかみとろうとする読みである。
 言い換えれば、⑤
総合読みの基本的な特性は、文章の対象的性質――文体的特性――に応じて読みの方法を自己規制していく読み である、ということである。
〔1970年、文教研著『文学教育の構造化』p.223-224〕


 
  印象の追跡としての総合読み  【<文学と教育>ミニ事典 から】
 私たちの提唱する“印象の追跡としての総合読み”は、容易には完結しない。むしろ、無限の印象の追跡過程であると言いたい。(中略)つまり、その文章(=作品)を通読し、精読した後の、まとめ の読みに名づけた“総合読み”は、わたしたちの主張する“印象の追跡としての総合読みとは、まったく違った性格の読みである。というのは、文教研方式の“総合読み”は、読みの一段階をさし示す呼称ではなく、読みの全過程を貫く構え でもある。
 また、わたしたちの主張は、単に“最初の印象”をたいせつにしようというのでもない。それは、一字一句もゆるがせにせず、その文章の表現過程に目を向けることで、“最初の印象”を変革していこうというのである。そのことで、自己の現実把握の発想・発想法をよりコンクリートな
[具体的な]ものに仕上げていく、あるいは、つくり変えていこうという主張である。
〔1970年、文教研著『文学教育の構造化』p.13〕 

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