●現実(像)/世界 【〈文学と教育〉ミニ事典】から
○ 現実がもし一義的にだれの眼にも明らかなように、そのように固定し定着したもの としてあるのなら、小説は、ただ、そのもの を言葉で写しとればいい。「個々のもの にはりついている」と信じられている、それぞれの言葉によって写しとればいい。だが、現実は本来、動的なものであり多義的なものである。それは、個々人にとってあくまでサブジェクティヴ[主体的・主観的]なものである。そして、サブジェクティヴなものであればこそ、それは“現実”なのである。
世界(客観的世界・事物)は一つだが現実は多である。多岐多様でありそれ自体揺れ動くところの現実を、それをあくまで現実として移調・変形――虚構においてつかみなおそうとする文学の言葉操作は、それぞれの創造主体、それぞれの創造完結者(=鑑賞者)の主体にとっては個別的、個性的なものであらざるをえない。そうした言葉(文章)が、個々のもの にはりついている言葉でなどあろうはずはないのである。小説の対象となる、どろどろの現実が「できあがりの世界」でなどあろうはずはないのである。
ところが、この架空の「できあがりの世界」を、その世界、その事物にはりついている(と迷信されている)言葉で受けいれようとしたのが近代文学のリアリズム理論だったということに、あるいは一応なるのかもしれない。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.73-74/1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.157-158〕
○ 長谷川[四郎]もまた、いっている。「書かれるもののほうが、いつも書き手より大きいのだ。」そこで、「対象物自体に内在」している「方法」を探り、「それに対することばをさがしさがし、のろのろと書く」以外に、虚構といっても何があろうか、と。(…)それが現代作家の虚構意識に普遍的なある考えかたを示しているように思う。その一つは、可能性と可変性に関する考えかたである。並列的な形で言っていいことではないが、今一つは、現実は書き手より常に巨大であり、現実それ自体の持つ独自の内なる声に聞くことが、虚構の名に価する虚構の具現につながる、という意識である。少数の教祖的な作家・評論家の場合は例外として、これは現代を生きる最も現代的な文学者に共通な姿勢である、と言っていいだろう。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.101-102〕
○ 文学・芸術にとっての現実とは、その本来の鑑賞者のリアリティーにおける現実ということ以外ではない。言い換えれば、鑑賞者の主体――鑑賞者という媒体――に屈折した事物=世界の反映像としての現実のことにほかならない。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.118〕
○ 芸術家としての、その職能、その分担任務は典型としてのイメージの創造・造型ということに限定される、(…)。その一点をつかみそこなった思考へ滑ったとき、その芸術家の作品は素材主義的な、ただのプロパガンダの傾向的なものに堕してしまうのである。
(…)
常識のしょぼくれた目からは不可能としか見えないようなことを可能にする、という、そういう実践にとって必要なものは、具体的な青写真にまで自他の印象を追跡した現実のイメージである。また、そういう実践にとって必要なことは、現実の未来像の青写真としてのイメージの造型、イメージづくりということである。
(…)
不可能を可能にするとは、だからこの場合、虚構において未来をさき取りし、そのさき取りされた未来からイメージにおいて現在を、今日的現実を、人間の生きかたを主体的につかみ直す、ということである。必要なことは、むしろ、現実変革の契機において未来を豊かに――というのは、ダイナミックに――イメージすることなのである。そういうイマジネーションがそこにはたらかなければ、具体的な形象において現在をつかむ、つかみ直すというようなことは期待できない。
だからして、未来を明らかにするために現在を明らかにする、というのでは順序がアベコベである。可能な未来、未来像がある鮮明さをもって明らかにならなくては、わたしたちの直接の実践の対象である現在的現実像も、実像としていっこうに明らかになってこない、という関係になるのである。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.136-138〕
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