文学と教育 ミニ事典
  
〈私の文学〉/〈私にとっての文学〉
 ある 文学を、文学として 必要とするということは、ある文学的イデオロギーによる文学を必要とする、ということです。それが〈私にとっての文学〉であり、〈私の文学〉だということなのであります。それ以外の他のもろもろの文学や文学的イデオロギーに対しては価値を認めない、などというのではありません。そうではなく、少なくとも今の〈私〉のメンタリティーとプシコ・イデオロギーにとって文学であるものは、そのようなある限定されたもの以外ではない、というだけのことです。
 ですが、
〈私にとっての文学〉というのは――いいかえれば、文学と個人の関係は――、常にそういうものだと思います。志賀直哉も芥川竜之介も太宰治もそれぞれに立派だ、読んでみてそれぞれに面白い、というのは本当なのでしょうが、でもそんなふうなことを言っているときは、志賀も芥川も太宰もその人の〈私の文学〉にはなっていないのです。あえて申しますが、そのどれ一つもが文学として その人の胸に突き刺さって来てはいないのです。
 そういう発言は、発言者当人の読書料の大きさと、度量だか教養だかの広さを示すことにはなるでしょうけれども、大へん文学的ではありません。志賀は、芥川の『奉教人の死』を批判して、あれは文学の邪道だという意味のことを言いました。私自身はその意見には反対だけれども、でも志賀の発言の姿勢に、確たる自分の文学的イデオロギーを持った文学者の姿勢を感じます。
 その志賀文学について、なんだ、あれは「日常生活の日記みたいな小説」じゃないか、「君について、うんざりしてゐることは……芥川の苦悩がまるで解ってゐないこと」だと真っ向からぶっつけたのは太宰ですが(『如是我聞』)、そこには折り合うはずもない二人の作家の全く異質の文学的イデオロギーの違いが感じられます。それは、読者の側から言っても、太宰文学も
〈私の文学〉であり、志賀文学も〈私の文学〉である、ということにはなり得ない(なりうるはずがない)ように思うのです。
 というのは、〈私の文学〉だということは、人間の交友関係に置き直していえば、その相手が心を割って話し合える相手だ、ということが底流にあるということでしょう。どこまで行っても自分は自分、相手は相手なのですけれども、メンタリティーとプシコ・イデオロギーの面で深く触れ合うものがあるお互いの間柄……ということでしょう。そういう意味で自分の相手(対象)である文学、それが〈私の文学〉
〈私にとって文学であるもの〉ということ以外ではありません。
 今の例でいえば、志賀の文学的イデオロギーに心の触れあいを感じつつ、太宰のそれに深く共感する、というようなことはあり得ないことのように私には思われます。と言いますのは、どのような文学的イデオロギーに共感を覚えるかということは、読者その人のプシコ・イデオロギーにかかわる問題だからです。それと同時に、自分のプシコ・イデオロギーにある深まりと、持続的な一貫性を与えてくれるものが、この文学的イデオロギー
だからであります。
 あれはあれでいいし、これはまた、なかなかのものだ式の、大度量の物わかりのよさは、言葉を重ねますが文学的とは申せません。お道楽の骨董いじりの姿勢での文学趣味……感情剥き出しの発言になりますが、私は嫌悪します。
〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.212-215〕

    

〔関連項目〕
文学的イデオロギー/プシコ・イデオロギー


ミニ事典 索引基本用語