文学と教育 ミニ事典
  
説明(文体)/描写(文体)
 熊谷   とりあえず、私たちの直接の課題である文学と科学ということえ考えますと、この両者を成り立たせていく認識過程というものは、方向は別々だけれども両者とも言葉体験――第二信号系としての言葉体験――をベースにしているし、また、直接言葉を媒介にしてこの二つの認識過程が営まれているわけでしょう。言葉をメディアとして認識する、言葉操作によってそれを行なう、ということです。科学的認識の場合に限りませんが、科学的認識がその極である概念的認識にあっては、事物の説明 が可能になるように、そのように言葉メディアを操作して思考 を組むのですね。わたしたちが〈言葉の概念的操作〉と呼んでいる、言葉の操作のしかたのことですが……。
 編集部   お話の途中ですが、その〈
説明〉というのを説明してくださいませんか。(笑い)
 熊谷   ああ、そうか、そうでしたね。きょうの話は説明 文体とか
描写 文体というところへ話題をつなげなくてはいけなかったんでしたね。……ひらたく言うと、事物の性質や状態、意味などを明らかにするということが説明ということなんでしょうが、明らかにするというのにも「目に見えるように明らかにする」というのがあって、これは説明ではなくて描写 ですね。ドイツ人たちが、ダーシュテルンクという言いかたで言っている描写 のほうです。説明 のほうは、エアクレールンクです。「目に見えるように」ではなくて、形(=象)はむしろ切り捨てるわけです。捨象するわけです。抽象による捨象という格好で、観念や概念という「目に見えない」ものによって思考に訴えるという方向で、事物の性質や、ものとものとの関係――たとえば、因果関係や意味などを明らかにする、ということなんでしょう。で、そういう説明 を成り立たせるためには、「目に見えるように」ではなくて、むしろ「目には見えなくなるように」抽象度を高めた概念的な言葉操作が必要になってまいります。いわばそうのような言葉操作のありかた、言葉のありかたが要求されるわけです。物事を描写するんじゃなくて説明するんだ、という発想 と見合った言葉のありかた がそこに要求される、という意味です。そういうありかたの文章が、つまり説明文体 の文章です。
 編集部   そういうふうに説明してもらうと、よくわかりますね。文体ということの根本的契機は、発想と文章のありかたということですからね。熊谷さんは、「文体ということの根本的契機は、各人の認識過程における各人各様の現実把握の発想、発想法という切り口でつかまれた、文章のありかたのことだ」というふうに、いつだったか書いておられましたが、今おっしゃったように、その発想のしかたの根底にエアクレールンクする(
説明する)発想と、ダーシュテレンする(描写する)発想との二つの方向があるという押さえかたに立って考えると、文体概念を説明文体描写文体との二つの方向分析・分類して考える必要がある、という熊谷さんの考えかたがよくうなずけます。
 熊谷   ちょっとコメントを添えておきますとね、ぼくの言うのは、あくまで言語と言語形象という角度からの話でしてね。ほんらい「目に見えない」言葉メディアを、どう操作して「目に見える」印象のビルト(形象)――つまり言語形象に仕上げていくか、という課題意識からの発言なんです。ところが、別の課題意識もあるわけなのでして、たとえば絵でも図形でもいいんですけど、何かそういうもともと「目に見える」「ある形を具えた」メディアによって、いかにして「目には見えない」抽象的なものをつかむことが可能になるのか、また可能にするか、という問題と相関的、統一的に考えてみる必要が実はあるわけなのです。
描写説明の問題は、そちらのほうからも考えてみないとかた手落ちになるわけなんですが、今のぼくにはとてもとても……。
 編集部   そっちのほうからの詰めは別の機会に解明することにして、ここでは言語メディアと言語形象ということでまいりましょう。続けて、ひとつ、描写とか
描写文体のほうのことに触れてください。
 熊谷   言語形象ということで言うと、「目に見えるように」あるいは「耳から聞こえてくるように」言葉を加工することでイメージに形を与える、造型するという方向での形象的認識にかかわる事柄ですね。時間・空間的に不在なものを、言葉を媒介にして、そこにイメージとして在らしめるというか、形象(=造型されたイメージ)として顕在化するという形で描写が継時的に実現していくわけでしょう。〈言葉の概念的操作〉に対する〈言葉の形象的操作〉として言葉の加工がそこに行なわれることになるのですね。もっとも、その形象的操作というのが実は概念的操作を伴なって、またそれに支えられて初めて成り立つわけのものなのですけれども……。根源的には、観念とイメージとの支え合いの関係の問題ですね。そういう関係がべースにあって、概念と形象、概念的認識と形象的認識との支え合いの関係の問題ということになってくるのですね。
〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.72-76〕


○ 編集部  
説明の言葉は、その概念と思考内容がそれとしてまちがいなく伝え合うことができるように操作されていればいいが、描写の場合はそうはいかない、ということになりますか。
 熊谷   まちがいなくというのを心理的な意味に解さないということを条件として言えば、方向的にはおっしゃるようなことになるんじゃないですかしら。説明、特に科学の場合の説明には概念の厳密さと論理の確かさが要求されるわけだけれど、いわゆる意味の文章技術のうまさや巧みさは必ずしも必要とされていません。わたしたちが科学論文を読んで感動するのは、実証のしかたの確かさと、その確かな実証による客観的真実の解明に対する感動です。文章もうまいに越したことはないけれども、それは副次的なことですね。早い話が、国文学界の長老である某先生の論文ときたら、どのセンテンスも結びは「……のであるのである。」といった調子のものなのですよ。どのセンテンスも、と言ったのは言葉のあやですけども、印象としてはそういうことだけが頭に残るような、何とも言いようのない歯切れの悪い、しまらない文章なのですね。そういうしまらない文章なのだけれども、先生の論文や著書が果たしたパイオニアとしての役割は大きいわけなんです。「……のであるのである。」は戴けないけれども、でもそんなことは論文としては二の次、三の次なのですよ。
 ところが、
描写のほうは、「……のであるのである。」ではイメージが壊れるというか形成されないわけなのでして、ペケなんです。描写の文章は、これは文章としては読めたものじゃないが、しかし――というわけにはまいりません。「……のであるのである。」ではだめなのであるのである(笑い)……ということになるでしょう。もっとも、この「……のであるのである。」式の文調を逆利用して、それを大いに読ませる文体、描写文体の文章に仕上げている作家・作品もありますね。井伏鱒二のある種の作品、太宰治のある種の作品などです。たとえば、『黄村先生言行録』や『男女同権』などがそうでしょう。
 編集部  「……のであるのである。」では描写文体の文章にはならないという、そのことなんですが、イメージの問題として考えていいわけですか。
 熊谷   そうでしょうね。描写文体にもいろんな幅があるし、いちがいには言えませんけど、文学形象を成り立たせているような描写文体の文章について言うと、それは、できあがりの現実をでき合いの言葉で書いているわけではないでしょう。人間として生きつらぬく上に必要な、実践的な意味を持った、何かそういったイメージにおける現実を、作者も読者もそこで準体験するわけですね。

 編集部  現実に対する現実像の表現が
描写だ、という意味のことをおっしゃったが、…… ということは、裏を返すと、説明というのは現実像の提示ではないということ、現実の移調としての現実像の提示ではなくて事物への抽象的一般化だ、ということになるわけですね。確認の意味でのお尋ねですが。
 熊谷   おっしゃる通りだとぼくも思います。現実というのはサブジェクティヴなもの、それぞれの人間主体の立場や何やに制約された、その限り主観的なものですが、社会科学、文学の科学の場合などで言うと、どういう主体の立場に立つことで、その現象を客観的に
説明しうるかを考えるわけですね。事物(=世界)は一つなんだけれど、その一つの事物が各人の現実としてはけっして一つじゃないので、多としてのそういう現実を一つの世界にかえしていくのが科学的認識の営みだし、その方法が説明だということになるのでしょうね。真実は一つなんだけれども、立場立場でいろいろに見えてくるので……。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.77-80〕


〔関連項目〕
文体
文体的発想

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