文学と教育 ミニ事典
  
近代主義
ここに近代主義というのは、広義には 、近代的自我の確立に人間自我の解放の根本的契機を見つける、という、そのような想念のことである。広義には――というより、一貫して、そのような想念、そのような想念に基づく思索と行動の立場が近代主義にほかならない。『浮雲』(二葉亭四迷/一八八七〜九年)にそのスタート・ラインを見つけるにせよ、あるいはその起点を『舞姫』(森鴎外/一八九〇年)に見つけるような形で問題を考え直すにせよ、日本近代文学がそのような近代主義の文学として成立し発展を遂げたことは確かなようである。
 この場合、ここにいう近代主義近代 とは西ヨーロッパ的な近代、「教養
(カルチュア)」としての近代のことにほかならない。で、そこに確立されるべき――あるいは、解放されるべき――人間自我とは、ポジティヴな意味での教養的近代を前提とした、近代的パースナリティー(近代人)のことにほかならなかった。また、そのような近代的自我の意識における人間主体にとって、否定され克服されるべき対立物として考えられていたのは、前近代的な社会関係・人間関係とその心理(プシコ)イデオロギーとしての前近代的観念であった。
 ここでまず確認しておきたいのは、近代主義の想念における人間というのが、近代的自我の意識における教養的人間のことであり、むしろ“近代的自我”即“人間自我”一般としてそこでは人間がつかまれている、という点である。また、そのこととの対応関係において、近代社会における――というのは、この場合、むろん日本的近代における――いっさいの人間疎外の根源を、封建的遺制としての“前近代的なもの”に見つけている、という点を確認しておきたい。表裏一体の関係に立つこの二点を確認しておきたいのは、まさにそのような人間把握と問題把握のしかたに近代主義のメリットも限界もあった、と考えられるからである。
 天皇制絶対主義――半封建的資本主義として成立した日本的近代の最初の一時期にあって、当面の対立物を封建的遺制に見つけ、それへの抵抗の主体を西ヨーロッパ的・教養的近代の意識に媒介された人間自我(近代的自我)に求めたことは、それとして十分理由のあることであった。というより、むしろ、人間の意識の成長・発展における歴史的必然であった。〔1971年、熊谷孝著『現代文学にみる 日本人の自画像』p.7-8〕


○ 言い換えれば、透谷による近代的自我のこの存在証明は、教養的近代が志向する真実が部分的真実性をしか保障し得ないものであることの証明につながり、実人生における全体的真実へのその志向は、近代的自我それ自身の自己否定――否定的媒介――による自己変革を措(お)いてないことの証明へとつながっている。そこで、私見に従えば、少なくとも論理的には、
近代主義の使命と役割は透谷をもって終わった、ということになるのである。
 しかしながら、現象的には近代主義は文学の面でも、実人生を生きる人々の観念や意識の面でも、今日に続いている。近代主義近代主義としてのアクチュアルな、したがってまたポジティヴな意味を失ったにもかかわらず、そこになお主張し続けられているこの近代主義が、私のいう狭義の 近代主義の歴史的なひとつのタイプである。さらに、それを主張することが自他の連帯の分断につながり、歴史と現実への自己の志向に目つぶしを食わせることにつながるような近代主義が、狭義の 近代主義のもうひとつのタイプである。
 狭義の――そして前者のようなタイプの近代主義は、ある場合には、“傍観者の教養主義”とでも言うべきものとして現象した。教養――教養的近代のイデェとしての教養――は、もともと封建的・前近代的人間疎外から人間を回復するための主体的・人間的な知識の体系のことであった。実を言えば、それは、それは、資本主義の論理の自己否定――否定的媒介――においてそれの合理性を受け継いで生まれた、個々人が「人間らしくあること」のための主体的・行為的な知識のことであった。したがって、その知識のあり方は、人間の全存在にかかわる、パースなるでアクチュアルな前提的な性質のものであった。ところで、いまや、そこからアクチュアリティーが失われ、教養が教養としての積極的な意味を失ったところに、この教養主義が成り立つのである。
 そこでは教養は、もはやただの観念的な知識のことにすぎない。内部(観念)は、外部への通路をそこに求めるという形での行動の選択を必要としない。観念と行動との一致を必ずしも必要としないのである。観念は観念であり行動は行動である、というのがこの教養主義の特徴的な行きかたである。こうした教養主義がニヒリズムの路線をたどることで、ますます自己の観念のカラに閉じこもることになるか、さらにその路線からはずれて通俗との妥協の道を選ぶことになるかは各人にとっておよそ時間の問題である。
 近代主義のこうした教養主義的逸脱を、およそありとあらゆる形で示したのが透谷以後の日本近代文学の文壇主流の姿であった。それは、部分的真実を全体的真実と見誤るか、全体的真実への関心を放棄するかであった。それは、部分 の中に全体像――全体の反映 を見る、探るというのとは全然別個のものであった。性なら性、精神なら精神はそれ自体自己完結的な小さな全体として、人間の具有する他の側面、他の部分から切断されてしばしば文学の主題とされた。
 しばしば? ……むしろ、ほとんど常に、である。〔1971年、熊谷孝著『現代文学にみる 日本人の自画像』p.12-13〕


○ 通俗への反逆を生命とする文学の営みは、いまやこの衰弱し切った近代主義との絶縁において、別個の原理による人間回復の作業とならざるを得ない。それは、教養的近代へ向けての人間回復などではもはやなく、教養的近代がつちかってくれたものは踏まえながらも、それを越える形での作業とならざるを得ない。きれいごとでは、もはや、どうにもならないのである。教養的近代がもたらした教養の眼は、おそらくはそれを正視することは回避するであろう人間のどろどろ なものを、まばたき一つしないで凝視しようとする。六〇年代の文学はそのようなものとして出発し、また、そのようなものとして結晶した。〔1971年、熊谷孝著『現代文学にみる 日本人の自画像』p.266〕


   
〔関連項目〕
教養/教養主義
教養的近代

ミニ事典 索引基本用語