文学と教育 ミニ事典
  
芸術遊離説(芸術隔離説)
○ 芸術過程は人間の全生活過程の部分であり、それは日常性に根ざすところの認識と表現行為の成長的分化である、という、この自明の理が、芸術のよき理解者をもって自負・自任する「教養ある」知識人大衆の間では、「認めがたい謬見」として否定されがちである。デューウィもまた、そうした傾向が知識人の間に支配的であることを指摘して、それは「芸術を遙か遠い台座の上に安置する観念」以外のものではなく、「芸術遊離説」と呼ぶほかないものだ、と揶揄している。芸術遊離説、むしろ隔離説である。芸術を実人生とは別個の自己目的的、自己完結的なものと考えることで、それを人生とは別仕立て、別あつらえの台座に安置し、ミューズの恵みにあずかることのできるのは、芸術家を中心に、自分たち選ばれた教養人だけだ、とする考えかたである。
 それは、何とも奇妙なエリート主義であり、また何とも奇妙・奇体な、卑屈きわまりない想念である。
 デューウィがこうした
遊離説を批判したのは、一九三〇年代の初めのハーヴァード大学の集中講義においてであったが、アメリカ社会にあっても当時この種の近代主義的逸脱がかなり全般的なものであったことが、そうした点からも知られよう。近代主義的逸脱――それは、さし当たって、全体から個へ、未分化的全体から分化された個へ、という近代的な思考の発想が、いわば分化のしっ放しの格好のものに滑ってしまった状態のことを意味している。分化のしっ放し、されっ放しの個は、全体の中の個、全体に対する部分として位置づけられる時が永久にないという意味で孤独であり、孤立的である。このような個への分化は、いわば協業を前提としない分業のための分業である。それは、分業=分化としての意味を初めから喪失している。デューウィは上記ハーヴァードでの講義の中で、こうした近代主義的な“芸術遊離”の状態・状況のことを、生産と消費との極度のアンバランスがもたらす、近代資本主義社会に固有のカタワな芸術観念を言い表すものであるという意味で、“芸術の現代的孤立”と呼んでいる。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.19-21〕


○ 日常的な意識からの芸術意識の分化がいけない、というのではない。また、そのことの裏を返して、未分化な意識からこそすぐれた芸術形象がが創造される、というようなことを言っているのでもさらさらない。そうではなくて、分化することが分裂してしまうことでしかないような、近代主義的な
芸術遊離は、カタワな芸術意識とカタワな芸術作品をしか生まないだろう、ということなのである。アテネの市民たちの場合は、分化は不十分ではあったが“分裂”はそこになかったということが、(それに加えて、張りつめた、密度の高い緊張関係がそこに先在したということが)パルテノンのすぐれた造型に結びついている、と言えるだろう。
 
日常性から遊離してしまっては芸術性――芸術過程も何も実現しはしない。アテネ市民のパルテノンの制作や、そのデイリーな(神とのそこでの交流という形の)この“作品”へのコミットメント(参加)の場合もそうだけれども、今日の私たちの、小説なりテレビ・ドラマなりの鑑賞体験が、やはりそういうものとしてあるわけだろう。
 早い話が、『恍惚の人』でも何でもいい、わたしたちが小説を読んでいて、そこに小説(フィクション)を感じ、今、自分は小説を読んでいるんだということを意識している間は芸術過程は成り立たない。それが小説でなくなった時に、言い換えれば何かを読んでいる という感じではなく、自分がそこに一枚加わって生活過程の中にあるという感じになってきた時に、実は芸術過程の中に自分自身がいる、ということなのだろう。ではないのか。
 つまり、芸術の源泉は日常的な生活過程の中にあると同時に、芸術作品が芸術作品として機能し作用するのも、その体験の日常性――生活過程とのつながりにおいてである、ということにほかならない。日常性と芸術性との大きな差異にもかかわらず、この両者が〈感情まるごとの体験〉としてひとつながりのものであるという理解は、意外にだいじなことのように思われるのだ。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.25-26〕

   (文中、今日の人権感覚に照らして適切でない表現があるが、文章の歴史性を考慮し、そのままとした。)


〔関連項目〕
日常性/生活過程
芸術過程
近代主義


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