熊谷 孝 著 | ||
芸術の論理 | ||
文学者の自己が、読者層を含みこんでの内的対立をはらんだ自己であるという著者の考察は、創造過程における読者の参加を問題にするにとどまらず、〈創造の完結者としての鑑賞者〉という画期的なテーゼを生み出すに至った。作品を作家によって完結された世界と見なし、その閉じられた世界に同化することが読みであるという錯覚が今なお横行しているこんにち、われわれは解釈学的読解方式を克服する最良の武器を手に入れたことになろう。母国語教育としての文学教育を推進する上での必読書である。(荒川有史) |
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1973年5月1日 三省堂 発行 四六判 251頁 定価 900円 絶版 |
著者:熊谷 孝(くまがい たかし) 執筆当時、 国立音楽大学教授。文学教育研究者集団に所属。著書に『芸術とことば』『文体づくりの国語教育』『現代文学にみる日本人の自画像』他がある。 |
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◆ 内 容 | ||
T 芸術の原点への思索
V 現代史としての文学史
あとがき 芥川文学 略年表 |
悪文礼賛 熊谷 孝
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● 書名を〈芸術の論理〉にするか、〈悪文礼賛〉にするかで、ずいぶん迷った。はっきり前者と決めた後でもミレンは残って、この〈悪文礼賛〉というのをサブタイトルに使おうかと思った。一時そう思ったというだけの話なのだが、理由を言うと、こういうことだ。自分にとって芸術であるもの――つまり自分にとって芸術の原点であるものは、人それぞれに異なっている。そういう原点の違いに照応して、各人各様の様々な芸術の論理がそこに実在するわけなのである。芸術品とは実は骨董品のことでしかないみたいな、そういう論理の芸術観念も、今日ではけっして例外的とは言えないようである。彼が、彼女が、見てくれの新しい前衛芸術なりモダン・アートに携わっているからといって、これは信用ならないのである。その意識は実は、目先の変わった骨董品の制作ないし鑑賞以外ではない、という場合が存外少なくない。そこで、私の言う〈芸術の論理〉は、どう踏んでみても骨董的愛玩用にはなりえないような〈悪文〉――〈悪文礼賛〉の論理なのだ、ということを書名としても示したかった、ということなのである。(本書、裏表紙より) |