いつのころからか、何代にもわたって語り伝えられてきた、民話の数々。それらに接することで、私たちは、民話を生んだ自然的・社会的風土を想像し、庶民の喜びと悲しみ、知恵と勇気、苦しみと願いを、豊かに準体験することができます。すぐれた民話は、時と所を超えて、現代を生きる私たちの心をとらえ、より良い明日へ向けての形象的思索を促します。
民話は本来、口で語り耳で聞くかたちで伝承されてきたものです。その国・その地方の言葉で語られることで、話し手と聞き手の間に自然な一体感が生み出されたにちがいありません。けれども、そうした原初的な伝承形態の再現はきわめて困難です。民族や地域の違いを超えて、民話の持つ普遍的な価値を共有するためには、原作の発想や文体を生かした適切な翻訳や再話が求められます。
私たちはこれまでに、『皇帝の新しい着物』(アンデルセン/大畑末吉訳)・『太陽は四角!』(レオンス・ブールリアゲ/塚原亮一訳)・『ドリトル先生アフリカゆき』(ロフティング/井伏鱒二訳)などたくさんの翻訳児童文学、『最後の授業』(アルフォンス・ドーデー/桜田佐訳)等に取り組んできました。翻訳文学も日本文学にほかならない、との考えに立ってのことです。この数年間のケストナー文学との格闘は、翻訳という仕事の重要性と課題をとりわけ強く感じさせるものでした。
私たちはまた、絵本・絵物語を対象に、絵と言葉のそれぞれの機能を生かした教材化のあり方を追求してきました。それは、民話の特質を生かした再話のあり方を考え、教科書掲載作品の適否を問うことにもつながりました。私たちは、『おおきなかぶ』(内田莉莎子再話/佐藤忠良画)や『かさじぞう』(瀬田貞二再話/赤羽末吉画)を“絵本”で教室の子どもたちに、と提唱しました。しかし、この願いはまだ現実のものになっていません。
今、日本の社会は、平和が脅かされ、生活不安が増大しています。高齢者はもとより、若者や子どもたちも未来に夢を抱きにくい状況にあります。こういう時だからこそ、民衆の喜怒哀楽を我がこととして実感し、生きることのすばらしさをイメージぐるみに体験できる文学が求められているのではないでしょうか。
明日を担う子どもたちにすぐれた文学作品を媒介するのは、私たち大人の役割です。そしてその役割を果たすためには、作品の良し悪しを見極める目を持つことが不可欠です。みんなで作品を読み合う中で、媒介者としての確かな目を養いたい――、そう思って、私たちは文学教育研究を続けてきました。
今年は文教研創立50周年に当たります。今回の秋季集会の会場となる千葉県館山市は、文教研第8回集会(1963年8月)・第15回集会(1967年8月)を安房文学教育の会との共催で開いた場所でもあります。南房総の自然と文化に触れながら、民話の魅力、再話の方法、教科書のあり方など、大いに語り合いたいと思います。
多くの方々の御参加をお待ちしております。
|