N さんの例会・集会リポート   2008.12.13例会

    描かれた人間像の違い
―― 『かさじぞう』(瀬田/赤羽)と『かさこじぞう』(岩崎)と



文教研のNです。
先日の例会は、秋季集会の総括でした。
前回のメールで、秋季集会討論の到達点について、あまり紹介できなかったので、今回はそのことに焦点を絞って、さらに例会で深められたことについて二点報告します。
秋季集会会場風景1
まず、瀬田貞二の再話は、初出の1961年時点における再話であり、 それは瀬田文体における昔話の再創造である、という点です。
このことは集会当日の討論の中でも、岩崎京子『かさこじぞう』(小学国語2下・教育出版)との比較の中で鮮明になっていきました。

たとえば、じいさんが地蔵様にカサをかぶせる場面。
瀬田氏の文章では「あやぁ、むごいことだなあ。はだかで 雪かぶって さぞ さむかろう。」となっているところが、岩崎氏では「おお、お気のどくにな。さぞつめたかろうのう。」となっています。
「むごい」という言葉は凄惨すぎないか、「お気の毒に」のほうが現代人の感覚には優しさとして響く、といった疑問が会場から投げかけられました。

岩崎氏の文章と比較していくと、前回のメールで紹介したような瀬田文体の簡潔性に対し、きわめて説明的である点なども見えてきます。
しかし、問題は二つの再話は同じものを違う言葉で語っている、ということなのかどうかです。
秋季集会会場風景2
考える方向性をはっきりさせて言えば、それは描かれている人間像、全体像そのものが違うのではないか、ということになります。
瀬田さんのほうに焦点を絞っていえば、そこには1961年時点を生きる瀬田氏の人間把握、人間の共感、つながりのあり方が、描き出されているということです。

瀬田貞二氏における戦争体験・戦後体験のあり方、そして、安保闘争直後という初出発表時点。秋季集会会場風景3
そうした場面規定の中で見るとき、「あやぁ、むごいことだなあ」という言葉はどう響いてくるか。
同じ「ふぶき」の中を生きながら、せめて「みのとかさ」をつけている人間が、同じ現実を生きるものに対して「はだかで ゆき かぶって さぞ さむかろう」と、瞬時に自らの「かさ」をとってかぶせるのです。
「むごい」という言葉の中にある実感と共感、そしてその行動のありようについて、2008年も終わりに生きる私たちは、今の私たちの現実の中で自分自身の心と体に聞いてみる必要がありそうです。

岩崎さんの文章との比較の中では、2年生の子どもたちに対してどちらが分かりやすいか、という問題も出ました。
しかし、もし「むごい」という言葉が彼らの日常にないにしても、そこに迎合する必要はない、むしろ、本当に地に足をつけた人間の言葉として、投げかける必要がある、それが「野生の言葉」として、新しい言葉の獲得になっていくだろう、ということも話されました。秋季集会会場風景4

さて、もう一点報告したいことは、「絵本の文体」という問題です。
瀬田貞二さんは、絵本というものは絵と文章とが切り離せない、絵と文章が常に動的に促しあって絵本の世界を作っている、という趣旨のことを話されています。
そのことを芸術の表現の問題として言い直せば、絵の文体と文章の文体、この場合には赤羽末吉氏の絵の文体と瀬田貞二氏の文章の文体とがぶつかりあって、絵本「かさじぞう」の文体を作り上げているということになります。
この問題は、さらに映像の問題や漫画など、様々な芸術現象を考えていくときの更なる足場となりそうです。


長くなりました。
12月26・27日の冬合宿(開始11時から)は、湯浅誠『反貧困――「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書)を読み合います。
「あやぁ、むごいことだなあ」というじいさんの言葉をどこまで私たちは自分のものとできるでしょうか。


最後にちょっとだけ、うちの息子(六歳)の「かさじぞう」についての感想を紹介します。
今回の集会のために集めた本の一冊『かさじぞう』(谷真介・文/赤坂三好・絵/2000・6・5/佼成出版)に目を留め、読んでくれというので読んでやりました。いいチャンスと思い瀬田・赤羽『かさじぞう』を読んで、「何か違う?」と聞いてみました。
細かいことも言っていましたが、瀬田・赤羽版のほうが、「ゆきがすごくさむそうだった」というのが、一番の違いとして感じたようです。
同い年の中でも幼さと稚拙さが大いに残る息子の言葉ですが、親バカな私としてはとても共感しました。

〈文教研メール〉2008.12.20より

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