N さんの例会・集会リポート   2007.09.22例会

 
 ケストナー『一杯の珈琲から』序文



文教研のNです。
東京はやっと秋らしい日が続くようになりました。

さて、文教研の秋季集会は11月11日(日)に行われます。(HP参照)
今回はケストナーのユーモア小説三部作と呼ばれる最後の一冊、『一杯の珈琲から』(小松太郎訳、創元推理文庫)を読みあいます。
9月第二例会はその序文を検討しました。

現在、この作品には三つの序がついています。
読者への序文(1948年)
読者への序文(1938年の初版の序文)
作者への序文

すでに多くのケストナー作品を読んできて、彼の序が大切な作品の「前庭」になっていることは私たちの「常識」となりました。
今回もまた、じっくり読んでみてその思いを新たにしました。
1948年の序を紹介します。
 この小さな本は1937年度のザルツブルク祝祭記念興行の期間中にわたしの頭の中で構想がまとまったのであったが、そのときにはオーストリアとドイツは国境標と、往来止めの横木と、異なった郵便切手によって「永久に」切り離されていた。1938年にこの本が出版されたときは、両国はまさに「永久に」結ばれたときであった。郵便切手もこんどは同じになって、横木もなくなっていた。そしてこの小さな本は、没収を免れるために、大急ぎで国外に搬び出されたものであった。Habent sua fata libelli, まったく本というものにもまた彼らの運命があるのである。今この本が版を新たにして出版されようというとき、ドイツとオーストリアは再び境界線と、横木と、異なった郵便切手によって互いに切り離されてしまった。思うに新しい歴史は作家の側に味方しないで、郵便切手蒐集家の側に味方をするものらしい。もしもこの言葉が婉曲な非難になるとしたならば、それはおそらく新しい歴史に向けられたものであって、決して郵便切手の蒐集に向けられたものではないのである。
 この本の出版者も作者も挿絵画家もかつては一度同じ都会に住んでいたのであった。ベルリンと称する都会に。ところで今では一人はロンドンに住み、もう一人はミュンヘンに住み、あとの一人はトロントに住んでいる。めいめいがそれぞれいろいろな目に遇って来た。危険なオールド・ミスであるミューズの神は彼らをその家から、習慣から、夢から追い出して、ジプシーにしてしまった。互いに珍しい切手とスタンプのついた手紙を受け取ると、彼らは莞爾として、その封筒をどこかの小さな少年たちにくれてやる。なぜなら、イギリスであれ、ドイツであれ、カナダであれ――郵便切手を蒐集する小さな少年たちは、いつの時代においてもいるものだから。
国境標と往来止めの横木と郵便切手によって区切られる国境。
時の政治権力によって恣意的に作られた国境はそのつど「永久に」そうなるもののごとくに人々の生活を分断します。
ケストナーらしいユーモアとウィットにとんだ文章です。

この序文を読むと、1949年『動物会議』を世に出すケストナーの発想が伝わってくる、という指摘がされました。
国境標や往来止め、それらを人間の子どもたちのために越えていく動物たちの姿。
象のオスカル、ライオンのアーロイス、キリンのレーオポルトのような三人が、別々の場所に暮らすことを余儀なくされながらも、それぞれの場所で莞爾として子どもたちに郵便切手を手渡している姿。そうした重なり合いの中に、歴史に翻弄され分断されながらも経験し手にした確かなものを子どもたちへ向けて手渡し続けていく、本物の大人の姿があらためて鮮明に見えてきました。

二つ目の序は1938年出版されたときのものです。
その中でケストナーは読者へ向け、この日記形式の作品の語り手であるゲオルクという友人について紹介しています。
彼は一流の知識人で、その取り組んでいる仕事はそれぞれが一生掛けても結論が出ないような問題ばかり。
しかし、彼は兄が管理する親から譲り受けた工場の収入を後ろ盾に、超然と研究を続けています。
この研究内容については、例会の中で実に興味深い指摘が様々にされました。
彼がなぜそのテーマを選びなぜ結論が出せないかは、そのテーマを突き詰めていったときそこに目の前の社会そのものへの批判が生まれてきてしまうからだろう、ということが見えてくる指摘でした。
内容についてはニュースに譲ります。

ただここで紹介しておきたいのは、それらが分かる人には分かる、という形で書かれていること、つまり、そういう連想が働く教養のあり方ということが、例会の中で提起されてきていることです。
9月第一例会では、ニュースにあるように戸坂潤の文章が紹介されました。
そこでは「教養は関心のシステム如何によって打診出来る」とし、「人間が関心の組織的発展力を持って」いれば「健全な連想力によって、関心と関心との間の関係が追及される」といっています。
これは全国集会総括であったこの例会で、坂口安吾の文章について考えるための資料として I さんが出してきてくれたものですが、当然ケストナーの文章についても言えることです。
ケストナーの文章を読むには、やはり「教養」がいる。
つまりそれは私たちの自身の「関心のシステム」「健全な連想力」が問われるということなのでしょう。

だいぶ長くなってきたので、次回へ向けて I さんが提起してくれた視点を紹介しておきます。
@モーツァルト的なものとは何か。
この作品の基調にはナチスが利用したワーグナーに対し、ナチスも利用できなかったモーツァルト的なものがあること。
Aこの作品には他の三部作と違って第一級の知識人であるゲオルクが登場する。
なぜそうした知識人を登場させているのか。ナチス的教養ではないものが追及されていること。
Bこの作品にはまさに「ファルスの精神」が生きている。スターリン下のバフチン、日本の太宰・安吾という世界文学の流れの中にケストナーをおいたときどうか。

次回は章ごと立ち止まりながら1〜6章までを目安に出来るだけ読み進めていきます。
会場は烏山区民センターです。

〈文教研メール〉2007.10.7より

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