N さんの例会・集会リポート   2007.06.30例会

  
 坂口安吾『ラムネ氏のこと』を読む 2



文教研のNです。

先日、坂口安吾「ラムネ氏のこと」二回目の例会が行われました。
文教研メールで坂口安吾の文章に就いて、「面白いけど難しい」を連呼していたら、Sさんに「そんなに難しい?」と問い返されてしまいました。
そりゃあ、Sさんには明快で鮮明だろうけど……と、少々、開き直り気味になりましたが、でも、自分にとっての「難しさ」の質を考えてみるのは意味があることのように思えました。

例会は「下」を読みあうことから始めました。
『邦訳 日葡辞書』Aisuru
*
『邦訳 日葡辞書』Coi
『邦訳 日葡辞書』Coru
*
『邦訳 日葡辞書』Taixet
(土井忠生 他編訳 『邦訳 日葡辞書』 による)


日本語の「愛」が「不義」「邪なもの」を意味した時代に、伴天連たちは「アモール(ラヴ)」という言葉の訳に「御大切」という単語をあみだした、というエピソードの後に、安吾は以下のようにこの文章を書き添えています。

「愛に邪悪しかなかった時代に人間の文学がなかったのは当然だ。勧善懲悪という公式から人間が現れてくるはずがない。しかし、そういう時代にも、ともかく人間の立場から不当な公式に反抗を試みた文学はあったが、それは戯作者という名で呼ばれる。」「いわば、戯作者もまた、一人のラムネ氏ではあったのだ。チョロチョロと吹きあげられて蓋となるラムネ玉の発見は余りたあいもなく滑稽である。色恋のざれごとを男子一生の業とする戯作者もまたラムネ氏に劣らぬ滑稽ではないか。しかしながら、結果の大小は問題ではない。フグに徹しラムネに徹する者のみが、とにかく、物のありかたを変えてきた。それだけでよかろう。/それならば、男子一生の業とするに足りるのである。」

感動するし、そうだとも思うのだけれど、すっきり落ちたともいいにくい文章。だからこそ、そこに「どういうことなのだろう」という考える糸口を用意してくれる文章でもある気がします。そして、いま読んでいる自分にとって一番考えていくのに意味のある入り口はどこなのか。案外そこは見つけにくい。


例会では、 I さんが次のような問題提起をしてくれました。
伴天連たちは「愛」と「恋」を分け、そして、「御大切」を分けた。
しかし、安吾は「愛」と「恋」を分けていない。そこにこそ人間にとって大切なものがあると言っている。
伴天連たちの話と安吾の「愛」の話は、つながっているのか違うのか、どういう関係になっているのか。

この問いかけに対しての次の二つの発言が、私にとっては印象深いものでした。
まず、Tさんの発言です。Tさんは「日葡辞書」(1603年日本イエズス会刊行。「邦訳 日葡辞書」1980年岩波書店刊)を丁寧に調べられ、名詞の「愛」は載っていないこと、動詞はあるが「花をいつくしむ」などの例になっていることなどを報告されました。そして、こうして言葉と格闘したキリシタンたちの懸命な努力の結晶としての言葉のイメージの上に、そこへの共感を軸として安吾も「けだし、愛という言葉のうちに清らかなものがないとすれば、この発明もまた、やむを得ないことではあった」と言っている、という印象をTさんは述べられた、と私は感じました。(すみません、正確に伝えようとしたら回りくどくなりました。)
で、そうした発言の中で、Hさんがあえて次のような発問をされました。
「では、伴天連はラムネ氏か?」
教室などでの発問としてこういうものを用意してみれば、そこには精神的なものは評価するけれど、肉体的なものを否定する伴天連たちの、ある滑稽な姿も見えてくるのではないか。「やむを得ないことではあった」という「は」の用法にも、そこは表れているのではないか。

Sさんがこの発問に答えて、伴天連はラムネ氏ではない、とはっきり述べられました。
異教徒たちの間に自分たちの教義を広めるためにやってきた彼ら。そこでは自分たちのために言葉を定義づける。しかし、それは日本民族の言葉とは違うのだ。そこには、こうして言葉が公式化、制度化されることへの安吾の批判がある。
 I さんの発言も印象的でした。
型を作ってその範囲内でなら「人間性」を認めるが、そこからはみ出すものは許さない、伴天連たちにはそういう発想がある。
Tさんも、そう読んできたとき今日の問題につながってくる、と発言されていましたが、本当に共感しました。

さて、こうした作品の印象の追跡と同時に、益田勝実氏の仕事
* などへの評価も含め、実に内容の濃い例会でした。(* 『レトリックの機能に開眼する』 ちくま学芸文庫「国語教育論集成 益田勝実の仕事 5」 所収)

長くなってきたので、安吾の文体に就いて、以下のような指摘がされたことだけご紹介します。

それはSさんの指摘された、「ラムネ氏のこと」などの安吾の文体は小説と言ってもいいようなフィクショナルのものであるという点です。
そこでは言語の形象性が十分に発揮され、イメージによる思索が促される。
説明文体が軸とする概念的な論理性とは違う、形象的な論理性が発揮されている。
だから、授業で扱う場合でも、その形象性を楽しませるところを抜かしては成り立たない。
しかし、そこは益田勝実氏が提示した指導案ではどうだったのだろうか。

益田勝実氏の功と罪。
Sさんが「益田さんもラムネ氏なんじゃないの」とつぶやいたのは、横に座っていた私にとって印象的でした。

次回は基調報告1「戦後国語教育史と文体づくりの国語教育」( I さん)の検討。場所は烏山区民センターです。


〈文教研メール〉2007.7.3 より


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